2020-05-17 その日が来るまで

2020年 5月 17日 礼拝 聖書:マタイ26:17-30

 先週、「緊急事態宣言」が解除されましたが、これは主に経済活動を殺さないためのもので、新型コロナウイルスの感染拡大の危険性がなくなったわけではないということであろうと思います。

それでも、どうすれば感染拡大を抑えられるか、治療が効果的になるのかが分かってきていますし、ワクチンの開発も続いていますので、いずれはかかったら怖い面もあるけれど、つきあっていける病気の一つになっていくのかなと思います。

教会の様々な活動も、イベントも、やがて以前のように普通に出来るようになるでしょうし、また新たな可能性をもって出来るようになると思います。気をつけつつも、あまり気を張らず、その日が来るまで待ち望みましょう。

さて、今日は最後の晩餐の箇所です。私たちがこの状況で再開を待ち望んでいることの一つが聖餐式、主の晩餐です。第一主日にこの箇所があたればばっちりだったのですが、計算通りには行きませんでした。

けれども、改めて主の晩餐についていろいろと考えさせられている中で、今日の箇所のイエス様のお言葉に深く感じ入りました。「あなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません」

1.御国を待ち望んで

まず、今日はこのイエス様のおことばをご一緒に考えて見ましょう。

イエス様は、十字架に付けられる、過越の祭の前夜にあたる、木曜の夜、弟子たちとともにたっぷり時間を取って、最後の食事の時を持ちました、これは「過越の食事」と呼ばれていて、旧約聖書の時代、モーセに率いられたイスラエルの民が、小羊の犠牲の血によって災いから逃れ、エジプトから救い出されたことを思い起こすための過越の祭をお祝いするための家族の食事会です。

弟子たちにとっても、これは大切で、楽しみな時でした。それで17節でイエス様に訪ねています。「どこに用意しましょうか。」

イエス様はエルサレム市内に心当たりがいました。おそらく多くの弟子の一人か協力者でしょう。イエス様の希望を伝えると、その人は快く場所を提供してくれました。というより、その人はイエス様と弟子たちのためにすでに準備を整えていてくれたということが、他の福音書から分かります。

そのようにして夕方、彼らは無事に過越の食事を始めることになるのですが、ここで悲しいお知らせです。

最後の晩餐は、和やかで楽しい雰囲気だけでは済みませんでした。食事の席で、イエス様はユダの裏切りについて話します。名指しこそしませんでしたが、イエス様にはユダが裏切ることをご存じでした。弟子たちは悲しみ、動揺します。

どうしてまたこんな時に、そんな話しをなさったのか。何も知らせなかったら、余計な不安や悲しみを感じないで、最後の食事を楽しい思い出に出来たのに、なんて私は考えてしまいました。

しかし、イエス様はこの晩餐が終わると、いよいよ十字架に向かって事が動き出すことをご存じでしたし、その鍵を握っているのが、イスカリオテのユダであることを知っていました。「まあ私ではないでしょう」とかまをかけたユダに対してイエス様ははっきりと、「いや、そうだ」とお応えになります。他の弟子たちはいまいち飲み込めていないようですが、ユダ自身は、心臓を掴まれたような気がしたに違いありません。「バレてる!」と思いましたが、もう後戻りは出来なかったのです。

そんなイエス様が、この最後のほうで「わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」と言われたました。どんな意味でしょう。

イエス様は、これからユダの裏切りによって十字架へと向かって行きますが、それは破滅でも挫折でもなく、やがて訪れる御国での祝いの時を待ち望んでいたことを表しています。それは今からイエス様が受けようとする十字架の苦しみによってもたらされる救いが完成する時であり、そのためにこそ苦しみ、血を流すのです。

ですから、主の晩餐は、イエス様が過去にしてくださったことを記念するということではなく、私たちのために十字架にかけられ死なれたイエス様との再会を待ち望む、未来志向のものなのです。

事実、初代教会のクリスチャンたちにとって主の晩餐は、十字架の死を記念するというより、復活を祝う時として行っていました。なぜ、この食卓にイエス様がいないのか。死んでしまったからではなく、よみがえり、天の御国で私たちを待っておられるからです。

2.家族とされるために

最後の晩餐の場面に戻りましょう。

一通り食事が済んだ後で、イエス様は改めてパンをとって神様をほめたたえました。

コリント書に書かれている、決まった言い方によれば、感謝の祈りを捧げたということです。父なる神様への賛美と感謝の祈りです。そして弟子たちにそのパンを分け与えながらこう言われました。

