2020-03-01 神の民、神の家族として

2020年 3月 1日 礼拝 聖書:ネヘミヤ8:1-12

 2019年度もいよいよ終わりますが、この年度の主題を「この良い仕事に」としたことを覚えておられるでしょうか。

長い捕囚の時代から解放され、約束の地に帰還した人々は神殿を再建したものの、破壊された城壁はそのままになり、安全が確保されないエルサレムの町は荒れたままになっていました。心を痛めたネヘミヤがリーダーとなり、城壁再建に向かって動き始めたとき、人々は「さあ、再建に取りかかろう」と励まし合って立ちあがり、ネヘミヤは「この良い仕事に着手した」と記しています。

2019年度に向けて、「この良い仕事に」という主題を選びましたが、それが具体的に何を意味しているかは、実ははっきりしていませんでした。神様が教会に、そして一人一人の生活の中で、どんな事を良い仕事として備えてくださっているか、手探りで始まりました。

教会として取り組み始んだことには目新しいことはなかったかもしれませんが一つ一つ取り組んで来ました。皆さんのお一人お一人の生活ではどうだったでしょうか。年度末だからといってちょうどよく終わらせたり、達成できたということばかりではないかもしれませんが、始めたものは終わる時が来ます。そして、私たちはそれらやり終えたことから何を得たか評価します。

1.工事の完了

第一に、始めた事がいよいよ終わりました。ネヘミヤとエルサレムに帰還した民の城壁工事も完了の時を迎えたのです。

工事を始めてわずか52日間という急ピッチで完成させ、まわりの国々を驚かせ、また警戒もさせましたが、イスラエルの民は大喜びです。

6:15~16にその時の様子が描かれています。「こうして、城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。私たちの敵がみなこれを聞いたとき、周囲の国々の民はみな恐れ、大いに面目を失った。この工事が私たちの神によってなされたことを知ったからである。」

「エルルの月の25日」というのはバビロニアの暦で第6の月、今なら8月の半ばくらいになります。

ネヘミヤと民が取り組み始めた城壁の再建工事はすぐに困難に直面し、次々に問題が起こりました。特に、サマリヤ人やアモン人といった、アッシリヤやバビロンに白旗を揚げた、かつてのライバルが再び敵として立ちはだかります。脅し、悪口に始まり、エルサレムに攻め込んで混乱を起こすテロの計画までありました。

そうした緊張状態の中で、片手に武器を持ちながら片手で仕事をしなければならない程の時もありました。

また敵は、ネヘミヤ自身に反逆の疑いがあるという噂を流したり、暗殺計画まで立てていました。民の中には敵と通じ、状況を逐一敵に知らせるスパイまでいました。

さらに問題は帰還したイスラエルの民の中にもありました。経済的に困窮した人々から不満の声があがり、一方で裕福な人々が自分たちの利益を守るために違法な高利貸しをしたりして貧しい人たちを食い潰していました。

そうした状況を想像すれば、ネヘミヤと民の取り組みがどれほど困難で、実現が難しいと思えるものだったかよく分かります。

そのような外にある妨害と内にある悩みがネヘミヤとイスラエルの民を苦しめましたが、それでも彼らはやり遂げました。

敵は城壁完成の知らせを聞くと、恐れ、恥をかきました。「お前たちが神に願ったってそんなの無意味だ、お前たちに出来るわけがない」と言い続けて来ましたが、城壁再建が神の御手によって守られ、実現したことは誰の目にも明らかでした。

エルサレムの住民は、なおも外敵からの攻撃を警戒しなければなりませんでし、まだ家が十分に建てられておらず、城壁の外に住み続けなければならない人たちも多かったようです。

それでも人々は城壁の完成を喜び、新しい生活が始まりました。神殿を中心に置いたエルサレムの城壁が完成したときに始まった新しい生活とは、神の民として生きて行こうというそんな思いではじまりました。

人々は、自分達の系図を調べなおし、間違いなくイスラエルの子孫であることを証明しようとし、祭司やレビ人たち、神に仕える人々は特に、レビ族の子孫であることを証明できない場合は、資格がないとさえされました。

そんな工事完成からわずか5日後、第七の月の1日目に、民は水の門の前の広場に集まりました。祭司エズラに聖書を読んでもらうためでした。

2.涙の意味

第二に、みことばが開かれた時、城壁完成の喜びより、悲しみの涙があったことに注目しましょう。

6:15によれば、城壁再建が完了したのはエルルの月、つまり第六の月の25日。そして、今日の8章の出来事は2節にあるように第七の月の一日です。一週間足らずの間に、郊外に住んでいる人々もエルサレムに集まりました。

