2020-01-05 新しいこと

2020年 1月 5日 礼拝 聖書:イザヤ43:16-21

新しい一年がはじまりました。今年一年も主の恵みに満ち溢れた年でありますよう、祈ります。新年にあたり、今日開くように導かれた箇所はイザヤ書です。

困難の中に置かれ、将来訪れる破局の知らせに怯え、恐れている民に対して、神様が預言者イザヤを通して告げた希望、「新しいこと」についての預言であり、励ましのことばです。

私たちは時々、この「新しいこと」に勝手な読み込みをして、自分の人生や教会の行き詰まりを逆転させる、何か目新しいことや、起死回生のイベントを期待したりもするのですが、そもそも神様はどのようなことをお考えになっておられたのでしょうか。そのご計画をイザヤを通して受け取った人にとってどんな意味があり、励ましや慰めとなったのでしょうか。さらには、それらは今を生きる私たちにはどういう意味があるのでしょうか。

せっかく新しい一年が始まったのですから、私が願う新しいこともいいですが、ここは神様がお考えになっておられる「新しいこと」に耳を傾け、今年の歩みのヒントをいただきましょう。

1.先のこと

まず第一に、イザヤは過去になされた大いなるみわざに触れながらも、過去にとらわれるなと語ります。

16節と17節前半に書かれていることは、出エジプトの救いのことです。

ききんを逃れてエジプトにくだったアブラハムの子孫は、年数が経って大きな勢力を持つようになりました。その力を恐れたエジプトの王が奴隷にしてしまいます。数世代に及ぶ長く苦しい奴隷生活ののち、ヘブル人でありながら王家に育てられたモーセに率いられて、エジプトを脱出し、約束の地を目指すことになります。その時、神様はエジプトとシナイ半島を隔てる海を二つにわけ、真ん中に乾いた道を作るという奇跡によって人々を救いました。そんなことを思い出させておきながら「とらわれるな」というのです。どういうことでしょうか。

その時行く手を阻んだのが紅海という海であり、追いすがる戦車と馬がエジプトの第軍勢でした。しかし、神は水を分け、乾いた地を表して、民がそこを通ってエジプトを脱出できるようにされ、後を追いかけたエジプト軍は再び覆った水によって滅びました。

あまりに有名な話です。イザヤは、わざわざそのことに触れておいて、そのようにかつてイスラエルの民を救われた「主はこう言われる」と続けるのです。

「彼らはみな倒れて起き上がれず、灯芯のように消え失せる。」

ここでの「彼ら」とは、やがてイスラエルを滅ぼし、捕囚として遠い外国に連れて行ってしまうアッシリヤやバビロンといった超大国のことです。それらは、現実にイザヤの時代の人々にとって脅威となりますが、かつて出エジプトの時のあの大軍のように、神様の前では簡単に吹き飛ばされてしまうと言うのです。

そこまで言っておきながら主は「先のことに心を止めるな。昔のことに目を留めるな。」と言われるのです。先のこと、というのは未来のことという意味ではなく、先に起こった事、つまり昔のことです。ここでは直接的には、今しがた触れた出エジプトの時の救いの奇跡を指しています。

私たちは、過去に起こされた奇跡や、神様の素晴らしい働きから多くのことを学びとることができますが、心をそこに置いてきてはいけません。

私たちの教会にも過去の様々な素晴らしい経験があり、よくやり遂げたなあと思えるような働きがありました。それぞれ個人の人生の中にも若いころの自慢話があるかもしれません。それは素晴らしい経験だったし、学べることがあります。それを成し遂げさせた神様は今も働いておられます。

しかし、過去の成功や栄光にいつまでもしがみついたり、過去に起こったことをもう一度味わおうと追い求めることは、今を生きること、未来に向かって生きることをダメにしてしまいます。

確かに出エジプトの出来事は素晴らしかった。その神様は今も生きておられる。けれど、この神様は、これから後、もっと素晴らしいことをされる。過去の出来事が指し示すのは、神が確かに生きて働かれ、苦難の中から救い出すことのできるお方だということの具体例です。大事なのは、その神が、今も、そしてこの後も素晴らしいことをなさろうとしていることです。

2.新しいこと

第二に、神様は「新しいことを行」います。「新しいこと」とは何を意味しているでしょうか。

直接的には、イザヤの民がこれから直面することになる、超大国、バビロン帝国による捕囚からの解放です。今はまだ預言という形で、未来の出来事として王や民に告げられていますが、彼らの不信仰のゆえに、それは確実に起こります。しかし、神様はあなたがたを見捨てるわけではなく、かつてエジプトから救い出したように、バビロンからも救い出すと言っておられるのです。

