2022-05-29 再び幸いをくだそう

2022年 5月 29日 礼拝 聖書:ゼカリヤ8:9-17

 乱気流という言葉を聞いたことがあると思います。かなりの高さの空で空気の流れが激しく乱れることを言いますが、人生や感情の浮き沈みの激しさを言い表すのに乱気流という言葉を使うことがあります。

実際に乱気流というほどのものを経験したことはありませんが、飛行機に乗っていてCAさんに「機体が揺れますのでベルトをしてください」などと言われると結構緊張します。たぶん、慣れた人には「これくらいまだまだ」と言うことかも知れませんが、滅多に飛行機を利用することがない私のような人間には、あのふわっと揚がって、急にストンと落ちるような感覚はなかなかスリリングで、ちょっと気持ち悪くなります。

ゼカリヤ書にはそういう乱気流のような、読む者を混乱させるところがあります。実は、福音書に描かれるイエス様の様子ととても関連の深い預言が記されているのですが、全体としては脈絡のつかみにくい幻が次々と現れ、振り回される感じがするのです。

しかしゼカリヤ書のテーマははっきりしていて、今日読んでいただいた8:15にあったように神様がもう一度、ご自分の民に幸いを下そうと決意したからもう恐れるな、というメッセージなのです。どんな事情でこの預言が語られ、そして今、これを読んでいる私たちにはどんな意味があるのでしょうか。

1.もうすぐ70年が満ちるのに

第一に、イスラエルの民は疑いの中にいました。もうすぐ約束の70年が経つというのに、本当に神様は私たちを救ってくださるのか、という疑いの中にいたのです。

皆さんは、約束の時間が来たのに相手がなかなか現れずいらいらしたことはあるでしょうか。先日、夜に保険屋さんから電話があるはずだと、夕飯も後回しにして待っていたのですが、1時間以上たってもかかってこないので、夕飯を食べ始めました。そしたら皆さん、ご想像の通り、食べ始めてちょっとしたところで電話がなったのです。イスラエルの民は、もうすぐ約束の時が来るというのに、なかなか実現しそうもない状況にいらいらしていました。

1:1を開いてみましょう。前回も名前が出て来たダレイオスというペルシャ王の名前が出てきます。ゼカリヤは先週みたハガイとほとんど同じ時期に活躍した預言者だということがわかります。

捕囚は70年続くと預言されていました。もうすぐその70年が満ちるというタイミングでペルシャ王キュロスの命令によって神殿再建のためにユダヤの民はエルサレムに帰還していました。しかし彼らはなかなか厳しい現実に直面していたのです。

第二年の第八の月、というのはハガイ書と比べてみると、どんな時期だったか分かってきます。少し振り返りながら、どんな状況だったか確認してみまそう。

エルサレムに帰還した民が基礎工事のあと二年間工事を中断したままになっているときに、預言者ハガイが主のことばを告げました。自分たちの住まいや暮らしのことばっかり気に掛けて、何のためにエルサレムに帰って来たか忘れているんじゃないかと発破を掛けたのがハガイ書1章でした。彼らが自分たちの豊かさばかり気に掛けて、神殿建設をおろそかにしたのは、彼らが強欲だったからというより、実際に生活が厳しく、いくらかでも暮らしを豊かにしたいというやむにやまれぬ面もあったのだということが想像できます。イスラエルが滅びた後にその地域に入り込んで我が物顔で支配していた人々にしても面白くない話しですから、邪魔をする、脅迫する、政治的な圧力を掛けるなど妨害してきます。そんなこともあっての二年間の中断だったわけです。当然、そうなると人々の関心は神殿再建より自分たちの暮らし向きのほうに傾きます。

しかし主の呼びかけに応えて人々は神殿再建工事を再開しました。それから一ヶ月後に預言者ハガイはもう一度主の言葉を告げていました。昔の神殿の素晴らしさを知っている老人たちは落胆しているかも知れないが、主が栄光をもたらす日を待ち望んで今やるべきことをやりなさい、あなたの仕事をやり遂げなさいと励ましたのです。その一ヶ月後の8月に今度はゼカリヤが主の言葉を伝えるために遣わされます。

ハガイ書の後半では、神殿を建設したとしてもイスラエルの民が本当に悔い改め、主に対して誠実に歩もうとしなかったら、彼らの建てる神殿はなお汚れたままだと警告されていました。ゼカリヤも、彼らに先祖たちと同じ道を辿らないようにと警告します。

基礎工事が終わり、神殿再建が再開されてもなお、彼らの心は一向に良くなる気配のない暮らし向きが気がかりで、70年後に主がメシヤを送り、新しいエルサレムを立てるという約束が本当かどうか、そうとう疑っていたのです。

2.捕囚を招いた罪と新しい希望

第二に、ゼカリヤは捕囚を招いた罪に再び陥らないように警告し、新しい希望に目を向けるよう語りました。

1:2~6でゼカリヤが最初に告げたことは、先祖たちと同じ道を辿るなという警告でした。かつて主に背を向けて、立ち返るようにとの再三にわたる呼びかけを無視して結局滅びてしまった先祖たちと同じ道を辿るな、「わたしに帰れ」と呼びかけたのです。

