2021-12-26 わがたましいよ

2021年 12月 26日 礼拝 聖書:詩篇103:1-22

 2021年も間もなく終わろうとしています。今年一年もこうして週ごとに皆さんとご一緒に礼拝を捧げ続けることができたことを心から感謝します。教会の営み、交わりは礼拝だけではありませんが、私たちが信じる神様を賛美し、イエス様の恵みとみことばに教えられ、励まされながら歩むために、リアルであれオンラインであれ思いにおいてであれ、ともに集まることは信仰による生活の中心にあることです。

一方で、二年にわたるコロナ禍の影響で様々な制約が続き、何かをやりきったという満足感や充実感からはほど遠い気分です。他の教会の様子を横目で見ながら、「あそこではこんなことをやってる」「あんなことを再開した」「おお、全然気にせずやってるなあ」などと思い、私たちの教会はどうしたらいいかと悩みながら、迷いながらの一年でした。

私たちの悩みはコロナの事ばかりではありません。マスクの下に様々な表情が隠れているように、交わる機会が少なくなってお互いの様子や変化になかなか気付きにくかったことも覚えます。辛さや迷いを分かち合ったりできず、人知れず悩んだり痛んでおられた方もあったと思います。

それでも一年の終わりには、ダビデとともに主をほめたたえて締めくくりたいと願うのです。

1.主が良くしてくださった

ダビデは自分自身に語りかけます。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。」

しかも軽く鼻歌でも歌うように賛美しようと言っているのではなく、「私のうちにあるすべてのものよ 聖なる御名をほめたたえよ」と、全力で賛美するよう自分に語りかけています。

2節から5節には、そんなふうに全身全霊で賛美すべき理由を挙げています。私たちは主が良くしてくださった一つ一つのことを忘れてはなりません。その中には罪の赦しがあり、癒やしがあり、良いもので人生を満たしてくださる豊かな恵みとあわれみがあります。ダビデはそう言うのです。

ダビデがこの詩をどんな時代にどんな状況で書いたのかは分かりませんが、「一生」という言葉が5節と15節に出て来ます。このことから、おそらく晩年の頃の作品ではないかと思われます。

まずダビデが一生を振り返った時に思い当たることは、主が良いもので満たしてくださったということです。ダビデの人生については旧約聖書にかなり詳しく描かれていますので、読んでみれば順風満帆な人生ではなかったことがすぐに分かります。

たくさんいる有能な兄たちの影に隠れているような、一介の羊飼いに過ぎなかったダビデが神に選ばれ、王となった。しかもイスラエルの歴史の中で最も優れた王となった、というところだけを見れば、びっくりするような成功物語です。しかし、その歩みの細かいところを見れば、苦労の方が多かったように思いますし、家庭内にも常に問題がありました。私たちが一年を振り返った時には「あんまりいい年じゃなかったな」と思う時もあるように、やはりダビデもその時々で、良いと時あれば悪い時もあったはずです。

それでも一生を振り返るような年齢になったときに振り返ってみれば、あのとき気づかなかった神の祝福、あの頃は見えていなかった神の恵みがあふれていたなあとダビデは思い出すのです。

思えば、兄たちからは「お前なんか何の役に立つか」と笑われるような者だった自分が王とされたことも、巨人ゴリアテと戦って信仰と勇気をイスラエルに示した時も、軍隊を率いて勝利を重ねていた時代も、被害妄想に囚われ精神的に追い詰められたサウル王のもとで命がけで仕えていた時代も、追っての手を逃れて隠れるようにして生きていた頃も、すべてが神の恵みであった。成功の影で家庭内に起こった様々なトラブル、自分自身の不倫とそれを覆い隠すために忠実な部下を死に追いやったこと、傲慢になって神に命じられてもいないのに人口調査を始めて家臣の不評を買った時のこと。そうした失敗の数々や、息子に謀反を起こされ逃げなければならない惨めさと痛み、愛する友や子供を戦いの中で失ってしまう悲しみ。

すべての場面でダビデの行動が正しかったわけではないし、過ちも犯し、そのための苦痛も味わいました。

しかし、振り返った時に、そこを通ることでしか得られなかったものがあり、絶望的な状況を通らされても、こうして振り返っているということ自体、恵みによって守られ、癒やされ、救い出されて来たあかしです。

もちろん、詩篇103篇は晩年を迎えた人のためだけのものではありません。今、神の祝福や恵みが見えなくなっている人が、豊かに注がれている恵みに気づき、主を賛美する者となるためです。

2.罪深さにかかわらず

6節から14節には神の義とさばきがどういうものか私たちに気づかされてくれます。それはダビデ自身が自分の数々の失敗を通して学んだことでもあります。

神様の正義、罪に対する報いとしての裁きは、考えると恐ろしい面もあります。しかし神様が実際になさることは、ちょっとでも間違いがあり、罪があれば容赦なく滅ぼしてしまうような恐ろしいものではありませんでした。

