2020-10-04 なぜ聖書を読むのか

2020年 10月 4日 礼拝 聖書:テモテ第二3:10-17

 時が経つのは早いもので、およそ3年に渡って、マタイの福音書をご一緒に学び続けて来て、先週最後の箇所を終えることが出来ました。イエス様の公の働きも3年半と言われますので、だいたい同じ時間を旅して来たような心持ちですし、イエス様と弟子たちの旅がどれほど濃密なものであったかを覚えることができました。

来週からは創世記から黙示録までを一気に取り上げていこうと考えています。毎週1書ずつと思ったのですが、さすがに難しい面もあり、時には数回に分けながら、読み進めて行きたいと思います。

今日は、それに先立ち、なぜ私たちはそうやって聖書を読むべきなのかということをご一緒に考えて行きたいと思います。今月の御言葉として与えられた第二テモテ3:16は、聖書が神のことばであるという私たちの信仰を支える御言葉です。

テモテの手紙は、聖書に収められているパウロの手紙の中でも最後のもので、彼の晩年に長い間一緒に旅をし、働きを共にしながら訓練して来たテモテを励ますために書かれました。テモテは奉仕している教会で、自分の若さのためのプレッシャーや、困難な状況で気持ちが弱くなっていたようです。しかもこんなときにパウロは牢に捕らえられていたのです。そんな中にいるテモテに何を語ったのでしょうか。

1.困難な時に人は

第一に、パウロは困難が時代が来ることを予告し、そのような時に人間はどうなりやすいかを警告します。

これはさきほどお読みした箇所の前の段落、3章1~9節にかなり詳しく書いてあります。

「終わりの日に困難な時代が来る」という言い方は、聖書の中に度々登場します。それは、将来、イエス様が再びおいでになる前に大きな困難な時代がやって来るという意味で用いられる言い方なのですが、使徒たちは、それが遠い将来だけのことではなく、困難な時というのはどんな時代でも訪れるものだというふうに考えていたようです。いうまでもなく、私たちの人生にも、良いときだけでなく、困難な時がやってきます。

ものごとが上手く浮かなくなり、世の中全体が困難な状況になると、基本的には人間の罪深い性質がはっきりと表れるようになります。困った時の助け合いとか、我慢強さとか、良い面も見られるのですが、どちらかというと人間の本性が出るものです。

2節から5節には、そういう状況で人間のどういう面が出やすいかがリストアップされています。このような道徳的な問題のリストは聖書だけが書いているものではなく、当時広く知られていたものでした。古代ギリシャの道徳家と呼ばれる人たちはよくこういうリストを書いて広めていました。またユダヤ教の教師たちやユダヤ人哲学者も同じような道徳的なリストを挙げていたそうです。注意したいところは、これは決してクリスチャンじゃない人たちの問題ではなく、クリスチャンの中にもこういう問題、悪徳が起こり得るということをパウロが指摘している点です。

最初の二つが、すべての問題を貫くものです。「自分だけを愛し、金銭を愛し」。愛が間違った方向を向くとき、あらゆる悪が生まれてきます。

神を愛し、隣人を愛する、大切にするという、本来のあり方から外れてしまうと、自分が何より大事になり、神様への恐れや他人に対する敬意や憐れみを忘れ、傲慢になったり、受けた恵みを忘れる恩知らずな者などあらゆる悪徳があふれ出てきます。

外見は真面目な信仰者のように振る舞っていたとしても、信仰深さを軽んじ、求めるものを得るためなら驚くほど罪を重ね、他人を利用し、人の弱みや愚かさにつけいるクズになってしまいます。

その一つの例として、6節に「愚かな女たちをたぶらかしている者たち」が挙げられています。一番の問題は、たぶらかす者たちなわけですが、愚かさにも問題があります。これは女性だけの問題ではないし、すべての女性がこうだと言っているのではありません。パウロの時代、よくあったこととして、クリスチャンであっても真理を知ることより、芸能人のスキャンダルや噂話、興味本位な話しにばっかり気持ちが向いているので、聖書を学んでいるのに身につかず、簡単に騙されてしまう者たちがいたのです。

詐欺と同じで、そそのかし、騙すほうが絶対に悪いのですが、惑わされた方も、学べる機会をみすみす逃して見分ける賢さを身につけていたなら、そんな愚かなことにならずに済むのです。そして、偽りの教えや惑わす者の声に始終振り回される愚かさもまた、真理から目を背け、神様を愛するより、自分の関心ごとにばかり心を向けることから来ていることを知らなければなりません。

