2022-04-17 三度の問いかけ

2022年 4月 17日 イースター礼拝 聖書:ヨハネ21:15-19

 今日はイースターです。主イエス様の復活を祝い、喜び、記念する日です。毎年、日付が変わるのは、月の動きによってカレンダーがつくられていた時代の名残で、春分の日以後の満月から最初に訪れる日曜日となっています。とはいえ、正教会では少し数え方が違っていたり、そもそも4世紀くらいまでは統一されていませんでしたので、これはあくまで伝統的なものという程度のものです。

大事なことは日付ではなく、何を祝うかということです。

今日はご一緒にイエス・キリストによって与えられる復活のいのちによって生きるとはどういうことか、ペテロの再起の場面を通して思い巡らしていきたいと思います。

再起といえば、今は解説者をしていますが、かつて素晴らしい才能に恵まれた人気のピッチャーがいました。しかし肘を怪我してしまい、手術を受け、リハビリを急ぎすぎたため再手術が必要になるなどだいぶ苦労し、復帰まで4年半近くかかってまいました。

暖かく大きな拍手で迎えられた復帰戦は私もテレビで観て、非常に感動したのを覚えています。挫折を越えて再び立ちあがる姿は周りの選手たちにも勇気を与えるものでした。

ペテロの立ち直りは、スタジアムから大きな拍手で迎えられるようなものではありませんでしたが、それ以上に私たちの心に訴えるものがあります。

1.弱さと愛に向き合う

第一に、ペテロが挫折から立ち直るために、イエス様は彼の弱さとイエス様の愛に向き合わせました。

イエス様が復活されてから、すくなくとも三週間は経っていると思われます。舞台はエルサレムからガリラヤ地方に変わっています。墓を訪ねた女性の弟子たちに天使がガリラヤで待つようにと告げたのを聞いて故郷に戻ったのでしょう。

しかし錦を飾るように胸を張って故郷に戻ったのではありませんでした。すでにイエス様がよみがえられたことは分かっていましたし、11人の弟子たちは少なくとも2度は直接お会いしています。

けれどもその様子はどこか浮かないものでした。12人いたはずの仲間はユダの裏切りによって一人欠けたままです。イエス様が捕らえられた時に逃げ出した事実は変わりませんし、どんな顔をして故郷の人々と会ったらいいか分からなかったかも知れません。

こんな自分たちをイエス様が本当はどう思っているのか。あれほど、イエス様が王座に着いたときは大きな栄光と責任を任されるとワクワクしていたのに、もうそんなことは望むべくものないのではないか、そんなふうに思われましていたかも知れません。

手持ち無沙汰な弟子たちでした。それでもお腹は空きます。もともと漁師だったペテロは同じ漁師仲間だったヤコブやヨハネらと共にガリラヤ湖に舟を出し、漁をすることにしたのです。

3年半前、この舟を置いてイエス様に従っていったことを否応なく思い出されます。

しかし一晩中湖のあちこちに網をおろしてみますが、一匹も捕れません。東の空が白み始め、もう間もなく夜が明けようとするき、岸辺に誰かが立っています。「魚、捕れなかったみたいですね」「だめでした」そんなやりとりのあと、岸辺の人が「舟の右側に網を打ってみなさい。そうすれば捕れます」と声を張り上げます。

一晩中空振りの漁をして疲れていたのか、ペテロは何か答えることもなく、やってみるかと網をおろしました。すると、どこにこんなたくさん隠れていたのかと思うほどの魚が入っていました。

その時、ヨハネが岸辺に立つ人がイエス様であることに気づくのです。彼はペテロに「あの方は主だ」と告げました。そう、この場面は以前、ペテロがイエス様の弟子になるきっかけとなった出来事の再現でした。ペテロは一気にイエス様との最初の出会いまで引き戻されたのです。ほとんど裸だったペテロはとりあえず失礼のないように服を着ましたが、急いでイエス様のもとに行きたかったのでせっかく服を着たのにそのまま湖に飛び込み岸に向かいました。ちょっとちぐはぐで滑稽な場面ですが、ペテロは大真面目です。

イエス様は火を起こしておいてくれました。そして捕れたばかりの魚は手早く捌かれ、朝食が始まりました。イエス様はパンも用意しておいてくださったので、またしてもデジャブのように弟子たちの前にはパンと魚が整えられることになりました。

食事の間は穏やかな時間が流れました。もうイエス様が誰かを尋ねる者はありません。イエス様が弟子たちを今も愛しておられることが弟子たちに伝わるのに多くの言葉は必要ありませんでした。

