2020-05-31 私たちをつなぐ方

2020年 5月 31日 礼拝 聖書:エペソ4:1-6

 今日はペンテコステです。もとは旧約聖書に定められていた「七週の祭り」と呼ばれていた小麦の収穫を祝って神様を礼拝するお祭りでした。ギリシャ語が共通語として使われていた時代に「ペンテコステ」と呼ばれるようになったのですが、このペンテコステの最中に、弟子たちのうえに聖霊が下り、教会が誕生したので、キリスト教の中ではペンテコステは、収穫祭の意味からすっかり変わり、聖霊がくだり教会が誕生したことを記念する日になったのです。

ペンテコステは、弟子たちがイエス様に託された務め、全世界に福音を宣べ伝え、バプテスマを授け、新しい生き方を教えて弟子とし、教会として建てあげていく働きがいよいよ始まるという合図です。そのために助け主として約束された聖霊がおいでくださった日であり、新しい神の民の歩みが始まった日でした。

ペンテコステの日、120名ほどの弟子たちは一つの家に集まり、熱心に祈っていました。密室に密集し、密接に。その弟子たちひとりひとりに聖霊が与えられましたが、それはあたかも一つの炎から枝分かれした炎が頭上に下るかのようでした。

今日は、ペンテコステの箇所ではなく、私たちのうちにおられる聖霊様について、特に救いに預かりクリスチャンとして歩もうとするときに、私たちをつなぐ方としての聖霊について学びます。

1.召しにふさわしい歩み

第一に、私たちは聖霊の助けによって、クリスチャンとしてふさわしく歩むようにと強く励まされています。

1節で手紙を書いた使徒パウロは自分のことを「主にある囚人の私は」と言っています。このときパウロは実際に囚人になっていました。異邦人に福音を宣べ伝える働きの最中に、こころよく思わない人たちの訴えによって囚われの身となっていたのです。

しかし、彼はそのような状況をただ嘆くのではなく、主であるキリストに従うゆえに苦難の一つとして受け止めていました。そのような理不尽ともいえる状況で、それでもなおパウロがこころにかけていたことは、イエス様を信じた人々が、キリストにあって成長した大人のクリスチャンになることでした。

そういうキリストにある成長した大人のクリスチャンってどういうひとか、神の満ちあふれる豊かさに満たされた人ってどういう人か、とういうことが具体的に扱われるのが4章以下ということになります。

そこで最初に出てくるパウロの強い願い、励ましは「召されたその召しにふさわしく歩みなさい」ということです。

私たちは神様の子ども、新しい神の民として召されました。単に罪の裁きから救われて天国行きの切符をもらっただけでなく、この世で神様の子どもとして生きるように、神の民として生きるように召されているのです。

そのふさわしい歩みとは、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。」ということです。

何かしらの道徳的な基準ということではなく、人としてのありよう、少し難しい言い方をすれば人格ということになります。どういう人であるか、ということがとても大事なのです。

ここでは四つの具体的な面があげられています。謙遜、柔和、寛容、忍耐です。聞き覚えがありますよね。コリント第一13章に出てくる「愛の定義」と重なります。また、ガラテヤ5章に出てくる「御霊の実」とも重なります。

神と人の前にへりくだっていること、穏やかで柔らかな人あたり、考えや立場の異なる人への懐の広さ、他人の間違いに対する愛故のおおらかさや未成熟な人を待ってあげる忍耐。

これら4つはバラバラな特徴ではなく、互いに結びついています。神と人の前で謙遜であることは、柔和な人との接し方とつながっています。他者に対する寛容さは、忍耐強い人との接し方とつながっています。そして謙遜さは寛容さと裏表の関係にあります。

こういう人柄を思い浮かべれば、とてもバランスのとれた、他の人と良い関係を築くことができるオトナなクリスチャンだということがわかると思います。そして、こういう人柄は、神の愛を知り、聖霊の助けをいただいて歩む中で、私たちのうちに形造られるものです。自動的にできるのでも、突然与えれるのでもなく、自分の罪深さや弱さを味わいつつ神の愛を深く知ること、聖霊に助けられながらクリスチャンとして精一杯生活し続けることで少しずつ身についていき、形造られる人格、人柄です。

そしてこういう人柄は個人的な人柄というだけでなく、教会の兄弟姉妹との交わりの絆を強め、一致を確かなものにするのです。

2.分断する力

第二に、これらの4つの人間的な特徴が強調されるのは、分断する力に人間がとらわれているからです。

今、世界中のおおくの国々で大問題となっているのが「分断」です。金持ちと貧しい人の格差、教育を受けられる人と受けられない人の格差、人種間の分断、元からすんでいる人と移民との分断、政治的な立場の極端な分断など、さまざまです。

そうした分断は、新型コロナのような世界中が協力して取り組まなければならないような課題の中でも、お互いにエゴやミエの張り合い、自分たちの利益を求める貪欲さのために、バラバラな対応になっています。環境問題や、貧困の問題、紛争の解決などでも、いつもそうなります。そして取り残されるのは、力のない人たち、弱い人たちです。

