2020-07-19 黙々とただひたすらに

2020年 7月 19日 礼拝 聖書:マタイ27:1-14

 私たちにとって、どんな時でも神がともにおられるという信仰は、心と人生の大きな支えです。しかしそういう私たちにも、足元が揺らぎ、信仰がぐらつくような事があります。

マタイの福音書が書かれた時代は、そのような危機的な状況でした。教会には多くのユダヤ人がいましたが、彼らにとって、衝撃的な出来事が起こりました。ローマ軍によってエルサレムが壊滅させられ、神殿が完全に破壊されてしまったのです。ユダヤ人にとっては精神的な支柱が失われたとも言えます。旧約聖書で預言されてきた、約束の民の回復がどうなってしまうか心配な状況です。そういう人たちに向けて書かれたのがマタイの福音書でした。

マタイの福音書のはじめには、イエス様の系図と誕生の物語が記されています。その中に、マタイの福音書を理解する二つのキーワードがあります。「主が預言者を通して語られた通りに」という言葉と「インマヌエル」つまり、神は私たちと共にある、です。このインマヌエルなる方は、福音書の最後にも出てきます。

信仰の足元がぐらつくような状況で、神がともにおられ、主の約束は果たされるのだという確信を持つよう励ましてすために福音書が書かれました。そんな視点でイエス様の十字架に向かう場面を読み直すと、ひと味違った味わいが得られると思います。

1.総督の前に

まずイエス様は祭司長たちによってユダヤの総督ピラトに引き渡されました。イエス様は総督の前で、ローマの法律に従って裁判を受けることになったのです。

2000年前のユダヤはローマ帝国の属国になっていて、ユダヤにはかなりの自治権が与えられていましたが、ローマから直接派遣された総督が肝心なところは抑えていました。それでローマ総督の許可がなければ出来ないこともいくつかあったのですが、その一つが死刑の執行でした。

夜中おこなわれた大祭司の家での「裁判」はいわば宗教裁判で、ユダヤ教の律法や戒律に従って裁判をし、有罪かどうかを決めるというものでした。もちろん、前回まで見て来たとおり、それはまったくの茶番で、彼らは端からイエス様を処刑することを目的に、イエス様を捕らえ、裁判という体裁を整えようとしただけでした。

そのため数々の偽証人が立てられましたが、なかなか筋の通った話しになりませんでした。最終的にはイエス様に対する直接の質問で「あなたは神の子キリストなのか」と問いただし、それに対するイエス様の答えを、神を冒涜するものだと決めつけ、死刑にすることを決めてしまったのです。

1節にあるように、祭司長たち、長老たちは協議しました。何を協議したのかというと、いくらユダヤ教では神を冒涜したことは死刑に値すると主張しても、ローマの法律では相手にされません。それで、イエス様を処刑するためには、ローマの法律に則った、それなりの犯罪に仕立て上げる必要があったのです。その内容は後ほど説明しますが、話しがついたので彼らはイエス様を縛り上げ、朝早くに総督ピラトに引き渡されたのです。

この状況はイエス様がかつで弟子たちに教えた状況を思い起こさせます。先週も開きましたが、また10章を開いて見ましょう。

10:16~18節「いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを地方法院に引き渡し、会堂でむち打ちます。また、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。」

イエス様が弟子たちに告げた状況に、今まさに、イエス様自身が立たされています。そして、この福音書を読んだ多くの人々が似たような状況に立たされてきました。それは必ずしもローマ時代の迫害、隠れキリシタンや戦時中の教会が経験したような過酷なものではなかったかもしれません。

ある人は家の宗教は違うのになぜお前だけ別な宗教になろうとするのかと親や親戚に厳しく問われたかも知れません。ある人は、友人や近所の人に、「あなた教会に行ってるの?」「何か宗教やってるんだって?」と不信感と嫌みたっぷりに言われたかも知れません。ある人は、単に面白がってからかう人の標的になったかも知れません。

私たちはそういう状況で思い出すべきです。インマヌエルなる方、「私はいつまでもあなたがたとともにいる」と言われたイエス様も、同じような状況に置かれたのです。そして、イエス様は同じような状況に置かれている私たちと、今共にいてくださいます。

2.ユダの後悔

イエス様が総督ピラトに引き渡されたころ、イエス様を裏切り金で売り渡したイスカリオテのユダは後悔にさいなまれていました。

1節2節のイエス様を死刑にするための祭司長たちの協議を挟んで、前の箇所にはペテロの後悔、そしてあと箇所にはユダの後悔が描かれています。二人の後悔の姿は対称的です。

ペテロは自分の決意や信仰に拘わらずイエス様を知らないと言ってしまったことを、思い出したイエス様の言葉とともに激しく泣き崩れ、物語の舞台から消えてしまったかのように見えます。

