2020-02-09 生きている者の神

2020年 2月 9日 礼拝 聖書:マタイ22:23-33

 クリスチャンが、この世で希望と力を持って生きて行くことができるのは、死の向こう側に、死と滅びを越えたいのちがあると信じるからです。

日本人の一般的な死後についての考え方は、とても複雑です。仏教が日本に伝わったのは戦争や疫病で大勢の人が早死にしたり、苦しんで死ぬ時代でした。そこで人々は苦しみのない極楽浄土に行けるのだという信仰にすがりました。世の中が落ち着いた江戸時代以降は、家や先祖との繫がりが重視され、各家庭で先祖をまつり、お盆にはご先祖が帰って来るという家族の絆の中にあることを大切にしました。現代は「千の風になって」という歌のヒットに見られるように、死んだ人は「思い出の中に生きる」という考え方が強くなったと言われます。いずれも死という恐ろしいものをどういう風に受け止め、乗り越えていくかという視点での考え方と言えます。

一方、私たちクリスチャンにとって、永遠のいのちや復活という教えは、聞いたことがあるけれど、どんなふうに理解され、また実際の生活の中でどんな力になっているでしょうか。あるいは、実生活にはあまり影響力がなくなってしまっているでしょうか。

今日はサドカイ派という人々の問いかけから復活について教えたイエス様のお話を学んで行きましょう。

1.サドカイ人の思い違い

イエス様のもとに訪ねて来たのは「サドカイ人」とか「サドカイ派」と呼ばれる人たちでした。

23節に「その日」とあります。パリサイ人とヘロデ党という考えられない組み合わせのグループがローマへの税金をネタにイエス様を言葉の罠に掛けようとして来たのと同じ日です。

サドカイ人もまたイエス様に論争を挑んで来ました。

サドカイ人は、旧約聖書の中の律法、つまり創世記から申命記までのモーセ五書だけを権威ある神のことばと信じていました。彼らの考えによると、一般のユダヤ教徒が信じていた永遠のいのちや死んだ人の復活は、聖書的な根拠がない、ということになります。モーセ五書の中には永遠のいのちや復活についての教えが記されていないからです。彼らが復活について語る時は、復活があるかどうかを知るためというより、復活の信仰に立った場合の様々な矛盾を突いて相手を言い負かすためのものです。

24節から28節でサドカイ人がイエス様に問いかけているのは、再婚を重ねた女性は、復活した時誰の夫になるか、というものです。この結婚関係はレビラート婚という、家督を継ぐ子孫を残すために考え出された制度で、イエス様の時代も行われていたものです。跡継ぎが生まれる前に夫が死んだ場合、その弟が兄の妻を娶り、生まれた子を兄の跡継ぎとする、というものです。日本でも昔は行われていました。

実際に7人もの兄弟が次々と死んでレビラート婚がくり返されることはなさそうですが、理屈の上ではあり得ます。

サドカイ人は、もし復活が起こったらこういうケースではかなり困った事になるのではないか、だから復活なんてばかげてる、おかしいんだ、という主張なのです。こういう論争の挑み方のほうが馬鹿げているような気もしますが、モーセ五書だけが権威があるなんて勝手に決めつけ、復活なんてあるはずがないと考えるサドカイ人にとっては、こういう皮肉っぽい言い方になってしまうのです。そして彼らは、死んだらお終いなのだから今与えられる祝福を楽しんで生きるのが神の民の喜びなのだという考えに立つのです。

サドカイ人も律法を守ることを信仰の中心に据えてはいましたが、パリサイ人ほどには厳格な生き方をしません。律法に書いていないことは自由にして良いという立場で、割と自由に、自分達に都合良く解釈しているようなところがありました。

現代人はどうでしょう。死んだ人の成仏を祈り、お盆にはご先祖をお迎えするためのお祭りをする現代人も、実際の生活の中では、自分の人生についてはやはり「死んだらお終いだから今を大事に」という考え方に立って生きている人が多いように思います。

しかし、サドカイ人や現代人のように「死んだらお終いだから今を大事に、今を楽しんで」と言えるのは、ある程度生活が安定し、守られている人たちの特権です。実際、サドカイ人の考え方に共鳴するのは、ユダヤ人の中でも地位の高い人たちや経済的に恵まれた人たちだったそうです。貧しい人たちにとっては、今を楽しむなんていう余裕はなかったので、人気がありませんでした。

