2021-06-27 主の恵みと真実

2021年 6月 27日 礼拝 聖書:詩篇89:1-14

 皆さんは、大切な約束をやぶってしまったり、また逆に約束を破られてしまったことはあるでしょうか。もちろん、私たちは不完全で、思いも掛けない事態に直面することもしばしばですから、大なり小なりそういうことはあります。子どもとの約束を忘れてしまったり、奥さんとの約束をすっぽかしてしまったりすることがあります。仕事上の大事な約束を忘れて大きな問題になることもあるかも知れません。

私もある時、詳しいことは話しませんが、ある約束をしてもらったことがあります。中身としては大したものではありませんが、約束が守られるなら誠実さが証明されるような、意味としては大きい約束でした。しかし、その約束が果たされることはありませんでした。その時、私が感じたことは「ああ、あれはその場しのぎの口約束だったんだ。その程度なんだ」というものでした。それ以来、その人に何かを期待するということはしなくなりました。「あの約束はどうなったのか」と完全に白けてしまったのです。

今日ご一緒に開いている詩篇89篇も「あの約束はどうなったのか」ということがテーマになっています。ただし、約束してくださった相手は人間ではなく神様ご自身。そして詩人の祈りは、神の恵みと真実を賛美する歌で始まっています。では、ご一緒に味わって行きましょう。

1.捕囚の地から

第一に、この詩は捕囚の地から歌われたものです。それは契約がやぶられ、約束の地から追い出され、捨てられてしまったと思ったとしても仕方のない状況でした。

詩篇がこうしたかたちで集められ、整理され、5巻に分けられたのは、すでに国を失い、王もおらず、外国の支配者に支配されていたイスラエルの民が、礼拝と賛美、祈りを捧げるために用いられました。私たちも礼拝の時に、はじめに招詞があり、途中で交読文が入ることもあります。だいたいは、決まったものを順番に読んで行くのですが、たとえばクリスマスや受難週、イースターの時など、特別な季節には、その出来事の意味に思いを向けさせるような箇所を選びます。こうした詩篇もまた、適当にならべているのではなく、読む者に注意を向けさせたいものがあるわけです。

詩篇第三巻は73篇からはじまりますが、ここにはアサフやコラ人といった名前が登場します。アサフもコラ人も、いくつかあった神殿聖歌隊の名前に由来しています。アサフはダビデ王の時代に創設された神殿聖歌隊の指揮者の一人で、コラ人は神殿の門衛を司りましたが、一部の人たちはアサフの兄弟ヘマンが指揮する聖歌隊のメンバーになっていました。今日開いている89篇には「エタン」という名前が出てきます。ダビデの時代にヘマン、アサフとともに聖歌隊を指揮した3兄弟の一人、エドトンのことです。いずれにしても、アサフもコラ人もエタンもだいぶ前の時代の人たちなので、詩篇が編纂されたときにはすでに歴史上の人物でした。おそらく彼らの名前をつけた聖歌隊が長い歴史の中で様々な賛美を残していったのでしょう。ベニー・グッドマンやカウント・ベイシーといった人気の楽団が、リーダーが亡くなった後もその名前を継承して音楽を伝えているのに似ています。

それはともかく、第三巻の最初の11の詩は「アサフ」の名前がついた歌になっています。その内容的な特徴はイスラエルの民が味わった苦難、それをもたらした神のさばきです。その苦難の中で、嘆きながらも、同時に神の義と真実に信頼し、希望を寄せ、回復してくださるようにという願いが込められています。

84篇からは、今度は「コラ人」が表題に出てきます。途中ダビデの詩も挟んでいますが、コラ人たちの歌の特徴は、救いの神です。バビロン捕囚という苦難の中で、自分たちの心は救ってくださる神の恵みへと向けられ、望みをもって祈っていますという事が歌われています。

途中86篇に出てくる「ダビデの祈り」は、こうした期待、信仰がダビデと神様の間に結ばれた約束に基づいて、ダビデ自身が祈った信仰と同じものであることを強調しているようです。

このようにして第三巻は、捕囚とされた地から、神はダビデを見捨てず、その子孫を確立するという約束を思い返しながら、神に背を向け反逆したために被った苦難の嘆きや悔い改め、やがて主が再び連れ戻してくださるという希望を祈りとして歌っているのです。そして今日開いている最後の89篇は、第三巻のまとめの歌で、これもまた捕囚の地で神がダビデに約束したことの素晴らしさにまず目を向けているのです。苦難の時の嘆きの歌をさんざん歌ってきて、今一度、神様の前でまとめの歌を歌うとき、苦しみよりはまず神の真実さに目を向けようと促しているようです。

2.約束と希望

それでは詩篇の中身を見ていきましょう。まず取り上げられているのは主の恵みと真実です。1節「私は主の恵みをとこしえに歌います。あなたの真実を世々限りなく私の口で知らせます。」

