2020-03-15 人の愛が冷えるとき

2020年 3月 15日 礼拝 聖書:マタイ24:1-14

 私たちの信仰の土台である福音には、主イエス様が私たちの罪のために死なれ、よみがえられ、天に上げられたということで終わらず、この世界をさばくため、そして私たちを新しい御国へと招くために再び帰って来られるという内容が含まれています。

その終わりの時とは一体どういうものなのか、聖書ではいろいろな描き方がされていて、興味を引いてきました。終わりについての教えは「終末論」というふうに呼ばれていますが、個人的には、礼拝説教で語るのが難しいと感じていました。この先どんな破滅が待っているかなんてことが、いったいどんな励ましになるのかという思いもありました。もちろんマタイの福音書を順番に学んで行こうと決めた時に、最初から24章に入れば、こういう話しになると分かっていましたので、どうしようかな、さらっとやるか、飛ばすか、などと迷いがあったのも事実です。

しかしコロナウイルスの影響で日本中が、そして世界が動揺し、あちこちでがたつきが見られる今、まさに神様が備えてくださった聖書箇所だなということを感じています。勘違いしないで欲しいのは、世界がコロナウィルスによって滅びるということを言いたいのではありません。しかし、終わりのことは知らねばなりません。イエス様は私たちを励ます為に語っておられます。

1.繁栄の終わり

第一に、繁栄しているように見えるこの世界には終わりがあります。あまり聞きたくない話しではあります。繁栄というのは、私たちの生活と直結しています。コロナウィルスの影響で世界中の経済が打撃を受ければ、私たちの懐具合、食卓にまでその影響は及んできます。それは誰も望まない事です。そういう下落は一時的なものだと思いたいです。

エルサレムで弟子たちと最後の一週間を過ごしている場面が続いています。朝から次々と議論をふっかけられ、その都度、イエス様が御言葉の真理を解き明かし、彼らのねじ曲がった信仰を嘆き、悔い改めを迫る長い一日が終わりました。そういう一日を想像すると、ほんとに精神的にも肉体的にも疲労しただろうなと思います。

夕方、一日を過ごした神殿から離れ、エルサレム郊外の宿に戻ろうとしたとき、見上げると夕日に照らされ、美しく輝くエルサレム神殿の姿がいつにも増して壮麗に見えました。

弟子たちは思わずイエス様に駆け寄って、袖を引っ張り「あれを観てください」とばかりに神殿を指さしました。

しかしイエス様はそんな弟子たちに冷や水をかけるようにこう言いました。「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」 

イエス様の言葉はけっこうショッキングです。弟子たちの目の前に立っている神殿は、もし今も残っていたら間違いなく世界遺産に登録されていたはずです。当時のエルサレム神殿は建築王と言われたヘロデ大王の最高傑作で、イエス様の時代、まだ工事中ではありましたが、それでも当時のローマ世界でも最も優れた建築と言われていました。しかしこれは単に立派な建築物どいうだけのものではありません。ヘロデ大王はユダヤ人の人気取りのために建てましたが、ユダヤ人はこれを、何よりも天地の造り主である神の栄光を現すものとして受け止めていました。

だから、この神殿が徹底的に破壊されてしまうというイエス様の言葉は、他の人に聴かれたら大ごとになってしまうような、ショッキングな言葉でした。

しかし、イエス様は単にエルサレム神殿やエルサレムの街が滅びることだけをおっしゃっていたのではありません。あとから弟子たちに詳しく教えているように、この世界そのものが終わりの時を迎えることを語っておられます。神殿は実際に紀元70年にローマ軍によって破壊されますが、それ自体は世界の終わりではありません。しかし、世界が終わりの始まりではあるのです。

24章の教えは、イエス様から見た未来をわりとすぐにくるエルサレム滅亡と、いつとは言えないが必ず来る将来の世界の終わりを一連の出来事として見て語っておられます。世界史的にはこの2千年の間に人類はそうとう発展し、繁栄したように見えますが、イエス様の視点からは、この世界はもうすでに終わりに向かって歩んでいるということになります。

それは、人のいのちには終わりがあり、必ず死ぬし、死ぬときにはいろいろある、というのに似ています。知りたくないし、信じたくないし、聞きたくないかもしれませんが、正しく知っているなら、今をよりよく生きることができるし、備えも出来ます。

2.前兆に踊らされるな

第二に、世の終わりに起こるさまざまな前兆に踊らされてはいけません。

イエス様は町の外に出て、オリーブ山と呼ばれていた小高い丘に登りました。エルサレムより数十メートル高いので、谷を挟んだ向こう側にはエルサレムの街並みが一望できます。町全体が夕暮れに輝き、もちろんその中心には、先ほど見たエルサレム神殿がありました。しかし弟子たちはさっきのイエス様の言葉が気になって仕方がありませんでした。