むしろ神の義とさばきは、弱い者、虐げられている者を守り支えるものとして表されました。神様は私たちが罪深い者であり、自分ではどうすることもできない弱い者であることをご存じなのです。

ダビデが経験した神のあわれみ深さは、モーセを通してエジプトで奴隷となっていたイスラエルの救出にまで遡ります。神様はそのとき、神の民として召し、歩むべき道を示されました。それは彼らが立派だったから、信仰深かったからではありません。ただ、アブラハムに約束したことに対する神の誠実さゆえです。救いそのものが神の恵みによるのです。

ですから、イスラエルの歴史を振り返っても、ダビデが自分の人生を振り返っても、義なる神様が示してくださったのは圧倒的な恵み深さでした。

8節の「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのに遅く 恵み豊かである」という言葉は、律法の中でも、詩篇の中でも、預言のことばの中でも、何度も繰り返されて来た言葉です。

創世記から、ついこの間まで見てきた小預言書の時代まで、聖書のそれぞれの物語には人間の罪深さとそれに対する神の懲らしめが延々と繰り返されているようにも見えます。そのため旧約聖書で描かれる神様は厳しい、怖いというイメージを持つ人も少なくありません。しかし、実際には神のあわれみと情けが際立っています。主は忍耐深く人々の歩みを見守り、励まし、待っていてくださいます。やむを得ず裁きを下さなければならない場合でも、そこには常に希望があり、回復の約束がありました。

この義なる神様の恵み深さが味頂点に達したのがクリスマスの出来事です。独り子の神が人となってお生まれになって、十字架で私たちの罪を背負い、救いの道を備えてくださったことです。ヨハネの福音書ではこのイエス様を紹介する箇所で「この方は恵みとまことに満ちておられた」と記しています。

たしかにイエス様は、パリサイ人や律法学者、祭司長たちの偽善やかたくなな態度に対しては手厳しかったですが、へりくだり、悔い改め、救いを求める者には、どんな罪人であっても、汚れた者とか、疎外された者であっても受け入れ、やさしく接してくださいました。

同じ恵みとあわれみが、私たちにも向けられています。

私たちは自分自身が間違ったり弱さがあったり、罪に陥り易いのを棚に上げて、他人に対しては、いつまでも怒っていたり、相手の罪に従って扱おうとしたり、報いてやろう、仕返ししようとしたりもする者です。神様はそんな私たちに、いつまでも怒ったりせず、あわれみ、私たちが小さく弱い存在であることを知っていて、心に留め、赦しを与えてくださっているのです。その恵みと憐れみはこの一年も私たちに注がれ続けていたのではないでしょうか。

3.小さい者にもかかわらず

さて15節にもう一度「一生」という言葉が出てきます。

ここでは人の一生がほんとうに短い、まるで野に咲く草花のようにはかないものだということが意識されています。しかも誰も気づかないほどに小さな存在です。

ダビデのような人でも、人生は短くはかないと感じていたのでしょうか。「風がそこを過ぎると それはもはやない。その場所さえも それを知らない。」と、人間なんて時の流れに埋もれて忘れられてしまうようなものだと言っていますが、ダビデはそうじゃないでしょう!と思ったりもします。ダビデは聖書の中で最も有名な人物の一人ですし、その名前は多くの人に知られています。

この言葉はダビデの個人的な実感でもあると思いますが、個人的な感想というより、永遠の神の前での人間の存在の小ささを表しています。信仰の遠い先輩にあたるモーセが書いた詩篇90篇にも似たような表現があります。「朝 花を咲かせても 移ろい 夕べには しおれてしまいます。」

実際、ダビデはそのような経験をしてきました。羊飼いであったダビデは預言者サムエルによって油注がれ、サウル王に代わる次の王として神に選ばれたことを告げられ、人生が大きく変わります。巨人ゴリアテとの戦いに勝利したことをきっかけにサウル王に仕えることになったダビデはめきめきと頭角を現し、人々の人気もサウル王をしのぐものになっていきます。

しかしそのようなやる事、なす事が上手くいっているような時間は長く続きません。嫉妬にかられてたサウル王はダビデの忠誠心を疑い始め、次第に命を狙うようにまでになってしまいます。

人気と尊敬を集めていたのもつかの間、ダビデは逃亡者となってしまうのです。

サウルの時代が終わってイスラエル全土の王となった後も、繁栄の時代はつかの間でした。いや、軍事的経済的には国として力を増し、揺るぎないものになってはいました。しかし彼の子どもたち同士の争いやスキャンダルはダビデを悩ませました。ダビデ自身の心の緩みがバテシェバとの不倫やその夫を亡き者にさせてしまう事件を引き起こしました。晩年には息子の謀反によって再び逃亡者となります。王として国を一つにまとめ上げることには成功しましたが、父親として家庭を治めることには失敗してしまいました。

