2020-06-21 裏切りさえも

2020年 6月 21日 礼拝 聖書:マタイ26:47-56

皆さんは、これまでの歩みの中で、誰かに裏切られたという経験があるでしょうか。いきなり重い内容の質問で始まりましたが、今日のユダの裏切りという重い内容を取り扱うためには、どうしても一度思い起こして置かなければならない事です。

裏切りは私たちに深い傷を残します。なかなかそれは乗り越えることが出来ませんし、何度も痛みがよみがえって来ます。そういう事実を無視したり、なかったかのように自分にウソをついていると、今日のような箇所に含まれている、イエス様からの大切で繊細なメッセージを聞き逃してしまう可能性があります。

今日私たちは、ゲッセマネの祈りを終えて、いよいよ十字架の苦しみへとスピードを上げながら進んで行くイエス様の最初の苦しみ、ユダの裏切りの場面を味わって行きます。

私たちの記憶の中に、また今もよみがえるあの裏切られた痛みを、なぜイエス様は味わう必要があったのか、分かっていてなぜ甘んじて受け入れたのか、それらは私たちに何を語っているのか、今日ご一緒に学んで行きます。その中には、心に残った大きな傷や苦しみを癒やしていただき、回復へと向かっていく希望の手がかりが残されていることに気付くことができると思います。

1.本物の裏切り

まず第一に、ユダの裏切りは、本物の裏切りであったということです。あとですごく後悔していることが分かりますが、だからといって、これが金に目が眩んで「出来心」でやってしまったようなことではありません。ほんものの裏切り、確信犯でした。

イエス様がゲッセマネの園で祈り終え、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人に「見なさい。時が来ました。…立ちなさい、さあ、行こう。」とお話をしているところへ、ユダがやって来ました。

マタイはわざわざ「見よ、十二人の一人のユダが」と書いています。「十二人」というのはもちろん、十二弟子、あるいは十二使徒の事です。聖書では単に「十二人」と記すことが多いのですが、教会では「十二人」と言えば、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを初めとする12弟子のことを指していました。そして、ユダもまたその一人であったことを誰もが思い出すのです。

使徒の働きには、裏切ったユダが死んで欠員となったため、十二使徒のメンバーを補充する話しが出て来ます。その時の十二使徒の資格を見ると、バプテスマのヨハネが登場してから、十字架の死と復活を経て、天に上げられるまでの間、他の使徒たちとともに、イエス様と一緒に生活をしている人で、イエス様の復活の証人になれる人、ということが言われています。

つまり、ユダが十二人であったということには、バプテスマのヨハネ以来、イエス様と、他の使徒たちと寝食を共にし、労苦をともにし、その交わりの中で愛情と訓練を受けてきた人たち、イエス様から特別に選ばれ、愛され、友と呼ばれた人たちの一人だ、という強調がここにあるのです。

しかしそのユダの後ろには、大勢の武装した群衆が控えていました。恐らく、神殿の警備にあたる人たちで、正規の軍隊ではありません。祭司長たちが動かせる、プライベートな警備部隊という感じです。そしてユダは、あらかじめ合図として決めていたように、イエス様に「先生、こんばんは」と言って口づけをしました。

「こんばんは」というのは、もともとの言葉の意味としては「喜びがあるように」という挨拶です。日本語なら「ごきげんよう」に近いかも知れません。普通の挨拶の言葉です。

口づけもまた、ユダヤ人の間では普通の挨拶なのですが、先生と弟子という関係に限っては、意味が変わって来ます。先生と弟子という関係の中では、弟子から先生の手や足の甲に口づけすることは特別な尊敬の印でした。しかし弟子が勝手に先生より先に口づけすることはなく、もしそんなことをしたら、それはわざと侮辱することになったそうです。つまり「先生」と呼びながら、ユダのほうから口づけしたということは、もうイエス様を自分の先生とは認めていないし、その権威もユダは否定したということです。そしてその口づけが、武装した群衆への合図でした。何とも皮肉なことです。

そんなユダに対してイエス様は、なおも「友よ」とお応えになります。つい数時間前、最も親しい者たちとともに過ごす、過越の食事を分かち合っただけでなく、3年半、いつも一緒にいて、その愛と教えを受け、これからあなたがたを友と呼びますとまで言われたその愛情と信頼を裏切ったのだということが際立ちます。

ユダの裏切りは、彼自身の意志による、本物の裏切りでした。自分がしていることが分かっていて、イエス様を売ったのです。

2.苦難を通しての救い

しかし、第二にイエス様が私たちにもたらす救いのためには、ユダの裏切りさえも必要でした。私たちの救いのためのイエス様が味わわなければならなかった苦しみには、最も愛し信頼していた弟子であり友であった者の裏切りも含んでいたのです。