それで「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」と尋ねました。

やっぱり、いつ、どんなことが起こるのか、というところに私たちの関心は向きます。弟子たちは「あなたが来られ、世が終わる時」と言っています。世界の終わりが、再びイエス様が来られる時と同じであることを理解していました。

そのような時には様々な前兆があるのですが、イエス様が弟子たちに答えた最初の言葉は「人に惑わされないように気をつけなさい」ということでした。

世の終わりの前にはいろいろなことがおこります。キリストを名乗る者が大勢現れる、戦争や戦争のうわさを聞く事になる。民族間の紛争、飢饉と地震、迫害、偽預言者などなど。

ひとつひとつ丁寧に説明したらとても時間が足りないほどですが、それらは決して世界の終わりではありません。それは終わりの日が近づいていることを知らせる前兆です。15~26節には本当にエルサレムが滅亡する時に起こる事、気をつけなければならないことが語られていますが、それもまた、偽キリストに惑わされないように、何がほんとうかを見定めるために教えられたものでした。

本当に世界が終わるのは、戦争やウィルスや、巨大な隕石が落ちてとかではなく、キリストが再び来られ、世界を裁く時です。

そして、これらは産みの苦しみだと言われていますが、陣痛が間隔を置いて何度もやって来るように、世界の終わりを感じさせる様々な出来事は何度も起こるし、キリストを直接名乗らなくても、苦しい現状から解放してくれる救世主のように見える人、期待された人は歴史上に何人も出ては消えてきたのです。あのナチスのヒトラーでさえ、第一次大戦後の大変な苦境の中にあったドイツを救って、自信と名誉を取り戻させてくれる人のように見えたのです。

そういう中にあるのですから、このコロナウイルスの騒ぎも、それによってもたらされる世界的な経済の混乱も、驚くようなことではないのです。

クリスチャンをとりまく状況も迫害があり、不法がはびこり、人々の愛が冷えてしまいます。正に現代の社会状況をピッタリ言い当てているように見えますが、どの時代にもこうしたことはくり返され、その度に「今の私たちの時代のことを言っているんだ」と言われて来たものです。

もちろん、私たちはこういう予想外の災害、災難に見舞われ、おろおろし、対応に追われ、不確かな情報の中で迷いながら判断しなければなりません。しかし、世界が終わるかのように恐れたり、いろんな情報に惑わされるべきではないのです。

3.最後まで忍耐する

第三に、イエス様は私たちに「最後まで忍耐するように」と教えています。

イエス様がこれらの終わりの日について教えた目的は、私たちがいろいろなことに惑わされ、いらぬ恐れに支配されないようにということとともに、私たちが最後まで信仰に立ち、忍耐することができるように励ますためです。

13節「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」この言葉は10:22にも出て来ました。前の時は、弟子たちがユダヤの同胞に福音を伝える時に経験する様々な困難の中で、忍耐して働きを全うしなさい、という意味で語られていました。

ここも同じような言い方で、終わりの日の様々な出来事、前兆と思える戦争や自然災害などがあっても、忍耐して主の弟子として歩みなさい、ということをおっしゃっているわけでです。

ではイエス様が、忍耐しなさいとおっしゃるとき、それは具体的にどういう意味なのでしょうか。苦難や困難が襲うとき、嵐が過ぎ去るのを待つように、じっと耐えて忍びなさいということなのでしょうか。私たちは何について忍耐しなければならないのでしょうか。

14節を見ると「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて」とあります。世の終わりを思わせるような様々なことが次々と起こったとしても、福音は伝えられていくものです。誰の手によってでしょうか。それぞれの時代のクリスチャンたちを通してです。ということは、様々な困難をじっと我慢して耐え忍ぶ、というのとはちょっと違うことがわかります。福音を伝えるということは、もっと積極的に世の中の人々に関わるはずだからです。

では、何を忍耐するというのでしょうか。それは戦争や自然災害、迫害といったことが起こる時に人はどう変わるかということと関係しています。

10~12節にはこうあります。「そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、偽預言者が大勢現れて、多くの人をまどわします。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。」今の状況はある程度までこのみことばの通りになっていると言えます。

私たちが恐れるべきは災害そのもの、ウィルス自体ではなく、こういう状況の中で、人々がお互いに疑い合ったり、責め合ったり、偽の情報に踊らされたりして、愛が冷えてしまうことです。

そういう愛が冷えてしまうような状況の中で、私たちは神の子供とされた者として、イエス様の弟子とされた者として、なおも神を信頼し、兄弟姉妹を愛し、隣人を愛することを諦めず、忍耐して続けなければならない、ということです。そういう忍耐強い愛があればこそ、困難な時にも福音は伝えられていきます。

