2020-01-26 すりかえ

2020年 1月 26日 礼拝 聖書:マタイ22:15-22

私たちは、聖書が神のことばであり、何を信じるか、またどういう生き方をすべきかの源が、この聖書にあると信じています。

テモテ第二には「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」とあり、何をするにも、まず聖書になんと書いてあるか、どういう原則に立つべきか、というふうに考えるよう教えられて来ましたし、そうして来ました。

しかし、そのことを少し誤解してというか、都合よく利用している場面に出くわすことがあります。

自分の意見を主張するために、聖書のことばを持ち出してきて、「こういうふうに書いてあるから、こうすべきなんだ」というようなことをたまに聴きました。まあ、正論ではあるけれど、誰も何も言えなくなる、というくらいならまだましと言えますが、中には、その箇所はそういう意味じゃないだろうと首を傾げたくなる主張もありました。

聖句を盾にするとか、いろいろな問題をわざわざ信仰上の問題にしてしまうような、少しゆがんだクリスチャンのあり方は、霊的にも、人間関係においても健康を保てません。

今日はイエス様とパリサイ人の納税を巡る話から、本当に神様の前に真実であるとはどういうことか学びたいと思います。

1.パリサイ人の思惑

今日の箇所は、引き続いてイエス様の十字架直前の最後の一週間の中の出来事です。曜日でいうならおそらく火曜日のことです。

今日の箇所の後には、サドカイ派というもう一つのグループ、そして律法の専門家がイエス様を試すために議論を仕掛けてくるのですが、皆一様に腹の中には、イエス様をことばの罠にかけて、訴える口実を見つけようという魂胆がありました。

パリサイ派の人々は自分たちの弟子をイエス様のところに遣わすにあたって、思いもよらない人々と一緒に行かせました。それはヘロデ党の人々です。

パリサイ派とヘロデ党なんて、考え方が真逆のグループです。パリサイ派は神の国であるイスラエルはローマの支配から解放されるべきだと考えていましたし、約束のメシアはそのために来てくださると信じてしました。その実現のためには律法と伝統を正しく守ることが必要だというのがパリサイ派の信念です。

一方ヘロデ党というのは、ヘロデ王による統治を認めるグループです。ヘロデ王というのは、イスラエルの正当な王家であるダビデの子孫ではなく、純粋なイスラエル人でもありませんでした。ローマ帝国の支配下に置かれたイスラエルを統治する王として皇帝から任命された王にすぎません。イスラエルの人々からすれば、ヘロデを認めることはローマの支配を認めること、神の国であるイスラエルが異邦人の王に支配されるのを認めるのは、神への信仰に反するものだというのがパリサイ派の主張でした。

そんな水と油、犬と猿みたいな二つのグループが結託してイエス様のもとに行き、一つの質問をします。

16節で、ずいぶんとゴマをするような言い方をしていますが、これは、イエス様が答えをはぐらかしたり、逃げたりしないようにするために釘をさしているのです。

そして質問とは「カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」というものです。

パリサイ派のようなユダヤ人にとって、ローマに税金を納めることは屈辱的なことでした。ローマの貨幣にはカエサルの肖像が彫られており、社会と経済がローマの支配下にあることを否応なく示すものでした。ところが、当時のイスラエル、ユダヤ人には、他の国と違って、自分たちの発行したお金を使うことが許されていました。というのも、エルサレム神殿への献金は、異邦人のお金では捧げてはいけないという揺るぎない律法があり、それを踏みにじるよりは、ある程度自由を与えて実質的な統治をやりやすくするのをローマが選んだからです。

そういう現状を受け入れ、律法に適っていると考えるのがヘロデ党です。それを受け入れられず、律法に反していると主張していたのがパリサイ派です。イエス様が「かなっている」と言えばパリサイ派は「イエスは律法を否定した」と訴え、イエス様が「かなっていない」と答えたら、ヘロデ党が「国家への反逆だ」と訴える、そんな腹づもりだったのでしょう。

しかし、イエス様を排除するためにヘロデ党と組むあたりに、パリサイ派の本心が現れています。彼らにとっては、本当に律法にかなっているかどうかは二の次で、自分たちを偽善者と攻めるイエス様が許せない、なんとか排除したいというのが本音だったのです。

