2021-07-04 救いのために

2021年 7月 4日 礼拝 聖書:ヘブル11:7

 ふだん威勢の良いことを言ったり、偉そうな態度をしていても、いざ本気度が試される場面になると急に威勢の良さが失われ、他人の影にこそこそ隠れるような人がいます。

信仰者も、普段は立派な、信仰深そうな、聖書の知識が豊かにあるふうで話しをするのに、いざという時だめになる人がいます。それはかつての自分の事なのですが、信仰について、教会について聞かれてもどうどうと話せなかったり、もごもごと誤魔化したりするようなところがありました。

全国的に用いられるような有名な説教者が家庭の中では奥さんと上手く行って無くて家庭内離婚のような状態になっていたなんて話しを時々聞きます。そこまで深刻にはならなくても、でも普段言っていることを、いざ実行しなければならないというとき、赦しなさいでも、罪を言い表しなさいでも、すべてのことについて神に感謝しないさいでも、やるよりは、出来ない理由を考えることが、案外多いことに気づかされます。皆さんはいかがでしょうか。

今年度、月初めはヘブル11章に登場する信仰者たちの歩みを通して学んでいますが、今日は箱舟で有名なノアです。前回みたエノクのひ孫として系図の中には登場します。ノアの信仰とはいったいどのようなものだったのでしょうか。

1.ノアの時代と彼の信仰

まず、第一にノアはかなり悪い時代に、それでも神と共に歩む人でした。

ノアは創世記6章から登場し、10章のノアの子孫たちの系図までと、アブラハム登場前の物語としては結構なボリュームを割いて描かれます。もちろん、その中心にあるのは洪水物語なのですが、6章1~8節に、ノアの時代の様子が描かれています。

ノアの物語は、前回登場したエノクのことが書かれている系図の後に記されています。

6:1に「さて、人が大地の面に増え始め、娘たちが彼らに生まれたとき」とあるように、今や、聖書の世界は大きく増え広がった人類の物語となります。

創世記5章までで、人類は神を敬うセツの家系と、神から離れてしまったカインの末えいが暴力と不道徳によって人々を支配し、ますます悪くなって行く様子を描いていました。その中で僅かな希望としてセツに子どもが生まれた頃に人々は神に祈ることを始め、またセツの子孫からエノクのように、神の前に忠実に生きた人も出ました。しかし全体としては世の中は悪くなる一方でした。

その結果、6章にあるようなこれ以上ないほどに、人間社会は悪くなってしまったのです。

2節に「神の子ら」という不思議な存在が登場します。これは昔から謎の存在で、大きく二つの説明があります。一つは、堕落した天使が人間世界に入り込んだというもの。ちょっとファンタジーな感じもしますが、結構この説明を信じる人は多いです。私は別の説明の方が良いと思っていますが、神々の子孫を自称する人たちが神が定めた結婚のあり方を踏み外し、自らの力を誇示するために、美しい女性たちを次々と妻にし始めたことを言っているのではないかと思います。いずれにしても、そうやって生まれた子どもたちはネフェリムと呼ばれる古代の戦士たちになって行きました。それは、世界が暴力によって支配されていったことを物語っています。

実際、5節では「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった」とあります。

完全な善人がいないように、悪人の中にも善意や優しさがあるものですが、社会全体としては暴力と悪が支配的になってしまい、神様は人間を造ったことを悔やむとまで言われました。

そういう中で8節にあるように「ノアは主の心にかなっていた」のです。具体的なことは何も書かれていませんが、悪に染まる周りの人たちとは違う生き方、神の前に生きようとしていたのです。

導入部分が終わって、6:9節からいよいとノアの物語が語られます。ここで、ノアが「主の心にかなっていた」という言葉の意味が説明されます。「ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。ノアは神とともに歩んだ」。

この「神とともに歩んだ」は先月みたエノクの時も出て来た言葉です。しかし、実はノアの物語の終わりは、かなり恥ずかしい醜態をさらして終わっていることを考えると、ノア自身は決して完全な人ではありませんでした。それでも、その時代の中で神と共に歩み、正しい人であろうとしたことを、神様は喜び、受け入れていました。つまり、ノアは大きな決断を迫られる前から、普段から信仰によって生きていた人だったということです。

2.神の警告とノアの信仰

第二に、普段のノアの信仰による歩みが、いざという時の信仰の決断を生み出しました。

世界がどんどん悪に染まり、地上が暴力に支配されてしまったとき、神様がくだした決断は、ノアとその家族を除いて、すべての人類を滅ぼしてしまうことでした。そしてノアを第二のアダムのようにして、一からやり直そうと考えたのです。

人類滅亡や、言い方を変えれば人類抹殺計画のようなことを現代の私たちは、なかなか受け入れられません。愛の神であると言いながら、やることはエグいなと言うかも知れません。ある人が面白おかしく歴史上一番人を殺したのは誰か、というのを調べ、ダントツ一位は聖書の神だと言っていました。

