2022-01-23 十分の一の精神

2022年 1月 23日 礼拝 聖書:創世記14:17-20

 先週から献金についてお話していますが、今日はよく耳にする「十分の一献金」ということについてお話します。

何のことかと思う方もいると思いますので、まずは言葉の説明からはじめます。「十分の一献金」や「什一献金」という言い方があり、これは毎週の礼拝での感謝の献金とは別に、収入の十分の一を神様のご用のために献金することを云います。

十分の一というのは、わりと大きな額になりますし、収入の少ない人ほど負担感が大きく感じられると思います。そうなると適正な献金額はいくらなのか、考え込んでしまいます。場合によっては喜んで献げるというより、決まりに従っているという感覚のほうが強い場合もあります。あるいは、十分の一という割合の基準をどう考えるのか迷いがあるかもしれません。総収入なのか、手取りなのか、共働きの時はどうするのか、未信者の夫の収入だけで生活している場合はどうなのか。まあまあ細かい話しになりますし、金額に目が行けばいくほど喜びも薄れます。

しかし、そもそも十分の一というのはどこから来たものなのでしょうか。今日は、聖書の中で最初に十分の一を献げたアブラハムの箇所を開いています。聖書全体から十分の一とはいったい何なのかをご一緒に学びたいと思います。

1.アブラハムとメルキゼデク

第一に、アブラハムがメルキゼデクという祭司に十分の一を与えた出来事の中身をみていくことにしましょう。

アブラハムが神の召しに従って約束の地に向かったとき、一緒に旅をしてきた甥ロトの家族と別れる場面が13章に出てきます。両方の家が大きくなり、一緒にいて何かと衝突する場面が増えてきたので、別の道を歩むことにしたのです。その時、アブラハムはロトに選択を委ねました。彼らがソドムやゴモラという繁栄した街がある、ヨルダンの低地と呼ばれる豊かな土地に住むことを希望しました。アブラハムはカナンの地と呼ばれる地域に残りましたが、主はその地を約束の地として与えるとおっしゃってくださいました。

その後、古代の王たちの間に争いが起こり、その巻き添えを食うかたちでロトが家族と財産もろとも奪われ誘拐されてしまうという事件が起こります。

その知らせを聞いたアブラハムは、自衛のために戦闘訓練してきた318人の手勢をひきつれ奪還作戦に乗り出します。結果、敵を打ち破ってロトとその家族、奪われた財産を取り戻したのです。その時、ロトが世話になっているソドムやヨルダンの低地の被害者や奪われた財産も一緒に奪還したのです。

そうやって全てを奪い返し、帰って来た時に、ソドムの王が迎え出ますが、それとは別にメルキゼデクという人物が出迎えます。

この人は創世記の中でも一度しか出てこない人物で、素性がよく分からない人なのですが、サレムの王と呼ばれ、いと高き神の祭司であったとだけ紹介されています。仕えている神も、カナン人の神々の一つということではなく「天地を造られたいと高き神」ということですから、聖書が伝える神、私たちの信じているのと同じ神様に仕えていたということは分かります。

その時代の祭司がどういう役割なのか、どんなことをしていたのか、いつからそんな祭司が存在していたのかさっぱり分かりません。歴史の中に突然現れたメルキゼデクは、家族や関わりのある人々を救出したアブラハムを祝福をもって出迎え、そのしるしとしてパンとぶどう酒を持って来ました。

この時に、アブラハムは神の祝福に応えるように、メルキゼデクに十分の一、敵の手から取り戻したものの十分の一を与えます。もとの持ち主はもちろんロトやソドムの人たちですが、このような戦いで勝った者には奪ったものについての権利がありました。アブラハムは取り戻した財産のうち、十分の一はメルキゼデクに与え、一緒に戦ってくれた人々への報酬の分を与え、残りは全部元の持ち主に返しました。アブラハムは自分のためには一切の報酬を受け取らなかったのです。自分を祝福し豊かにするのは、人間ではなく、天地を造られた神、主だけだということをあかしするためです。

この出来事を通してアブラハムの高潔な態度が評価され、次の章で、神との契約が更新されるという話しにつながります。

しかし聖書全体ではメルキゼデクという不思議な存在が、後の救い主キリストを思わせる人物として取り上げられます。イスラエルの祭司の家系とはまったく無縁なメルキゼデクのような大祭司として、イエス様が神と人との間に立ってくださるというわけです。それもあって、十分の一を神への捧げものとすべき実例なのだという意見も出てくるわけです。

2.主への聖なるもの

第二に旧約の律法の中での十分の一律法について見ていきましょう。アブラハムの物語などを一つの実例として、律法の中ではすべての収穫の十分の一を神へのささげものとしなさい、という命令があり、旧約時代のイスラエルに与えられました。それはどういう意味があったのでしょうか。