一方ユダは金目当てにイエス様を祭司長たちに引き渡したのですが、イエス様が「死刑に定められたのを知って後悔」したというのです。頭のよさそうなユダがそういうことになると想像できなかったのが不思議な感じもしますが、冷静に結果を予測するより、欲に目が眩み自分がしていることの意味を理解していなかったのです。それでユダは自分がしでかしたことの結果を覆そうとしました。それはまるで粉々に割ってしまった高価な壺をもとにもどそうと必死にカケラをつなぎ合わせようとしているようでもあります。

ユダは祭司長たちのところへ戻り、受け取った銀貨30枚を返して、4節にあるとおり「私は無実の人の血を打って罪を犯しました」と、自分の間違いを認め、告白しています。ところが、人の罪の告白を聞きその赦しのためにとりなすはずの祭司たちは冷淡でした。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」

ユダは自分の過ちに気付き、悔い改め、罪の重荷を下ろしたかったのです。ところが、罪のとりなしをし、赦しを宣言してくれるはずの祭司に「知ったことか」と言われ、どこにも荷を降ろすことが出来なくなってしまったのです。それで、裏切りで汚れた銀貨を神殿に投げ捨て自ら命を絶ってしまったのです。裏切りの上に、自殺によってさらに汚れたたものとなってしまった銀貨の取扱に困った祭司たちは、とある土地を買い取り、エルサレムで死んだ異国人のための墓地にしました。罪のないイエス様を死に追いやった罪の責任と、後悔したユダの重荷を取り去ることをしなかった血の責任は祭司たちの負うべきものになりました。それを外国人のための墓地を作ることで誤魔化そうとしたのですが、むしろ「血の墓地」と呼ばれることになって、彼らの罪はずっと目に見える形で残ることになりました。それは預言者エレミヤの告げた言葉の通りでした。

ユダの最後は悲惨でした。一方のペテロのことは触れられていませんが、同じように後悔し、下ろすことの出来ない重荷を負ってしまったペテロですが、もちろん私たちは彼そのままでは終わらず、イエス様によって赦され、慰められ、回復し、やがて教会のリーダーとして用いられる者になったことを知っています。ペテロは誰も知らない自分の過ちとその嘆きを、人々の教訓とするために語り、福音書に記され人々に知られることも受け入れることができるまで、回復し、へりくだることができました。

二人の最後を変えたのは、その罪の重荷と悲しみをどのように解決しようとしたかによります。ユダは自分でなんとかしようと祭司長にかけあい、自分でなんとかしろと言われ自らの命を絶つことで重荷から逃れようとしました。ペテロはどうして良いか分からずただ嘆き、神様のあわれみを待ちました。先週みたコリント書にあったように、神のみこころに沿った悲しみが救いに至るのです。

3.ただ黙々と

自らの務めを放棄し、ただただイエス様憎しで何とか死刑にしようと奔走する祭司長や指導者たち、自信たっぷりで強い決意を持っていたにも拘わらずイエス様を否定してしまったペテロ、金に目が眩みイエス様を裏切った罪の重荷に耐えきれず自ら命を絶ったユダ。そうした人間の様々な闇が顕わになったこの場面の中、ただ黙々と、ひたすらになすべき事を果たそうとイエス様は歩み続けました。

歩み続けたといっても、イエス様はもう自分で何かしようということはありませんでした。罪に定めようと悪意ある訴えをする人々のなすがままに身を委ねていました。それが、人の罪を背負うということの意味であったからです。

ローマ総督ピラトの前に引き立てられたイエス様は、ついに総督と対面しました。この人こそが、ご自分に死刑を宣告することも、無罪放免を言い渡すこともできる人です。

いろいろ難癖を付け、ありもしない罪状をならべても、この総督に何が真実かを訴えたら、形勢逆転し、罪なしとなることも十分可能でした。実際、イエス様は訴えられているようなことで死刑に値するようなことはないわけですから、証明しようとしたらわりと簡単だったかもしれません。

ピラトは祭司長たちが「この男は死刑に値する罪を犯した」という訴えを聞き、取り調べを始めました。それが11節の質問です。

「あなたはユダヤ人の王なのか」

この質問のどこが犯罪なのかというと、当時、ユダヤはローマ帝国の属国で、ローマ皇帝の許可なしに新しい王が立てられるなんてことはあり得ませんでした。ユダヤでは先代のヘロデ大王の時からローマ皇帝と太いパイプが作られていて、4人の息子たちに分割された後もその関係は続いていました。

しかし、ガリヤラの田舎者が「私は王だ」と言ったところで、それが死刑に値する犯罪になるかというと、普通だったら「そんな馬鹿なことは言わないでおとなしくしてなさい」と軽くいなされておしまいです。

しかし、祭司長たちは、ナザレのイエスが皇帝に刃向かって王になり、ローマから独立しようと民を先導しているということをやっきになって証明しようとしました。聖書で約束された神の子キリストだと主張したなんてことは、ローマの法律ではさばけませんから、戦術を変えたわけです。