しかし、そうしたサドカイ人の考え方が、とんでもない思い違いであることをイエス様がズバリ指摘します。

2.復活のいのち

イエス様はサドカイ人に「あなたがは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。」と教え始めます。

サドカイ人もイエス様を言葉の罠に掛けるつもりで議論を挑んで来たのでしょうが、ここでもイエス様はそれを真理を教えるチャンスに変えてしまいました。

まず第一に、復活のいのちというのは、サドカイ人が考えるようなものとはまるで違うということです。サドカイ人の考える復活はこの世のいのちの延長でしたが、聖書が教える復活は、新しいいのちです。神の力は、いまあるいのちを引き延ばすのではなく、まったく新しい永遠のいのちとして造り出すものです。

ユダヤ人社会の中でなぜレビラート婚が必要とされたのかというと、神様から与えられた約束の地がそれぞれの部族、氏族、家族へと分割されたとき、その土地は子々孫々にわたって受け継がれなければならないと命じられたからです。

ユダヤ人にとって土地は、神がアブラハムに約束した祝福の具体的な形でした。それを受け継ぐことは祝福ですから、先祖から受け継いだ土地を次の世代に確かに継がせることがユダヤ人にとってはとても大事なことだったわけです。

ですから、跡継ぎの子供がいないということは重大な問題になったのです。そして、戦争や病気で跡継ぎが生まれる前に夫が死んでしまった場合、残された妻は生活に困窮する場合もありましたので、やもめとなった女を保護し、なおかつ家督を継ぐ長男のために息子をもうける義務を兄弟たちが負うことになったのです。

それは人間には寿命があり、いずれ死んでしまう限り、大きな問題であり続けます。長男が先祖から受け継いだものを引き継がなければならない、という縛りがある以上、跡継ぎが生まれなかった場合の対策も必要でした。また、子供が産まれないというのは、神の恵みから漏れているというようなレッテルを貼られがちでしたので、個人個人にとってもプレッシャーのかかる問題です。

サドカイ人たちの考える復活は、そうしたいのちに限りのある人間のあり方、制度が、そのまま復活の後にも続くという発想です。

しかし彼らは神の力をまったく誤解していました。神様が、やがて来る日に神の民をよみがえらせるとき、今ある人生の続きをさせるわけではありません。キリストにある新しいいのちを与えるのです。それは新しい創造とも言われる、まったく新しいものです。

30節でイエス様は言われました。「復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。」

「天の御使いたちのようです」というのは罪のないキリストの栄光をに似せて新しく造られた永遠の存在に変えられるということです。永遠のいのちを与えられた者に、跡継ぎの心配は要りません。すべての罪から解放された時に、復活した7人兄弟が妻を巡って奪い合ったり、ねたみや恨みにかられるなんてことを心配する必要はないのです。

最近、車の保険会社を変えたのですが、その時は等級や事故の履歴などが引き継がれます。新しい保険会社になったからといって多少安くなっても、過去は引き継がれます。しかし、復活のとき、この世の不完全さやいろいろな問題、悩みをすべて清算され、全く新しいものに造りかえられるのです。

3.生きている者の神

もう一つは聖書の教えに関する彼らの理解の浅はかさです。サドカイ人は大事にしていたモーセの書を読み違えていました。

31~32節でイエス様は、サドカイ人が大事にしているモーセ五書から引用し、復活について示されていることを教えてくださいました。

32節「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」というのは、出エジプト記3:6に出てきます。

これはモーセが神様からイスラエルを導きエジプトを脱出するための指導者になりなさいと言われた場面から引用したものです。

モーセが生まれた時代は、ヘブル人つまりアブラハムの子孫たちがエジプトで奴隷になっている時代でした。ファラオがヘブル人の過酷な人口抑制政策を行っていて、生まれた男の子はナイル川に捨てなければなりませんでした。アブラハムの子孫が祝福され、約束の地を手にし、全世界の祝福となる。アブラハムを呪う者を神は呪うと言われましたが、その祝福の約束はどこへ行ったか分からず、呪いの約束も、毎日赤ん坊が川に流される現実のなかで空しく聞こえたに違いありません。

不思議な導きでファラオの娘に育てられたモーセが40歳になったとき、同胞を助けたいと思いました。自分にはそういう力があると思っていたのですが、しかしその思いは空回りし、はずみで人を殺してしまうことになります。モーセは追及の手を逃れるためにエジプトを逃れ、ミデヤン人の地、現在のシナイ半島やアラビア半島の西側あたりで羊飼いをして暮らします。さらに40年の歳月が過ぎ、80歳になったとき、神様は再びモーセに現れ、イスラエルを救い出すために立ちあがるよう命じます。