代表的な箇所はレビ記のいちばん最後、27:30~33です。この十分の一のささげ物は通常の礼拝の時に献げられる全焼のささげ物や罪をきよめるためのいけにえ、感謝と交わりのためのささげ物などとは区別されています。

この十分の一は主が与えてくださった土地で生産されたあらゆる収穫物、家畜など、すべての収穫・収入の十分の一を神のものとしてささげなさいという命令です。もちろん、他のいけにえ、ささげ物と一緒で、神様が生きていくために必要なわけはありません。十分の一のささげ物が具体的に何のために用いられたかは民数記18:21に出てきます。

そこをみると、イスラエルの十分の一はレビ族に与えられたことがわかります。レビ族は礼拝やそれに関わるもろもろの用に当たる責任が委ねられました。それなのにレビ族はイスラエル十二部族の中で唯一相続地が割り当てられませんでした。主ご自身が彼らの相続地だという、ちょっと何を意味しているかわからない説明がありましたが、ここでその意味が明らかになります。イスラエルの人々がすべての収入の十分の一を主に献げ、そのささげ物がレビ族に与えられることで、彼らは礼拝のための働きに専念できたのです。

またこれとは別の十分の一律法がありました。今度は申命記14:28です。これは3年に一度集められる十分の一のささげ物で、レビ人に加え、寄留者、今でいうなら移民や難民、孤児、やもめなど貧しい境遇にある人々の支援のために用いられました。

こうしてみると旧約時代にイスラエルに命じられた十分の一律法は、礼拝のために専念する人々を支え、神の民の中にいる貧しい人々を支えるために用いられた、つまり神のみわざがイスラエルの中で実際に行われていくために献げられたのだということがわかります。十分の一を献げる人たちは、そのささげ物を通して神の働きに加わっていたのです。

十分の一をおろそかにすると困るのは神様ではなく土地をもたないレビ人や貧しい境遇の人たちです。神様の栄光が表され、人々への罪の赦しときよめ、聖書の教えがなされる働きは、レビ人を通して行われました。イスラエルの民の中の貧しい人々を支える神の恵みのみわざは、十分の一献金を通してなされました。

十分の一の律法は旧約時代のイスラエルの社会を維持していくため、とくに礼拝という信仰の要となる働きや、貧しい人々の支えという神のみわざを実際に行っていくために定められたものです。ですから新約聖書の時代、私たちクリスチャンにそのまま当てはめるものではありません。新約のどこをみても十分の一の献金を教えているところはありません。しかし、主の働きがなされていくために献げることは当然のこととして教えられてもいます。

十分の一という基準は無くなっていますが、みことばの働きに専念している人たちを経済的に支えることや貧しい境遇にある人々を支援するために献金することなどは具体的に教えられていました。

3.与える者への報い

第三に、十分の一を喜んで献げる者に神様はさらに豊かな祝福を約束されました。

申命記14:29で十分の一のささげ物によってレビ人や貧しい境遇の人たちが満ち足りるなら、主がすべての手のわざを祝福してくださるだろうと言われています。

十分の一律法はイスラエルの社会の中で神の御業がなされることに参加することですから、そのために心を砕き、ちゃんと取り分けて献げる者を神様が喜んでくださるのは当然のことです。

逆に、十分の一献金をおろそかにしたり、惜しんでしまったりしたらどういうことになるのでしょう。神様はもちろんお腹を空かせて困るということはありません。しかし、神様のために仕えている人々がお腹を空かせたり、イスラエルの民全体として支えるべき貧しい人々がお腹を空かせることになります。それは神のものとして取り分けるべき十分の一を盗むこととみなされます。

このことをもっとも強烈な言葉で指摘しているのは旧約聖書の最後、マラキ書です。いずれマラキ書も順番に見ていくことになりますが、今日はその一部を開きましょう。マラキ3:8です。

ここで十分の一律法の大事な精神が強調されています。十分の一の献げものは神のものとすべきだということです。そして、神のものを喜んで献げる者には神様が豊かに報いて祝福してくださることが10節の印象的な言葉で明言されています。「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、 わたしの家の食物とせよ。 こうしてわたしを試してみよ。 ──万軍の主は言われる── わたしがあなたがたのために天の窓を開き、 あふれるばかりの祝福を あなたがたに注ぐかどうか。」

新約時代になって十分の一律法が無効になったとしても、祝福と恵みをくださる神様によって与えられたすべての収穫、収入の一部は神様のものとして、神様のお働きのために献げるべきですし、喜んで与える者を神様が喜び、さらに祝福してくださることに変わりはありません。

コリント第二9:6~8を開いてみましょう。来週この箇所から私たちが献金を献げる時の具体的な決め方についてお話しますが、今日は神様が喜んで献げる者を祝福してくださるということが繰り返されていることに注目します。