3節中程「わたしに帰れ。―万軍の主のことば―そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。―万軍の主は言われる。」

イスラエルの民は、すでに中断されていた神殿再建にもう一度取りかかってはいましたが、このように主に帰るよう呼びかけられるような何かを抱えていたということです。

1:7から6章まではゼカリヤ書を特徴づける幻の数々が次々と記されていきます。これが乱気流の中を飛ぶ飛行機のように、読む者を混乱させるゼカリヤ書の特徴になっています。黙示録にちょっと似ています。実際に読んでいくと、実に多彩な光景が繰り出されて、何とか頭の中でイメージしようとするのですが、イメージ自体が突飛なものもあり、それが何を意味しているかまで、すぐには分からないものが多いです。解説書などを読めば、なるほどそうなのかとなりますが、なかなか混乱させられます。

カラフルな色の馬に乗った人たちが出て来たり、4つの角が出て来たり、計り綱を持った人がエルサレムを測りに行ったり、空飛ぶ巻物が現れたり、カゴに入った女性が翼の生えた人たちに運ばれていったり、またまた馬に乗った人たちが出て来たり。途中では当時のイスラエルの指導者だった大祭司ヨシュアと総督ゼルバベルの幻も出てきます。一つ一つの幻には御使いによる説明もありますが、全体として何を言わんとしているか、ちょっと掴みにくいのがゼカリヤ書ならではです。

とても大雑把にまとめると、これらの幻を通して語られているのは、70年の終わりは近づいている。その捕囚をもたらしたイスラエルの過去の罪がある。しかし今新しいエルサレムの希望があり、それは全世界の希望となり、世界は神のことばによってきよめられる。しかし救い主による王国が到来するためには神に対して誠実でなければならない、ということが言われています。イスラエルの先祖たちはいつも神様に背を向け、わざわいを招いて来たのです。同じ道を辿ってはならないのです。

しかし、そんな歴史が永遠に繰り返されるわけではありません。神様が備えてくださるメシヤ、救い主がやがて来られるのです。

6:9~15で神様はゼカリヤに大祭司ヨシュアを尋ねて、金と銀で作った冠を被らせ、「若枝」と呼ばれるある人物について預言するよう言われました。その人は新しい神殿を建て、王座について王国を治めます。その傍らには常に祭司がおり、王と祭司の間には平和の計画がある、というのです。実はこれも一つの幻です。一見、若枝と呼ばれる王は神殿再建の指揮を執っている総督ゼルバベルで、王の傍らにいる祭司は大祭司ヨシュアのことのようにも読めます。しかし、実はこの若枝こそが、イザヤが預言した切り株から生え出るひこばえとして描かれた救い主、メシヤです。王であり祭司である救い主イエス様についての預言になっています。この方にこそ、平和の計画があり、すべてが建て直される希望があります。

3.祝福の約束と民の誠実さ

第三に、希望は確かにあるけれど、それを受け取る備えは出来るているかとゼカリヤは問いかけます。

今日お読みした箇所の中では、神様がわざわいではなく、もう一度祝福を与えようと決意していることを明らかにしておられます。

8:9~17の中には二度、9節と13節で「勇気を出せ」と励ましています。70年の捕囚が終わって、本当に神の救いは来るのかと疑う民に対して、その時は来るのだと断言し、だから勇気を出しなさいと励ましています。

神様の決意は、背いたイスラエルに裁きをくだすという断固とした決意と同じ強い決意をもって、祝福を与えるというのものです。しかし、先祖たちは何度もその祝福を台無しにしてきたという歴史があります。だから今のあなたがたも神様に対する誠実さ、みことばに対する誠実さがないなら同じことになる。つまり、あなた方は神が与えようと強く決意されたこの祝福と救いを受け取り、新しい神の国に入る準備は出来ているのか?と問いかけているのです。

ゼカリヤの時代、捕囚から解放されてエルサレムに帰って来た人々は、もう70年になるのに本当に神の約束の時は来るのかと疑いましたが、神様は、約束は果たされるのだから、あなたがたは先祖たちのような道を辿らないよう、誠実でありなさいと励ましました。約束の救いの完全な実現ではなくても、ゼルバベルとヨシュアの指導のもとで実際に神殿は再建されます。この希望を信じて今を誠実に生きなさいというメッセージは、すでにイエス様来られた後の時代に生きている私たちにも語られています。なぜなら、神様の救いのご計画の完成は今もまだ未来のことだからです。

ゼカリヤ書の残りの9~14章にはやがて来られるメシヤ、キリストと、その王国についての希望のイメージが記されます。

9~11章は特に来たるべきメシヤ、キリストについて、12~14章はそのメシヤがもたらす御国について述べられます。

たとえば9:9はキリスト預言として有名なものの一つです。柔和で、ろばの子に乗ってエルサレムに来られる方。福音書に記されているエルサレム入場と重なります。11章には約束された方が羊飼いに喩えられます。羊飼いはイスラエルの指導者たちに拒絶され、銀30枚で売られます。イエス様を死に追いやったユダヤの指導者たちとユダの裏切りに重なることはすぐに分かります。