この恵みの中身は、かつてダビデに誓われた神の約束と、約束に基づいた希望であることが3節と4節からわかります。

今日読んでいただいた89編の前半は、ずっと主の恵みについて、恵み深く真実な方である主はどういうお方かということをこれでもかというほどくり返しています。詩の根底には嘆きと訴えがあるにも関わらず、詩人は自分がどう感じているか、何を願っているかを前半部分では全く触れていません。歌の主人公は主ご自身です。主は真実、主は力があり、主はすべての上におられ、主はすべてをご支配し、主は敵を打ち破る。天も地も主のもの、主がそれらを造られた。主の歩むところには義と公正、恵みとまことがあると歌います。

そしてこのような恵み深い、真実な神とともに歩む者は何と幸いなことだろうと15~18節で引き取ります。

私たちは、神様を信頼し、神様が与えると約束された恵みと祝福、そして神様の真実さを信じて生きています。

苦しいとき、つらいときは慰めといやしを願い、がんばったことには正当な報いがあることを求めます。不正な扱いやひどい仕打ちに遭ったときは、神様の正義を求めます。そして、失敗や罪を赦してくださる神様の憐れみとキリストの十字架の完全さに信頼して、悔い改めます。疲れた時には、安息を願います。

そうした祈りに対して神様が答えてくださり、慰めや助けが送られて来ることもあり、不思議な導きで神様が正義を行ってくださっていると感じることもあります。

しかしながら、私たちの人生には癒えない哀しみや痛みがあり、がんばっても報われず、ひどい仕打ちが続くことがあり、後悔の念にいつまでもさいなまれることがあります。そのような時は、この詩篇にあるような賛美の言葉は、なかなか自然には出て来ないものです。私たちが祈る時に「主の御名を賛美します」と習慣的に言っている言葉は出て来るかも知れませんが、苦しみの中での祈りの前半が神への賛美だというようなことは、なかなか自然にはならないのではないでしょうか。

しかし、詩篇は思いつきで祈ったことを歌のしたのではなく、技巧を凝らし、この詩を歌う人の魂に起こる変化をよく計算して書かれたものです。

あえて祈りとして口にするとき、私たちの心に何が起こるでしょうか。苦しみや嘆きの中にいるときは、おそらく自然には出てこないような主の恵みや真実に心と目が向けられます。それは忘れかけていた神様の恵み、素晴らしさ、力を思い出すことになるかもしれません。あるいは、もしかしたら「ではどうして神様は今、この私にその恵みをくださらないのか。その真実は私の人生に表れないのか。その力をどうして与えてくれないのか」という疑問や、怒りが湧いて来るかも知れません。

その心の中に起こる変化は、祈りの中での神様との静かな対話の始まりです。心の中に起こる変化が感謝や驚きであれ、疑問や怒りであれ、次の展開が必要になります。

3.苦難の現実

そんな私たちの心の変化を知っていたかのように、19節から45節では、主がかつて約束されたことと、現実に起こっていることは違うじゃないかという嘆きへと変わって行きます。

まず19~37節で、詩人は、かつて神様がダビデとの間に結んだ契約の内容をかなり詳しく歌っています。ダビデ契約は詩の前半でもちょっと出て来ましたが、ここではその内容を相当詳しく、他の聖書箇所の言葉も使いながら、力強く歌います。その中で特に強調されているのは、主はこの契約を永遠の契約として結ばれたのではなかったか、という訴えです。

ですから次の「しかし」で始まる38~45節の嘆きとなるのです。神様は、ダビデと永遠の契約を結び、その王座を保ち、神の恵みと真実は決して変わらない、偽りは言わないとお誓いになったのではなかったですか?それなのに、あなたは、私たちを、イスラエルの民を拒んで捨ててしまわれました。油注がれた王を退け、城壁や要塞は打ち壊され、無残な姿となった町を通りかかる人は笑い、惨めな姿になった私たちを敵が喜んで見ています。

44節と45節で端的にこう言います。「あなたは 彼の輝きを消し  彼の王座を地に投げ倒されました。あなたは 彼の若い日を短くし 恥で彼をおおわれました。」

聖書の約束と現実の食い違い、神の約束と苦難や嘆きという現実はいつでも私たちを悩ませます。

もちろん私たちは神様がダビデの約束された契約がイエス・キリストを指し示していることを今は知っています。約束された救い、永遠の王座、正義の実現はイエス様によって果たされます。それは分かっている。でも、2000年経った今もやっぱり私たちは嘆きや苦しみの中に置かれています。

46~48節では、限りあるいのちしか持っていない人間である自分には残されている時間は少ないのだと訴えて「いつまでですか」「いつになったら、あなたの怒りは収まるのですか」と問いかけています。

イエス様によって与えられた救いは、すでに確かに与えられたけれど、まだ完全には得られていません。罪は赦されましたが、まだ罪の力が働いています。イエス様は死に勝利し、私たちは永遠のいのちに入れられましたが、まだ肉体的には死ぬ者です。平安と慰めを与えられましたが、恐れと哀しみは私たちの人生に忍び込んで来ます。完全な救いは、イエス様が再び帰って来た時だと、頭では分かりますが、でも同時に私たちの人生には限りがあります。苦しんたり嘆いているのは「今、この時」で、助けが必要なのは今です。