2.敬虔に生きようとする人々

しかし第二に、困難な時であればあるほど、自己中心に陥りやすい中で、それでも真実に生きよう、神の前に生きようとする人たち、敬虔な人たちもいます。

テモテもそんな一人でした。彼は、まさに困難の時をパウロと分かち合って来た人です。

日本語の訳からはあまり伝わりませんが、10節で「しかしあなたは」と訳されているところは、とても強い言葉が使われています。前の段落に出て来た。困難の中で自己中心に走り他人を惑わし、利用する者は多いけれど、「しかしあなたは」違った、違う生き方をしてきたじゃないかと強調しています。

10節にあるように、パウロから教わった「教え、生き方計画、信仰、寛容さ、愛、忍耐」をもって歩もうとし続けていたのです。

さらに11節にはパウロが経験して来た労苦に「よくついて来てくれました」と続きます。アンティオキア、イコニオン、リステラといった町々で受けた迫害や苦難は、テモテがパウロと共に旅を始める前のことですが、リステラの町で過ごしていたテモテが若者であった頃に、こうしたパウロの苦難を知っていましたし、それでもなお、テモテはパウロについて行こうとし、その後の労苦を共にして来たわけです。

パウロが敬虔さというのは、そういうところです。世俗から離れた穏やかな精神世界に籠もることではなく、現実世界の苦労の中で信仰に立ち、みことばの教えに従い、愛と忍耐をもって生き続ける人が敬虔な人です。

私たちは自分のことを「敬虔な人だ」と言うのはちょっと口はばったいと言いますか、ずいぶん傲慢なことを言っているような気がします。しかし、普通に暮らしている中で直面する様々な困難のときに、それでも何とか信仰に立って生きようとする人たちを敬虔な人たちと呼ぶのです。私もそういう人たちのことなら良く知っています。今、目の前にいる皆さんです。

もちろん、私たちにはいろいろ足りないところもあるし、辛くて愚痴っぽくなったり、人のことなんか構ってられないという態度を取ってしまうことがあります。先行き不透明なときにはいつにも増してお金が大事という気持ちは強くなるかも知れません。それでも敬虔さの力というものを否定したりはしないし、神様を恐れ、隣人や兄弟姉妹のことを大事にしなきゃという思いが失われてはいないことを、悩みやつらさを訴える祈りや言葉の中にさえ感じることができます。

すでに召された兄弟姉妹たちが、人生の中で味わう様々な苦しみ、病、老いの中で不満が言葉をついて出てきたとしても、次に会ったときには悔い改めて、信仰に立とうとしている姿を何度も見てきました。

このコロナ禍にあっても、教会に行くのはもう良いかなと思ったりせず、献金だっていつも通りかそれ以上に献げられていたり、食事を共にした交わりをどれほど願っても叶わない状況を長い間忍耐したり、普段の生活でも職場でも、そして教会でさえも求めれる自粛を自分を守るためではなく、隣人を愛する故に守ろうしてくださっています。

神様はパウロを通して、そういう敬虔さを保てと励ますのです。

3.みことばにとどまれ

第三に、私たちが困難な時にも敬虔さを保つためにみことばに留まる必要があります。信仰に立って歩み続けるためには、聖書に聴き続け、学び続ける必要があります。

今日の説教題は「なぜ聖書を読むのか」としました。どうして教会は、毎週聖書の朗読があり、たまに交読があり、毎回聖書からの説教があり、普段の生活の中でもできるだけ聖書を読みなさいとしつこいくらい言い続けるのか。その理由がここにあります。

この世にあって、私たちが正しく神を怖れ、隣人を敬い、信仰に立って生きていくために、聖書の教えが必要だからです。そして聖書は神の言葉だからです。

12から14節に、経験に生きようと願う者、つまり、神様を恐れ、隣人を敬意を払い、信仰に立って生きようとするなら、普通より厳しい経験をすることがあるという現実の中で、「あなたは学んで確信したところにとどまっていなさい」とテモテを励ましています。テモテが学んで確信したこととは、聖書の教えのことです。彼はそれをただ勉強したのではありません。「自分がだれから学んだかを知って」いるとあるように、パウロやほかの信仰の先輩たち、兄弟姉妹の生き方を通しても学んで来たのです。

それだけでなく、テモテ自身の信仰の歩みの中で時間をかけて学び取ったことです。15節に「幼いころから聖書に親しんできた」とありますが、これはテモテ自身の努力というより、母と祖母の役割がとても大きかったです。1:5には祖母ロイスと母ユニケの名前が出て来ます。彼女たちは幼いテモテに聖書を読み聞かせ、自分たちが信じたイエス様について語り聞かせて来ました。若者になってからは自分自身で聖書を学んできました。それは彼に知恵を与え、信仰を与えました。

