2020-02-02 私たちの祈り

2020年 2月 2日 礼拝 聖書:歴代誌 第二 32:20-26

ある時、イエス様の弟子たちがイエス様に尋ねました。「人が自分に対して罪を犯し、赦しを求めた場合、何度まで赦すべきでしょうか」。

それに対するイエス様のお答えは大変有名です。「7度までではなく、7を70倍するまで赦しなさい」これは、490回ということではなく、悔い改めなら何度でも赦し続けなさい、というお答えでした。

人を赦すことは、私たちの罪が赦されるための条件ではありませんが、赦されたという大きな経験、与えられるはずのない恵みを受けた者として、当然他の人にも向けるべきものです。そうでないと、自分の罪の大きさも、受けた赦しの大きさもほんとには分かっているとは言えません。

さて、今日の箇所は旧約聖書の中の一つの記事です。

先月も見たヒゼキヤ王の物語の続きです。彼の生涯だけでなく、旧約聖書全体を通して読んでみれば、そこに描かれているのは信仰によって勝利した人々の物語というより、信仰によって答えようとしたけれど失敗した人たちの物語だということがわかります。7を70倍するほどに赦してくださったのは、まず神様ご自身なのです。

今日はヒゼキヤの晩年の物語を味わっていきましょう。

1.祈りと奇跡的救い

古代のバビロン帝国は、後から起ったアッシリアによって滅ぼされました。しかしバビロンはなかなかしぶとく、アッシリアの支配が確実になったあとも悩みのタネでしたが、その問題が片付くと、当時のアッシリア王センナケリブは、その矛先をヒゼキヤの治める南ユダ王国に向けました。

紀元前701年、センナケリブ率いるアッシリア軍は周辺の国々を次々と制圧して行きます。かつてのイスラエルのライバルだったモアブやアンモン、エドムといった小国はほ抵抗することなく、アッシリアの属国となって行きました。それほどにアッシリアの軍事力は強大でした。

アッシリア軍がいよいよエルサレムに侵攻を始めます。

ヒゼキヤは前回見たように、非常に厳しい時代、国際情勢の中で、まずは神様への礼拝を立て直そうと神殿を修復し、礼拝を取り戻しました。同時に、軍事的な防備も固めたのですが、それだけでアッシリアの勢いが止まるほど甘くはありません。

アッシリア軍は南ユダ王国の首都エルサレムを包囲します。他の国々に対してやってきたように、センナケリブはエルサレムとヒゼキヤ王に投降を呼びかけます。ほかの国々も自分たちの神々に祈ったけれども我々の手から救い出せなかった。だから、お前たちも諦めて武器を置き、門を開けろと、大声で呼びかけます。

その時、ヒゼキヤ王がした行動が20節です。

彼は預言者イザヤとともにこのことについて一生懸命祈りました。こういう記事を読むと、少し預言者のイメージが変わります。預言者は厳しく神のことばを告げる人という印象がありますが、共に祈る、いわば牧会者でもあったわけです。

さて、アッシリアの歴史や主な出来事を綴ったアッシリア碑文という考古学上の遺物があります。それにも、センナケリブによるエルサレム包囲のことが書かれています。しかし、他の国や町と違って、センナケリブはエルサレムを陥落させることもなく、占領を断念し、撤退して行きます。アッシリアの碑文にはその理由が何も書かれていませんが、何が起こったのか、彼らもよくわからなかったのかもしれません。しかし聖書の見方ははっきりしています。21節から22節にあるように、主がヒゼキヤとイザヤの祈りに答えて、御使いを遣わし、アッシリアの陣営を滅ぼしたためです。「アッシリアの王は恥じて国へ帰り」とあるように、あまりにも屈辱的だった上に、何によって自分たちが滅ぼされたのかよく理解できなかったため、都合の悪いことは碑文に残さなかったのかもしれません。それから間も無く、センナケリブは身内によって暗殺されてしまいます。それは十数年後のことですが、とにかく神はヒゼキヤと民を守ってくださったのです。

23節には、このことで周りの国々から「尊敬の目で見られるようになった」とあります。

困難の時に「祈って何になるのか」という人はいます。けれども私たちは神様が祈りを聞いてくださる方であることを信じます。

祈りが聞かれ、みわざがなされた時、ある人は、それが祈りの答えとは認めません。偶然の出来事と片付けるかもしれません。しかし、私たちは、生きておられる神様が、私たちのために守り、助けてくださっていることを知っています。

2.与えられた恵みと高慢

ヒゼキヤ王の功績は神殿の修復・再建と礼拝の再開によってまことの神様への信仰を国に取り戻したこと、そしてその信仰によってアッシリヤという、およそ防御不可能な軍事力を前に勝利したことです。