けれども、それはバビロン捕囚からの解放にとどまりません。神様がそのようにして彼らを救い出すのは、単にかわいそうだからではなく、アブラハムの子孫を通して全人類に祝福をもたらすという、約束、契約に基づいたことです。その約束の先には、イエス・キリストの十字架による救いがあるのです。

つまり、「新しいこと」というのは、それまで人々が思いもしなかった、今まで経験したことのないようなすごいこと。こんなちっぽけで弱々しい国が超大国である支配者、バビロンから解放される、というだけでなく、すべての人を支配している罪と死から解放に至る、神様の救いのご計画全体であると言って良いのです。

バビロンからのイスラエルの解放というだけなら、古代の歴史や考古学に興味のある人以外は、現代の私たちには大して関わりはありません。しかし、それがキリストによる救いに至る神のご計画に結びつくのであれば、私たちにとって大いに関わりがあります。

イエス様は2000年前に十字架で死んでよみがえられましたが、それはただ2000年前のことであったというのではなく、イエス様から始まり今にいたり、これから先も完成の日まで続く長い救いのみわざの真っ只中に私たちは生きているからです。

19節後半から20節にこうあります。

「必ず、わたしは荒野に道を、/荒れ地に川を設ける。/野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。/わたしが荒野に水を、/荒れ地に川を流れさせ、/わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。」

この預言はまさにイエス様によって実現しました。

イエス様はサマリヤの女に言われました。「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

旧約時代「野の獣、ジャッカルや、だちょう」は汚れた動物とされていたものです。しかしイエス様によって汚れた者や神様の囲いの外にいた者たちが救いに招かれ、神様を崇める者とされました。

「だちょうが賛美する」ということばを見るとシュトラウス先生を思い出しますが、何をもってしても霊的な乾きを癒すことのできなかった私たちのうちに聖霊といういのちの泉が与えられ、汚れた者、聖い人たちの輪の中には決して招かれないような私たちのうちに神様をあがめる心を与えてくださいました。

そのような私たちを神様は21節で「わたしのためにわたしが形作った」民だと言ってくださいます。

新しいことは、古代の出来事としてだけでなく、むしろキリストによって私たちに起こり、教会の中に起こっているのです。

3.今を生きるため

第3に、これらの預言は私たちが今を生きるための言葉として与えられているということが大事なポイントです。

イザヤの時代、これらの預言はのちに起こる出来事として語られました。しかし、それは単に未来予想図として、将来に予定されているイベント一覧として与えられたものではありません。

預言は、たとえ未来のことが語られているとしても、それを聞いた人たちへの神様からの語りかけであり、聞いた人々を励ましたり、教えたり、悔い改めを促すためのものとして語られています。

神様はイザヤを通して告げられた「新しいこと」を、もう少し後の時代の預言者たちを通して、さらに発展させ、少しずつ意味を明らかにしていきます。その一つが、エレミヤの預言です。

エレミヤはイザヤが預言したイスラエルの滅亡と捕囚が、まさに成就し、ユダヤの国とエルサレムが滅びていくのを目の当たりした預言者です。その悲しみに満ちた口調から「涙の預言者」とも呼ばれています。しかし、その涙と嘆きの中にも、神様の確かな約束と希望とが語られています。その悲しみの中で、嘆いて過去に生きるのでもなく、届かない未来やあてのない夢物語に逃避するのでもなく、神の将来の計画のゆえに希望をもって今をしっかり生きるよう励ましました。

イザヤ書の次にエレミヤ書があります。29章の1節を見るとどんな状況だったかがわかります。

イザヤの預言は確かに実現し、バビロンの王ネブカドネツァルによって王国は滅ぼされ、多くの人々が捕囚となって連れて行かれてしまいました。そんな人々に預言者エレミヤが最後の王ゼデキヤを通して届けられた手紙です。

その中に「家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』とあります。まさに、現実を受け入れて、置かれた場所で神様を中心にし、祈りつつ生きるようにとの励ましです。

そして8~9節で、すぐにでも帰れる、神が大逆転勝利を与えてくださる、なんて適当な偽りの希望を語る偽預言者たちや占い師たちにごまかされず、神ご自身の計画に耳を傾けるよう告げます。その計画の内容が10節以下に記されています。