その根拠が聖書そのものの性質です。

16~17節を改めて読んで見ましょう。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。」

聖書に収められている手紙をはじめ創世記から黙示録までの66巻はすべて、人間の手でまとめられたり書かれたものです。しかしその執筆にあたっては、「霊感」と呼ばれる聖霊の特別な導きによって、間違いなく神様のみこころが伝わるように書かれましたので、聖書を神のことばとして読むことができます。テモテの手紙でも「私は」と書いている時はパウロが語っているのですが、その内容は神様のことばとして聞くことができます。

そして、この神の言葉である聖書は「教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」。私たちを励ましたり、警告を与えたり、軌道修正したり、鍛えるために聖書は役立ちます。その目的は「神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるため」です。

私たちが、それぞれの人生、それぞれの立場、それぞれの置かれ場ところで、神様の素晴らしさを表し、人々の益となるような者になれるように、聖書は私たちを励まし、導き、助ける力があります。そんなふうに私たちを導くことができるものは他にはないのです。だから、私たちは聖書に留まり、聴き続けるのです。

適用 道の灯り、また地図として

今年度、私たちは詩篇119:105の「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。」というみことばを主題聖句として掲げています。

私たちが信仰を持って生きる世界は、決して光に満ちあふれた時ばかりではなく、困難の時があり、闇の中を歩むような時もたくさんあります。暗いだけでなく、道がわかりにくくなったり、躓かせるようなものがごろごろ転がっているような道のりです。

そんな時に役立つのが道を照らす灯りと、自分のいまいる場所、いくべき場所、そして歩むべき道のりが分かる地図です。最近はカーナビやGoogleマップを使う方が圧倒的に多いですが、ここは昔ながらの紙の地図がピッタリです。

以前は本になっている地図を見ながらどこにでも車で行きました。地図とまわりの状況をよく観察し、自分で読み解かなければなりません。時には、地図を見ながら、助手席に乗っている妻とあーだこーだと言い合いながら目的地を目指すはめになったりもしました。

聖書は神様が旧約時代の預言者や新約時代の使徒たちをはじめとする多くの人々の心を動かし、導いて、どうすれば私たちが本当に人間らしく生きられるのか、神様の素晴らしさを表し、人々によきものを与えることができるのかを指し示し、励ますために与えてくださったものです。

時には正しい道を進んでいることを確信させ、別の時に私たちが間違った道を歩いていることを教えます。時には引き返したり、帰るべき道のりを指し示し、あるいはまた迷った時に脱出の道へと導いてくれます。

暗やみの中に置かれ、不安と恐れが多う時も、光となって私たちを照らしたり、道を照らしたり、行くべき方向を指し示したりしてくれます。

「知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせる」とはそういうことです。

こんな素晴らしいものを神様は私たちに与えてくださったのです。これを読まない手はありません。学ばないわけにはいきません。もちろん、聖書は古いもので3千年以上前、一番新しいものでも2千年くらい前に、言葉も文化も全然違う世界で書かれたものです。当然分かりにくいところもあります。だから学ぶのに苦労する面が確かにあります。地図を読むのが速い人、慣れた人もいれば、苦手な人、慣れていない人もいるのと同じです。

カーナビのようには自分のいる場所やルートをお手軽に表示してくれるわけではありませんが、その分、学んだ者にほんものの知恵を与えてくれます。

聖書の言葉、聖書の世界観に慣れる、馴染みになるためには、数をたくさん読むこと。分かっても、分からなくてもとにかく何度も読んでみる事が大事です。そして、神様のみこころを知るためにはじっくり思い巡らしたり学ぶことも大事。両方の読み方が大事です。

せっかく与えられた神様のことば。私たちを救い、希望となる聖書です。これからも聖書を読み続け、学び続けて行きましょう。

祈り

「天の父なる神様。

私たちのために聖書を与えてくださり、ありがとうございます。

私たちに救いをもたらし、教え、導き、戒め、助け、訓練し、慰めるために有益で、十分なものとして聖書を与えてくださりありがとうございます。

どうか、私たちがこれを私たちの歩む道のりのための光とし、道標としてください。聖書に隠されているあなたの御心と宝を見出すことができるように助けてください。

神のことばである聖書に親しみ、思い巡らし、よく学びとることができますように。パウロや預言者たちを導いて聖書を記させた聖霊様が、私たちが聖書を読む時に目を開いてくださいますように。

みことばを感謝して、イエス・キリストの御名によって祈ります。」