そうやってお腹も満たされ、心に落ち着きを取り戻したところでイエス様はペテロに語りかけます。彼の弱さとイエス様の愛に向き合わせるための質問が投げかけられるのです。

2.再び主を愛する

第二に、主はペテロに、もう一度自分の言葉でイエス様を愛すると告白することを求めました。

それは、ペテロの立ち直りの核心部分に主イエス様への愛がなければならないことを示しています。ただ、従いますと言うことではなく、あるいは、自分はダメなやつですと卑下することでもなく、主を愛する者だということが、イエス様との関係を修復し、立ち直るために絶対に必要なことでした。

ですからイエス様の質問はペテロの愛を問うものでした。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」

この質問の仕方は、過去のペテロの自信過剰な物言いを思い出させます。イエス様が捕らえられる前に、他の誰かがイエス様を見捨てることがあっても、決して私はあなたを見捨てませんと言い張りました。見方によってはだいぶ酷な質問とも言えます。一度裏切った相手を愛しますと言ったとしても、どれだけその言葉に信憑性があるでしょうか。その場しのぎの誤魔化しはイエス様には通用しないことはペテロも重々承知です。そしてペテロは誰よりも、イエス様を愛しているつもりですが、その愛が揺らぎやすく、弱いものであることを今は自覚しています。でも、もう無理ですと言うこともまた自分を偽ることになります。

そんな以前のペテロからは考えられないような、ためらいと自信のなさを滲ませながら「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と答えます。

言い方は少し変わっていますが、同じ質問が三度繰り返され、ペテロもまた三度同じように答えます。主を愛しますと三回繰り返してペテロの心はより強く固まったりせず、むしろ、答えるごとに心の痛みは強くなります。3回目の質問をされたときには、当然、イエス様を三度知らないと言ったことを突き付けられ、心を痛めてこう答えました。「主よ、あなたはすべてをご存じです」

ペテロの答えは三回ともとても短いですが、短い言葉だからこそ深い思いが表れます。イエス様はペテロの弱さをよく知っていました。彼がイエス様を知らないと言ってしまう前からそうなることをご存じでした。それでも彼を見捨てることなく、信仰を失ってしまうことのないように祈り、立ち直ることを信じて期待しました。

ペテロ自身も、今は自分の弱さを知っています。かつて、他の誰よりもイエス様を愛すると言った傲慢さ、根拠のない自信は打ち砕かれ、固い意志だと思っていたものがどれほど脆いか思い知らされています。それでも、かつて漁師だった自分を招き、「わたしについて来なさい」と言ってくださったイエス様。共に旅をし、教え、導いてくださったイエス様を愛する心は残っています。もしかしたら、その愛すら本物なのか、これから先も失われることがないのか、再びイエス様を裏切ってしまうことはないのか、そう問われると、「大丈夫です」とは言い切れなかったかも知れません。それでも、愛しているかと問われたら、自信はないし、根拠もないけれど、愛していますと答える以外にはなかったのです。

しかしイエス様にとっては、それで十分でした。まるでペテロの三度の否定を上塗りするかのように、愛しますと三度告白するよう導き、立ち直って新しく生き直させと励ましてくださったのです。

3.新しく生き直す

第三にイエス様は、ペテロに新しく生き直す道を備えてくださいました。自分で道を探せと放り出すのではありません。反対に細々とやるべきことを指示してガチガチに縛るのでもありません。ペテロのやるべきことを示し、その中でペテロが考え、置かれた場と状況の中で創意工夫する、賢いしもべのように務めを果たすことを期待されました。

イエス様がペテロに示したことは「わたしの小羊を飼いなさい」ということでした。言い方は少しずつ変わり、「わたしの羊を牧しなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と三度繰り返されます。

羊を飼うとか、牧するという言葉は、現代の牧会という言葉に通じるものがあり、なんとなく「ペテロは今でいう牧師の務めを委ねられた」というふうに思うかも知れません。しかし、イエス様はペテロに牧師としての役割を与えた、というふうに理解するのは、少しイエス様の意図を狭めてしまいます。

イエス様はこれまで弟子たちを教える時に、ご自身の働きを良い羊飼いになぞらえて、一人一人を愛し、一人一人の名前を呼び、迷子になったものを連れ戻し、守り、いのちをかけて仕えていると語って来ました。そして弟子たちにもそのように仕える者であるようにと教えて来ました。他のクリスチャンを、小羊であろうが、大人の羊であろうが、老若男女を問わず、愛をもって仕えなさいという教えは、ペテロのためだけの言葉というより、すべてのクリスチャンに対して、それぞれが置かれた場所や委ねられた働きの中で、愛をもって仕えるよう教えているものと言うことができます。

イエス様は、私たちに他者を愛し仕える生き方を示し、新しく歩み直すようにと励ましているのです。

しかしイエス様はペテロに対して新しい歩みへ導くだけでなく、その先には望まない苦しみもあることを告げます。あなたの未来はバラ色だ、良いことだけが待っている。きっと何でも思い通りになる。そんな言葉だけの見せかけの希望を与えたりはしません。