彼らが集まった「水の門」というのはエルサレムの城壁の南東の角にある門で、すぐそばにはイエス様が盲人をいやされたシロアムの池がありました。イエス様がシロアムで盲人の目を開いたのは、もしかしたら今日の出来事によって人々の心の目が開かれたことを意識していたのかもしれません。

とにかく、そこにはすでに木製の演台が設けられていました。これは急ごしらえのビールケースで作った演台みたいなものではありません。エズラの他に13人の助手が一緒に立てるくらいの、大きくてしっかりしたものです。この日のために、城壁完成後、すぐに準備が始められたことが分かります。

この1日がかりの聖書朗読は、単に律法が人々の前で朗読されるという、儀式的なものではありませんでした。水の門の広場に集まった人たちは、律法に書かれていることを理解しようと心を集中し、学ぼうとしていました。

エズラが聖書を開きます。聖書といっても、創世記から申命記までのモーセの5つの書が、幾つかの巻物に分けて記されているものです。台の上で巻物が開かれると、民はみな立ち上がり、エズラが主をほめたたえると民はそれに答え、跪いて主を礼拝しました。

そしてエズラが朗読をし始める時、人々は再び立ちあがります。そしてエズラの助手たち、レビ人たちは、朗読された聖書の言葉を解き明かします。結果、8節にあるように「その意味を明解に示したので、民は読まれたことを理解した」のです。

これが、この日の出来事で一番重要なことでした。神様が律法を通して民に何を語りかけているか分かったということです。

その時すかさずネヘミヤたちは、民に呼びかけました。9節「「今日は、あなたがたの神、主にとって聖なる日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。」

城壁を完成したばかりの民は、律法を聞いて理解したとき、泣いたのです。その涙はうれし涙ではなく、悲しみの涙です。献堂式の時に皆が嘆き悲しんで泣いている光景はちょっとびっくりします。そういう状況だったのです。何があったのでしょうか。

律法、つまり聖書に書かれているのは、祭の仕方や礼拝の仕方、生活の決まり事ということだけではありません。彼らが理解したのは、なぜそうするのか、ということです。律法は神の民となった者たちに与えられたものです。神と共に歩むなら、こうしないさいと命じました。神の民として歩み続けるなら祝福があり、神に背を向けるなら呪いがある。その結果が、イスラエル王国の分裂であり、アッシリヤやバビロンに破れ、国は滅び、人々は捕囚として外国に連れて行かれてしまった、という事でした。彼らは、自分たちが、先祖たちが、自分達を神の民としてくださり、祝福を約束してくださった神様に背を向けてしまったということを理解したのです。

3.恵みと喜び

しかし、第三にエズラとネヘミヤは、悲しむ民に対して、神の恵みと喜びがあることを思い出させてくれました。

9節と10節、11節でネヘミヤやエズラが強調していることは、「今日は、あなたがたの神、主にとって聖なる日である」ということ、それ故に悲しむのではなく「喜ぶ」べきということです。

この日は、私たちにとって特別だ、というのではなく、神様にとって特別な日なのだということです。

律法が朗読されたとき、民は自分達が神様の御思いをぜんぜん理解せず、背を向けて来たことを思い知り、嘆きました。しかし、エズラとネヘミヤは彼らに語りかけたのです。目を上げてみなさい。神様はちゃんと約束を果たして、神殿を再建し、城壁を再建させてくださった。捕囚として連れて行かれた民は再びこの地に帰って来た。そして今、神の言葉を聞いたあなたがたが、その涙をもって、もう一度神の民として歩もうとしている。それは私たちにとって重要なことである以上に、神様にとって特別な出来事なのだ。ご自分に背を向けて放ろうしていた我が子が、父の元に帰って来たことを祝うような、特別な日なのだ、と語りかけて居るようです。

この「主にとって聖なる日」という言葉を思い巡らす時、放蕩息子の譬え話を思い出しました。父に背を向け、好きなように暮らし、身を持ち崩した放蕩息子が、悔い改めて本当にご免なさいという思いと、もう息子と呼ばれなくても良いからそばに置いてほしいという決死の思いで帰って行きました。それは喜びや希望とは無縁の、悲しみと後悔と、あわれみにすがるしかない惨めな日だったに違いありません。しかし、父にとっては行方知れずとなり、死んだものと思っていた息子が帰ってきた日、喜ばしい日なのです。だから、父はしもべたちに言いつけて盛大なお祝いを用意させました。

同じように、ネヘミヤは民に「お祝いをしよう」と呼びかけたのです。なぜなら10節の終わりにある有名な言葉のように「主を喜ぶことは、あなたがたの力だから」です。

私たちを愛し、見捨てず、私たちが主のもとに帰ることを、特別に喜んでくださる主を、私たちが感謝し、喜ぶことは、私たちを力づけ、勇気づけてくれます。悲しみや後悔、惨めな思いから立ち直らせ、喜び、新しい決意、愛されているという確信へと私たちを引き上げてくれます。

