2022-07-24 仕えるために来られた王

2022年 7月 24日 礼拝 聖書:マルコ10:35-45

 福音書はイエス様の伝記だというふうに説明されることがあるのですが、いわゆる現代的な意味での伝記ではありません。

私の手元にも何冊か、伝記がありますが、そこには主人公となる人物の出生。両親のことや家庭環境、場合によっては何世代か前まで遡って書かれたりもします。子供時代のエピソードや青年時代の葛藤と挫折、大きな働きを成し遂げるまでの物語が感動的に描かれます。

けれどもマルコの福音書にはイエス様の誕生の物語も子供時代の話しもありません。物語を盛り上げようという工夫はあまり感じられず、イエス様がしたこと、語ったこと、出会った人々、出かけたところを淡々と紹介していくかのようです。その際、「それからすぐに」というフレーズが何度も出てくるので、せっかちな印象も受けます。恐らく性格とは関係なく、この福音書の目的ゆえにわざわざこういう書き方をしたのだと思います。実はマルコの福音書は、物語の体裁としていますが、むしろ記録集のようです。1:1にこの福音書の主題がドンと記され、すぐに本題に入っていきます。マルコは「神の子であり、キリストすなわちメシヤであるイエス様の福音のはじめ」がどうであったのかを描こうとしています。

では、早速マルコにならって本題に入っていきましょう。

1.ガリラヤにて

第一に、イエス様はガリラヤ地方で、イエス様が神の国をもたらすメシヤであることが示されました。

この福音書の著者はマルコで、彼はペテロとパウロの同労者で、一緒に宣教の旅に出かけたりしました。新約聖書の中でもっとも早く記されたマルコの福音書は、主にペテロが語り伝えたイエス様の教えや働きをまとめて福音書を書いたと考えられています。

マルコの福音書は大きく三つの部分に分けられます。第一部の1~8章前半はガリラヤ地方を舞台にし、第二部の8章後半から10章はエルサレムに向かう旅の途中。そして第三部の11~16章はエルサレムが舞台です。

先ほどもお話したように、マルコの福音書にはイエス様の誕生にまつわるエピソードがひとつも書かれておらず、イエス様がバプテスマを受けるシーンから始まります。

このときイエス様にバプテスマを授けたバプテスマのヨハネは、イザヤが預言した「荒野で叫ぶ者の声」であることが明らかにされました。その声の登場は約束されたメシヤが到来し、神の国が実現することの前触れでした。

ヨハネは人々に「やがて聖霊によってバプテスマを授ける方が来る」と予告し、直ぐ後でイエス様がバプテスマを受ける場面が続きます。その時、マルコの福音書のキーワードの一つが出てきます。11節です。天が開いて声がしました。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」

1:1でマルコが示したテーマ「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」の神の子であるという部分が、さっそく父なる神ご自身のことばによって明らかにされたかたちです。

40日の荒野の試みを経てイエス様のガリラヤでの働きがはじまりました。そして、イエス様の福音とは何であるかがすぐに示されます。15節「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

そしてすぐにイエス様は多くの病人を癒し、悪霊につかれた人々を自由にしました。1:41ではツァラアトにおかされた人に「わたしの心だ。きよくなれ」とご自身の権威を示し、2:5では4人の友人が屋根に穴を開けてまでしてイエス様のもとに運ばれた病人には「あなたの罪は赦された」と宣言なさいます。

こうしてイエス様が神の国をもたらすメシヤであり神の権威を持っておられることを示したのです。

しかし人々の反応は様々でした。このあたりはマタイの福音書で見たのと同じですが、約束のメシヤ、キリストであると期待する人々、態度を決めかねる人、拒否する人がいました。

今日、福音書に記されているようなかたちでイエス様が目に見える姿で私たちに触れて病気を癒すような奇跡を行うことはありませんが、癒やしや奇跡がないという意味ではありません。イエス様が私たちの祈りに応えて回復を与えてくださったり、心が解放されたり、罪が赦されきよめられる経験を私たちはします。

しかし、イエス様の時代と同様、そうした回復を与えてくださるというイエス様が本当に神なのか、人をだまして金を巻き上げる怪しい者なのかと、人々の反応は様々です。もちろん、イエス様に期待し、求めて聖書を学び始めたり、教会に来る方々もおられます。

2.旅の途中で

第二部にはいると場面は旅の途中へと変わります。

ここではイエス様がキリストであるとはどういう意味なのかが重要なテーマになります。

人々がキリストについて抱いている思い、メシヤに期待していることと、実際にイエス様がなさろうとしていることは違っていました。神様が救い主として送ってくださった方は、人々が期待したとおりの方ではなかったのです。