しかし、人間は良い面だけでなく、欠点もあるのが常です。どれほどの熱心な信仰を持っていても、良い人だとしても、だめな部分もあるのが人間です。

ヒゼキヤのダメな面が現れた記事が24節から26節に記されています。この話の中にはアッシリヤに倒されたはずのバビロンの使者が偵察に来る話が含まれています。バビロンは一度アッシリヤに倒されますが、紀元前625年に再びアッシリヤを倒し、「新バビロニア帝国」を築くことになるのです。

そんな時代に、ヒゼキヤ王は深刻な病気にかかり、いのちの危険に晒されていました。その時もヒゼキヤは主に祈ります。そして、主もまた彼の祈りに答えてくださいます。

24節に書かれている、主が与えた「しるし」がなんであるか、歴代誌には書かれていません。同じ出来事を記した列王記第二20章には、主が祈りに答え、いやすことを預言者イザヤが告げる場面が描かれています。それによると、ヒゼキヤ王はイザヤに、主が癒してくださるという約束のしるしは何かと訪ね、その答えとして、日時計の影が10度戻るという奇跡があったということです。

ヒゼキヤ王はイザヤが告げた通り3日後には元気になり、神殿で神様の前に礼拝を捧げるまでに回復しました。ところが、彼は与えられた恵みに応えるのではなく、25節にあるように、かえって「心を高ぶらせた」というのです。

どういうことだったかというと、具体的なことが27節から31節にわりと詳しく記されています。

間違えないでおきたいたのは、ヒゼキヤの信仰が本物だったことは疑う必要がないということです。大きな失敗をすると、その信仰は本物だったのかという批判や疑いが起きやすいですが、本物の信仰と罪深さが同居するのが人間です。

ヒゼキヤはその信仰ゆえに神様への礼拝を取り戻し、結果として恵みによって平和を与えられました。それは国の豊かさに繋がっていき、ヒゼキヤは経済的な発展と名誉を手に入れました。経済だけでなく、30節には水道のインフラ工事も行い人々の暮らしをよくしたことがわかります。

しかし、そうした成功が彼の心の中で高慢のタネとなりました。勢力を盛り返しつつあったバビロンの使者がエルサレムにやってきました。その理由は31節にありますが「この地に示されたしるしについて調べるため」ということです。具体的にはヒゼキヤのお見舞いのためでしたが、なぜ、この小国がこれほどまでに繁栄しているのか、一時は危篤といわれた王がなぜピンピンしているのか、ぜひお聞かせください、と尋ねられたわけです。そのようなことを聞かれたヒゼキヤは、心の隅っこにあった自尊心をくすぐられました。列王記によれば、ヒゼキヤはバビロンからのお見舞いの使者に全ての財宝、武器などを見せたということです。主はこの状況を放置しておきました。ヒゼキヤの心の中にあるものをご覧になっていたのです。

3.悔い改めとあわれみ

私たちは、どんなに謙遜であろうとしても、どこかにプライドが残ったり、逆に確信と自信を持っていようとしても、どこかに劣等感や疑いやすい思いが残っていたりするものです。

26節で主は、ヒゼキヤの高慢に対して怒りを下しました。列王記によれば、実際には預言者イザヤを通しての警告でした。

「あながたがバビロンに見せたものはすべてバビロンに運びされる、何ひとつ残されない。」

この預言者の警告を聞いたヒゼキヤは悔い改め、高ぶりを捨ててへりくだりました。住民も王の姿にならいました。その悔い改めの祈りを、主はもう一度聞いてくださいます。彼に告げられた災いは、ヒゼキヤの時代にはくだりませんでした。実際、南ユダ王国の滅亡とバビロン捕囚はもっと後の時代に先延ばしにされたのです。

しかし、驚くべきは、さばきが先延ばしにされたということではなく、ヒゼキヤの悔い改めの質と神様のふところの広さです。

列王記第二20:19にはその時のヒゼキヤの言葉が記されています。

「ヒゼキヤはイザヤに言った。「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。」彼は、自分が生きている間は平和と安定があるのではないか、と思ったのである。」

ヒゼキヤの悔い改めは、何というか、純粋なものではありませんでした。イザヤの預言では、災いが起こるのは「あなたの息子たちの中に」ということで、自分には降りかからないということですから、ちょっとホッとして、思わず「ありがたい」と言ってしまったのです。

ある政治家の謝罪会見の時のことです。記者たちの前で謝罪をしたのは良かったのですが、会見が終わって、会場から出た後、まだカメラが回っているのに気づかないでいたその人は、周りにいた仲間たちに「今日は結構うまくいっただろ?」とニヤニヤしながら自慢げにしゃべったり、気に入らない記者の悪口を言っているのがバッチリ映っていたのだそうです。早速それはテレビで放送され、国民から「あの謝罪は嘘だ」「ほんとうに悪いとは思っていない」と批判されることになったのは言うまでもありません。あるいはまた評判の悪いことで世間を騒がせた芸能人が謝罪会見するときも、その服装とか、髪の色、話し方や態度などでを評論家やコメンテーターがいちいちチェックして反省しているかどうかと話題にし、それを見た人々もあーだこうだと好き勝手に評論します。

