2022-02-20 敵を愛するジレンマ

2022年 2月 20日 礼拝 聖書:ヨナ1:1-10

 聖書の教えには私たちの生活や人生をより良くするものが幾つもありますが、実践するのがなかなか難しいと思えるものもあります。その代表的な一つが「あなたの敵を愛しなさい」というものかも知れません。

敵の兵士に花をプレゼントした女の子の話とか、不正を訴えるデモ隊を排除しようとする武装警官に水を差し出す女性の話とか、心を打つような話しや写真はあるけれど、いざ自分だったらと考えるとなかなか難しいと感じます。

今日ご一緒に開いているヨナ書は預言者たちの中で、最も有名な預言者かもしれません。神様の命令に逆らって逃げ出し、海に投げ込まれて大きな魚にのみ込まれた話しはあまりに有名で、子どもたちに聖書を教える時にもかっこうの教材になっています。

しかしヨナは与えられた使命が怖かったから逃げ出したのではありませんでした。ヨナは、天地を造られた神が、イスラエルに敵対する者であっても、赦してしまう方だと分かっていたので従いたくなかったのです。ヨナ書は、旧約時代に敵を愛せよと言われるに等しい命令に拒絶反応を示した預言者を神様が取り扱った物語ということができます。

敵を愛することが神のみこころであると分かっていても、なかなか従えない私たちには、学ぶところの多い書物です。

1.水夫たちとヨナ

ヨナ書の最大の特徴は、ヨナが預言した内容がほとんど書かれていないということです。ヨナ書が注目するのは、神のことばを受け取った預言者ヨナ自身と、ヨナのまわりに登場するユダヤ人ではない人たちの行動です。

アミタイの子ヨナという預言者は列王記第二のヤロブアム王の物語の中に出て来ます。北イスラエル王国で最悪の王として知られるヤロブアムに神のことばを告げるために遣わされていたヨナです。

ところが神は、ヨナにニネベに行くようにと命じました。ニネベというのは当時、勢力を拡大しつつあったアッシリヤの方の首都で、昔から栄えていた街です。いわばイスラエルにとっては敵地であるわけです。ヨナの本心が何であったかは書かれていませんが、とにかくヨナはニネベ行きを拒み、逃げ出しました。

ニネベは内陸を東へ東へと向かって行くのですが、彼は正反対の西に向かい、船に乗り込んでタルシシュへと向かいました。タルシシュの場所はトルコ説とスペイン説がありますが、トルコの方なら、後にパウロが生まれたタルソということになります。

それはさておき、海では嵐になり、船は今にも難破しそうになります。屈強な水夫たちもこの異常な嵐に、これは普通ではない、乗組員か乗客の誰かが神を怒らせたに違いないと考え始めます。

一方、ヨナは船底で眠りこけていました。他の人たちが一生懸命水を掻き出したり、荷物を捨てたりして何とか沈没を免れようと必死に働いている時に、眠りこけているヨナにあきれて、せめておまの神に祈るくらいはしろよと叱ります。

水夫たちはくじを引いて誰のせいでこんなことになったか知ろうとしますが、くじはヨナに的中します。説明を求める水夫たちにヨナはこう答えます。「私はヘブル人です。私は、海と陸を造られた天の神、主を恐れる者です。」

自己紹介としては立派ですが、その神から逃げて来たヨナが言うとなんだか滑稽です。自分で言っては恥ずかしくなかったのかとも思います。そしてヨナは自分を海に放り込めば、神の怒りは収まるだろうと言いますが、水夫たちはそれでも何とかヨナを殺さずに嵐をやり過ごそうと頑張ります。

ついに水夫たちは14節で、この男を海に投げ込むけれど、そのことで私たちを罰しないでくださいと、必死に誤りながらヨナを海に投げ入れます。するととたんに嵐は治まりました。

この光景に、水夫たちはヨナが言っていた天地を造られた主なる神様を恐れ、へりくだって主に礼拝を捧げました。

海に投げ込まれれば死んで、神の命令に従わずに済むと思っていたヨナですが、主は大きな魚にヨナをのみ込ませていのちを助けます。その魚の腹の中でヨナは祈りました。その祈りが2章です。

ヨナ書の中で一番長くて立派そうに見える祈りですが、ちょっとどうなんだと思うところがあります。2節で「苦しみの中から、私は主に叫びました」、7節で「私のたましいが私のうちで衰え果てたとき、私は主を思い出しました」と祈っていますが、あんた預言者じゃないの?と言いたくなります。このヨナの祈りは悔い改めっぽいけど、これからはなんでも言うことを聞きますから、この苦しみから救ってください、という祈りのようにも見えます。実際、彼は自分が神に背いたことについてはひと言も謝っていません。