マルコの福音書の中の第二部は8:27から10章までになります。この旅の途中で、イエス様は弟子たちに三度「十字架につけられて殺され、三日目によみがえる」というお話をしています。マタイと同じように、キリストはイザヤが預言した「苦難のしもべ」だと明らかにしたのです。イエス様はその話しをする前後での対話を通してキリストとはどういう者かを弟子たちに教えようとしているのです。しかしなかなか彼らは理解できませんでした。

最初はピリポ・カイザリヤ地方に向かった時、あのペテロの信仰告白を引き出した場面です。マタイの福音書の時も観ましたが、イエス様はまず他の人々が何と言っているかお聞きになり、その上で弟子たちに「ではあなたがたは誰だというか」と問いかけます。ペテロはすかさず「あなたはキリストです」と応えます。しかしイエス様はすぐに誰にも言わないようにと厳しく戒めます。

それは、イエス様がキリストであると信じたペテロをはじめとする弟子たちでさえも、実はキリストについて間違った理解をしていたからです。それは病気を癒された人たちに口止めしたのと同じ理由です。間違った期待を増長させてしまう恐れがありました。

ユダヤ人の多くはキリストがダビデ王の再来で、イスラエルをローマの支配から軍事的、政治的に解放し、独立した新しい神の国を興してくださる方だと考えていました。

そんな弟子たちにイエス様は「捨てられ、十字架につけられなければならないのだ」と衝撃的なことを告げたわけです。ペテロはイエス様に「そんなことはだめだ」と言い出すのですが、「さがれサタン」と厳しく非難します。

この後もイエス様は十字架の予告をするのですが、第二部のはじまる9章ですぐに山の上でイエス様の姿が変わり、モーセとエリヤが一緒に現れる場面があります。そこで再び、天から神の声がして「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」と言われるのを弟子たちが聞きます。ふたたび神様が、イエス様を神の御子であると宣言なさり、その言葉をよく聞くようにと言われるのです。

しかし第二部の中で弟子たちがいつも議論していたのは「誰が一番偉いか」ということでした。

そんな弟子たちにイエス様がおっしゃったことが今日、読んでいただいた箇所に出て来る大切な言葉です。

このときも十字架の話しの直後でした。ヤコブとヨハネがこっそりイエス様に取り入ろうとしたことで腹を立てる弟子たちを集め、語りかけたのです。「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」イエス様がキリストであるとは、仕える者になり、人々の救いのために贖いの代価としてご自分のいのちを与えることなのです。

3.エリサレムにて

イエス様がキリストであるとはどういうことかを教えた後で、イエス様と一行はエルサレムに入ります。11章から16章がエルサレムを舞台とした第三部になります。

マルコの福音書全体の実に三分の一以上が最後の一週間に焦点を当てているわけです。マルコはここでイエス様のエルサレム入場が、新しい神の国の王としての入場であるということを特に強調しています。

ろばの子の背に乗って入場するのはもちろん同じです。9~10節に人々がイエス様を向かえて叫んでいる言葉が記録されています。その中で「祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。」とあります。主の御名によって来られる方、イエス様は約束のメシヤとして、ダビデの後継者として、新しい国をもたらすのだということです。

もちろんそこにはユダヤ人たちの誤解が含まれています。彼らの期待したようにではありませんが、それでも確かにイエス様は王としてエルサレムに入ったのです。

エルサレムに入ったイエス様は、マタイでも見たように神殿で商売している人々を追い出し、イスラエルに指導者たちを厳しく批判して、権威ある者として振る舞います。

しかし、もうすでにマタイでも見て来たように、イエス様はこの後イスラエルの指導者たちによって十字架に引き渡されてしまいます。この十字架の死は弟子たちがイエス様を守り切れなかったせいでもないし、イエス様の計算ミスでもありません。それがイエス様の王となるための道なのです。なぜならば、イエス様が人々の王となるのは、力で敵を滅ぼすことによるのではなく、すべての人の敵である罪と死からご自身のいのちの代価と復活によって解放することによって王となるからです。

14章で最後の夜に弟子たちと一緒にとった食事は「過越の食事」です。エジプトの奴隷だった先祖たちが解放されるために流された小羊の血を記念して神の救いを思い起こすためのものでした。しかしこの食事でイエス様はパンと杯をイエス様の十字架での苦しみと流された血を思い起こすためのものとして新たな意味を与えました。主は私たちのために命を代価として与えることで王なる救い主となったことを、私たちは聖餐式のたび毎に思い出すのです。

それから十字架の場面へと移っていきます。イエス様がバプテスマを受けたときは天が開き御霊が鳩のようにくだって神の声が聞こえ、山の上では姿が変わり栄光に輝く姿が描かれていましたが、十字架の場面では神は沈黙し、あたりは暗闇に包まれました。