そしてネヘミヤはこの喜びを一人一人が銘々噛みしめるのではなく、神の民として、神の家族として喜ぶように、具体的な助言をしています、10節。「行って、ごちそうを食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった人には食べ物を贈りなさい。

普段よりもちょっと贅沢をしてお祝いをし、近所の人で何も準備出来ないような人には、贈り物をして、皆でお祝いできるようにしないさいということです。

そしてもう一度、最後12節で「理解」という言葉が出て来ます。「こうして、民はみな帰って行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。教えられたことを理解したからである。」

律法に書かれ、聖書から教えられていることを理解した彼らは、自分達が神の民、神の家族として歩むよう、再び招かれ、その祝福の中に置かれていることをはっきり理解したということです。

適用 私たちが知ったこと

一年前、ネヘミヤ記のことばを示され、年間の主題聖句に選び、新しい年度を歩み始めた時、それが何を意味することになるのか、私自身も良く分かっていませんでした。

ネヘミヤとイスラエルの民が城壁を再建し始めた時、それはとても良い仕事に思えました。というのも、現実問題として、再建された神殿が再び放置され、町は荒れたままになって、とても人々が安心して暮らせるような状態ではなかったからです。

ある意味、城壁再建は実際的な必要に答えるためになされた大事業でした。

しかし、城壁が完成した今、ふたたび神のことばである聖書に耳を傾けたとき、彼らが悟ったことは、自分達が今、再び神の民として、神の家族として生きて行こうとしている、ということでした。

実際、この後のネヘミヤ記の記録は、さらに聖書を調べ、具体的な改革を断行していきます。

とにかく、彼らが城壁再建を成し遂げたときに得たものは、ただ安心して暮らせる環境ということではなく、自分達が神の民、神の家族として歩むよう召されているということ、そしてそうありたいという強い願いでした。そんな自分達を神様が本当に心から喜んでくださるという恵みです。

私たちも、この年度を振り返った時、当初計画したとおりに出来たこともあれば、様々な必要に答えなければならず、当初の計画になかったこともありました。

ポールさんたちが来てくれたことは単に思い出に浸るだけでなく、神様の御わざとその忠実さに感動することになりました。**姉妹が召されたことは、私たちが本当に神様の家族としてどれほど互いを大切な存在と感じているかを実感させました。

駐車場の工事とか、夕拝を始めるといったことも、私たちにとって大切なことは何かを考えさせれらる時となりました。

教会カフェやリレーフォーライフといった活動も、私たちに委ねられている福音や、教会が地域に置かれている意味合いを毎年思い出させてくれます。

もちろん、バプテスマ式があったことは私たちにとって大きな喜びでした。毎週ともに礼拝をささげ、兄弟姉妹たちの動向に一喜一憂し、祈りました。

ご病気の方、年齢からくる不自由さ、信仰や心が弱ってしまうこと、職場の状況、そういう中で礼拝や交わりになかなか加われない方々のために何ができるか悩み模索しつづけること。その他いろいろなことがありました。

具体的な必要に答える事だったとしても、それらが私たちにとってどんな意味あいがあるか、みことばに聞いて考える時、浮かび上がってくることがあります。

私たちは神の民として、神様の家族として歩もうとし続けていたということです。城壁が完成するような達成や成功もあったかもしれませんが、逆に足りないこと、失敗したこと、後悔したこともけっこう多かったかもしれません。たとえそうであったしても、それでも私たちが神様の子供として、家族として共に歩もうとしていることを何より神様ご自身が喜んでくださっています。いろいろあっても、そうだ、神様の子供として歩んで行こうと思い直すとき、神様は「なんと素晴らしい日だ」と思ってくださるのです。

だから、今日も私たちは悲しむより、喜びます。後悔もあるけれど、足りなかったこと、恥ずかしかったこともあるけれど、そして多分これからもそういうことはたくさんあるだろうけれど、それでも主を歓び、日々祈りつつ、力を頂いて、一歩ずつ歩んで行きましょう。

祈り

「天の父なる神様。

年度替わりの時期を迎えています。今年度の教会の歩み、また一人一人がそれぞれの歩みを振り返って、さまざまなことを教えられ、気付かされます。私たちは改めて神様の子供、神様の家族として歩ませていただいたこと、何より神様ご自身が、私たちを喜んでくださることを教えてくださりありがとうございます。

失敗があり、後悔があり、失意があっても、あなたの救いと恵みの中にあることを思い出し、もう一度あなたの民、あなたの子どもとして、そして神様の家族として歩み出すことができますように。

そのような私たちを愛してくださる主を歓び、力を頂いて日々歩んで行けますように。

主イエス様の御名によって祈ります。」