けれども、この分断は今に始まったことではなく、人類の歴史のはじめに遡ります。創世記3章に描かれている、アダムとエバの罪から11章のバベルの塔に至るまでの物語の中に、罪がいかに世界を分断したかが説明されているのです。

アダムとエバが神の言葉に背を向けたことで、神様との間にあった愛の交わりに恐れや恥が入り込み、逃げ隠れするようになりました。揺るぎない絆と思われた夫婦の間で罪のなすりあいが始まり、罪の裁きとして、エデンの園から追放され、喜びと楽しみであった労働や家庭生活に苦しみが入り込むようになりました。そしてついには肉体から命が取り去れる時が来て、体はもとあった土に帰り、たましいは神の前での裁きを待つものとなります。

その後の展開はご存じの通りです。カインとアベルの兄弟間の殺人がありました。カインの子孫たちにはびこった暴力や道徳的な堕落はついにノアの時代の大洪水による裁きをもたらしました。再び増えた人類は、またしても神に背き、バベルの塔を築こうとしますが、放って置いたら何をしでかすかわからない人類への裁きとして、また守りのために、言葉がバラバラにされ、人類は地上のあちこちへと散らされることになるのです。この創世記11章までに起こったことが、聖書の教える「死」の姿です。死は単に肉体が活動停止するだけのものでなく、あるべき一致やつながりが破壊されてしまった状態、その悩み苦しみが死です。

そしてバベルの塔の話のすぐ後で、アブラハムの選びが描かれます。そこから始まる、神の救いのご計画がスタートします。それはイエス様の十字架の死と復活によって完成します。神の救いがもたらされたという福音は教会を通して全世界に宣べ伝えられますが、その使命を委ねられた弟子たちに聖霊が下ったのがペンテコステです。その日、弟子たちは様々な国の言葉で福音を語るようになりますが、それはイエス様による救いがバベルの塔の時に分断された世界をもう一度キリストにあって一つにし、神と引き離された人々を聖霊によって新しく生まれさせ、神の民として、神の家族として建てあげていく働きが始まったという高らかな宣言だったのです。

ペンテコステは壮大な救いの物語が大きなクライマックスを迎えたというしるしでした。私たちは、今なお分断された死に支配された世界に生きて居ます。その力は大きいですが、しかし、キリストによる救いと回復が聖霊を通して着実に勝利を収める時代に生きているのです。

3.御霊による一致

第三に、聖霊によって一つにされている私たちは、この一致を熱心に守られなければならなりません。

大事なポイントは、私たちは一致を作り出すのではなく、すでに一つとされていることです。これは私たちの神様の子どもとしての始まりに関係しています。

エペソ書の前にガラテヤ書がありますが、そのガラテヤ3:26~28には、私たちが何人であろうが、どんな宗教的な背景があったとしても、イエス様を信じることで、みなキリスト・イエスにあって一つとされているとあります。

4:6には聖霊が私たちに神様を「お父様」と呼ぶ心を与えてくださったこと、4:29には「御霊によって生まれた者」という言い方があります。ヨハネの福音書でイエス様がニコデモとお話したときも、神の国に入るのは「御霊によって生まれる者だ」とおっしゃいました。そして5章では有名な御霊の実の説明の後で5:25「御霊によって生きているのなら、御霊によって進もう」と呼びかけられています。

イエス様を信じた人は、聖霊の力によって神の子どもとして生まれます。赤ん坊がパパという言葉を聞いて覚えるように、神様をお父様と呼ぶ心が与えられ、聖霊の助けをいただきながら生きて行く者なのです。そして、赤ん坊がやがて成長すると、その子は世界が自分一人ではなく、家族の中に生まれていたことに気づきます。

私たちも、神様の子どもとして生まれますが、大きな神の家族の絆の中に生まれるのです。私たちが自分で選んでつかみとるものではなく、産まれた時からすでに恵みとして与えられているものです。はじめから私たちは御霊によって一つに結ばれた者として歩み出しているのです。

しかし、この絆、御霊による一致は、熱心に守られなければなりません。家族であっても、仲違いが起こったり、遺産相続で争い合ったり、些細な事で疎遠になったりすることがあります。

先ほど学んだように、私たちの世界は、死に支配され、分断する力が常に働いているからです。これはかなり深刻です。

教会の歴史を学んでも、絶えずこの問題があったことに気づかされます。500年ほど前、キリスト教はカトリックしかありませんでしたが、ルターが登場し、権威があるのは聖書だけだし、救いは信仰によってのみ与えられる、ということを主張し、教会を改革しようとしました。当時のカトリック教会では、聖書の解釈は教皇が最終決定したのが真理とされましたから、分裂はなかった代わりに間違いを正すことに百年単位の時間がかかったのです。宗教改革は残念ながら分断という形でしか決着しませんでした。

