2021-03-14 瓦礫に差し込む希望の光

2021年 3月 14日 礼拝 聖書:列王記第二 17:7-20

 つらい失敗の経験に向き合うことには痛みが伴います。特に、深い傷や取り返しのつかないような結果があったり、自尊心が大きく傷つけられたような失敗の場合はそうです。

もし、その失敗に正直に向き合い、そこから教訓や新しいものの見方、あるいは神様の深い導きや守りの御手の跡を見いだせるなら、人生の宝となります。

しかし失敗という辛い現実から目を背け、大したことじゃないと自分にうそをつき続けるなら、そうやって得られた安心も自尊心も見せかけだのものに過ぎず、次の試練に耐えることはできません。

前回と今回の2回にわけて列王記を取り上げていますが、この列王記は、王国が滅亡し外国に捕囚として捉えられ、祖国が瓦礫と化してしまった時代に書かれました。なぜ自分たちはこんな破滅を招いてしまったのか、その理由を明らかにするため、王様たちを初めとする先祖たちの失敗に向き合い、そこから教訓と神の恵みの痕跡を見つけようとするものです。

前回は列王記第一から、ソロモンに約束された祝福と警告そして背きの罪、そして王国の分裂時代と預言者たちをとおして絶えず悔い改めを迫った神の御思いに注目しました。今日は列王記第二から王国の滅亡と、それでもなお残されている神様の恵みに目を向けます。

1.王たちの罪

第一に、イスラエルの王国が滅亡したのは、イスラエル自身の罪のためでした。

そう聞くと、私たちの身の上に悪い事が起こると、何かの罪に対する罰ではないか、天罰や罰当たりなんてことに結びつけてしまうことがあります。はたして私たちの個人的な罪が人生や生活を壊してしまうような裁きを招くかどうかはとても関心の高いテーマだと思いますので、それについては後ほど触れることにして、まずは聖書そのものを見ていきましょう。

今日読んでいただいた箇所は、分裂した王国のうち、北イスラエル王国がアッシリヤ王に率いられたアッシリヤ王に滅ぼされた直後に、何が起こったのかを列王記の著者が説明しているところです。

北イスラエル王国の最後の王であるホセアは、偶像礼拝の問題から完全に離れることはできませんでしたが、それでも以前の王たちよりはましであったことが2節に記されています。エジプトに協力を求めたりしてアッシリア帝国のプレッシャーに何とか対抗したのですが、3年にわたって首都サマリヤが包囲された後、ついに陥落し、アッシリアの王はホセア王と主だった人々をアッシリヤに捕囚として連れて行きました。

7節でこんなことになってしまった理由が記されています。国が滅びた理由は軍事的な失敗ではないし、政治的な失敗でもありません。経済政策がだめだったとか、疫病が蔓延してしまったせいでもなく、エジプトから救い出し、奴隷から解放してくださった主である神に背き、他の神々を敬うようになり、真似したり取り入れてはいけないと厳しく戒められた異邦の風習を取り入れてしまったからだと言われています。

これは神様が急に言い出したことではありません。前回列王記第一を読んだ時にも見たように、ソロモン王に対して神様が最初から祝福の約束とともに警告していたものです。北王国滅亡までの200年以上、くり返し語られて来たことです。それどころか、ソロモンの父ダビデの時も、その前の最初の王サウルの時も、さらに遡って出エジプトを果たしシナイ山で神様と契約を結んだ時にはっきりと言われていたことです。

私たちは裁きとして国が滅びるなんて聞いたり読んだりすると神様の厳しさに目が向いてしまいます。実際、旧約聖書の神様は厳しく怖い。新約の神様は優しく愛に満ちているなんて印象を持つ人がけっこういます。

しかし、神様がすぐにイスラエルを滅ぼしたりせずに、13節にあるように、何度も何度も預言者達を遣わして警告し、「あなたがたは悪の道から立ち返れ」と悔い改めを呼びかけ続けた神様の忍耐と、それに背を向け続けた王たちの罪深さをこそ問題なのです。

14節から17節へと続くイスラエルの罪の告発は非常に厳しく激しいですが、ここは神様が厳し過ぎるということではなくイスラエルの罪深さ、頑なさをこそ考えなければなりません。王様一人の一度の失敗で国を滅びしてしまったのなら、それは厳しすぎると思います。人間社会でも一回目は厳しく注意はするが罰を与えるまではしない、というくらいの寛容さというか気持ちを入れ替えて成長することを期待するものです。しかしイスラエルの民はその神の寛容さを仇で返すようなことをし続けたのです。

2.破滅

第二に、イスラエルの頑なさと罪の大きさがついに破滅を招きました。18節。「そのため主はイスラエルに対して激しく怒り、彼らを御前から除かれた。ただユダの部族だけが残った。」つまり、北王国の滅亡、1節から7節に記されていた北イスラエル王国の滅亡とアッシリヤ捕囚のことを言っています。

