2020-07-05 イエスにある神の愛

2020年 7月 5日 礼拝 聖書:ローマ8:31-39

 今年はコロナの影響で高校野球の甲子園大会がなくなりましたが、県内では地方大会が始まったそうです。他の部活も、それぞれの競技ごとに大会や記録会などが行われるようで、スポーツに限らず、何かに打ち込んできた子どもたちにとっては大きな励みになるのではないかと、ちょっと嬉しく思っています。

さて、私も経験があり、言われたことがありますが、いざ試合に臨むとき、勝負が始まる前から「気持ちで負けている」ことがあります。気持ちで負けると、のびのび出来ず、実力を発揮できず、勝てる試合も勝てないということになります。もっとも、私の中学、高校時代は、相手に勝てるほどの実力もそんなになかったとは思います。

ところで、気持ちで負けるというのは、私たちの信仰による歩みにも当てはまります。聖書によれば、信仰は勝利や平安をもたらすはずですが、現実の生活ではそういう希望を打ち砕くようなことがしばしば起こり、私たちは動揺し、自信を失います。

今月のみことばはローマ8:38~39です。少し長い聖句になりますが、私たちが魂の深いところで自信を持ってクリスチャンとして歩んでいくために、大きな励ましとなるみことばです。今月はこのみことばを味わいながら歩んで行きましょう。

1.引き離そうとするもの

第一に、この世界には、私たちの気持ちをへし折り、神様から引き離そうとするものにあふれています。

31節に「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」という問いかけがあります。これは質問ではなく「もちろんそんな者は誰もいない」という意味です。

けれど、ここで分かることは、私たちに敵対するものがあるということです。それは33節にあるように「神に選ばれた者たちを訴える」ものであり、34節にあるように「私たちを罪ありとする」もの。そして35節にあるとおり「私たちをキリストの愛から引き離す」ものです。

いったい何がそんなふうに、罪赦され神の子どもとされた私たちをまた罪ある者と責め、キリストの愛から引き離そうとするのでしょうか。

35節には「苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」と人生に、特にクリスチャンだるがゆえに降りかかってくるような様々な苦しみが並べられています。

普通に歩んでいれば降りかかる病気やケガ、災難など様々な苦難があります。クリスチャンとして自分のうちにある罪深さや意地の悪さといった暗い面に思い悩むことがあります。迫害の時代であれば厳しい迫害があり、そうでなくても偏見や意地悪さに直面します。経済的な厳しさにぶちあたることもあります。災害や戦争といった危険に囲まれることもあります。

そういうものがなんで私たちを「罪ありとする」のでしょうか、なぜ「キリストの愛から引き離す」のでしょうか。

苦しみ自体に私たちの気持ちが弱り、心が挫けてしまうということもあります。それは普通のことです。けれど、ここで考えなければならないことは、私たちの肉体や心理に及ぼす影響以上に、私たちの魂に及ぼす影響です。苦難の中で、悩みの中で、私たちが無力感や自己嫌悪を覚え始めると、神様に愛さされていること、イエス様に愛されているという確信が揺らぎ、6月の「今月のみことば」イザヤ43:4にあったような、神様の目には高価で尊いというような励ましの言葉が聞こえなくなりがちなのです。

皆さん、こんな場面をニュースで見たことがあるかもしれません。疑わしい被告人が思いがけない無罪判決を勝ち取った後で、裁判所の門の外で待ち構えている報道陣や野次馬が無罪宣告に異を唱え抗議の声を挙げ、まぶしいフラッシュやライトをたき、カメラとマイクを向け、意地悪い質問を投げかけます。

同じように、神様はイエス様の十字架ととりなしによって私たちを無罪とし、もうあなたの罪を責めないと最終的な判決を下したのに、神様の恵みの御座の前から一歩外に出たら、次々と起こる苦難や危険が、本当にお前は神に愛されているのか、お前のようなものが赦されて良いのかと責め立てます。その上、私たちは自分自身のうちにある罪深さに気付いて苦悩しているわけで、身に覚えがありますから、「お前なんか神に愛されているわけがない」「そんなことでお前の救いなんて保証はされていない。もっと頑張らないと、もっと正しく生きないと、もっと聖書を学ばないと、もっと、もっと」と私たちの魂を揺さぶるのです。

2.キリストのとりなし

しかし、第二に、私たちのためには絶えずキリストがとりなしをしてくださっていることを絶対に忘れてはいけません。

32節に「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」

たとえどんな苦難や悲劇、そして自分自身の内面にある悩みや葛藤が私たちの信仰や確信をゆさぶろうと、神様はその愛を捨てません。むしろもっと恵みを注いでくださいます。その約束に確かな保証を与えてくれるのが、独り子イエス様の十字架ととりなしです。

