2021-04-04 扉を開く時

2021年 4月 4日 イースター礼拝 聖書:ヨハネ20:19-21

「イースターの朝にはしらゆりを飾りましょう」と歌いましたが、イエス・キリストが死を打ち破ってよみがえられたことを象徴する、イースターらしい飾り、花があります。有名なところではしら百合以外に玉子に色を塗ったり模様を描いたりするイースターエッグがありますし、なぜかウサギも登場します。

といっても、それはかつて異教世界だったヨーロッパに福音が伝えられ、もともとあった様々な文化的なしるしを用いて、キリストの復活を表すものとして使い続けたものです。イースターのたまごも、うさぎも、しら百合も、聖書の中では復活と関わる意味で用いられることはありません。そういうのはイエス様の復活を想い起こし、喜ぶための楽しいしかけ、風習として受け取ればいいのです。ですから、帰りに卵形のクッキーと、今年は特別に「かもめの玉子」もお持ちいただきますが、ただ楽しんでくださればと思います。

しかし、大事なのはそれらの象徴のもととなっている聖書の教え、キリストの復活という事実です。それらが私たちにどんな意味があるから、私たちはイースターを祝い、喜ぶのかが大事です。

毎年くり返されているお話ですが、今年も主イェス様の十字架と復活の出来事を振り返り、私たちの平安と希望の基として、しっかり覚えて行きたいと思います。

1.十字架

第一に、使徒信条にも出て来るように、復活の前には、主イエス様の死があります。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、死にて葬られ」。

十字架はローマ帝国初期の処刑方法の一つで、もっとも残酷な処刑と言われていました。そのため、十字架に処せられるのは国家に対する反逆などの重罪に限られていましたし、あまりの残酷さのため後に廃止されるほどでした。

しかしイエス様はいったいどんな理由でそんな恐ろしい十字架刑を受けることになったのでしょうか。先週、棕櫚の日曜日の場面を見ましたが、あんなに大歓声のうちに王として迎えられたイエス様が十字架につけられなければならなかったのでしょうか。

祭司長やパリサイ人たちがイエス様をとらえ、裁判にかけますが、そこに見られるのはイエス様の人気を妬み、自分たちの権威が貶められたことに対する恨み、このままでは神殿を中心としたユダヤ教社会が壊されると恐れた姿です。

ヨハネ19:14~16節を開いてみましょう。祭司長たちはイエス様が死刑に値するような罪を犯したという具体的な証明は出来ませんでした。その代わり、民衆を扇動して総督ピラトにプレッシャーをかけ、総督の名のもとに十字架刑が言い渡されました。

その後、疲労と痛みでぼろぼろになった体で自分が磔にされる十字架の横木を背負わされます。処刑場になっていたゴルゴダ、「どくろの場所」と呼ばれる丘でイエス様は十字架に釘で磔にされ、両側には二人の罪人も並べられました。

しかし、祭司長たちの妬みや恐れというのはあくまで人間側の理由であって、父なる神様はなぜそのような死に方をするのを許されたのか、なぜそのような苦しみを受けることが「父のみこころ」であったのかは、あまり多くは語られていません。

ヨハネ19:30には息を引き取る直前にイエス様が語った「完了した」という言葉が記されています。完了したという言葉はどういう時に使うでしょうか。普通は自分が物事を計画し、準備をし、実行に移し、いよいよやるべき時をやり終えた時に言うものです。イエス様への妬みと恐れのために十字架に付けられたのは、イエス様にとって予想外の事ではなく、むしろこのために準備してこられ、いよいよやるべきことを終えたという意味なのです。

使徒パウロがコリント第一15:3で簡潔にまとめています。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、」

イエス様の十字架の死は、弟子たちが感じたように「こんなはずじゃなかった」というような予期しなかった死ではなく、はじめから聖書で示されて来たこと、神様のご計画によるもの、その目的は私たちの罪のためです。罪に対する裁きという報いを、イエス様が身代わりとなって受けてくださったのが十字架です。

しかし、イエス様を十字架に追い込んだ祭司長やパリサイ人、それを許可し実行したピラトとローマ兵、十字架につけろと叫んだ群衆、こんなはずじゃなかったと逃げ惑う弟子たち、不安げに見守る女性の弟子たち、誰一人として、この死が自分たちの罪のためであるとは、この時気づいていませんでした。

2.埋葬

第二に、イエス様の復活に先立ってイエス様は埋葬されました。使徒信条にも「死にて葬られ」とありますし、先ほどみたコリント書の続きにも「葬られたこと」とあります。

イエス様が十字架に付けられたのは金曜日の午前9時頃でした。昼過ぎに空が分厚い雲に覆われて真っ暗になりました。太陽の光が届かず昼間なのに夜のように暗くなったゴルゴダの上でイエス様が息を引き取った時、大きな地震が起こり、神殿の中に掛けられていた仕切りの幕という大きな布が上から下へと真っ二つに引き裂けました。それらは十字架でイエス様が背負った罪に対する神様の怒りや、神と人とを隔てていた罪をイエス様が取り除いてくださったことを表しています。