聖書のみを権威とする、と主張したプロテスタントはその後、分裂を繰り返します。みんながみんな、「これが聖書の真理だ」と主張し始めたからです。権威を人間である教皇様に置くより、聖書のみを掲げるのは本当に大事だったのですが、逆に分断を生み出してしまうという矛盾が生じました。プロテスタント教会は今もその病を克服できていません。

教会の歩みの中にも度々同じことが起こります。熱心さ、真面目さ、確信の強さがむしろ教会を分裂させがちなのです。だから、御霊の一致は謙遜、柔和、寛容、忍耐によってこそ保たれるのです。

適用 私たちをつなぐ方

さて、ペンテコステである今日、なにを語るべきかと数週間前から祈り、考えて来ました。そうした中で、新型コロナの影響で教会に集いたくても、来られない方々が出てくるという事態になってしまいました。

幸い、多くの方が教会に集えなくてもオンラインで礼拝に参加することが可能でした。それでも実際に会うのとは違います。一緒に食事をすることもしばらくしていません。教会にとって大切な主の晩餐もお休みしています。婦人会ではお祈りするときは二人一組になってお祈りしていたのですが、耳の遠い方がいると、結構顔を近くまで寄せて祈ったりします。それは危ないだろうということで、ちょっと前から、代表で祈ってもらうことになり、くじ引きの時間はちょっとした緊張の時間になっています。

その上、ネットにつなげられない方もおられ、メールやファックスで送った週報やメッセージの原稿を使って、想像力を働かせつつ、一緒に礼拝を捧げています。

もちろん、このような状況になったおかげで、逆に一緒に礼拝を捧げられるようになった兄弟姉妹もおられるわけですから、悪いことばかりではありません。

それでも、今ほど「一つとされていること」をどうやって確信するのかを問われたことはないのではないかと思わされます。集まれている人はまだいいです。教会堂という一つの場所があるというのは分かりやすいです。でも、ここに来られない人たちはどうやったら「一つである」と思えるのだろうかと考えさせられました。

そういう中で示されたのが、今日の箇所です。私たちはすでに、もともと一つなのだということです。わかってはいましたが、それは作るものではなく、保つべきもだということに改めてはっとさせられました。

おそらくこれから自粛要請が解除され、社会活動が戻って来たり、第二波、第三波が来れば、その都度、教会としてどうするかだけでなく、それぞれが、家族が、教会に行くのどうする?という判断が迫られます。当然、自分とはちがう意見や考えが出てくるでしょう。そのような時、なにをもって私たちは一つであることを確認し、その一致を保てるか。これは他の問題でも同じことです。

聖書が私たちに教えていることは、会議や議論でまとめることではないし、牧師の判断にみんなが従うことでもない。まして昔ながらのやり方や伝統に従うことでも、国やどこかの偉い先生が言ったことで決めるのでもありません。時々私たちはそういうもので一致を無理矢理作り出そうとしてしまいます。もちろん、話し会いも、権威に従うことも大事だけれど、みことばにあるように、御霊による一致はそのようなものではありません。

私たちは聖霊によって神様の子どもとされたときから、場所が離れていようが、人種が違おうが、社会的な立場が違おうが、大人であろうと子どもであろうと、すでに一つの教会、キリストのからだという絆、一致の中に生まれているということを思い起こしましょう。

それぞれ違った状況でイエス様を信じましたが同じ主を信じています。それぞれ理解力に差があり、細かな点で意見や理解に違いがあるとしても同じ信仰にたっています。バプテスマを受けたときのやり方が違っていたかもしれませんが、同じバプテスマです。

私たちにはいろいろ違いがありますが、それをキリストにあって一つにする聖霊によって私たちは一つにされています。

ですから、この一致を揺るがそうとするあらゆるものに対して、謙遜と柔和、寛容と忍耐を持って立ち向かい、この絆を保ちましょう。それはただ、心のあり方の問題ではありません。偉そうにしないへりくだった態度、優しい態度、違いを受け入れる広い心、相手の歩むスピードに合わせる忍耐。御霊による一致を保つ力として与えられているのはそれらだけです。

祈り

「天の父なる神様。

罪によってバラバラになってしまったこの世界に、イエス様が十字架の救いを恵みとして与えてくださり、ありがとうございます。私たちを聖霊によってあなたの子としてくださり、生かしてくださりありがとうございます。

私たちが神様の子どもとして生まれた時からすでに神の家族の中に入れていてくださり、その絆の中で育んでくださりありがとうございます。

与えられたこの御霊による一致を、謙遜と柔和、寛容と忍耐をもって守って行くことができますように、どうぞ私たちを助け励ましてください。私たちのうちにおられる聖霊が、神様と罪ある私たちを、そして罪人に過ぎない私たちをお互いにつなぐ方そていてくださることを心から感謝します。

イエス様のお名前によって祈ります。」