独り子イエス様を惜しまずに与え、十字架によってすべての罪を肩代わりさせてくださった神様が、さらに大きな恵みを与えないわけがありません。

我が家には可愛いワンコがいます。まあまあなお金を払って我が家に迎えました。可愛い目で見つめられ、一目惚れをして、すぐさまお金という犠牲を払ってでも一緒に暮らしたいと思ったわけです。お金を払ったから、それで満足というわけがありません。

世の中には、せっかく買い始めたペットを飽きたからといって簡単に捨ててしまう人がいるそうですが、信じられません。そういう人にとっては可愛いペットを買ったということが大事で、一緒に暮らす大変さばかりに幻滅して、期待外れだと思うのかもしれません。しかし、神様はそんな身勝手な飼い主ようではありません。

神様は、独り子イエス様のいのちの代価で私たちを永遠の罪の裁きから買い戻しました。独り子のいのちという大きな犠牲を払ったからあとはもう何も与えるものはない、なんてことはないのです。救い出すことが目的ではなく、救った者とともに生き、愛を注ぎ、傷を癒し、回復させ、喜びを共にするためです。

だから、苦難や悲劇、自己嫌悪、いのちの危険など、私たちを訴えるもの、罪に定めようとするもの、お前なんか価値が無いと責めるあらゆるものがあっても、34節にあるように、私たちのために死んでくださった方、よみがえってくださった方「キリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです」。

さきほどの裁判所前の野次馬や意地悪な報道陣の譬えをまた使ってみましょう。ぶつけられる批判や非難に私たちがどうしていいかわらかず、顔面蒼白になって、赦される価値なんてないんじゃないかと立ち尽くしているところに、さっきまで法廷で弁護してくれていた弁護士が再び私たちの前に立って、すべての批判を引き受け無罪を改めて宣言し、その根拠をならべて説明してくれるかのようです。この人のために、わたし自身が十字架で罪を背負い、死んでよみがえったことで、この人の罪は帳消しになり、わたしのいのちを与えたから、これからも生きた者として歩む事ができる。誰もこの人を責めたり、揺るがしてはいけないと、イエス様が守り支えてくださるのです。

「とりなしていてくださる」は、訳されている通り、今もそのとりなしを続けているという意味で書かれています。十字架により代価、犠牲は過去の一度きりのことですが、イエス様のとりなしの働き、私たちを守り、弁護し、何が私たちを責めようとも代わりに前に立ってくださることは今もこれからも続くのです。

3.圧倒的な勝利者

ですから、第三に「私たちは圧倒的な勝利者」となるのです。

36節と37節をもう一度見て見ましょう。「こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」

圧倒的な勝利者、というのは、ある翻訳では「名誉ある勝利」という言葉が当てられています。

それは、私たちが日々経験していることとはだいぶイメージが違うかも知れません。私たちの多くは、打たれ続け、傷つき、フラフラしながらなんとかまだ立っていられる、というようなことこそあっても、連戦連勝の信仰生活ではないように思います。

私たちはそうなのです。肉体的にも、精神的にも、霊的にも限界があり、弱さがあります。イエス様がゲッセマネで眠気に勝てない弟子たちに「心は燃えていても、肉体は弱いのだ」と言われた通りです。しかし、私たちをとりなしてくださる主イエス様は力強い取りなし手です。私たちをとりまく状況、そして私たち自身の弱さは、あまりにも不利で、私は愛されたり、価値があると言えるような者ではないと打ちのめされるのです。しかし私たちをとりなし続けてくださるイエス様には、十字架の死と復活という、圧倒的な事実があります。イエス様の十字架と復活は無罪の判決文や、借金が帳消しになったという証明書のように、私たちの気持ちの弱さや状況の悪さによって変わったりしない、絶対的な支えになります。

たとえ何であれ、私たちを罪ありだ、神に愛されていない、無価値だ、お前はだめだと責めるもの、訴える者、引き離そうとする者があっても、このキリストとともにいる限り、私たちは踏みとどまり、勝利者となることができるのです。自分でやれると思ってイエス様から離れたら、とたんにコテンパンにやられてしまいます。自分を過信してはいけないし、この世界を甘く見てもいけません。