大方の弟子たちが恐れて逃げ出した中、数名の弟子たちがイエス様の埋葬にあたりました。弟子たちの中心グループであった12弟子ではなく、ユダヤ人議会の議員でイエス様は十字架に値すると決定した議会にも出席し、反対票を投じていたアリマタヤのヨセフ。かつて夜中にイエス様の元を訪ね、救いについて意味深な問答をしつつも、その時はイエス様を信じ切れなかったニコデモが、自分たちもイエスの仲間として捕らえられる危険を冒してイエス様の遺体を引き取り、埋葬しました。アリマタヤのヨセフが自分と家族のために準備していた墓に葬ったのです。

この埋葬は、イエス様が本当に死なれたということとを人々に突き付けました。イエス様を救い主と信じ、王となって世界を治め、自分たちもイエス様の傍らに立つはずだという夢は、イエス様の死と葬りによって打ち砕かれました。

イエス様が十字架の上で死なれたのが午後3時頃で、あと3時間もすれば安息日が始まり、律法によって一切の労働が禁じられましたので、埋葬もできません。大急ぎで埋葬がなされました。弟子たちには悲しむ時間も、最後の別れを惜しむことすらできません。

墓は閉じられ、墓穴を塞ぐ石には封印が施されました。日曜の朝までの弟子たちの様子は何も記されていません。

弟子たちが何をしていたかを垣間見させてくれるのが今日の箇所です。安息日が明けたのが土曜日の日没です。また一晩待って日曜日の朝、墓に出かけた女性の弟子たちが墓が空っぽなことを発見し、天使がイエス様はよみがえったと告げられた話し、そしてマグダラのマリヤがイエス様にお会いしたという、信じがたい話しを次々と聞かせました。

そんなとき、弟子たちはどうしていたのかというと、19節にあるように、「弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた」のです。すでに夕方になっていましたが、彼らはユダヤ人を恐れて鍵を掛けて部屋に閉じこもっていたのです。

つまり、イエス様が十字架につけられて死んで葬られてから、ずっと部屋の中に隠れていたのです。彼らの心を支配していたのは恐れでした。イエス様を十字架につけた人たちの心を支配していたのも恐れでした。遡って考えてみれば、創世記の最初に記されているアダムとエバが神様に背いて禁断の木の実を食べた時に心を満たしたのは自由や喜びではなく、正反対の恐れでした。

何を恐れていたかはそれぞれ違いますが、拠り頼み、へりくだり従うべき方を見失った時、人の心を恐れが支配するのです。

3.復活

しかし、第三に、その恐れを打ち破り自由と喜びへと向かわせたのはイエス様の復活でした。

マリヤたちの証言だけでは弟子たちの恐怖を取り除くことはできませんでした。墓が空っぽだという知らせを聞いて12弟子のリーダーであったペテロと一番若いヨハネがかけつけて確かめに行きましたが、まだ信じられません。

そのうち、エルサレムからエマオという近くの村の家に帰ったはずのある夫婦がイエス様にお会いしたと慌ててエルサレムに戻って来て弟子たちに興奮しながら報告しました。

彼らはエマオの家に帰る途中で見知らぬ男の人が近づいて来て一緒に旅をすることになりました。その人は聖書から救い主が十字架で苦しみ死ななければならなかったことを詳しく教えてくれました。もっと話しを聞きたくて食事と宿を提供するからと無理に頼んで家に来てもらいましたが、食事の時にその人が祈る姿を見て、はっと「この方はイエス様だ」と気づきました。しかしその途端にイエス様の姿が見えなくなってしまいました。それであわてて仲間のところに戻って来たというわけです。

そうやって、少しずつ情報が集まるにつれて、本当にイエス様はよみがえったのかもしれないと思い始めましたが、それでもしっかり家の扉には鍵がかけてありました。自分たちも捕らえられるのではないかという恐れのためです。

ユダヤ人を恐れて鍵を掛けて閉じこもっていた弟子たちの真ん中に、いつの間にかイエス様が現れ言われました。「平安があなたがたにあるように」。

これはおそらくユダヤ人が当時話していたアラム語なら「シャローム」というひと言で言われたもので、普段の挨拶の言葉です。しかし、この平安は、イエス様が与えると約束された、この世が与えるものとは違う平安です。イエス様は「わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。」と言われました。

私たち人間は、安心、心の平安を得るために一般的にどんなことをするでしょうか。貯金をする、保険をかける、健康診断をする、納得するまで説明を聞く、もっと力のある誰かに頼るなど、不安材料を一つでも多く潰していくことで安心を得ようとします。