先週、ローマ書の12章から、神の恵みをいただいた者として、心を一新して生きる意味について学びました。この世の流れに流されるのではなく、神を愛し、兄弟姉妹と隣人を愛する者となっていくことが、神の前にふさわしい新しい生き方だと学びました。イエス様はここでも同じことを言っているのです。愛が冷えるような時代の流れに流されず、忍耐強く、神と人とを愛する者であり続けなさいと、私たちに語りかけ、励ましているのです。

適用 かわらないもの

神様が聖書を通して与えた、私たちの生き方の最も大切な原則としての、神を愛し、隣人を愛するという教えは、イエス様によってその意味がより明解に示されました。

神が私たちの救いのためにお遣わしになったキリストを救い主、神の御子として信じ、愛する事。兄弟姉妹を愛し、隣人を愛し、敵をも愛すること。福音に生き、福音を告げ知らせること。

これらの大原則は、大きな問題のない、普通の時に私たちの生活、行動、態度の原則であるだけでなく、困難の中にあるときも、そして、今日観てきたように、世の終わりを思わせるような大きな困難の中にあっても同じように私たちの原則であり続けます。そこで私たちの忍耐が必要とされ、試されるのです。

「最後まで耐え忍ぶ人は救われます」とイエス様はおっしゃっていますが、これは「どんなときも忍耐しなさい」という意味の決まり文句みたいなもので、困難の中で私たちが我慢できないことがあったからといって、減点され、いつか天国行きの、救いの資格を失うという意味ではありません。しかし、困難の中で人々愛が冷えていく時に、私たちまでもが愛を失い、キリストを見失い、うわさや偽の情報に翻弄され、人々の愛のなさに傷つき、自分自身の愛のなさで他人を押しのけるような生活の中では、確かに何の救いもないと感じるでしょう。

あの震災の時、今のコロナウィルスショックの中で、いろいろと大変ですが、「救われる」と感じるのは、人々の愛に基づいた行動であり、その思いを伝える行動です。

知り合いのお嬢さんが中学を卒業しましたが、普段のような卒業式とはなりませんでしたが、感謝の気持ちをたくさんの切り絵にして先生とクラスメイトに贈ったとか、ある高校ではクラスの聖徒たちがラインで動画を共有して合唱の練習をし、卒業式のときに教室で先生に歌のプレゼントをしたなんて話しを聞くと、気持ちが救われます。

それは罪からの救い、という意味とは異なりますが、確かに苦難や困難の中で人の心がざわつき、冷たくなりそうなときに、愛がもたらす救いの一面に気付かせてくれます。

コロナショックが終わっても、また別の何かがやって来ます。そんな悲観的に未来を考えなくても良いという人もいますが、それは死ぬまで健康で、ピンピンして何でも好きなことができ、あとはぽっくり逝けると信じ込むみたいに、愚かで非現実的なことです。それよりは起こり得る困難に心ぞなえをし、そういう状況でも忘れてはいけない神の子供としての生き方をしっかり身につけるべきです。世の終わりに向かっている世界には、どんなことでも起こり得ます。しかし、そうであっても私たちは神に望みを置き、隣人を愛する者でありつづけましょう。

兄弟姉妹を愛しましょう。今の状況をどう評価し、どんなふうに心配しているか、個人差はありますが、そのことで互いを批判したり、否定したりしないで、尊重し、思いやりを持ちましょう。

隣人を愛しましょう。この状況で隣人のために何ができるか分からない面もありますし、不安の中にいる人にどんな言葉をかけるか難しくも感じますが、私たちが気持ちにおいては前向きでいることが励ましになるかも知れませんし、具体的な助けが必要な時に手を差しのばしましょう。

なにより、私たちの従うべき方は主イエス様であることを忘れないようにしましょう。コロナウイルスのニュースは近所のドラッグストアでマスクがいつ売られるかといった情報に私たちの生活と心を支配させないようにしましょう。

人の愛が冷えていくような時であればあるほど、惑わされず、忍耐をもって神の子供らしく生きること、福音に生き、言葉と行いで福音を証しする者であることを何より大切にしていきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

世の終わりを思わせる何かがあっても、起こっても、慌てるな、惑わされるな、忍耐強くあれと語りかけてくださってありがとうございます。

今もこれからも、忍耐のためされる場面があり、恐れたり不安になったり、気持ちが落ち着かない時があるに違いありませんが、そのような中でも、主イエス様だけを恐れ、信頼し、兄弟姉妹と隣人を愛する者であり続けさせてください。福音に生き、福音を証しする者であらせてください。

恐れる者に平安を、弱っている者に癒しと慰めを、飢え渇くものに救いをお与えください。

主イエス様のお名前によって祈ります。」