私は、中学1年生の夏にバプテスマを受けました。子どもの頃から教会に来ていたので、それはある意味自然な流れでした。しかし、暫くして、やはり自分の中にある自信のなさ、罪意識、周囲の期待に応えることへの疲れなど、様々なことで本当に自分は救われているんだろうか、救いって何だろうかと分からなくなってしまいました。他のクリスチャンが経験したような劇的な回心の体験もないし、自分を見つめれば、クリスチャンとして成長したようにも、ぜんぜん良くなっているようにも見えません。本当に不安でした。

けれども、神様は沢山の人と出会わせてくださり、たくさんの聖書の言葉と向き合う機会を与えてくださり、自分の気持ちや狭いものの見方ではなく、聖書が教えていることに立って、神様がどう見ていてくださるかによって、物事や自分自身を評価することを教え、励ましてくださいました。

未だに自分を見ればダメなところが一杯ですが、それでも「私たちは圧倒的な勝利者です」というみことばに、小さな声で「そうです」と控え目に言うくらいはできるようになりました。圧倒的な勝利者は、余裕しゃくしゃくで無傷で勝利するというより、傷つき、倒れたりするけれど、励まされ、立ちあがって勝利を与えられた姿。しかしその傷跡や苦しんだ痕こそが神が与えてくださったものの素晴らしさを明かしする名誉あるしるしなのです。

適用 私たちは確信する

今日の箇所の最後の部分をもう一度見て終わりにしましょう。今日の箇所のまとめであり、6章あたりから続いている、救われたのに罪があるクリスチャンの現実について取り扱っている箇所の結論にもなっています。今月のみことばになっている聖句です。

「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

今日、私たちが覚えたいこと、今月、私たちの信仰の、人生に自信が持てるようにするために、私たちの確信として心に留め、蓄えたいことがここにあります。

ここに書かれているリストはすべてが私たちの敵というわけでないかもしれませんが、細かく学べば、いろいろと深い話しに入っていくことになります。それも悪くはありませんが、今日はむしろ、聖書が云わんとする中心的なことを捕らえるだけにしたいと思います。これらはどれも、ちっぽけな私たちを遙かに超えた大きな存在です。大きな力であり、私たちの知識や力がまったく及ばないものです。しかし、「そのほかどんな被造物も」とあるように、どんなに大きく、圧倒的で揺るがないように思えたりするものでも、それは被造物、神様が造られたものなのです。

私たちにとっては、思いがけない事が起こって人生を大きく変えたり、大切な人を失ったり、大切な関係が変わってしまったりします。思いがけない病気、想定外の災害、世界のどこかで始まった金融危機がめぐりめぐって今月の給料を脅かしたり。思ってもみなかった苦難に直面し、私たちは悩み、迷います。

しかし、この世界にあるすべてのものは、目に見えるものも見えないものも、神様の御手のうちにありますから、想定外の事態というのはないのです。神様もびっくりして思わず私たちの手を離してしまうなんてことは決してないのです。

死もいのちも、時の流れも、世界を支配する権威も権力も、宇宙のような広さ高さも、海のような深さも、何もイエス様が十字架でいのちを献げてくださったことに裏付けられた神の愛から私たち、神の子とされた者を引き離すことはできないのです。それが、私たちの確信です。

この確信に立っているなら、私たちが人生の様々な苦難の時に、最初から気持ちで負けてしまうなてことはありません。相変わらず、私たちの日々の生活、長い人生の道のりの中には、山あり谷ありで、苦難があり、悩みがあり、経済的な困難や病やいのちの危険に晒されることあるでしょう。これからの時代何が起こるか分かりませんから、戦争や迫害といったこともないとは言えません。そんなに大ごとにならなくても、私たちの生活や人間関係には十分苦労や悩みの種があります。

その中で私たちは、相変わらずもがき、苦しみ、悲しみ、怒り、不安に襲われ、心が揺れてしまうでしょう。しかし、私たちはこの約束のみことばを思い起こすことができます。いや、聖霊が思い出させてくださいます。大丈夫、私たちは愛なる神の御手のうちに守られています。

祈り

「天の父なる神様。

独り子イエス様のいのちの代価によって私たちを救ってくださってありがとうございます。

私たちを愛しておられ、私たちから確信や、自信を失わせるようなことがあっても、今もこれからもイエス様が私たちのためにとりなし続けてくださっていることを感謝します。

自分を見ればダメなところ、弱い所がたくさんありますし、私たちの人生には予期しないことが多く、悩みも苦労もつきませんが、どうか、あなたの変わらない愛を確信させてください。自信を失うことなく、確信を持って歩むことができますようにお助けください。

イエス様にある父なる神様の愛から引き離すことのできるものは、この世界には何一つないことを、私たちの揺るがない確信とさせてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」