しかしイエス様が与える平安は、そういうやりかたではありません。この世界をお造りになった全能の神様、そして私たちを愛してくださる愛の神様が共にいてくださることで得られる平安です。私たちを怒りではなく愛し、受け入れ、気に掛け、守り、支えてくださるという確信に基づく平安です。そして、そんな神に愛されているから大丈夫、神が共におられるから大丈夫という確信を与えるのがキリストの十字架の死と復活です。神様と人間の間には、罪が大きな妨げになっています。神様は私たちを愛していますが、罪を見過ごすことはできない聖なる方、正義のお方です。その解決のためにアダムとエバが神様に背き、恐れ、神様の前から隠れてしまった時から計画され、その実現のために救い主の到来が約束され、そしてイエス様の誕生によって約束が果たされる時が来ました。私たちと神様を隔てていた罪を取り除くため、罪の報いであるさばきを十字架の上で一身に背負って死なれ、そしてよみがえることで、もはや恐れることなく神の恵みと平安を受け取ることができるのです。

適用 扉を開いて

この言葉を聞き、イエス様の姿を見た弟子たちは喜びました。表だって何かをするような準備までは出来ていませんので、翌週の日曜日もまだ扉に鍵を隠れて部屋に籠もってはいましたが、イエス様がよみがえって生きておられることはもう分かっていました。

しかしイエス様は21節でこうも言われました。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

誰の証言を聞いても信じ切れなかった弟子たちの心の眼が開かれた弟子たちは、やがて鍵を掛けた扉も開いて外の世界に出て行き、イエス様がすべての人の救いのために来られ十字架で死なれ、葬られ、三日目によみがえって今も生きておられる救い主であると伝え始めるのです。

恐れに捕らわれた人は、自分を守るために扉に鍵を掛けてしまいます。心理的に心を閉ざす場合もあれば、実際に部屋に閉じこもって引きこもる事もあります。

アダムとエバは神のことばに背いてしまってから、神様が呼ぶ声を聞いて、自分たちのしてしまったことの恐ろしさ、そして神様を怖がりました。だから彼らは茂みの中に身を隠します。

イエス様を十字架につけようとした祭司長やパリサイ人たちはイエス様のほうに人気が集まり、自分たちの権威や守って来た世界が壊されるのではないかと恐れ、イエス様に心を閉ざし、その恐れを追い払うかのようにイエス様を死に追いやりました。

イエス様が死ぬなんて考えもしなかった弟子たちは、これからどうしたら良いか分からず、また同じように捕らえられるのではないかという恐れのために、文字通り部屋に鍵を掛けて隠れました。

私も犯した罪のために罰を受けるんじゃないかとビクビクしたり、人からの評価や仲間はずれにされることを恐れ、心にあるものを見せないように鍵をかけ、あるいは人との間に厚めの壁を作って自分を守ろうとしました。思春期の頃からの自分の行動を思い出す時、それをコントロールしていた一番のものは恐れだったということが分かります。

この恐れは、振り切って周りのことなんか気にしないで好きなように生きれば解決するのかというとそうでもありません。自分らしく生きると言えばカッコイイですが、反面、他人の迷惑を考えない自己中心な人間にさえなってしまいます。人間の力では心の中に住み着く罪から逃れることができないからです。

私たちに平安を与え、自由と喜びをもたらすのは、私たちに命を与え愛してくださる神様が私を受け入れて、共にいてくれるから大丈夫だという確信によるのです。その確信を与えるのは、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれ、葬られ、よみがえられたイエス様です。このイエス様を私の救い主ですと信じ、告白する信仰によるのです。

弟子たちのように心が開かれてイエス様が死んでよみがえられた救い主だと信じてから、実際に扉を開けて新しい人生に踏み出すまでちょっと時間差がある人もいます。あるいはトマスのようになかなか素直に信じられない人もいるかも知れません。それでも、イエス様は「私の主、私の神」と信じる全ての人に、平安があるように。新しいいのちに生きなさいと祝福してくださいます。

祈り

「天の父なる神様。

今日は主イェス様が死を打ち破ってよみがえられたことを覚えるイースターです。私たちの罪を背負って死なれましたが、よみがえられ、今も生きておられます。

眼には見えませんが、生きておられ、私たちの祈りを聞き、私たちの告白を聞いてくださるイエス様。どうぞ私たちの祈りに答えてください。

あなたは私の主、私の神ですと祈り告白するすべての人に、約束された救いを与えてください。罪が赦され、全能の神、愛なる神、正義の神が共にいてくださるから大丈夫だという確信を与えてください。そうして私たちに平安と自由と喜びを与えてください。

心に恐れをいだく全ての人に、罪の重荷や良心のかしゃくに心が押しつぶされそうな全ての人に、悲しみや痛みに身も心も傷ついている全ての人に、人生に迷い確かな道を求めている全ての人に、喜びや希望を失っている全ての人に、イエス様の十字架と復活を通して与えられる救いをお与えください。

そして心でイエス様を信じ告白しつつも、この世界でイエス様を信じる者として生きることにまだためらいや不安を抱く者たちにも、今一度「平安があるように。わたしがあなたを遣わそう」と励ましてくださいますように。

私たちの主、生きておられる救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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