2.ニネベの悔い改め

それでも神様はヨナの祈りを聞き届けます。

主は魚に命じてヨナを陸地に吐き出させました。そして、3章で再び主はヨナに、ニネベに行くようにと命じます。

今度は主のことばどおりにニネベに行きますが、これが実はしぶしぶ従ったのだということが後でわかります。

ニネベは非常に大き町で、歩き回るのに三日かかるほどでした。

ヨナが告げた預言のことばはとても短いものです。もちろん、他にも言葉はあっただろうと想像するのですが、「あと四十日すると、ニネベは滅びる」という簡潔すぎる言葉は、ヨナが実際に、わりとあっさりとした口調で、あまり説明もせずに預言したことを表していると考えられています。

なぜ滅びるのか、誰が滅ぼすのか、いったいどんな罪があったので裁きを招くことになったのか、普通の預言書はちゃんと語っているものです。たとえば前回みたオバデヤ書にはエドムの高慢さがしっかり描かれ、それゆえに神ご自身がさばきを下すと警告が発せられていました。

このあまりにあっさりな預言と対照的に、ニネベの人たちは熱心に悔い改めました。人々は神を信じ、身分の上下を問わず断食をして悔い改めました。それは王の耳にも入り、王様自身も王服を脱ぎ捨て、粗布をまとい、灰の上に座り、神の前にへりくだり悔い改め、そしてニネベのすべての住民、家畜にさえも、自分たちの悪い行い、横暴さを悔い改めて回に立ち返るよう、お触れがだされるのです。家畜さえも、というのは少し誇張した表現だとは思いますが、それほどニネベの人々の悔い改めは熱心で、自分たちの罪の中身も自覚した本物の悔い改めでした。

2章のヨナの悔い改めっぽい祈りの中に、苦しみの中でへりくだって、助けを求めていても、自分が神の命令に背いたことや逃げ出したことについて何も語っていないのとは大違いです。

神様はニネベの人々の真剣な悔い改め、単に後悔したり、滅亡を恐れて回心したフリをするのではなく、本気で悪の道から立ち返ろうとしたのをご覧になって、さばきを下すことを思い直しました。

もっとも、その後、アッシリヤは世代交代をする中で再び力を増し、それにつれて高慢になり、北イスラエルを滅ぼした後に、あっけなくバビロンにひっくりかえされてしまいます。しかし、この時代のニネベの人々はまことの神の前に遜りました。

ヨナ書が私たちに明らかにしてくれる大事な真理の一つは、神様は神の民とされた人たちのことだけを気に掛けているのではないということです。海と陸を造られた神とヨナが言ったように、神はこの世界のすべてを創造された方です。神様にとっては、神の民であろうとそうでなかろうと、どれもが大切な存在であって、悪に陥り滅びてしまうのを望んではいません。しきりと預言者達にイスラエルの周辺の国や民族の高慢さ、暴力を非難しているのも、彼らが悔い改め、へりくだることを願ってのことです。もし滅ぼすことが願いであるなら別にそんな警告などせず、有無を言わさずやってしまえばいいのです。しかし神は悔い改めの機会を与え、待ってくださいます。そしてニネベのように悔い改めるならお赦しになるのです。それは今日でも変わりません。誰であっても、神はその人が自分の罪のために滅びることより、救いを得ることを願うのです。

3.ヨナの怒り

ニネベの人々が悔い改め、災いが回避されたことで一件落着といきたいところですが、そうはなりませんでした。神様がニネベへの災いを思い直したことで、一気に不満を爆発させたのが預言者ヨナです。

ここまで反抗的な人をどうして神様は預言者にしたのか不思議ですが、ヨナはわざわざ神に祈って、その不満をぶつけました。へそ曲げて祈ることをやめたり、失望して教会に行くのをやめる人はいますが、ここまで不満爆発なヨナは祈るのです。面白いですね。祈りは宗教的な行為というより、ごく自然なコミュニケーションの方法として根付いているということかもしれません。夫婦や兄弟の間で問題があったときに言い争いになることがありますが、口をつぐみ心を閉ざすよりずっと健全なのと似ています。

それはともかく、ヨナの言い分はこうです。神が情け深くあわれみ深い方だから、彼らが悔い改めたら赦してしまうのがいやだった。だって、彼らは神の民の敵ですよ、こんなことなら死んだ方がましですとまで言うのです。

気が収まらないヨナは都の東側にある小高い山に行き、自分で小屋を建て、何が起こるか見届けることにしました。もちろん何事も起こらないのです。すでに神はニネベの人々をお赦しになっているのです。しかしヨナは納得できず、諦めきれませんでした。もしかしたら私の気持ちを汲んで、何かやってくれるかもしれないという期待なのか、あるいはここまでの気持ちを分かっていて、神様何もしないんですかと、神を試す様なことだったのかも知れません。

神様はニネベに対して何かをする代わりに、ヨナのために一本のトウゴマの木を備えて日陰をつくってくださいました。大きな葉っぱの木で、実からはヒマシ油が採れるそうです。