しかし列王記の著者は続く19節と20節で、この滅亡が北王国だけのことではなく、同じ理由で南のユダ王国も滅亡していくことを告げています。そうです。前にもお話したように、列王記は南北両王国が滅亡したあとで「なぜ私たちはこんなふうになってしまったのか」を描いているものです。列王記の著者はここで決定的な事を告げています。まるでドラマの後半に差し掛かったところで「これが破滅への始まりであった」とナレーションが入るようなものです。列王記の読者は、この後の南王国が、北王国と同じ道を辿っていくのを目撃することになります。

北イスラエルがこんな状況になっていた時、南のユダ王国ではヒゼキヤが25歳で王となりました。ヒゼキヤ王はユダ王国の歴史の中では最も評価の高い王様で、ダビデ以来の良い王でした。しかし王に即位して6年後に北イスラエルがアッシリヤ帝国に飲み込まれていくのを目の当たりにしたヒゼキヤは恐れます。神殿を覆っていた金をはぎとって貢ぎ物として納める事さえしましたが、アッシリヤ帝国の軍事的脅威が高まる中、預言者イザヤの「祈りましょう」という言葉に励まされて、壁の金や装飾品が剥ぎ取られ惨めな姿になってしまった神殿に出かけ主の前に祈りました。聖書には書かれていませんが、惨めな神殿の様子は力を失いヨレヨレになっていたヒゼキヤ王とユダ王国の姿を象徴しているかのようです。

その中でヒゼキヤは17~19節で当時の国際情勢を心に描きながらこう祈っています。「主よ。アッシリアの王たちが、国々とその国土を廃墟としたのは事実です。彼らはその神々を火に投げ込みました。それらが神ではなく、人の手のわざ、木や石にすぎなかったので、彼らはこれを滅ぼすことができたのです。私たちの神、主よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、主よ、あなただけが神であることを知るでしょう。」

神様はこの祈りに応えて圧倒的に力の差があるアッシリヤ帝国を撃退し、ユダ王国は滅亡を免れます。

しかし、奇跡的な救済もつかの間、21章に登場する息子もマナセがとんでもない王様でした。12歳の若さで王となったマナセは父が行った宗教改革のすべてをひっくり返し、なんと神がともにおられることを象徴する神殿に、バアルやアシェラといった偶像の祭壇をおき、子どもを生け贄として捧げ、占い、まじない、霊媒といったありとあらゆる神の声に聞き従うこととは正反対のことを取り入れました。その後も王国は続き、ヨシヤ王のようなかなりまともな王様も出たりしましたが、マナセ以後のユダ王国の堕落ぶりは目を覆いたくなるほどでした。最後の王エホヤキムの時代に、アッシリヤに代わって中東世界を支配したバビロン王がユダ王国を滅亡させます。その時、列王記の著者が記した説明が24:4~4にあります。もはや北であろうが南であろうが、イスラエルの罪深さは限界を超えていました。

3.希望

第三に、王国の滅亡への道のりを描いた列王記は希望の光を残して閉じられています。

バビロン帝国のネブカデネザルに率いられた大軍がエルサレムをおよそ3年にわたって包囲しました。食べ物は底をつき、兵士たちの士気も落ちた頃、バビロン軍は城壁を破りエルサレムの町に侵入しました。南王国の最後の王となったゼデキヤは兵士たちとともに別の道から町の外に出ましたがあえなく捉えられ、一緒にいた兵士たちは散り散りに逃げだしてしまいました。

バビロン軍は捉えたゼデキヤの目の前で息子たちを虐殺し、ゼデキヤ自身の目を潰し、足かせをはめてバビロンへとレテ行きました。さらにバビロン王は主の宮、すなわち神殿と王宮と、エルサレムの城壁の中にあるすべての家、主だった建物をことごとく焼いてしまいました。さらに町を取り囲んでいた城壁も打ち壊し、宮古に残っていた人々を捉えてバビロンへと連れ去り、残されたのは反逆の意志も力もなさそうな貧しい人々で、彼らはぶどう園や畑で働く農夫とさせられました。

青銅や金で作られた素晴らしい工芸品でもあった神殿の様々な器具や神殿を飾っていた数々の調度品、装飾品もすべて剥ぎ取られ宝物としてバビロンに持って行かれてしまいます。

外国人が破壊し尽くされたエルサレムと周辺地域の総督として建てられ、それに対して謀反を起こした人たちもいましたが、報復を恐れてエジプトへと逃げて行きます。王国復活の芽は完全に潰えてしまったかに見えました。

しかし、列王記の最後の場面は意外な展開を見せます。

ゼデキヤより一足先に捕囚となっていたエホヤキンが37年目に新しいバビロン王によって牢から解放されました。ゼデキヤ王は捕らわれたエホヤキンの代わりにバビロンが立てたかいらい政権でした。ゼデキヤはエホヤキンのおじさんにあたる人物でした。

25:26にあるように、新しいバビロン王はエホヤキンに優しい言葉をかけ、他の人々より高い地位が与えられ、王室の予算で生活が保障されただけでなく、バビロン王と食事を共にするほどの厚遇を受けたのです。

