2020-04-05_ひとり子を与えるほどに

2020年 4月 5日 礼拝 聖書:ヨハネ3:1-5,16

 イエス様が十字架にかかって死なれたという事実は、私たちが神に愛されていているということを意味しています。2千年前の地球の裏側で起こった出来事ですが、現代の私たちにとっても、その神の愛が変わることなく、私たちに向けられていることを、今日、あらためて確信したいと思います。特に、今世界を覆っている新型コロナの不安と恐怖の中で、多くの人が無力感を覚えたり、希望を見いだせずにいたり、逆に無関心を装っている中で、それでも私たちは愛されていることを確かめましょう。そして、この「私たちが」愛されていることの意味合いを味わいましょう。

本日は主イエス様が十字架に付けられるためにエルサレムに入場したことを記念する「棕櫚の日曜日」と呼ばれています。暫く前にマタイの福音書から学んでいる中で、取り上げたのを覚えておられるでしょうか。ロバの子に載って柔和な王としてエルサレムに入場したのを大群衆が自分の上着や棕櫚の枝を道にしいて大声で喜びと賛美を献げて迎えました。

それから始まる一週間を覚えるのが受難週です。マタイの福音書の連続講解ではちょうど火曜日の出来事まで来ています。そのうち、十字架と復活の箇所へと移るので、それらの箇所はその時に取り上げたいと思います。

1.どこか不安な人

今私たちが世界中で起こっていることを見る時に気付かされるのは、人がどれほど不安というものに弱いかということです。

マスクや消毒液の不足は、品物自体の不足によるのではなく、不安にかられた人たちの買い占めや、それを狙って一儲けしようとする人たちの行動が大きな要因を占めています。一時大騒ぎになったトイレットペーパーやティッシュペーパーの買い占めもそうです。食品の買い占めも世界中で問題になっています。

普段は、礼儀正しく、また譲り合う余裕があるような、わりと先進国と言われるような人々の間でも、一度不安に襲われると「念のために買っておこう」という気持ちになり、商品棚の品物が少なくなってくると、ますますそんな気持ちになります。

今日、登場するのは、ニコデモという人です。聖書の登場人物の中でも有名人にあたりますので、聞いたことがある人は多いでしょう。彼はユダヤ人の間では議員という、行政と司法の権限を持つ議会のメンバーでした。そのうえ「イスラエルの教師」とイエス様から呼ばれているように、聖書にも精通した人物でした。

人から尊敬され、知的にもすぐれた人でしたが、彼の中には拭えない不安がありました。自分は、これで大丈夫なんだろうか、という不安です。議員になっていたということは、平均的なユダヤ人よりも立派な生活をし、律法に従うことに関しては人から非難されるようなところがない、少なくとも人々からそんなふうに見られていたことを意味します。

ですが、彼は不安でした。そしてその不安はイエス様に出会い、その権威ある教え、奇跡の力を見た時に強烈に強まりました。

議員として、教師として人々を教え、導いて来てはいたけれど、イエス様が人々に与えているような喜びや回復、赦し、愛を、自分には与える力がない。というか、真面目に暮らして来たはずの自分の中にそのような喜びも赦しも愛も確信できていない、ということに気付いたのです。そして年老いた自分には、人生をやり直す希望も気力ももう残っていないことを味わっていました。彼には、ずっと待ち望んで来た、神の平和と祝福の中に入れるという自信がなくなっていました。それで、夜中イエス様のもとを訪ねたのです。

ニコデモの丁寧な挨拶には、ほかのパリサイ人たちの表面的な謙遜とは違う、イエス様の権威を認める気持ちが表れているように思います。イエス様が「神のもとから来られた方だ」「神がともにおられる」という言葉には、不安でしかたがたない自分とイエス様の決定的な違いを彼自身がよく分かっていたことが現れています。

自分にはないものをもっておられるイエス様に対して、この不安や恐れ、確信のなさからの救いを求めるのか、それとも強がって「そんなのどうでもいい、私には関係ない。自分でなんとかする」と言い続けるのかで、大きく私たちの魂のありかたと人生が変わって来ます。

私自身も、子供のころから教会に来ていましたし、中学生の特にバプテスマを受けたのですが、聖書で教えているような神様の赦しとか、愛されているということが、実感できず、確信できず、不安定な時が結構長かったように思います。同じ世代のクリスチャンたちの中には、似たような状況で、もういいやって諦める人、つまんねえやって見限る人もいたことを痛みとともに思い出します。

2.人の力ではなく

ニコデモが挨拶をすると、イエス様は挨拶を返すかわりに、彼の抱えていた疑問にずばり答えました。

「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

これには二つの効果があります。ニコデモの欲しかった疑問への答えが与えられたとともに、イエス様が人の心の奥深くにある必要をご存じでそれに応える方であることを示しました。