旧約時代の人々にとっては、これはもっと切実でした。ですから最後にこのように歌ってしめくくります。

「主よ あなたのかつての恵みは どこにあるのでしょうか。 あなたは 真実をもって ダビデに誓われたのです。/主よ みこころに留めてください。 あなたのしもべたちの受ける恥辱を。 私が多くの国々の民をすべて この胸にこらえていることを。/主よ あなたの敵どもはそしりました。 あなたに油注がれた者の足跡をそしったのです。」

主がこの祈りを聞き入れてくださるかどうかは、主ご自身の真実にかかわると訴えているかのようです。

適用 「すでに」と「いまだ」

旧約時代の、バビロン捕囚によって国と王を失った人々は、神のダビデに対する永遠の契約にも拘わらず、自分たちが捨てられ、神の約束が果たされないままでいることを嘆いていました。

もちろん、彼らが国を失ったのは、神に背を向け反逆した結果であることは重々承知の上です。でも、王国滅亡から何十年と経った今も、契約が忘れられたままでいて、そのために自分たちが嘆き苦しんでいることを、神様の真実にかかけて何とかしてくださいと訴え、またそのような祈りを聞いてくださるはずの方だと望みを置いているのがこの詩篇です。

すでに約束はされた。しかし、今はまだ実現していない。それが旧約時代の人々が常に直面した問題でした。人々は「すでに」と「いまだ」の間にある緊張状態の中で生きていました。

そして、すでに救い主がおいでになった後の時代に生きる私たちも、実は大分状況は違いますが、それでも同じように待ち望む者です。私たちも「すでに」と「いまだ」の間にある緊張状態の中で生きています。

すでにイエス様は来られ、十字架の死と復活によって罪の赦しと永遠の裁きからの救い、そして死からいのちへと移されていますが、それは未だ完全なかたちでは与えられていません。主イエスが再び来られる日まで、私たちは待ち望む者です。私たちもまた旧約の人々とともに、主が約束されたことを信じて待っているのです。

ですから、苦難を味わい、嘆き、心の中でうめくことは人生の一部です。しかし、私たちには望みがあり、希望があるのです。それは、ただいつの日かかなえられる事としてではなく、今、このときも主は私たちの主であり、その恵みと真実は今日も変わらないはずだという詩人の信仰と同じです。

旧約の詩人は、祈りの方法を私たちに教えてくれています。詩人は、主の恵みと真実を大いに賛美し、約束されたことを確認し、その上で現状の苦しみを訴え、あなたの真実と約束に従って、私たちの祈りに、訴えに耳を傾けてくださいと祈っています。とても、賢く、神様の心を動かすような祈りです。

ところが、私たちは、実際に苦難や哀しみの中にあるときに、そのような考え抜かれた祈りをする余裕がないのです。だから、そういう時こそ、このような詩篇を用いるのです。これらの詩人の言葉に私たちの思いを乗せて、この歌を私の祈りとして詠むのです。

実際、私たちが毎週礼拝でやっていることも同じです。礼拝が始まる前に、招詞という短い聖句を読みます。大抵は詩篇からですが、そこでは神様を賛美する祈りや、礼拝に招く詩が読まれます。それはただ習慣としてやっているのではありません。日々の細々としたことや悩み事に心がいっぱいになりがちな私たちを、もう一回神様に目を向けさせ、心を向けさせ、この神の真実と恵みに期待できるよう整える意味があります。礼拝前の黙祷もそうです。

そうやって私たちは、自分の気分や思いつきで祈ることから一段上にあがり、整えられた祈りや礼拝を用いることで、いろいろあるけれど、神様に心を向け、助けを願って、導きを求めて、励ましや慰めを期待して、神の前に出る、ということを続けて、この時代を生き続けるのです。ですから、私も心の中に起こって来やすい、疑う心、諦めがちな心、皮肉っぽい心を押さえ込んで、神様の恵みと真実を思い、訴えて歩んでいます。

そのような歩みをする者をどうして神様が放って置かれることがあるでしょうか。ローマ8:32で同じようなテーマを扱う中でパウロはこう言っています。「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」

祈り

「天の父なる神様。

今日もご一緒に詩篇を味わうことができました。主がかつて約束された永遠の契約に基づいて、今、あなたの真実と恵みを示してくださいという祈りの歌を、今、私たちは、私たちの人生の中で歌い直します。

私たちはすでにイエス様の救いを頂きましたが、未だに弱さや不完全さの中にあって、悩み苦しみ、嘆く者です。主が再び来られる日を待ち望みながら、今日、この日にあなたの恵みと真実が表されることを切に願います。

そのような祈りを捧げいる兄弟姉妹、また言葉にできずただうめき、うずくまっている兄弟姉妹をあなたはご存じです。どうぞ、その恵みの御手、真実の目を注いで、キリストとともに恵んでくださいますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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