2.神のもの、カエサルのもの

パリサイ人たちの挑戦に対するイエス様の答えは、質問に答えるというより、彼らの偽善をあぶり出す答えでした。

イエス様はパリサイ人たちのやっていることが「偽善だ」とはっきりおっしゃいました。「偽善者たち」というのはとても厳しい告発です。

イエス様は「律法に適っているか、いないか」という二者択一の質問に答える代わりに、税金として納めるお金を見せなさいと言われました。

ローマへの税金として収められるのはデナリ銀貨で、ローマ皇帝カエサルの肖像が描かれていました。しかもカエサルの称号の一つとして「神の子」とラテン語で刻印までありました。厳格なユダヤ教徒にとっては、それは受け入れがたいものだったわけです。

まことの神の御子であるイエス様が、「神の子」という肩書き月のカエサルの肖像が見えるようにしながら、パリサイ人たちに逆に問いかけました。「これはだれの肖像と銘ですか」。

パリサイ人たちは渋々、それがカエサルのものであることを認めました。それに対してイエス様は「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」という有名なことばを返すのです。

カエサルが神の子という称号をつけていることは、まことの神であるイエス様からしたら冒涜もはなはだしいことだったかもしれません。それでも「カエサルのものはカエサルに」と、その時代に国を治める権威が委ねられた者に対する義務は、信仰の問題とはしないで果たすようにと言われたのです。

さて、パリサイ人たちの質問は、イエス様を訴えたいという思いから出て来たものではありましたが、マタイの福音書が書かれた時代のクリスチャンたちにとっても現実の問題でした。

まことの神であるイエス様を唯一の主として信じるクリスチャンはローマ帝国の一員として生きていました。その中で、神の子を名乗る皇帝をどう受け止めたらいいか、ローマが要求する様々な義務にどう答えたら良いか迷うことがありました。

そういうものに従い、カエサルを認めることはクリスチャンとしてどうなのか、という葛藤があったと想像されます。ちょうど、戦前のクリスチャンたちが、現人神と言われた天皇を頂点とする国家主義の中で、非国民と攻撃されたり、不利な扱いを受けることが多かったのと同じです。

パリサイ派の人たちがローマへの納税に反対したのは、神様への忠誠心が優先されるべきで、もし神の子を名乗る異教の王を認めたら神への忠誠が損なわれると考えたからです。

しかしイエス様は、この世での義務を果たすことは、それがたとえ異教の国家で、神の子を名乗るような者であったとしても、神様への忠誠が小さくなったりはしないと教えておられるのです。

神様に従うことと、この世の制度を尊重することは別々のこと、対立することではなく、神に従う生活の一部として、社会の一員としての義務を果たすことが含まれるのです。もちろん、権力の不正や間違ったことも無批判に受け入れるということではなく、抵抗したり戦うべき時もあります。しかし基本は、信仰の問題として問うのではなく、神に従うゆえに、この世の権威を認め、義務を果たすべきなのです。

3.すり替えという偽善

イエス様は私たちに、神に従うクリスチャンにとって、この世の決まりや義務に従うことは決して不信仰なことではなく、対立することと考えなくて良いと教えてくれています。

そして同時に、パリサイ人のような信仰的なふりをしながら問題をすり替えてごまかしてしまう危険性について警告が与えられているように、私には読めました。

パリサイ人の問いかけは、神の子を名乗る皇帝に税金を納めることが律法にかなっているかどうか、という質問でしたが、実際には彼らにとって、それは真剣な問いではありませんでした。確かに、よく議論されてはいたようです。しかし、彼らのポケットにはカエサルの彫像のある銀貨が入っていましたし、イエス様をわなにかけるためには正反対の立場のヘロデ党と手を組むことことも平気でした。本当に、彼らが絶対に受け入れられないことだったら、そんな半端な妥協はできないはずです。

神様はイスラエル王国が倒され、バビロンに捕囚として連れて行かれる時代に、預言者エレミヤを通して、置かれた地で生き、その町の繁栄と平安のために祈り、働き、結婚し、子供を育てなさいと教えました。すでに旧約聖書の中で、たとえ異邦人が治める国、異教の社会の中であっても、神を恐れて生きることの妨げにはならないのだと教えていました。

しかし、パリサイ人たちの中には、その教えを心の中から追い出すほどの神の民としてのプライドがあり、自分たちの支配者として踏ん反り返っているように見えるローマを認めたくない、感情的な壁があったのです。

乗り越えるべきは、ローマ帝国ではなく、自分たちのうちにある高慢で頑ななプライドでした。イエス様はずっとそのことを教えておられたのです。それなのに彼らはそこを譲りたくなかったので、議論をすり替え、信仰の問題、律法の問題にしてしまったのです。

そこに彼らの偽善がありました。

私たち人間は、自分の中にある本当の問題に向き合うことを避けるために、別の信仰上の問題であるかのようにしてしまう、すり替えを行いがちです。

自分の心の中や生活の中にある問題に向き合う代わりに、他の誰かや教会を攻撃したり、自分がへりくだり信頼すべきなのに、神様の恵みや真実さがわからないと言ってみたりします。