しかし、神様は無慈悲な殺人鬼ではありません。神様はこの状況に心を痛め、悔やみました。単に気に入らなかったからとか、思い通りに行かなかったからということではないのです。神様は人をご自身に似せて造られた、一人一人が尊い存在です。人々が与えられた命をより良く生きるために、善悪を判断する能力、良心の働き、相手の気持ちを理解する共感する力、愛する心や憐れみの心、正義を求め行う力などを備えていてくださいました。その上で、自分たちは神ではないことを自覚し、創造主である神と共に歩み、神のことばに聞いて生きることを願ったのです。しかし、人間は神と共に生きるよりは、すべてを自分たちでやることを選びました。

その結果、人に与えられたあらゆる良きものが歪められ、力のある者が自分の思い通りに周りの人や世界をねじ伏せるような世界に変わり果ててしまったのです。これから先生まれる新しい命が皆生まれた時からそんな暴力に支配された地獄ような世界に生きなければならない状況を、これ以上見過ごすことは出来なかったのです。

そこで神様はノアに、破滅の時が近づいているから、箱舟を作り、自分の家族と動物たちを救うようにと語りかけました。そしてノアと新しい契約を結びました。

箱舟は石油タンカーくらいはある大きさで、建設にはかなりの時間がかかります。本当にそんな人類を飲み込むほどの大雨なんて降るのか分からない、その警告を信じて、かなり時間をかけて箱舟を建設するのどうか、ノアは決断しなければなりませんでした。

ヘブル書に戻ると、「ノアはまだ見ていない事柄について、…恐れかしこんで家族の救いのために箱舟を造」ったとあります。

ノアはただ自分たちが助かるために箱舟を作っただけでなく、他の人たちにも神の警告に耳を傾けるよう呼びかけていました。第二ペテロ2:5には「義を宣べ伝えたノアたち八人」とあります。また第一ペテロ3:19~20には、少々分かりにくい文章ですが、罪に捕らわれている人々に対して、箱舟建設の間に神の裁きと救いの道が宣言され、箱舟完成まで神様が忍耐して待っていてくださったことが記されています。

神が警告した裁きは、まだ見ていないことでしたが、彼はそれを信じ、それだけでなく耳を貸そうとしない人たちにもギリギリまで説得しようとしていたということです。そのような信仰は、急に出て来たものではなく、この警告を受ける前から、悪い世の中であっても神と共に生きようとしていたからこそ、いざという時に決断できたのです。

3.義を受け継ぐ者

さて、ヘブル書はノアが示した信仰が何をもたらしたかを続けて記しています。第三に、ノアは「信仰による義を受け継ぐ者」になりました。

信仰による義を受け継ぐってどういうこと?という質問も出て来ると思いますが、その前にもうちょっと気になる言葉が出てきます。「その信仰によって世を罪ありとし」という部分です。

なぜノアの信仰が世を罪ありとしたのでしょうか。それはどういう意味でしょうか。

箱舟が完成するまでの間、ノアと家族は周りの人々に、神の警告を伝えたらしいということを先ほどお話しました。どれくらいの日数を掛けて箱舟を建設したかは分かりませんが、コンピューターで設計され、そうとう効率的に建造できるようになった現代でもクルーズ船のような大きさの船でも一年近くかかるそうですから、いくらシンプルな構造の箱舟とはいえ、ほとんどノアの家族だけで、重機なんかない時代に、いったいどれほどの時間がかかったか分かりません。しかし、問題はそうやって少しずつ船が形を表して行く中で、ノアの家族以外の人たちはずっと神の警告を無視し続けたということです。書かれてはいませんが、海も川も湖もない山の上に箱舟を作るノアをあざ笑う姿が目に見えるようです。

神の言葉を信じて箱舟を作る側にまわるか、それを見て笑うか。箱舟は神に対する信仰、神を畏れ敬う心をあらわすしるしであり、それを笑う者は神に背を向けることでした。そういう意味で、ノアの信仰は、神に背を向けた世界を罪ありとしたのです。

一方ノアは「信仰による義を受け継ぐ者」とされました。

創世記には、あの酷い時代にあってノアが正しい人であったと記されていますが、ヘブル書によれば、その正しさは、行いの正しさや完璧さ、聖さというより、信仰によるものだということです。

実際、洪水のあと、新しい世界が始まった時に、ノアは収穫した葡萄でぶどう酒を作り、酔っ払って酷い醜態をさらしてしまいます。そのことで息子の一人に罪を犯させることになります。せっかく大洪水から救われ、すばらしい虹とともに、「もう洪水で人類を滅ぼすようなことはしない」と約束され、人類のやり直しのために選ばれたのに、人間としては完璧にはほど遠い人だったのです。

