2020-09-27 主イエスとともに

2020年 9月 27日 礼拝 聖書:マタイ28:16-20

さきほど歌った「イエスはわたしの友」という讃美歌の歌詞は「いつくしみ深き」という古い讃美歌の原曲の歌詞を訳しなおして、新しいメロディをつけたものになっています。私たちにとって、心許せる友人や、自分を任せられる家族は大切ですが、ときとしてそういう家族や友人でさえも、自分の胸の内を明かせなかったり、理解されなかったり、また対立してしまうことがあります。

けれども、イエス様はどんな場合でも私たちの友であり続けるというのがイエス様ご自身の約束です。そんなことを歌にしたのが「いつくしみ深き」であり、先ほどの賛美歌です。

マタイの福音書も今日でひとまずお終いとなります。イエス様が誕生するとき、この方は「インマヌエル」と呼ばれると言われました。「神は私たちとともにある」という意味です。人となって来られた神であるイエス様が、私たちのために十字架で死なれ、葬られ、三日目によみがえった後、弟子たちに使命を託すわけですが、その最後に語られた約束、そして祝福が「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」でした。

私たちとともにいてくださるイエス様。神様は遠く離れた方、私たちの人生と無関係な方ではありません。神様は、私たちをイエス様と共に歩む人生へと招いてくださいました。

1.ガリラヤでの再会

第一に、弟子たちはガリラヤに行く事で、イエス様と共に歩む歩みを再び始めることができました。

16節にはこうあります。「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。」もちろん、12弟子のうちイスカリオテのユダはすでにいませんでしたから11人です。しかし、イエス様の弟子たちはほかにもいました。彼らは、すべての弟子たちを代表しています。

これは先週見た、イエス様の復活の日に御使いとイエス様ご自身が弟子たちに伝えた「ガリラヤで会おう」という言葉にもとづくものです。彼らはイエス様の言葉に従ってガリラヤに行きました。

実際には、イエス様はその前にエルサレムにとどまって居た弟子たちにお会いになっていますし、イエス様が天に挙げられる時には、弟子たちは再びエルサレムに戻っていました。つまり、イエス様は、大事な話をするために、わざわざエルサレムから何日も歩いて行かなければならないガリラヤで会うことを望んだということなのです。

ガリラヤは、弟子たちにとってイエス様と共に歩み始めた原典と言える場所です。漁師であったある者たちはガリヤラ湖のほとりでイエス様に声を掛けられ、ほかの者たちは湖周辺の町の中で「わたしについて来なさい」と呼ばれ、イエス様に従い始めました。

この方こそ、待ち望んでいた救い主かも知れないという希望を抱き、その教えを驚くべき働きを目にしながら、次第にその願いは確信へと変わり、「あなたは生ける神の子、キリストです」と告白するまでに至りました。

しかし、彼らの救い主への期待は、王となって国を再建することであり、自分たちはその王国で重要な地位を任されると期待していました。ところが、イエス様が語る神の国は彼らの想像とは違っていました。もっと素晴らしいものでしたが、彼らにはなかなか理解できませんでした。

一番の予想外のことは、イエス様が捕らわれ十字架で殺されてしまうということです。弟子たちは失望し、恐れに捕らわれました。神の救いの約束はどうなってしまうのでしょうか。しかし、確かに死なれ葬られたイエス様がよみがえり、ガリラヤで会おうと言ってくださったことで、失意は希望に、恐れは喜びに変わります。

ガリラヤ地方の山々はイエス様が人々を教えたり、弟子たちを特別に教えたりする舞台となりました。イエス様はそうした思い出深い山々の一つを指定しました。11人の弟子たちがその山に向かって歩き、坂道を登るとき、何を思ったでしょうか。

20年前、北上に戻ってきたとき、子供の頃遊んだ場所や学校に行くために自転車を漕いだ道を車で走ってみたことがあります。自然と当時のことを思い出しますし、いろいろな感情がよみがえってきました。弟子たちが山に登りながら、彼らの信仰の原点に戻る思いがしていたはずだというのは、外れてはいないと思います。

旧約時代のアブラハムも、大きな失敗をした後で、約束の地に入って最初に祭壇を築いた場所に戻って祈るということをしました。イエス様は、旅の出発地、信仰の原点であるガリラヤに戻ることで、弟子たちに「もう一度ここから共に歩んで行こうという」メッセージを伝えようとしていたのではないでしょうか。