しかしこの闇に包まれた状況でイエス様が確かに神の子であると語ったのは父なる神ではなく、異邦人の百人隊長でした。

15:39「この方は本当に神の子であった。」この告白が意義深いのは、ユダヤ人ではなく異邦人、しかも処刑を実行した部隊の隊長であることと、イエス様が息を引き取ったのを見た後での告白だという点です。

人々の失望や妬みと悪意、そして神の怒りを表すような闇に閉ざされ、弟子たちも逃げ出し、女たちは悲しみながら見守るしかない中で、ただ一人、十字架につけられ死んだ神の子であるイエス様がメシヤ、キリストであると理解したのです。

適用:後日談~あなたはどうする

マルコの福音書は16章の復活の記事で幕を閉じるのですが、ここがなかなか厄介ではあります。

というのも、お手元の聖書を見ていただくと、8節の後半に一行あけて括弧書きで女の弟子たちがペテロたちに言われたとおりに報告したことや、イエス様が弟子たちを通して世界中に福音を伝えたことが記されています。

また9節から20節もやはり括弧書きの中にあって、復活の日の朝の出来事から宣教命令、天に挙げられるイエス様、福音宣教にでかけた弟子たちのことが書かれています。これには欄外に注釈がついていて、重要な写本には欠けているとあります。どうやら、マルコが書いたのはおそらく8節前半までで、括弧書きの8節後半と9節以下は後から付け加えられたものと考えられています。内容としては、マルコが書いた部分と、そのメッセージに対して弟子たちがその後どう応答したのかが記されているので、間違った内容ではありません。教会はこの部分も含めてマルコの福音書、聖書として受け入れて来たということです。

しかし8節前半でマルコが筆をおいたのだとすると、もう一つ疑問が沸いてきます。イエス様がよみがえったと伝える御使いたちを見て女の弟子たちが恐ろしさのあまり逃げ出した、というどう考えても中途半端な終わり方をしているように見えるからです。

なぜそんな終わり方をさせたのかというと、マルコはこの福音書通して、読む人たちに「あなたがたはイエス様に対してどのように応答するか」と考えさせようとしているのです。

福音書を通してイエス様が「確かにこの方は神の子だった。しかし仕えるために来られた王であり、十字架の死を通して王となられた方である」ことが示されました。ところが弟子たちは復活の知らせを聞いたとき、驚いて逃げ出してしまいました。これを見て、あなたがたはどう考えますか?と問いかけているのです。

マルコは事実を淡々と並べることでかえってイエス様がどんな方であったかを鮮やかに描き出し、その背後にあるイエス様の深い愛と犠牲、そして権威を思い起こさせます。

私たちはイエス様を心に思うとき、その救い主としての愛と従うべき方としての権威を思い浮かべる必要があります。イエス様は私たちの思い通りに願いをかなえてくれる便利な神様ではありません。私たちを支配していた罪と死から解放するためにご自分のいのちを差し出すほどに愛してくださいました。

世の中の権力者はその力を誇示するために良い車に乗り、たくさんの警備に囲まれ、他人を犠牲にしてでも自分の理想を押し通そうとするでしょう。しかし、私たちの王である方は頼りないロバの子どもの背に乗り、臆病で逃げ出してしまう弟子たちに囲まれ、神の国という理想は語ってもその実現のために自らを差し出しました。まさに仕えるために来られた王なのです。そのことを思う時、私たちはこの方を信じる者として、仕える者、愛する者であらねばと思わされます。弟子たちのように、イエス様の素晴らしさを知ってもなお逃げ出したり、臆病風に吹かれる私たちですが、弟子たちが変えられたように、主が共にいてくださることで、私たちもまた変えられるのです。私たちは絶えず、イエス様がどのようにして王となられたのか。そのことを思い巡らすべきです。

祈り

「天の父なる神様。

今日はマルコの福音書から、イエス様が十字架の死を通して王となられた方であること、仕えるために来られた王であることを学びました。

どうか私たちの心を、そのイエス様のお姿に集中させてください。私たちは自分の利益や、自分の願いや、自分の思い込みに捕らわれてイエス様がどんな方だったか見えなくなってしまうことがあります。そのためにどれほど振り回され、疑い、怒りに捕らわれることでしょうか。

どうぞ、絶えずイエス様の仕えられた姿、このような私のために十字架でいのちを差し出してくださるほどに愛することで王となり、私たちを解放してくださる方であることにしっかり目を留めさせ、心に刻ませてください。

そのことによって、私たちの心と生活が新たにされていきますように。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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