6節には「豊かに蒔く者は豊かに刈り入れ」るという豊かな報いが備えられていること、7節には「神は、喜んで与える人を愛してくださる」という神様の慈しみ、8節には「いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる」ようになるとあります。献げる者への神様の祝福は、経済的な見返りが必ずあるという意味ではありませんが、必要を備えてくださる神様との愛の交わりが強められ、自分自身が満たされるだけでなく、他の兄弟姉妹のためになること、教会の働き、あらゆる良い働きを共に担っていく者になれるということまで含んでいます。

さらに11、12節では神への感謝が生み出され、13節には、喜んで献げることが福音の告白に対して私たちが従順であることを証しし、受け取った人たちはあなたがたを慕うようになると言われています。ささげ物が神と人、人と人の豊かな愛の交わりを紡ぎ出すのです。

適用 十分の一の精神で

さて、今日はイスラエルの民の礼拝と社会で特別な役割を担っていた十分の一のささげ物についてざっと見ながら、十分の一律法の精神、中心的な意味合いは何だろうかとご一緒に考えて来ました。

出エジプトの時代に律法が定められる前から十分の一をささげる習慣があったようです。また他の文化、たとえば古代の地中海世界、中国などでも十分の一を領主に献上するという習慣がありました。その地の支配者によって敵から守られ、無事に収穫が出来たことへの見返りとして十分の一を納めました。同じように、律法前にもアブラハムの子孫たちには神への贈り物として十分の一を献げていたのです。

律法が廃棄された新約聖書の時代以降、数世紀の間、教会では十分の一を献げるようにとは特に教えていませんでした。新約聖書に十分の一律法が続いていることを示す教えがないからです。教会で十分の一ということが改めて言われ始めたのは400年くらい経ってからです。迫害の時代が終わり、キリスト教がローマの公認になると教会は専用の教会堂を持つようになりました。教会はローマ教会を中心とする大きな組織になりました。8世紀後半に初めて、教会のある地区の住民に十分の一税という税金のかたちで献金が課せられるようになり、それがヨーロッパ全体に拡がります。教会の維持や、貧しい人の救援、聖職者たちの生活などのために用いられました。もともとの聖書的な十分の一の意味合いを持ちながらも、税金という強制力を持つものに変わってしまったのです。

16世紀に宗教改革が行われたときに、プロテスタント教会では十分の一税を廃止しました。次第にカトリック教会でも廃止するようになりました。

そのような経緯がありながらも、教会は会堂や設備の維持、聖職者への謝儀、伝道や社会的な働きなど教会の様々な活動にいつも必要がありますから、ある意味便利な基準として「十分の一」というふうに使って来ました。もちろん、お金を落として誰かに届けてもらったら1割お礼として差し上げる、なんてことは強制でも法律で決まっているわけでなくても古い習慣として残っている面もあります。決して根拠のない割合でもないわけです。

ただ、どうしても十分の一という割合が示されると、献金について一番考えることが金額になってしまいます。私たちが献金をするときに忘れてならないのは、十分の一という割合に合っているかや金額ではなく、十分の一の聖書の教えに込められた精神です。

私たちはあらゆるものを神様の恵みと祝福によって与えられています。働いた分の給料だとしても、働ける健康と力も機会も神様の祝福です。ですから、得たものの一部は神様のものとして、当然おささげすべきです。そして、神様はささげられたものを教会を通してなされるご自身の働きのために用いるようにと教えています。献げることは恵みと祝福への感謝であり、神様の働きに参加することであり、豊かな報いが約束されたことです。

海外で奉仕する宣教師などのために献金していると特別なつながりが出来ます。実際に会う機会のない人たちのために用いられる場合でも、献金すれば、その働きのために関心を持ち、祈るようにもなります。感謝と喜びをもって献げることを通して、神様や兄弟姉妹との深い愛の交わりが紡がれるのです。

献金が教会自身の働きに用いられる時、私たちは実際に神様の子地上でのみわざを目撃し、一緒に体験し、味わうことができます。現実問題としては、限られた予算の中で何をするかという話しになりますので、思い願う通りでない場合もありますが、それでも人が救われたり、教えられたり、励まし合ったり、地域に関わる働きにともに与ることができます。

このささげ物についての教えのシリーズは次回でお終いになります。来週は、旧約時代のイスラエル社会のための規則であった十分の一律法が廃止された今、私たちはどういう基準でささげ物をしたら良いのか、また聖書から学んでいきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

今日は特に旧約聖書を通して教えられている十分の一の意味合いについて学び、私たちの普段のささげ物にどう生かしたら良いかともに考えさせていただききました。

あなたからいただくたくさんの恵みと祝福の中から神様のものとして、喜んで献げる者にしてください。そしてますますあなたが私たちを祝福し、あなたの御わざにあずかる者とならせてください。

主イエス様のお名前によってお祈りいたします。」

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