ゼデキヤの息子たちが皆殺しにされたことでダビデの王家は断絶するかに見えましたが、エホヤキンが生き残っていたということは、ダビデの血筋が絶えなかったということです。列王記の著者は、国と国の覇権争いの中で敗れた者がその生涯の終わりに慰めを得た、というちょっと良い話しで終わらせただけではなく、ダビデに約束された祝福の約束、もっと遡るならアブアハムに約束された祝福がまだ途絶えてはいないということを印象づけるために記したのです。

この記事があることで列王記は単なる王たちの反逆と滅亡の物語ではなく、まったく異なったものになりました。

アブラハムの子孫たちは、捕囚となったバビロンの地で、あるいは取り残された貧しい境遇の中で、この書から、自分たちがなぜ滅びてしまったのかをはっきり理解するとともに、まだ希望があることを教えられたのです。この捕らわれ、そして再び解放されたダビデの子孫を通して救い主キリストが、神の約束を完全に果たすために来てくださったのです。

適用 教訓と希望

さて、列王記を読んできて、もしかしたら私たちの脳裏にうかぶ一つの疑問について考えてみましょう。列王記の王たちや王国のうえに降りかかった裁きのように、私たちの身の上に悪い事が起こると、何かの罪に対する罰ではないか、天罰や罰当たりなんてことに結びつけてしまうことがあります。はたして私たちの個人的な罪が人生や生活を壊してしまうような裁きを招くものなのでしょうか。

罪に対する罰、報いはあるというのが聖書の原則であるのは間違いありません。これは言ってみれば大前提です。ただし、今私たちが経験する様々な「悪い事」が神の裁きというわけではありません。たとえば私が奥さんに意地悪したから車をぶつけられた、といような形で神様が私を罰するということはありません。

私たちが罪のために受けるべき報いは一度イエス様が全部引き受けて十字架で負ってくださいましたので、それはないんです。しかし、私たちを訓練するために試練や苦難に合うのを神様が許すことはあります。奥さんに意地悪してプンプンしていたら、いろんなことに不注意になって、事故に遭う確率は大きくなるでしょう。神様は私を訓練するために、その危険性の中に置いたままにすることはあるのです。念のために言っておきますが、あくまで譬えで車をぶつけたわけではありません。だから酷い目にあったら、それは罰ではなく訓練です。だから聖書で「訓練と思って耐え忍びなさい」と教えられているのです。

それから、列王記の王様たちのように神様に背を向けてしまうことで、神様の特別な守りを失い、私たちが罪の中に放って置かれることはあります。親に反抗して家出するようなもので、守ってくれるものが無くなったために出会う苦難は裁きというより、自分で自分に招いた当然の結果です。

イエス様がすべての罪に対する神の裁きを背負ってくださったといっても、それを受け入れずに拒否すれば、いずれ自分の犯した罪の報い、神様から受けるべき裁きは受けなければなりません。そういう最終的な裁きがあることは聖書がはっきり示している変わらない原則です。それがあるからこそ、私たちにはキリストによる救いが必要なのだし、イエス様が十字架にかかる必要があったのです。十字架は神の愛の印ですが、神の正義と聖さの印でもあるのです。

ですから言ってみれば私たちは、自分の人生の中で列王記の王たちの歩みを辿っているのです。数百年の歴史の中で繰り返されて来た神様への反抗や失敗、そこで得た教訓の物語を自分の人生の中でくり返しているのです。そして私たちの人生の中でも、表されているのは神様の厳しさ、怖さよりはむしろ、悔い改め神様のほうに心を向けることを待っていてくださる、神様の憐れみと恵み深さなのです。厳しく叱ってくれた先生や先輩を前に怖さを感じることがあっても、あとになってみれば心底心配してくれていたからだということがあります。列王記に見られる神様の厳しさの背後には、心底私たちを愛し、そのまま滅びにいたってしまうことを放ってはおけない神様の思いが表れていることに気づかねばなりません。

私たちは列王記を通して、大切な教訓と希望を学びました。罪に対する神の裁きとそれ以上の神様の愛です。列王記の王たちの物語を単なる一国の栄枯盛衰の話しのようなものではなく、私たちの人生の映し鏡として受け取りましょう。

祈り

「天の父なる神様。

私たちは罪とは無縁になれない存在です。列王記に記された、神様に背を向け契約を破った王たちの運命を考えると、恐ろしくはありますが、しかし、それ以上の神様の忍耐と愛、そして残されていた希望の先に、今私たちに与えられているイエス・キリストの十字架の救いがあることに感謝します。

私たちは列王記の王様たちほどではいかもしれませんが、やはり神様以外の何かに頼ろうとしたり、あがめようとしたり、神様が望まないと分かっていることをしてしまう、そのような罪深さがあることに気づかされます。

どうぞこの物語から教訓を得て悔い改め、みことばに忠実であることができますように。この物語が指し示す希望であるキリストの恵みを喜んで受け入れる者であることができますように。

主イェス様のお名前によって祈ります。」

 

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