それでニコデモはもう迷うことなく、彼の不安の根っこにある問題をイエス様の前に差し出すことができました。

「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」

ニコデモ自身すでにある程度の年齢になっていました。自分は老いているという自覚があったのです。もっと若かったら別な質問の仕方をしたでしょうか。

一般的に、ユダヤ人は年齢を重ねることは、信仰や人生の知恵において成熟していくものというふうに理解されていました。彼のような老人は、円熟という言葉があるように、若い頃の角が取れ、内面的にも成熟し、若い人たちから尊敬される存在でした。少なくとも回りからはそう思われていたし、彼もそう振る舞っていました。

しかし、歳を取れば取るほどに、自分の弱さのほうが勝ってくるが分かります。今さら、この自分がどうやって新しく生まれ変わることができるだろうか。今までの生き方を変えるなんて出来るだろうか。いっそ、母の胎にもどって生まれ直したほうが早いような気もするが、そんなことが不可能なのは分かっている。イエス様が言うように新しく生まれるなんて無理だ。

皆さんも経験ないでしょうか。自分のだめなところ、直したいと思ったこと、直せと言われたこと、努力しても克服出来ない弱さがあります。がんばって直したと思っても、ひょっと顔を出すのです。もちろん、性格的なことや、得意不得意の問題なら、天国に入れるかどうかと何の関係もありません。変わらなかったとしても問題ありません。しかし私たちの中にある罪と罪に影響されやすい性質は大問題です。聖い神様のところに行く妨げになります。ニコデモが気にしていたのはこれです。それは使徒パウロが気付いていたことと同じです。どれだけ外面的に律法を忠実に完璧に守ったとしても、自分の心の中にある「ねたみ」や「むさぼる心」、湧き上がってくる悪い思いなどを自分でどうすることもできないのです。それを自力で解決しなきゃと思っている間はどうにもなりません。ちゃんとやれないと神様に愛されない、人々から愛されない、できないダメなところ見せちゃいけない、だから見ないことにする、出来ているふりをする。人を批判して、自分は正しい側にいると思い込む。そうやってあの忌まわしいパリサイ人が出来ました。

しかし、イエス様は言われるのです。

「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」

人間の力じゃなく、神様の力によって生まれ変わるのだ、そうでなければ神の国には入れない。神の祝福と守りの中には入れるには神様の力、聖霊の力が必要なんだとイエス様は言われます。

3.私たちへの神の愛

ニコデモとイエス様の対話は続きますが、今日はこの対話のまとめとして使徒ヨハネがまとめとして書いた16節の言葉を見てみましょう。これは「今月のみことば」にもなっているので、ぜひ暗記するようにしましょう。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

ニコデモとイエス様の対話のいちばん大事なポイントは、天国に入るための条件ではありません。神様はすべての人が救われて欲しいと願っているということ。そのためにひとり子イエス様を与え、そのいのちの代価で救ってくださるということです。なぜそんなことをしたのか。神様が私たちを愛しておられるからです。

なぜ親は赤ん坊が夜中に泣き出したときに自分も疲れて眠いのに、目を覚ましてミルクをあげたり、おしめを取り換えたりするのですか。愛しているからです。

なぜ親は子供が悪い事をしたときに自分も心を痛めながら厳しく叱るのですか。愛しているからです。

なぜ親は子供が誰かに迷惑をかけたとき、一緒に謝りに行ってくれるのですか。愛しているからです。

なぜ神様は、イエス様が十字架に付けられ、苦しみ、もがいて死ぬことを黙って見ていたのですか。私たちを愛しているからです。私たちのうちにある罪が拭い去らるためには必要だったからです。

ニコデモのように、りっぱに生きて来たと思っても不安が拭いされない。そんな人のためにも。これまで、人様に迷惑をかけることや犯罪を犯すことを何とも思ってなくて、イエス様と一緒に十字架に磔にされていたあの強盗のためにも。いや、十字架を見上げながらイエス様をばかにし、悪口をいっていた人たちのためにもイエス様は十字架につけられていました。彼らのために祈りました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」

私たちはここで大事にしなければならないこと、意外と忘れられて来たことを覚えなければなりません。それは、イエス様は「私の」ために死なれただけでなく、「私たち」のために死なれたということ。「私」を愛しただけでなく「私たち」を愛したということです。西洋のキリスト教の影響を受けている日本の教会では、「私の」ということがとても重視されてきました。個人的なこととして、神に愛され、キリストを信じることをすごく強調して来ました。これにはいろいろな歴史的な事情があるのですが、残念なことに西洋の「個人主義」が強く出過ぎてしまい、「私たち」のため、ということ、神様が「世を」愛されたということが十分に教えられてこなかったのです。