説明が長くなりましたが、その時に神様がご自身を語って言われたのがこの言葉です。もう400年もの間、神様はイスラエルの民、ヘブル人に何も語りかけて来ませんでした。アブラハム、イサク、ヤコブといった神の祝福を約束を受け取った先祖たちは過去の出来事。その約束は忘れられることなく語り継がれていましたが、本当に神が手を差しのばしてくれるか分からない、そんな時代です。そしてモーセ自身が、自分がやろうとしたときは神様は何も助けてくれず、もう年齢的にも無理だと思うようなこのタイミングで、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と言われ、突然、さあ今だ、立ちあがれと言われたのです。

イエス様はこの言葉にこそ、神が復活の主であり、永遠のいのちを与える方であることが言い表されているとおっしゃっています。

どのあたりにでしょうか。長い間沈黙を守って来られた神様は、何百年も前の先祖たち、アブラハム、イサク、ヤコブがまるで今も生きているかのような物言いで「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とおっしゃっています。人間にとっては過去の人、既に死んでしまった人たちですが、神様の前では今なお生きている者なのです。それは命が死んで終わりではなく、神様の元で永遠のものとして与えられているから、復活があるからこそ言えることです。

それはまた、アブラハムが自分では見ることの出来なかった約束の実現、ヤコブがエジプトに下ったことで頓挫してしまったように見えた約束が、今モーセを通してまた動き出そうとしていることを、彼らが神のもとで見ているという意味になります。

適用 今、ここでの希望

イエス様の話しを聞いていたサドカイ人だけでなく、群衆もまた、イエス様の教えに驚きました。イエス様の復活についての教えは、サドカイ人の屁理屈を見事に論破しただけでなく、神様と私たちとの関係、信仰と生活の関わりに、まったく新しい視点を与えてくれたのです。

サドカイ人は死後のいのち、永遠のいのちも復活もないのだから、今を大事にすべしと教えました。死者の復活も永遠のいのちも天使の存在も認めませんから、アブラハムに約束された祝福は、この世で受け取る神からの祝福ということ、具体的には富や健康ということになります。そのため「今を大事に」というのは、神への信仰をうたいながらも、実際は自分勝手なものになっていました。

現代人も、「限りあるいのちだから、今を大切に」と言うでしょう。しかし、その生き方を定め、方向付けるものは何でしょうか。立派な生き方をしようと志す人たちもいることはいますが、人間はそこまで忠実に誠実にあり続けられるものとは思えません。世界中の紛争、格差、貧困、いじめ、差別、環境破壊などを見ると、ほかの人を尊重する生き方より自分勝手な生き方を選んでしまうのが人間の性質だと思わずにはいられません。

復活の希望、永遠のいのちの約束もまた、「今を大事に」という考え方に結びつきます。しかしその希望によって、今生かされているこの場所で、神を愛し、隣人を愛して生きるようにと促されるのです。

サドカイ人にとって復活は、論争の道具、イエス様を言葉のわなにかけるための材料に過ぎなかったかも知れませんが、私たちにとっては、今を生きるための希望であり、力です。

私たちのいのちは、死んで終わりではなく、その後も続くものですが、それは人々の思い出の中にとか、あの世からこの世に戻ってくるようなことではなく、私たちに祝福を約束し、生き方を示し、この世界を裁く方である神様の前に生きるということです。この永遠のいのち、復活の希望は、私たちに責任のある生き方を求めるのです。

主が私たちを死者の中からよみがえらせるために再びおいでになると信じるので、私たちは、今この世にあってより良い生き方をしようとし、罪に気付かされた時には悔い改めようとします。

神様が永遠のいのちを与え、栄光のからだによみがえらせてくださると信じるので、この世にあって、病気になったり、体のあちこちにガタが来たり、老いに伴う様々な不便さや寂しさ、辛さを我慢し、忍耐します。

私たちがこの世の生涯を終えた後も、神様は生きて働き続ける方だと信じるので、私たちは自分で全部やり遂げられなくても、働きの結果を見ることが出来なくても、神様におゆだねすることができます。きっと、私たちは主の御元で、次の世代の人々が私たちの働きの続きをやり遂げようと奮闘する姿を誇りをもって見守ることになるでしょう。

神様がこの世ではなく、復活の日に、約束された祝福を完全なものとしてくださると信じるので、この世で報われない労苦を背負うことがあっても期待して誠実に努めようとします。

復活の希望を、単なる知識として覚えたり、何となく聞いたことがあるというようなものではなく、クリスチャンとしての私たちの歩みに希望と力を与えるものとして、しっかり握りしめましょう。

祈り

「生きておられる天の父なる神様。

この世の限られた命を越えて、永遠のいのちを与え、よみがえらせてくださる神様の御力を、復活の希望をしっかりと持たせてください。

今、このところで生きる私たちに希望と力を与えてください。主が再び来られる日を喜びをもって待ち望み、恐れつつへりくだって歩む者としてください。

主イエス様のお名前によって祈ります。」