12章からは再び、神様の正義が悪を討ち滅ぼし、人に新しい心を与えてくださるという御国の到来についての預言です。12:10には「恵みと嘆願の霊を注ぐ」、13:1には「罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる」。13:9には「わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『主は私の神』と言う」とあります。これらは福音を聞き、救いを求めて悔い改めイエス様を信じた人々に聖霊が与えられ、民族や国籍に拘わらず、神の子どもたち、神の民と呼ばれるようになる姿と重なります。しかし、この御国の完全な成就は未来のことです。ですから私たちの時代から見ると、これらの預言の半分すでに成就し、残りはやはり待ち望んでいます。

そして、ゼカリヤの時代に語られたように、私たちはこの未来の希望を待ち望んで、今日を神に対して誠実に生きよと励まされているのです。

適用:来るべき御国を待ち望んで

ゼカリヤ書の一つ一つの幻と預言はかなり複雑で説明しようと思うと膨大な時間がかかりますので今回は細かいところまで立ち入ることができませんでした。しかし、大事なメッセージは分かります。

神様の約束は本当に果たされるのだろうかと疑う心、疑ってしまうのも仕方がないような状況というのはいつの時代にもあります。

それは希望を知りながらも疑ったイスラエルの人々の心情と重なります。彼らは新しいエルサレムの栄光と平和という希望が、実際の自分たちの生活の安定や豊かさに結びついていない現実に戸惑い、不安になり、「本当なんだろうか」と疑い、いつ実現するか分からない約束より、目の前の暮らしを何とかしようとしたのです。

クリスチャンになるとき、もしかしたら「イエス様を信じたら、平安と喜びに満たされるよ」とか「神様の愛に満たされるよ」と言われたかもしれません。

ところが現実のクリスチャン生活では、むしろ真逆ではないかと思うようなことに直面します。信仰を持ったことで家族から反対されたり、友だちが離れていったという経験がある人もいます。本当に良かったのだろうかと不安になります。喜びどころではなくなります。神様の愛どころか、相変わらず赦せない人がいたり、憎たらしい人がいたりします。

教会の交わりも、家族的で愛に溢れたすばらしい場所に思えたけれど、クリスチャンになって中に入ってみたら、案外人間的なところが多く、頑固な人がいたり、我がままを通そうとする人もいる。たちの悪いことに、そういうことをクリスチャンらしい敬虔そうな言葉や振る舞いで上塗りして誤魔化している、そんな人が目についたりします。

まるで再建された神殿が思っていたのと違うと嘆いたイスラエルの老人たちのようです。そうなると、聖書を学んでもしかたがないと考えたり、みことばの約束や命令を聞き流すようになります。それがますます満たされない心と迷路に迷い込ませてしまうことに気づかないまま、あるいは気づいても意固地になってしまう、そんなことが起こりがちです。

しかし、神様の救いのご計画をきちんと理解すれば、まさにそういう私たちを神の子どもとするためにキリストはおいでくださり、裏切られ、拒絶されて十字架にかかってくださったのだということが分かります。信仰の歩みには戦いもある。自分の罪深さに気づかされる面がある。愛のなさを知ることになる。キリストにあって結ばれた教会という絆は気をつけて一緒に育てていかなければならないものであることを知ることができます。

そうして、未来の御国の希望に向かっていく道のりの途上にあって、今日の歩みを誠実に歩むことが神様の願いだと知れば、私たちは落ち着きを取り戻すことができます。

そうやって私たちは日々の暮らしの中での小さな勝利や前進を喜び、大きな赦しの中にあることに安心し、互いにへりくだることを学び、相手を気遣うことを学んでいき、愛の内に建てられるということを知っていくのです。

ですからゼカリヤを通して語られた主のことばをもう一度覚えましょう。「わたしはあなたがたを救う。あなたがたは祝福となる。恐れるな。勇気を出せ。」

神様は、私たちを祝福しようと揺るがぬ心で決意しておられます。私たちを世界の祝福としてくださいます。そのことを信頼して、勇気をもって歩んでいきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

約束された主イエス様が私たちのためにおいでくださり、救いの道を開いてくださいました。その良い知らせを聞いて、イエス様を信じる者としてくださり、ありがとうございます。

しかし、私たちは今も待ち望む者です。イエス様が約束されたように御国を完全な姿でもたらし、すべてを救い、すべてに報い、喜びと平安で満たしてくださる日を待ち望んでいます。

日々の暮らし、信仰の歩みの中では忍耐が必要です。心が揺らぐこともあります。どうぞ眼を開いて主が祝福を与えるという強い決意でおられることを見つめさせ、勇気をもって歩めるようにしてください。

救い主イエス様のお名前によって祈ります。」

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