よくある例としては3:16の「世」を「自分の名前に置き換えて読んでみましょう」というようなことです。キリストの御わざを自分自身のもととして理解させよう、感じさせようという工夫なので、それ自体は悪くないかも知れません。しかし、それで終わってはいけないのです。私を愛し、私のために死なれただけでなく、今イエス様に背を向けている人や、仲の悪い赦せずにいる人のためにも死なれ、愛しているという確信を私たちは持たねばなりません。

適用 神に愛されている

「私は愛されている」という確信によって、キリストの十字架が私のための苦しみとして信じられるようになります。キリストの十字架の苦しみが私のためであったことを信じることで、私が神に愛されていることを確信させます。入り口はどちらでも、それは一つのことです。

そして「私たちは神に愛されている」という確信が、教会の交わりに赦しや和解、互いを敬い仕え合う交わり、寛容さを確かなものにしていきます。「私たちは神に愛されている」という確信が、クリスチャンだけでなく、まだ神の愛を知らずにいる人たち、無理解で時には反対する人たちであっても、隣人への愛、敬意、福音を伝えようとする熱意を強めてくれます。

この新型コロナでざわついている時に、愛がなんの役に立つだろうか、2枚のマスクのほうがまだ役に立つと思うでしょうか。

あるいは、世界中がこれほど酷いことになっているのに、神がこの世を愛しているなんて信じられない、愛しているなら、なぜほおっておくのかと文句が言いたいかも知れません。

しかし、神様は天において別ちがたく一つだったひとり子イエス様を、我が身を切り裂くようにして私たちに与えました。イエス様は、神としてのあり方も栄光もかなぐりすてて、私たちと同じようにお腹も空けば、ウイルスにだって負けちゃうような肉体をもって、この地上を歩み、私たちが味わうあらゆる悲しみ、嘆き、痛み、苦しみ、悩みを同じように味わいました。

私たちがうちに抱えている苦しみ、孤独、惨めさをイエス様はすべてご存じです。

人々につばをかけられ、鞭で打たれ、罵声をあびながら傷つき血を流しながら重い十字架を背負った姿は、そのまま私たちの姿です。不安を抱え、心に傷を負って血を流すような経験をし、人の悪口に怯え、重い悩みを背負う私たちの代表としてイエス様は十字架の道を歩みました。

私たたちの罪が、私たちに死と永遠の苦しみをもたらすことは決まっていましたが、イエス様が代わりにその死と苦しみを背負ってくださいました。くり返しますが、私のためだけでなく、私たちのためです。私たちを愛しているからです。

この愛を確信するとき、私たちはこのような苦境の中でも、そばにいてくださる神様を感じることができ、その愛の中にいることで安心を得ることができます。

この愛が、私だけでなく、すべての人に向けられていることを確信するとき、私たちは、イエス様を信じていようがいまいが、不安の中にいる人、助けを必要とする人のために祈り、励まし、できることで手助けを喜んですることができます。個人的に関わる隣人や、仕事で関わる人たちを、神が愛しておられる存在として受け止める時、相手に対する敬意が生まれ、私自身の態度を改めさせます。それは、この世の権力や知恵ある人たちが与えることのできない、しかし、ニコデモのように心の底で不安や必要を覚えているすべての人たちにとっての慰めや希望となるものです。

イエス様の十字架が私と、私たちのためであり神の愛であることを確信しますか。ぜひ信じますと告白してください。そしてその確信にたって、恐れを打ち破り、愛をもって仕えて行きましょう。

祈り

「天の父なる神様。

私を、そして私たちを愛してくださりありがとうございます。

その愛ゆえに、独り子をお与えくださり、私たちのすべての弱さと恥とを負ってくださり、私たちの罪とのろいを一身に受けてくださりありがとうございました。

イエス様が私たちのために死んでよみがえってくださったこと、神様の愛のゆえであることを、私たちは信じます。

どうぞ、このような難しい状況の中でも、その確信にいつもたたせていてください。イエス様が私たちに与えると約束された平安を与えてください。互いに愛し合い、隣人を愛しなさいと言われたイエス様のご命令に、神様の愛ゆえに応える者となさせてください。

今週は受難週です。世界中が困難の中にありますが、願わくは、この困難の中ですでに苦しまれたイエス様とその愛に思いを向けることができますように。あなたが愛しておられるすべての人々の苦しみをご存じの神様、憐れみを示し、助けを与え、慰めを与えてください。私たちをそのための器としてどうぞ用いてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」