神様のご計画によれば、救いと解放の約束はすぐに果たされる訳でなく70年後のことです。それは今の世代の人たちはほとんど死に絶えた後ということになります。しかし、それは同時に11節にあるように「わざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのもの」なのです。

神様がなさる「新しいこと」は、バビロンに捕囚となった人たちにとっては未来のこと、もしかしたら自分はその成就を見られないことかもしれませんが、将来と希望を与えてくれるものでした。その希望のゆえに、捕囚という屈辱と苦労を受け入れ、将来に望みをおきつつも、腹をくくって置かれた場所で神とともに生きることを選ぶことができたのです。

適用 すでに、今なお

これらの神のご計画は、今を生きる私たちにとっては「すでに」ち「今なお」という二つの面があることを覚えさせられます。

イザヤやエレミヤ、そしてそのほか多くの預言者たちをとおして神様が約束してこられた「新しいこと」「平安を与える計画」は、私たちの救いのために神であられるのに人として御生れになったイエス・キリストによって実現しました。そのことはクリスマスの時に思い巡らし、確認することができました。

多くの人々がエジプトを脱出したときの神のみわざや、バビロン捕囚から連れ戻してくださった神のみわざを思い返しつつ、ローマの支配から解放してくれるに違いないとイエス様に期待しました。

しかしイエス様は、私たち人間のもっと根本的な問題からの解放と救いを与えてくださいました。もしイエス様がローマからの解放をしたのだったら、聖書の教える救いはユダヤ人だけのもので終わります。しかし、イエス様が十字架の苦しみの中で私たちの罪の咎めをすべて背負って神様の怒りをすべて引き受けてくださいました。それによって、あのイザヤの預言にあったように、汚れたもの、枠の外にいた人々と扱われていたような異邦人にも、救いは与えられました。誰でも、イエス様を救い主として信じるなら、イエス様の救いをその身に受けることができるのです。

そういう意味で、「新しいこと」はすでに実現しました。

しかし一方で、この救いは「今なお」なされ続けている働きでもあります。

私たちに与えられている救いは完全なものですが、私たちが完全になっているわけではなく、そこに向かっている途中にあります。希望の約束をもらった人々が、望んだわけでもない捕囚の地で信仰を持って腹を決めて歩み始めれば、その地であっても平安を得られ、将来に希望をもって生きられました。同じように、私たちは不完全で、しばしば自分の弱さに失望し、人生が思うように行かずに嘆き、今いる状況が本当の自分の場所ではないような気になったりしますが、私たちはすでに神様の「新しいこと」救いの成就の中にいて、主が再びおいでになる日を待ち望む者として、今、この時、この場所、この人々との歩みを、受け入れ、神様を信頼し、自分のなすべきことを一生懸命やり、周りの人々の平安のために祈る、そんな生き方を選ぶなら、神様は、今も確かに私たちに平安を与え、希望と力を与えてくださるのです。

イザヤが昔のことに縛られるなと言ったように、エレミヤが、まやかしの希望にすがるなと言ったように、過去にしがみついたり、不満を撒き散らしながら「こうなったら自分は幸せなのに」という偽りの希望や理想に捕らわれてはいけません。

イザヤやエレミヤが主のことばを告げたのは、イエス様が御生れになる600~700年前のことです。その長い時代ですら、この神の約束された「新しいこと」が人々の希望となり続けたのですから、イエス様によってすでに実現した救いを受け取り、今なお救いの完成に向かって御業が続いている、その真っ只中にいる私たちにとってはどれほどの力になるでしょう。これはもはや将来の希望でははなく、差し出されている贈り物です。

今年も神様は私たちのために「新しいこと」をなしてくださいます。期待しつつ、それゆえに毎日を大切に歩んで行きましょう。

祈り

「天の父なる神様。

新しい一年が始まり、最初の主の日を共に過ごし、あなたを賛美し、みことばに聞くことができましてありがとうございます。

主が約束された「新しいこと」がすでにイエス様によって成し遂げられ、私たちの上に、私たちのうちに与えられていることを感謝します。

その大いなる恵みと御業が、今年も私たちとともにあることを感謝します。

神様が一人一人にどんなことを用意しておられるかはわかりませんが、それを信じて、それぞれが置かれた場所、状況で、平安と希望をもって歩めますように。

私たちを見る人たちが、あの人たちは違う、と思えるような、望みに生きる姿でいられるように助けてください。

 主イエス様のお名前によって祈ります。」