2.イエス様を主として

第二に、イエス様と共に歩みは、何よりイエス様を主として生きる歩みです。

イエス様に指示された山に登った11人の弟子たちは、山の上で待っておられるイエス様を見つけます。そして、少し離れたところからイエス様を礼拝しました。

復活の朝にイエス様にお会いしてすぐ足にすがりついたマリヤたちとはずいぶん態度が違います。そのあたりの弟子たちの微妙な心境は17節に「ただし、疑う者たちもいた」という言葉に表れているかも知れません。おそらく、ガリラヤに行く前に何度かはお会いしているはずで、その都度、イエス様は本当によみがえられたということをお示しになっています。目の前で食べ物を食べてみせたり、足を見せて「幽霊ならこんな足はついてないでしょう」と半分冗談みたいなことを言ったりもしました。疑い深いトマスには「お前の指を私の手の平の十字架の釘痕に差し入れてみなさい。わき腹の槍の痕も確かめてみなさい」とおっしゃいました。

そうした事のたびに、弟子たちは喜びと驚きと信じがたさとが入り交じり、揺れ動いていたようです。イエス様の復活を信じる信仰と、死んだ者が生き返るはずはないという理性とが心の中でぶつかり合い、早々と復活を確信できた弟子たちと、信じるまで時間がかかった弟子たちがいたのは当然のことです。

そんな、いくぶんためらいがちに近寄って来て、離れた所で足を止めた弟子たちのほうに、イエス様が自ら近づいて行かれました。

そしてこう語り始めます。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」

イエス様は、弟子たちが跪き礼拝するのを受け入れました。ユダヤ人にとって礼拝すべきはほんものの神様だけですから、イエス様を神として礼拝したということですし、イエス様もそれを認めたということです。そのことを確証するかのように「天においても地においても、すべての権威が与えられています。」と言われました。

みなさん、思い出せるかも知れませんが、ピリピ書には、イエス様が人としてお生まれになるとき、神としてのあり方を全て捨てて遜り、仕える者となり、十字架の死にまでも従ったとありました。

しかし死の中からよみがえられたイエス様は、もともと持っておられた神としての権威を再び取り戻し、仕える者から礼拝を受ける方となりました。

つまり、私たちがクリスチャンとしてイエス様とともに歩み始めるなら、イエス様はお優しく、柔和な友でありながら、同時に神としてすべての権威の頂点に立つ方であることを認めなければならないということです。

私たちはイエス様を神である方として信じ、礼拝し、仕えて行くのです。だから私たちはイエス様を「主」イエス様とお呼びするのです。

イエス様は私たちを愛して、親しく友と呼び、兄弟と呼んでくださいます。その親密さ、暖かさを有り難くいただきながらも、私たちの王であり、主人であり、神である方として敬い、礼拝し、愛するのです。イエス様の弟子であること、クリスチャンであることは、なによりもまず、イエス様を主として生きていくこと、しかも私たちを愛しいのちを与えてくださった主として生きることです。

3.イエス様の弟子として

第三に、イエス様とともに生きるとはどういうことかを教えてくださいました。19~20節は「大宣教命令」と呼ばれています。

ここでイエス様が弟子たちに命じていることの中心は、あらゆる国の人々を「弟子としなさい」ということです。これは弟子たちにとっては驚くような命令であったに違いありません。というのも、当時ユダヤ人たちは、神の国の民となるのはユダヤ人のことだと思っていたからです。しかしイエス様は、ユダヤ人だけでなく、すべての国の人々が分け隔てなく、救いに招かれていることを明らかにしたのです。

そして、人々を弟子にするためには3つのことが必要です。

第一に「行く」ということ。福音を携え、イエス様を伝えるということです。

第二に「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け」るということ。これはイエス様への信仰が気まぐれではなく、しっかりした決意と確信に基づくものであることを明らかにし、教会の一員となることを意味します。

第三に「教え」ることです。命令に従って生きる、なんて「何と窮屈なことか」と思うかも知れませんが、私たちは案外、いろいろな命令や教えを無意識のうちに守って生きている者です。家庭や先輩、社会からいろいろな命令や原則を、伝統とか習慣とか、常識といったかたちで受け取っています。それらはすべて正しいわけではありません。一人一人の価値や尊さより組織を守ることを優先したり、ほかの人への差別が深く根を下ろしていたり、残酷で醜いもの、罪深いものが潜んでいたりします。そういったものを注意深くみ見極め、悪いものからは離れ、神に造られ命を与えられた者として、最も人間らしく生きられる生き方を、教えなければならないと言っておられるのです。