国の力強さを誇ったダビデが、その勢いを確かめたくなって人口調査を行いますが、その傲慢さが神様の怒りに触れ、結果として多くの命を失うことになります。

咲いた花なんてあっという間に終わってしまう。それがダビデの経験したことです。しかし、この詩篇ではその経験を通して教えられた神についての真理が賛美されています。17~18節です。「主の恵みは とこしえからとこしえまで」。

ダビデが注目するのは神の恵みが永遠にまで続くことです。人生の短さ、はかなさと鮮やかに比較されるのは神の恵みの揺るぎなさと変わりのない永遠性です。

はかなく消え去っていくものに愛情と情熱を注ぐことを神様は無駄なこと、空しいこととは考えず、むしろこの小さき者、永遠の神様からみたらまばたきをする間に通り過ぎる者を大切にし、その短い人生の浮き沈みの中で御心を寄せてくださるのです。

適用 来年もまた

最後に19節から22節のまとめの部分を見て終わることにしましょう。ダビデの視点は、人生を振り返るものから未来を見つめるように変わっています。

人生を振り返った時に、自分自身の罪深さや弱さ、人生のはかなさに対して、神様の赦しと憐れみの大きさ、恵みの大きさ、永遠性ということに気づかされると、感謝は未来への希望に変わります。

王であったダビデは、やがて人間の王ではなく主ご自身が王となってすべてを治め、平和がもたらされ、天においても地においても賛美があふれるようになることを待ち望んでいます。

私たちはこの最後の場面が、最初のクリスマスの夜に羊飼いが見た光景に重なることに気づかされます。

救い主がお生まれになったことを羊飼いに告げた天使の大軍勢が歌いました。

「いと高き所で、栄光が神にあるように。

地の上で、平和が

みこころにかなう人々にあるように」

ダビデの願い、希望はイエス・キリストによって実現しました。イエス様は一度目に、最初のクリスマスの時に、人々に仕え、いのちを与える救い主として来られ、新しい時代をはじめてくださいました。イエス様が王としてすべてを完全に治める姿を私たちはまだ見ていませんが、神の国はすでに私たちのところに来ています。

御国の完全な姿を私たちはまだ見ていません。相変わらずこの世界には善なること、正しいことより、間違ったこと、悪が満ちており、私たち自身も罪の根深さに悩み、迷い、疑いやすい者です。しかしすでに私たちはイエス様の御国の民とされ、神の国は私たちの心と生活にじわじわと拡がっています。やがて主イエス様はすべてを治める王として再び来られ、私たちを慰め、完全に癒やし、回復させ、悪を滅ぼしてこの世界を本来あるべき姿へと取り戻してくださいます。

私たちはダビデのように選ばれた人しか経験できなかった神様の特別なお取り扱いや導き、神の恵み深さやあわれみを誰もが受け取れる時代に生きています。私たちのこの人生の中で、誰でも主イエス様が与えてくださる赦しと救い、喜びと祝福を受け取ることができます。それは様々なかたちで私たちの心と生活を豊かにしてくれます。一方、私たちの人生は短く、時としてこの世の暗闇、罪の力私たちを覆うことがあり、報われない労苦もあります。しかし生きている間がすべてではありません。私たちの望みはたとえ死んでもその先へと続きます。

ですから、私たちは今年一年、良いことも悲しい事も含め、様々あった一年を神に感謝し、また新たな希望を抱いて新しい一年を迎えることができます。

この希望があるから、私たちは労苦の多い歩みであっても忍耐し、報いられることがなくても隣人を愛し、拒まれることがあっても赦し、悲しむことがあっても涙とともに賛美を献げます。そして思い通りに行かないことが多くても、諦めたり放り出したりせず、私の人生の主は神ご自身であると告白し続けます。

この信仰に立って一年を感謝、あらたな年を迎えましょう。

祈り

「天の父なる神様。

今年一年の間、私たちとともに歩んでくださりありがとうございます。

喜ばしいことも、悲しいこともありましたが、あなたはご自身の約束に真実で、いつも私たちとともにいてくださり、私たちと重荷を分かち合ってくださいました。

病や困難の中にあり、信仰が揺らぐこともありましたが、あなたの御手は私たちの下にあり、支えていてくださいました。

私たちが気づくときも、気づかないときも、あなたは変わらずに恵み豊かで愛に満ちておられました。そうして今年も、わずかな前進ではあっても、主の道を進むことができました。

あなたが良くしてくださったすべてのことを何一つ忘れず、想い起こし、感謝して、また新たな希望をもって新年を迎えさせてください。

主にある兄姉姉妹、ここに集う求めるすべての者、その家族を主イエスの恵みで満たしてください。

主イエス・キリストのお名前によって祈ります。」

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