26節。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」

もちろん、パン自体がイエス様の肉体であるということではないのですが、しかし、パンはイエス様のからだを象徴しています。

過越の祭のパンは、エジプトを脱出するときに、パンを発酵させる時間がなかったので、イースト菌を入れないパンを作って焼いて大急ぎで脱出したことを思い出すために準備されました。

しかし、イエス様が定めた新しい儀式では、私たちのためにいのちをお与えになったイエス様ご自身のからだを象徴しています。過越のパンを食べながら、イスラエルの人々が神の救いを思い起こしたように、私たちは主の晩餐のパンをいただいながら、私たちの罪を代わりに背負って苦しまれたイエス様とそのみ苦しみを思い起こすのです。

ですから、イエス様のからだを象徴するパンを受け取り、食べるということは、イエス様と一つになることです。

コリント第一10:16を開いて見ましょう。

「私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。」

続く17節にはこうもあります。「パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから。」

イエス様のからだにあずかること、つまりイエス様と一つになることは、パウロが指摘しているように、同じパンを食べ、ひとつのからだにされること、つまり教会の一員であることを表していますし、食事を共にする、大きな神の家族であることを表しています。

そういう意味で、主の晩餐のパンは、十字架で私たちのために苦しんで死んでくださったイエス様のからだなる教会に共に結び合わされ、共に神の家族とされていることを表しているのです。

実際の聖餐式では、基本は同じなのですが、教会によっていろいろなやり方がああります。たとえば、ある教会では聖餐式の前日、牧師自らが種なしパンを作って、それを聖餐式に用いるそうです。またある教会では、教会員の中の得意な方が聖餐式用のパンを焼いてくれるとか、また別な教会ではネットで売られている聖餐式用のパン、ウエハースみたいなのとか、薄っぺらい煎餅みたいのとか、いくつか種類がありますが、そういうのを使っています。また、実際に司式者がパンを裂いて見せるパフォーマンスをすることも多いです。うちの教会では、市販の食パンです。手作りでもないし、種なしパンでもなし、パン裂きのパフォーマンスはなしで、あらかじめ切り分けています。

どんなやり方をするにしろ、何を思い起こすかが大事です。

3.罪が赦されるために

イエス様が定めたもう一つのことは、27節にあるよに、杯を分けるということです。

「また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」

聖餐式で配られる杯は、イエス様の血を表しています。実際に、最後の晩餐でイエス様が与えた杯というのはぶどう酒なわけですが、その色が血を連想させるというわけです。

旧約聖書でも、時々ぶどう酒が血を表すイメージとして用いられてきました。

過越の祭では、実際に小羊の血が流され、献げられるわけですが、それはエジプトの奴隷となっていたイスラエルの人々のいのちを贖うものとして、代わりに流された血でした。血はいのちの象徴です。血を流すことは、いのちを与えることです。残酷な感じもするのですが、いのちの代価になるのはいのちだけなのです。

しかし、私たちの救いのためには、イエス様がその血を流して身代わりとなってくださいました。だから、イエス様のことを「小羊」と呼んだりするのです。

ヘブル9章を開いてみましょう。

これは過越のまつりの説明ではないのですが、旧約時代にささげられた犠牲の動物の血について書かれています。罪の赦しのためには罪を犯した人の代わりに犠牲の動物の血が流されなければなりませんでした。ところが、9節にはこのように記されています。「この幕屋は今の時を示す比喩です。それにしたがって、ささげ物といけにえが献げられますが、それらは礼拝する人の良心を完全にすることができません。」

動物の血を流すというのは、象徴であって、献げる人の罪を赦す力はあっても、魂をきよめ、良心を完全にすることができません。しかも、人が罪を犯す度に人々は罪の赦しを求めて動物の血を流さなければなりませんでした。罪を犯すたびに、動物の頭に手を置いて罪を告白し、その罪のために血が流されます。そんなことをくり返していたら、どれほど自分が罪深いものであるか、まざまざと突き付けられるに違いありません。しかも、それが不要になるということがないのです。

それで11節から14節にあるように、イエス様ご自身が、ただ一度流された血によって、完全な永遠の贖いを成し遂げてくださったのです。

さらにこの流された血は、新しい契約のしるしのための血という意味もありました。イエス様はマタイ26:28で「わたしの契約の血です」と言われました。罪が赦されるだけでなく、私たちが救われ、神の家族となり、永遠の天の御国を受け継ぐ者になる、という契約です。