ペテロは若い時には自分の足で旅をし、計画したことを実行することができるでしょう。その意味では未来は明るく開けています。しかし、いつまでもうまくいくことばかりではありません。ペテロの場合は晩年には自分の運命は、自分の望みより他人の意向に左右されるようになるのだとイエス様告げます。使徒ヨハネははっきりと、ペテロの死に方について告げたのだと解説しています。つまり、彼は捕らわれの身となり、彼の運命を他人が決め、望まない死に方をするのだということです。事実彼は、ローマで殉教をします。以前、イエス様が弟子たちに「自分の十字架を負ってわたしについて来なさい」と言われましたが、人々を愛し仕える人生には、思いもかけない苦難が伴います。その上で、「わたしに従いなさい」とあらためて覚悟を決めるよう求めたのです。

もちろん、どんな人生を送ろうと、それぞれに労苦があり、困難が伴います。楽しいだけの人生なんてありません。イエス様に従う人生だから良いことづくめではありません。それどころか、信仰ゆえの労苦を伴います。それは見方によってはずいぶん損な生き方かも知れません。けれども、それこそがイエス様が私たちのためにしてくださったことなのです。

適用 復活のいのちに生きる

今日はイースターということで、イエス様の復活にまつわる箇所を取り上げました。今年はイエス様の復活の出来事そのものではなく、復活のイエス様にお会いしたペテロがいかにして立ち直り、新しく歩み出すよう取り扱われたかを見る事が出来ました。

教会ではよく「キリストの復活のいのちにあずかる」というような言い方をします。キリストのいのちによって生きるとはいったいどういう事か。「死んでもいつの日か天国で新しいいのちいによみがえるので、今はその時をじっと忍耐して待つ」というだけではありません。そういう面はもちろんあるのですが、復活のいのちに生きるとはもっと現実的で、積極的な意味合いがあります。

ペテロのように自分の弱さを知って遜らされた者が、立ち直り、主イエスに励まされて新しく生き直していく。新しい使命を自分のものとして生きていく。それゆえに労苦することがっても、主イエスにならって従っていく。そんな生き方が、復活のいのちに生きる姿です。

聖書は私たちに、神様がイエス様を死者の中からよみがえらせた力を与えると約束しています。その意味するところは、私たちが肉体的にも精神的にも無敵になることではありません。それは病気をしたり、体力や気力が衰えたりする中でよく分かります。神様の力はダイナマイトの語源になったデュナミスというギリシャ語から来ていますが、そんな爆発的な力がみなぎるような気分になったのはいつのことだったか忘れてしまったかも知れません。

しかしこの力の働くのは、肉体的に強化することでも、精神的に強化するのとも違い、霊的なものです。

イエス様はペテロに語ったように私たちにも語りかけています。「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

そして同じように、こうも語りかけます。「あなたはわたしを愛していますか。わたしの羊を飼いなさい。」

自分が本当に弱く、足りない者であることに直面し、遜らされた上で、それでもイエス様を愛します、イエス様が託してくださったことを受け取りますと、告白する力を与え、新しく歩み直させてくださるのです。

三度の問いかけの後で、ペテロらしいひとつのエピソードが添えられています。使徒ヨハネのことが気になったペテロが「主よ、この人はどうなのですか」と聞いたのです。しかし、イエス様は彼は彼、あなたなあなた。あなたはわたしに従いなさいと言われました。他の人の生き方、働き方は気になるものです。ペテロは壮絶な最期を遂げますが、ヨハネは12人のうちで一番長く生きました。自分の方が大変な歩みをしなければならないとか、あの人のほうが楽そうだとか、あの人がやるなら私もやるとか、人と比べ始めると余計な不満や高慢さが顔を出します。周りの誰かがどうだというのは考えず、イエス様が私に何を語りかけているかにじっくり聞いて、「あなたはわたしを愛するか」という問いかけにしっかり向き合って、自信はなくとも「はい、あなたを愛します」と心を込めてお答えしましょう。イエス様は私たちのために新しく生き直す道と力を備えていてくださいます。

祈り

「天の父なる神様。

主イェス様の復活を祝うこの日に、あらためて復活のいのちによって生きることについて思い巡らす時を与えてくださり、ありがとうございます。

私たちはしばしば、自分の弱さや足りなさに失望し、嘆く者ですけれども、イエス様がそのような私たちのために取りなしていてくださり、慰め、力を与えて、再びイエス様を愛し、イエス様に従って歩むよう、新しく生き直させてくださる方であることを感謝します。

どうか、私たちが失敗し、弱さや恐れゆえに躓くたびに、何度でも手を差し伸べてくださるイエス様に、愛しますと答え続けることができるように助けていてください。この世にあって、イエス様のいのちによって生きることを味わわせてください。

主イェス様のお名前によって祈ります。」

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