これを福音を受け取ってクリスチャンになろうとする立場に置き換えるなら、イエス様を信じるなら、その信仰のあかしとしてバプテスマを受け、イエス様が教えたことを学び、それによって生きることを学び続けるということになります。

つまり、クリスチャンとは、11人の弟子たちがそうであったように、イエス様を主と信じ、イエス様と共に歩むことを決意したしるしとしてバプテスマを受け、イエス様の教えを少しずつ学び続ける者のことです。

そしてイエス様の命じたことには、この最後の大宣教命令も含まれます。一人でも多くの人にイエス様のことを知らせたり、信じるように、バプテスマを受けるようにと励ましたり、お互いに聖書の教えを学び、実行することを励まし合う、そういう使命も与えられているということになるのです。

聖書の中には、イエス様を信じた人々を表す言い方がいくつかあります。神の子、御国の子、相続人、兄弟、光の子、仲間、キリスト者などなど。イエス様はここでほかのなにでもない「弟子」という言葉を使いました。

「弟子」という言葉は、生徒と違って勉強や技術習得だけでなく、人格と生き方を含めて学ぶ者です。イエス様が願うのはイエス様とともに歩む者です。イエス様を主なる神、救い主と信じ、イエス様に学びながら生きる者が弟子であり、クリスチャンです。

適用 主イエスと共に

長い時間をかけて共に学んで来たマタイの福音書もついに結論のところまで来ました。

本当に感謝なことに、マタイの福音書はすばらしい約束で閉じられています。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

最初にお話した通り、イエス様が誕生するとき、マタイは旧約聖書の預言者の言葉を引用して、この方は「インマヌエル」つまり「神は私たちとともにおられる」と呼ばれる方だと書きました。

長い間聖書を信じて来た人々は、神がかつて約束した祝福や、救い主の到来がいつになったら実現するのかと待ち望んでいました。

そこにあの約束は忘れられたわけではない、人々の苦しみや悩みに神は気付いてないわけでも、無関心なわけでもない。神である方が、神として権威も栄光も捨て、人となってお生まれになり、人々の救いのために仕える者になってくださった。それがイエス様。「神はと私たちともにおられる」ことを生きた姿で表してくださいました。

そして、今や人間の悩み、苦しみの根っこにある罪を背負い、十字架で死なれ、死を打ち破って復活されたイエス様が、あらためて「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と約束されました。

福音書はここで終わりますが、物語は続きます。イエス様がともにいてくださる弟子たちの人生は続き、世代を超えて今なお、イエス様が信じる者とともに歩んでくださいます。

イエス様は私たちが新しい歩みを始めるためにす必要なことをすべてやってくださいました。

その上で、これからもずっとあなた方と共にいるから、わたしの弟子として歩みなさい、わたしと共に生きる者となりなさいと招き、励ましてくださっているのです。

失意と恐れの中にあった弟子たちは、立ち直り、希望を取り戻し、再びイエス様とともに歩む者となりました。疑い、すぐには応じられない者もいましたが、それくらいのことでイエス様は責めたり、諦めたりはなさいませんでした。

ガリラヤの山で弟子たちがイエス様を救い主、十字架で死なれよみがえられた方、神として信じてひざをかがめたように、私の神、私の主と信じるか。イエス様の弟子として、イエス様と共に生きようとするのか。

その問いかけの中で、ある弟子たちが迷い、疑ったように、足が出ない、出せないという人もいるでしょう。それでも、イエス様が「わたしはあなたとともにいよう」と言ってくださっている事が、心に迫り、「そうだ、信じてみよう、ともに歩んで行こう」と決意できる時が来るでしょう。

クリスチャンとして歩み始めてから、弟子たちが恐れ隠れてしまったように、試練や困難などの中で、信じ切れず、イエス様と共に生きる歩みを止めてしまったり、迷ったりすることもあります。それでもイエス様は「今でもわたしはあなたとともにいるよ」と声を掛けてくださっています。その声に気付き、「そうだった」と心を新たにするのを待っていてくださいます。

さあ、イエス様と一緒に生きる歩みへと踏み出しましょう。

祈り

「天の父なる神様。

マタイの福音書を通して、これまで多くのことを教えてくださり、ありがとうございます。

いま、すべてを思い出せないかも知れませんが、私たちのために主イエス様がおいでくださったこと、そしてこれからもずっと共にいてくださることを、私たちは忘れません。

どうか、このイエス様を私の主、私の神と信じる信仰を与えてください。主イエス様とともに生きていく決意を与えてください。

信仰が弱ったり、疑いぶかくなるときも、ともにいてくださり、待っていてください。力と確信をもう一度与えてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」