確かにイエス様には多くの人々が着いて歩くようになっていたし、エルサレムには人々の歓声に迎えられましたし、その弟子の一人は祭司長のしもべに剣で打ちかかったりもしました。そんな証言をいくつもならべ、死刑に値する反逆者だと責めたのです。

しかしイエス様は12節にあるとおり何もお答えになりません。ピラトは驚きました。普通なら、よほど肝の据わった反逆者であっても、自分に対する不利な証言には反論もするし、意気地のない犯罪者なら死刑になるかもとなったら、「あれはウソでした」「ほんの出来心です」と、なんとか有罪判決を回避しようとがんばるところです。しかし、イエス様は人々の悪意に任せ、自分を罪に定め、死刑に定めようとする人々をなすがままにしておられました。そこにご自分のなすべきことがあるからです。

適用 歩むべき道を

イエス様の十字架の場面が続いていますが、今日はここまでです。

イエス様の周りには多くの人たちがいましたが、そこには誰一人として正しい人間はいませんでした。

日頃から自分たちこそ神に愛された者、聖い者、神に認められるはずの者であると自慢げにしていた祭司長たちや指導者たちは、罪の重荷に苦しむユダを見捨て、自分たちの立場を守るためにイエス様を徹底して拒絶し、端から見れば異常とも思えるような執念で死に追いやろうとしていました。しかも、それを正しい事だと自分に言い聞かせながらやっているのです。

3年半イエス様とともに歩んできた弟子たちはみな逃げだし、ペテロに至っては、人々の前でイエス様なんかしらないと言ってしまい、なんてことをしてしまったんだと後悔し泣き崩れていました。

同じく弟子の一人として歩んで来たユダは、金に目が眩んで奴隷一人分のわずか銀貨30枚ぽっちでイエス様を裏切りましたが、自分のしたことの大きさに気付き、やはり後悔し、自分でなんとかしようとしましたが、その罪の重荷を下ろすことができず、自ら命を絶ってしまいました。

人の頑なさ、恐れと弱さ、誘惑に対する無力さ、そして自分でなんとかしようとして何ともしようのない絶望。それは人間がもつ罪の表れの縮図のようでした。だから私たちは、祭司長やペテロやユダの中に自分の姿を見出します。掃除をしたはずなのに、どこからともなくホコリが出てくるみたいに、クリスチャンとして歩み初めてもなお、そうした罪のかけらが私たちの中にしつこく残っていて、私たちの心と生活を混乱させ、苦しめます。それが私たちの信仰を足元からぐらつかせ、無力さを感じさせ、絶望の一歩手前まで追いやることすらあります。

しかしイエス様だけは、そういう罪を背負うため、ただ黙々とひたすらに十字架の道のりを歩んでいました。

イエス様はピラトの前で尋問されている間、自分を訴えた祭司長や民の指導者たちのことをどう思っていたでしょうか。濡れ衣を着せられて恨んだでしょうか。あれほど「大丈夫」と啖呵を切っていたのに、いとも簡単にイエス様を知らないと言ったペテロについてどう感じていたでしょうか。情けない奴と失望していたでしょうか。金のために裏切り、ご自分の身柄を祭司長たちに引き渡したユダをどう思っていたでしょうか。あいつさえいなければと憎んだでしょうか。私ならそうかもしれません。しかし、イエス様はそうではありませんでした。

イエス様はそのような罪人のため、恐れや弱さ、愚かさを持つ私たち人間のために十字架を背負われたのです。それは、あんなに酷いことをしている人たちであっても、イエス様にとっては愛すべき存在だからです。イエス様のお気持ちなんてこれっぽっちも考えない彼らを愛し、彼らの罪をも背負っておられました。

そのことを分かったから、ペテロはあとになって立ち直ることができました。

私たちも信仰が揺らぎ、足元がふらつき、恐れや不安に心が支配され、自分の愚かさに失望することがあるでしょう。それでもイエス様はそういう私たちのためにそばにいてくださいます。変わらず愛して、大切に思っていてくださいます。立ち直るのに時間がかかったり、絶望に飲み込まれそうになる危うさも知っておられます。それでも私たちのために執り成し続け、励まし、いやしてくださいます。そこに私たちの立つべきところ、帰るべき場所があります。このイエス様に信頼し、歩まれた道のりを私たちもゆっくりでも辿っていきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

イエス様の十字架への道のりの中で、どれほど人間の罪深さ、弱さ、愚かさが顕わになったことでしょうか。しかも、それらが私たち自身のうちにあるものであることを思い知らされます。クリスチャンになってもなお、そのような弱さが私たちのうちにあり、時々、私たちの信仰がゆらぎ、歩みがおかしくなってしまいます。

それでも、だまって私たちのために十字架への道のりを歩まれたイエス様が、今も私たちとともにいてくださることを感謝します。

どうか、これからも共におられるイエス様に信頼し、その歩まれた道のりをたどらせてください。

主イエス様のお名前によって祈ります」