ヒゼキヤの発言ものワイドショーで取り上げられたら、自分勝手だ、自分さえ良ければ息子たちがどうなっても良いのかと、バッシングを受けるかもしれません。それでも、神様は彼の「悔い改め」を受け入れ、その怒りを納め、さばきを先延ばしにしたのです。

他人の悔い改めについては「純粋かどうか」を気にし、結構厳しく見る私たちですが、自分自身の悔い改めについて思い返してみれば、本気であったとしても、必ずしも純粋ではなかったことが結構あったのではないかと思わないでしょうか。だいたい、悔い改めや謝罪をする前に、あれこれと計算をし、損得を考え、罪を告白した場合の自分に及ぶ影響を考えるなど、そこからもう純粋ではありませんし、罪の大きさについてもわかっていなかったりします。それでも神様は私たちを赦してくださったのです。

適用 神は私たちを諦めない

今年度、私たちは「この良い仕事に」という主題を掲げてきました。ネヘミヤの時代に、城壁を再建する仕事に当たろうとした人々が口にしたことばです。

私たちが日々の歩みを、なんとなく過ごすのではなく、神様から与えられた良い仕事として受け止め、さあ今日も取り掛かろう、というふうに思えたら素晴らしいと思います。

この歩みにおいて、祈ることは大きな位置を占めます。特に、困難に直面したとき、悔い改めるべき罪が示されたとき、私たちがそういうときも神様と共に歩み、人生を続けていけるのは祈りがあるからです。

しかし、ヒゼキヤの晩年の祈りがそうであったように、私たちの信仰、私たちの祈りは、それほど純粋ではないかもしれません。本気であることや熱心であることが純粋であることを保証するわけでもありません。

そんな私たちの祈りも、神様は聞いていたくださることに私は驚かされます。神様は私たちを決して諦めたりはなさらないのです。

皆さんのお家でこんなことがあったかもしれません。自分が子供時代か、あるいは子供が、犬を飼いたい、猫を飼いたい、何かの習い事をしたいなんて言い出します。「ぜったいちゃんと世話をするから」「途中で投げ出したりしないから」そういうのですが、多くの場合、犬の散歩やトイレの始末は親がやる羽目になり、途中で投げ出した習い事の道具が押入れの中で増えていったりします。それでも、親は、次に子供が何かしたいと言ったとき、もう一度チャンスを与えます。いずれ自分の足で人生を歩んで行くことを期待し、信じて「やってみなさい」と言うのです。

神様は私たちの信仰が完全でも純粋でもなく、今は本気で熱心でも、長続きせず気持ちが冷めたり、迷ったりすることがあることを知っています。それでも、私たちの信仰を軽んじたりすることはありません。

私たちの心の中をよく知っておられる神様は、私たちの悔い改めが、純粋でないことがあることを知っています。それでも芸能レポーターのように「どうも本心からとは言えないんじゃないでしょうか」と言って赦すことをためらったりはしません。

困難の中で神様に祈る時、私たちの神様への信頼が不完全で、迷いや不安を抱えたままであったりもします。絶対的な信頼は、目指す信仰の姿としては素晴らしいものですが、現実の私たちは手探りをするようだったり、恐る恐る前に進むようなものかもしれません。それでも神様は、そんな信仰じゃだめだとは言いません。

神様は私たちを諦めたりはなさいません。

神様の救い、神様の助け、神様の御業は、私たちの信仰の強さや純粋さにもとづくのではなく、神様の憐れみ、神様の恵みに基づくものです。

そして、人としておいでくださった御子なる神イエス様が、人間として生きる中で、人間のかかえる弱さを味わい、身をもって理解してくださいました。だから、ヘブル書でこういうふうに私たちに励ましのことばが書かれています。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:16)

この大胆さは、私たちの自信からくるのではなく、神様の恵みによるのです。この大きな恵みに頼って、どんな時も、自分の信仰の強さとか、祈りの言葉がうまいか下手かとか、気持ちが純粋かとか、そういうことはあまり気にしないで、大胆に祈りましょう。神様は、私たち神様の子供達が、その目を神様に向けて祈ることを喜び、真剣に聞いていてくださいます。

祈り

「私たちの祈りを聞いてくださる天の父なる神様。

あなたの大きな恵みとあわれみを心から感謝します。

私たちが不完全で、間違いが多く、信仰や心が必ずしも純粋でないとしても、私たちを諦めず、祈りに耳を傾け、おりにかなった助け、また赦しを与えてくださることを心から感謝します。

弱い信仰でも、言葉が足らなくても、間違いを繰り返しても、あなたは私たちを決して諦めず、見放さない方であることを感謝します。

どうか私たちが、これからも、あなたの恵みゆえに大胆に恵みの御座に近づき、祈り者であらせてください。

主イエス様のお名前によって祈ります。」