ヨナは涼しい木陰を喜びました。そこから一日中、神様がニネベをどうするかと眺めていました。やはり何事も起こりません。

事件が起こったのは翌朝のことです。滅びたのはニネベではなく、木陰を作ってくれていたトウゴマでした。神様は一匹の虫に木をかじらせました。するとトウゴマは枯れてしまったのです。葉っぱは落ち、日が高く昇るにつれて気温は上がり、日差しがヨナを直撃しました。またまたヨナは腹を立てて「死んだ方がましだ」と言い出す始末です。

神様はヨナに問いかけます。あなたの怒りは当然のものか?ヨナは「私が死ぬほど怒るのは当然のことです」と答えます。もう何もかも神様のなさることがただただ腹立たしいといった風です。

しかし神様はさらにヨナに語りかけます。「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」ヨナの怒りが正当なものかは問題の本質ではありません。一夜で滅びたトウゴマをヨナが惜しむなら、まして天地を造られた神が、ニネベの人々や家畜たちを惜しむのもまた当然ではないか?と問いかけるのです。

ヨナ書には、神様の問いかけにヨナがどう答えたかは記されていません。ヨナ書の目的は、ヨナがどう答えたかではなく、ヨナ書を読む人が、この神様の質問にどう答えるかを問うものだからです。

適用: 神の愛とあわれみ

ヨナ書は、旧約時代にあっても、新約時代と変わらぬ神様の愛とあわれみが表れている特別な書物ということができます。下手をすると、神の民だけが特別愛され、他の国々は神の計画を実現するために使い捨てにされる駒のように扱っているという印象を持たれたり、イスラエルに対する忍耐強い助けとあわれみに比べ、他の国々には容赦の無い裁きをくだすかのように思われるかもしれません。中には「だから一神教の宗教は独善的で嫌いだ」という結論になってしまうことがあります。

けれども、ヨナ書が明らかにしているように、天地を造られた神様は、この世界のすべてを大切にしておられます。民族や国に関係なく、イスラエル人だろうが何人だろうが、罪に対する裁きはあるし、赦しの道は常に開かれているのです。

有名なヨハネ3:16にはこうあります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

この世界のすべてのものを愛しておられるからこそ、神様はひとり子イエス様をお与えくださいました。そして第二ペテロ3:9にはこうも記されています。「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

神様がニネベの人たちが悔い改め、救いを得る事を望んでヨナを遣わしたように、今なお、神様はこの世界の一人でも多くの人が悔い改めて、神の前にへりくだることを待っていてくださいます。だからこそ、イエス様は「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」と私たちクリスチャンを遣わし、「あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。」と言われるのです。

しかし、私たちはしばしばヨナの失敗を繰り返してしまいます。「あなたの隣人を愛しなさい」という聖書の基本的な命令があることはクリスチャンでなくても知っています。そして、その意味するところがクリスチャンである兄弟姉妹を愛するだけでなく、クリスチャンではない隣人を愛すること、そして敵であっても愛することだと、イエス様が明らかにしてくださったことを私たちは知っています。知っているのだけれど、いざ実践となると難しい。ヨナのようにその問題に背を向け、逃げてしまいます。

先日、家内と話しをしているとき、過去に心に傷つけられた人に会えるかという話題になりました。私は正直、今でも顔は合わせたくないという気持ちのほうが勝っていることに気づかされました。そういうことをする人たちがいったいどんな理由でそんな酷いことが出来たのか、何かその人にも解決されていない深い闇があったのかも知れないと頭では分かります。それでも、それを聞きたいとも理解したいとも、まして同情したいとも思えない、冷ややかなものがまだ残っていることにがっかりしました。

そういう、心の中で作り上げた敵や、実際に嫌がらせをしたり、高圧的な態度を取るような人がうまくいったり得をしていると腹が立つし、自分や家族を傷つけるような人をも愛せと言われることに深く傷付くことがあるのが私たちかもしれません。

それでも、私を愛して、頑なで冷たい心を持ち合わせ私をあわれんでくださった神は、他の人のことを同じように愛しているから、滅びるのを望まず、その命を惜しむのだと、私たちに語りかけるのです。3000年前のヨナへの問いかけは、今なお私たちを立ち止まらせ、考えることを求めています。

祈り

「天の父なる神様。

敵の国であるニネベに遣わされたヨナと、ヨナを取り扱う神様のことばを通して、あなたの愛の深さと憐れみを教えてくださりありがとうございます。

その愛の深さゆえに私たちも罪赦され、救いをいただいたのですが、私たちはその愛に相応しく他者を愛することがなかなかできない事があります。

どうぞ私たちを憐れんでくださり、ヨナのように頑なで反抗的なままでいることのないように、あなたのご愛をより深く知り、その愛に留まることができますように。

主イエス・キリストの御名によりお祈りいたします。」

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