自分の未熟さや頑なさは脇において、クリスチャンではない夫や上司を敬うのは難しいと嘆いてみたりもします。

何より、そうしたすりかえの議論に、もっともらしい聖書のことばを持ち出してくると、それはもう誤魔化しではなく、立派な偽善だと思います。

スコットペックというクリスチャンの精神科医が書いた『平気で嘘をつく人たち』という本の中には、自分を守るために、平気で嘘つく人たちの症例がいくつも出てきます。なんの悪気もなく、平気で嘘をつく人たちは、神様をも、他人をも、そして自分自身にも嘘をつき、真実をごまかしています。そこまでの病的な嘘つきでなくても、私たちは、ほんとうによく話をすり替え、時にはそのすり替えのためにみことばや信仰深いことばを持ち出してさえする罪深さがあることを自覚し、気をつけなければなりません。

適用 本当に真実な歩み

そんな私たちに対して、今日の箇所でのイエス様の教えは、本当に真実な歩みについて教えてくれています。

パリサイ人たちはイエス様に「あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれにも遠慮しない方だと知っております。あなたは人の顔色を見ないからです」と図々しく持ち上げていますが、イエス様は、この教えを通して、本当に真実に生きること、真理に基づいた神の道を示し、誰にも遠慮せず、顔色を見ないで歩む信仰の歩みを指し示しているのです。それは決して難解なことではなく、とてもシンプルなものです。

イエス様はクリスチャンとしてこの世を生きる私たちに一つの原則を与えてくれました。「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」

パリサイ人たちのように、自分たちの問題に向き合あうのを避けてイエス様につっかかったようなすり替えや偽善を退け、神様に対しても、人に対しても真実に向き合うことを思い出させてくれます。そしてこの原則は、新約聖書の中で様々な場面に適用されていきます。

例えば、ローマ13章の中でパウロは、この世の権威を敬い、従うべきだと教えています。神が社会全体の幸福のために立てた権威として認め、善を行い、税金を納めるようにと教えます。

またエペソ5~6章では家庭や仕事の場面に適用しています。夫婦間では「主に従うように夫に従いなさい」とか「主が教会を愛したように妻を愛しなさい」と教えられ、親子に会っては、子供たちに「主にあって自分の両親に従う」こと、親もまた「主の教育と訓戒によって」子供を育てることを教えています。

労働関係の中では「キリストに仕えるように、主人に従いなさい」と教え、雇用主である主人たちには、天の主にともに仕える者として、脅したり差別したりしないようにと戒めています。

つまり神を恐れ、キリストに従うことを信仰生活の軸にすることで、すべての人間関係がふさわしく整えられていくのです。たとえ相手がまことの神様を恐れない人だとしても、人の顔を見て変えたりはせず、神を恐れ敬い、キリストにならって行動することを繰り返し教えています。

私たちは神にさえ従っていれば良い、神以外に、この世の誰に対しても責任がないというのは間違いです。確かに、私たちをさばく方は神様ただお一人で、神様以外の何者をも恐る必要はないのだけれど、その神様が、私たちが生きている世界で関わるすべての人に対して、ふさわしく愛し、ふさわしく敬うことを求めています。

「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに返す」べきであるように、夫や妻に対する責任、子どもや親に対する義務、雇用主や従業員への責任、この世の権威に対する義務、貧しい人や助けを必要とする隣人に対する責任、主にある兄弟姉妹に対する義務など、何度も何度も「主にあって」と繰り返されているように、主を恐れ、主に従うものだからこそ、それらの人々への関わり方を大切にし、真実なものとしましょう。

私たちのうちにある、誤魔化し、すり替えようとする偽善に気をつけ、神に対しても人に対しても、本当に真実な生き方、歩みを目指しましょう。

祈り

「天の父なる神様。

私たちのうちにある、自分を守り、正当化しようとしてごまかしたり、話をすり替える誘惑、そんな自分をよく見せようとするために神のことばや信仰的な態度さえ用いてしまう偽善から私たちを守ってください。

私たちの中にある私自身の問題に向き合う真実さを与えてください。

そして、神様を恐れ敬い、それゆえに私たちがこの世で生きている間関わるあらゆる人に対して、真実に振る舞うことができるように、私たちを絶えず導き、気づかせ、助けていてください。

へりくだって自分の問題に向き合い、主にあって、人々を愛し、敬い、お仕えできますように。

主イエス様のお名前によって祈ります。」