このようなイエス様の流された血を表す杯も、実際にぶどう酒を使うかどうかは教会によって異なります。福音的な教会の多くは、未成年者がいたり、アルコール依存と闘う人たちへの配慮などから、ぶどうジュースが用いられるのが一般的です。

大事なことは、やはり何を思い起こすかです。

適用 主が再び来られ日まで

さて、今日はイエス様の最後の一週間のうち、木曜日の夜に開かれた最後の晩餐の場面を見て来ました。

新型コロナの影響で、聖餐式を中止しようと決めてから、もし、完全に集まっての礼拝ができなくなったら、礼拝自体はネットで中継して出来るとしても、聖餐式はどうしたらいいんだろうかと考え続けていました。

ある教会では、各家庭や個人でパンとぶどうジュースを準備しておいてもらい、パソコンやスマホの画面越しに牧師が司式をする、というやり方をしていました。

ある教団では、聖餐式は集まって実際に分け合うことに意味があるので、ネット越しの聖餐式はやらないようにと結構厳しい口調で通達が出たそうです。

そんなイロイロを見て、先月は、パンと杯を配ったりはしませんでしたが、いつも通り交読をし、悔い改めの黙祷の時をもち、祈りの中で、主イエス様の十字架を思い起こすようにしました。

それが正解かは分かりませんが、やってみました。

その時も、心の中にあったのは、今日の箇所に出てくる29節のイエス様のお言葉です。「わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」

イエス様は、天の御国で私たちとともにお祝い席に着くのを楽しみに待っていてくださるのです。

聖餐式は、過去を振り返り、思い出すための儀式ではありません。過去に行われたイエス様の十字架によって私たちに何が与えられ、何が約束され、何を目指しているのかを思い巡らすためのしるしです。

イエス様の十字架によって救われた私たちには、罪の赦しと、神の家族としての絆が与えられ、永遠の天の御国を受け継ぐ契約を与えてくださいました。

それゆえに、私たちはこの世にあって、互いに愛し合い、ゆだねられた福音を宣べ伝え、主が再び来られることを待ち望むのです。私たちがパンと杯を分け合う度に、目に見える姿ではここにおられないイエス様を思い、やがてお会いする日を待ち望むのです。

聖餐式が再開できる日は、そのうちやって来ます。他のことも再開できるようになります。

でも、こうやって、その日を待ち望む日々の中で、私たちは今できないこれらのことが私たちにとってどんな意味があるのか、深く思い巡らす機会として受け止めたいと思います。

共に集まること、食事を囲んで交わりをすること、人々を招いて関係を築き福音を証しすること、一緒にみことばを学んだり、祈ったりすること、そして主の晩餐を祝い、記念すること。教会にとって大切なそれら一つ一つのことが、私たちに与えられている大きな恵みです。そして、すべてが、古くさい伝統的な「行事」や「しきたり」をくり返すということではなく、私たち自身の救いの完成、キリストに似た者に変えられていくこと、福音が全世界に宣べ伝え裸得ること、教会にキリストが満ちること、という未来の姿に向かっており、その先には天の御国でイエス様とともにお祝いをする日が来るという希望を確信し、今日を生きて行くためのものです。

遠くない、いつの日か、パンと杯を分け合うときに、このことを確信をもって受け取ることができるよう、主が教えてくださったことを覚えておきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

最後の晩餐の場面から、主の晩餐、聖餐式の意味をもう一度確認することができました。

今は、新型コロナウイルスの影響で、共にこの場所に集まれない方々もおられますし、パンと杯を分け合うこともできずにいます。

しかし、イエス様が天の御国で待っていてくださるように、私たちも遠くその日を待ち望み、またこの地上にあっても聖餐式が再開できる日を待ちます。

その日を待ち望みながら、イエス様の十字架が私たちにもたらした罪の赦しと神の家族としての絆を覚え、未来に向かって委ねられた福音、愛し合う交わり、隣人に仕える事、キリストに似た者に変えられることを確信をもって、忠実に行わせてください。

そして、ついに御国でその日を迎えるとき、心から感謝と喜びをもって迎えられますように。

私たちに待ち望む忍耐と、確信とをお与えください。

主イエス様の御名によって祈ります。」