イエス様が「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」と言われると、ユダの合図を受けた群衆がイエス様を取り囲み、捕らえてしまいました。

そのとき弟子の一人が準備していた剣を抜き去り、イエス様をお助けしようと武装した群衆に立ち向かって行きました。マタイは書いていませんが、他の福音書によれば、この勇敢な弟子はペテロでした。漁師に過ぎないペテロが、それほど剣の扱いに慣れているとは思えません。それでもイエス様が祭司長たちに捕らえられ十字架に付けられるという予告を聞いて以来固めていた、「死んでもお従いします」という彼の決意を、彼なりにここで見せたわけです。

ところが扱いに慣れていないのが幸いし、大祭司のしもべを殺すまではいかず、耳を切り落とすだけで済みました。ルカの福音書によれば、すぐさまイエス様がケガをした人を癒やしてあげています。そしてイエス様は52~54節で大事なことを教えます。

まず、神の国は人間の力、とくに武力や暴力で建て上げられるものではないこと。そうした力はむしろ滅びをもたらします。

次に、イエス様はやろうと思えば、天の軍勢を呼び出し、今すぐにでも武装した群衆を蹴散らすことができます。

しかし、それをやってしまっては「こうならなければならないと書いてある聖書が」実現しないのです。

つまり、イエス様は無力なわけではなく、キリスト、神としての権威がないわけではなく、力も権威もあるけれど、私たちの救いのため神の御国の建設のために、力を使うのではなく、裏切られ、相手の力の前に屈することを自らお選びになったということです。

ペテロはイエス様が捕らえられ、理不尽で違法な裁判に掛けられたり十字架で処刑されるようなことはあってはならない、という彼なりの正義感や、救い主に対する期待から剣を取ったのでしょう。その気持ちにウソはなかったでしょう。しかし、イエス様のみこころを完全に読み違えていました。救いは苦難を通して与えられるのです。イエス様はそれを聖書から、父なる神のみこころとして確信し、ゲッセマネの祈りの中で受け入れ、乗り越えていました。

55~56節では、武装した群衆に向かっても語りかけます。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮で座って教えていたのに、あなたがたはわたしを捕らえませんでした。しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」

イエス様は毎日、彼らのなわばりである神殿にいました。暴動や反乱を呼びかけるのではなく、ボディーガードを置くでもなく、教師として座って教えていただけです。捕らえようと思ったらいつだって出来たはずです。何の武装も抵抗もしないイエス様を捕らえるためにここまで武装するなんて滑稽です。しかし、これもまた聖書の言葉が実現するためでした。

イエス様による救いは、イエス様ご自身の苦難を通してでなければならないのです。

3.理解できない弟子たち

けれども、弟子たちにはどうしても苦難を通しての救いということが理解できませんでした。

ペテロたちは「たとえ死ぬ事になるとしても」と言っていましたが、それはイエス様とともに仲間の裏切りや祭司長たちの暴力を一緒に無抵抗で受け入れるという事ではなかったのです。

ですからイエス様が天の軍勢は呼ばない、ということを明らかにし、祭司長たちが差し向けた群衆に捕らわれた時、イエス様を見捨てて逃げてしまったのです。

イエス様が「あなたがは皆わたしにつまずく」と言われた通りに、彼らは群衆や祭司長たちを恐れる以上に、イエス様ご自身に躓いて逃げたのです。そしてこれもまた聖書の預言の通りでした。

ゼカリヤ13:7にこうあります。「剣よ、目覚めよ。わたしの羊飼いに向かい、わたしの仲間に向かえ──万軍の主のことば──。羊飼いを打て。すると、羊の群れは散らされて行き、わたしは、この手を小さい者たちに向ける。」

私たちは、聖書を通してイエス様が十字架で死なれた後でよみがえり、勝利された姿を知っていますが、弟子たちはそうなることを言われてはいても分かっていませんでした。

これまで彼らは自分たちの方に正義があると信じていました。イエス様が神でありキリストである。いずれイエス様が威張り散らし傲慢になっている祭司長やパリサイ人たちを追い払い、キリストによる新しい神の国を打ち立て、自分たちもその中心にいるのだと信じていました。それならば、どんな苦労もイエス様と共に担おうという決意だったのです。

しかし、イエス様は目の前で見ている事は、想像もしなかった光景です。祭司長たちや長老達は、ついにイエス様を捕らえ、殺してしまおうという計画を実行に移したのです。

彼らの目にはイエス様が祭司長たちの戦いに敗れてしまったように見えたとしても不思議ではありません。

「苦難のしもべ」と呼ばれている有名なイザヤ53章の預言の中にもこうあります。「彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。」