それでも、聖書は神が彼を正しい人と見做したと明言しているのです。それは悪に染まる世界の中で、神を信頼し、神の警告を真面目に受け取ったからなのです。

ノアのような人の正しさは、確かに回りの暴力と罪に支配された人々や世界に比べたらずっと立派であったに違いありません。しかし彼が義とされたのは、その行動の正しさではなく、神への恐れ、信頼のゆえです。そして神を畏れ、信頼するが故に、その信仰が周りの人と比べたら驚くほど違った生き方となって表れるのです。それは世界の堕落と暴力が、神に背を向けたことの結果であるのとちょうど正反対です。暴力や悪事を行ったから罪人なのではなく、神に背を向けたから彼らのうちにある罪を阻むものが失われ、結果として最悪な世界となってしまったのです。

そして、彼が信仰による義を受け継ぐ者になったということは、今日の私たちがイエス様を信じて義と認められたのと同じであること、同じ救いを受け取ったのだということです。

適用 私たちの信仰と行い

さてノアの物語は、私たちに何を語っているのでしょうか。

まず、ヘブル書のこの箇所が何よりも私たちに伝えようとしている事は、昔も今も変わらず、神様が私たちを正しい者、義と認めてくださるのは、私たちの行いの正しさではなく、神様を恐れ敬う信仰によるということです。

今の世界は良いところもあるけれど、ノアの時代と同じように全体としては神様に背を向け、無関係に生きようとしています。その結果、世界中に暴力、不公正、不寛容、差別、無関心があふれています。正直に生きる者ほど損をするようなおかしな社会になり、賢く振る舞え、ちょっとは狡さも必要だと囁く声が聞こえてきます。

そんな中で私たちが正しく生き続けることは決して簡単なことではありません。私たち自身の中に、相手を従わせたいという欲望があり、自分は得をしたい、違う考えの人や変わった人とは関わりたくないという思いがあり、困っている人がいても手を差しのばさないでいる理由を探すようなところがある。私たちはそういうところがあることに気づいています。

しかし、そんな不完全で、罪ある私たちも、それでも神を畏れ敬い、神の前にへりくだって神と共に生きようとする者を義と認めてくださいます。この義は、今月のみことばにもあるように、イエス様が神の求める生き方を完全になしとげ、十字架の上で私たちのすべての罪を背負ってくださったゆえに与えられる贈りものです。

もう一つ、特にノアの物語から教えられる特徴的なポイントは、神様の警告に対する切迫感です。ノアは「家族の救いのために」箱舟を作りました。洪水によって地の面のすべてを消し去るという神の警告は、今まで見たことも聞いたこともないような災厄でした。しかし、それがただの脅しやものの喩えではなく、罪に対する神の、間違いなく現実の怒りと裁きであり、直ぐそこまで差し迫っていると、はっきり感じ取ったから彼はその警告と助かる道を信じて箱舟を作り始めました。

この切迫感は今日、まじめに受け止められてはいません。世界の終わりが来ると世間を騒がせたヘンテコな宗教やデマのせいもあって、こういう話題を真面目には話す人は変人扱いされるか、面白おかしく取り上げられるだけです。しかしクリスチャンの中からさえも、この切迫感は見失われつつあるとも言われます。新型コロナが市内で増えて来たということには、切迫感をもって恐れるかも知れませんが、今の世界が向かっている罪に対する裁きとしての滅びを真面目に心配したり、自分の罪が神の裁きに値するということを真剣に受け止める人はどれくらいいるでしょうか。

もちろん、私たちの生活が、もうすぐ世界は滅びるという恐怖に支配されたり、四六時中緊張しているということは不健全です。そのようなことを神様が願っているのではありません。自分の生き方を見つめ直し、神を信頼しへりくだって生きるようにと呼びかけているのです。

そしてイエス様が、待ち構えていた裁きから救い、恐れや緊張ではなく、平安と喜びをもたらしてくださったことを心から感謝し、イエス様がたとえ話を通して教えたように、主が再び来られる日を覚え、ますます、与えられている日々を感謝と誠実さを持って歩むようにと私たちに応答を求めているのです。

私たちがこの地上でなすべきことは周りの人たちから馬鹿にされながら箱舟を作るような大きな仕事ではないかもしれません。しかし、プライドを捨てて自分の過ちを認めたり、見下していた相手に赦しを求めたり、怒りを治めて憎たらしい相手を責めるのを止めたり、勇気を出して助けの手を差し伸べたり、自分の主張より相手を受け入れたりする。そのような、主が私たちに教えてくださった生き方を、この世がどんなであれ、私たちは主を信じるが故にまじめに受け止めて行きましょう。それが終わりの日が差し迫っている、この時代の私たちにとっての箱舟づくりなのです。

祈り

「天の父なる神様。

ノアの信仰を通して、神様が私たちを義としてくださるのは、私たちの正しさではなく、あなたへの恐れと信頼であることを改めて教えてくださりありがとうございます。

同時に、この世界が今なお神様の前に立たされており、罪に対する厳しい裁きが差し迫っていることを真剣に受け止めなければならないことを思い出させてくださりありがとうございます。

イエス様によって与えられた救いがどれほど大きなものであったかを覚えながら、一日一日をあなたの御前で大切に歩ませてください。そして、今なお滅びに向かっている方々のために仕える者であらせてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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