もしその場に、私たちの中の誰かがいたとしても、弟子たちと違う行動、違う判断、正しい理解が出来た人はきっと一人もいなかったしょう。

今、新型コロナの混乱の中で、政治的なリーダーたちに求めるのも、明快で力強いリーダーのようです。役人が作った言葉を読んで、具体的なことはさっぱり進まない政治家より、次々と政策を打ち出し、自分の言葉で説明し、質問にも正面からはっきり応えるリーダーに人気が集まるのも当然です。やっぱり苦境を乗り越えるためには力強いリーダーのほうが頼りがいあがります。

イエス様も、そういうリーダーに見えていました。律法学者達の容赦の無い質問攻勢にも動じることなく、病を癒やし死人さえもよみがえらせる奇跡の力はまさに神の御子、約束の救世主でした。それが仲間で友人だった弟子に裏切られ、無抵抗で捕らわれるなんて、そんなの信じがたい話しです。彼らには苦難の意味が意味が分からなかったのです。

適用 苦しみを通って

私たちはこうして、すでに起こった出来事を振り返って見ていますから、弟子たちが理解できなかったとしても、イエス様の苦難が、ユダの裏切りさえもが、私たちの救いのために味わわなければならない苦しみであったことを理解することができます。

文字通り、イエス様がお受けになった裏切り、悲しみ、苦しみによって私たちは救われたのです。

しかし、一度私たちの今のこの人生において、救いと苦難がどう関係しているかということになると、実は弟子たちと同じように、私たちの理解は不完全で、不十分であるように思います。

イエス様は弟子としての歩みには、喜びや祝福だけでなく、苦難も伴うと言われたました。ところが現代のクリスチャンは、普通の一信徒として歩むことと、弟子として歩むことは別なこと、もう一段高い信仰と献身をした人のことだと勘違いしていることが多いのです。イエス様は、一般信徒と献身した弟子なんて区別はなさいません。イエス様を信じるすべてのクリスチャンは、イエス様の弟子でもあるのです。ですから、信仰の歩みには苦難が伴います。それは聖書の中で繰り返し語られていることです。

また、私たちは人生の様々な苦しみや悩みから救われたくてイエス様を信じたのですが、聖書の教えに従うなら、これらの苦しみを通してこそ救いが完成に向かって行くという面があります。

確かに、人生の中で苦しい時、悲しい時に神様に祈り、助けや慰めをいただきます。しかしそれは救いの全てではありません。時には逃げ道なく、苦難や悲しみを味わいつくさねばならないことがあります。イエス様が苦い杯である十字架を避けることなく、すべて飲み干さねばならなかったように、私たちも苦難を味わいつくさねばならないことがあります。

しかし十字架の先に救いがあったように、私たちの受ける苦難の先に、深い慰めがあったり、心にあった高慢さが取り扱われ遜らされたり、認めようとしてこなかった弱さや罪深さが明らかにされ認めさせられたりします。苦難を通してでしか得られない成長や理解の深み、ねららた人格というものがあるのです。

ローマ5:2~5を開いて見ましょう「このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵み導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを大いに喜んでいます。それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

私たちが味わう苦難、試練、あるは人に裏切られるような深い痛み。これらはできれば味わいたくないものです。その最中にあると望みも見えず、ただただ辛く、早く解放されたいとどこかに解決の道、逃げ道がないかと必死になります。ですが、それらは私たちの人生に救いがないということではありません。私たちの救いの完成、練られた品性と希望へと導くために神様の御手の中で許されていることです。スズメの一羽でさえ神の許しなしに地に落ちることはないと言われたように、私たちが直面するあらゆる苦難、裏切りさえもが、神の御手の中にあるのです。

受け入れがたい時もありますが、苦しむこともまたクリスチャン生活の、欠かせない一部なのだということを、祈りとともに受け止めたいと思います。

そこに私たちは慰めと希望を持つことができます。そして、神様は単にその苦難から救い出してくださるだけでなく、その苦難によって私たちの救いをさらに完成へと近づけてくださるのです。

祈り

「天の父なる神様。

今朝、私たちはイエス様がすべてを分かった上で、ご自身の力も権威も捨てて、そうした裏切りの痛みも悲しみも、捕らわれの身となり十字架に向かって行く苦難をもすべてお引き受けくださったのが、私たちの救いのためであったことを覚えます。

その御苦しみのゆえに私たちは罪赦され、救いを頂きました。私たちもまた、解放されたい苦しみがあり、癒されたい痛みがあったのです。

しかし、私たちの人生には、なおも苦難が押し寄せ、悲しみが降り注ぎ、時には裏切りの痛みさえもがやってきます。

けれども主は、その苦難を、ただ我慢しなければならない事としてではなく、私たちを取扱い、いよいよあなたに似た者として整え、きよめ、成長させるためのものとしてくださいます。

すべてを益としてくださるということを、どうか私たちの痛みや苦しみ、悲しみのただ中で思い起こさせ、慰めと希望に変えてくださいますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」