2022-08-07 いのちを得るために

2022年 8月 7日 礼拝 聖書:ヨハネ20:24-31

 長い間クリスチャンとして教会に集い、聖書を学んでいても、分かったようでよく分かっていないことがいくつかあります。もちろん、聖書の真理ですから、私たちに理解できることには限りがありますし、人生を重ねていかないと解らないこともあります。

そんな分かったようで、分かっていないかもしれないことの一つが「いのち」ということかもしれません。

先週、ヨハネの福音書の前半でイエス様がいのちを与えるために来られたということを学びました。今日のタイトルは「いのちを得るために」です。いったいイエス様が与える「いのち」とはどういうものでしょうか。

肉体的な生命とは違う意味合いがあるのはなんとなく解りますが、ではどう違うのかと言われるとなかなかうまく言えません。しかしこれが間違いなく大切な言葉であることは解ります。

今日は月初めの主日ですので、今年のテーマである「主の回復の年」にちなんだ内容でもあります。ヨハネの福音書後半から、エデンの園で人類が失ってしまった「いのち」をイエス様が与えようとしておられること、それがなんであるか、どうすればそれを得られるのか学んでいくことにしましょう。

ヨハネの福音書の後半は大きく三つの部分に分かれます。

1.最後のことば

最初は13~17章で、ここには最後の晩餐の日にイエス様が弟子たちに語られた最後のことばがまとめられています。

イエス様は弟子たちの足を洗うという、しもべの役割を買って出て「あなたがたもこうしなさい」と互いに仕えることを教えました。それから、皆で最後の過越の食事の席に着きました。そしてイエス様は最後の教えを語り、祈りを捧げていきます。

まずイエス様はユダの裏切りについて語り、ユダが裏切りを実行するために席を離れた時に13:31で栄光を受ける時が来たことを告げます。そしてすぐに34節で「新しい戒めを与えます」と言って「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」とお命じになります。

そして14章ではやがて訪れる天の御国に私たちのための場所を備えてくださり、そこに行くまでの間、助け主として聖霊が与えられることを教えます。聖霊は私たちを励まし、導き、私たちが神の愛に留まり続け、互いに愛し合うのを助けてくださいます。父なる神、子なる神、聖霊なる神が愛の交わりの中にあって一つであるように、私たちを神の愛の中に結び合わせてくださいます。

そして15章ではそのような神と私たちの間に愛があり、留まっているなら豊かな実を結ぶことができることを、ぶどうの木のたとえを用いて教えます。そして再び互いに愛し合うこと命じます。

15章後半では、弟子としての歩みには反対に直面したり、迫害されることもあることを予告なさいました。しかし16章で弟子たちが迫害に直面する前に、まずイエス様ご自身が苦難を受け、その後、天に挙げられ弟子たちのもとを去ることになることを告げます。そしてまたイエス様が去ることで聖霊が遣わされることになり、実はそれが私たちにとって良いことなのだとおっしゃいます。

人としておいでになったイエス様は、人でもあるがゆえに一箇所にしかいられません。しかし聖霊が遣わされるなら、聖霊が私たち全てにイエス様の心と思いを伝え、栄光を現してくださいます。

イエス様がこれから受ける苦難は確かに大きなものですが、それは赤ちゃんを産むときのお母さんの苦しみのようなもので、喜びに至るものです。弟子たちも悲しみ、苦しみ、やがて経験する反対や迫害に苦しむでしょうが、それらはすべて喜びに至るものです。

16:33でイエス様は「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」と私たちを励まします。

これのことを話してから17章ではイエス様の長い祈りが記されています。その祈りの中で、イエス様がこの世界に来られた目的がいまいちど語られます。2節です。「すべての人に…永遠のいのちを与えるため」です。続く3節では永遠のいのちとは何かが語られます。「唯一のまことの神であるあなたと、あなたがた遣わされたイエス・キリストを知ることです」

知識として知るとか、理解するという以上に、神の愛、イエス様の愛を知り、その交わりの中に留まり、その愛に根ざして生きることです。それこそが、人類がエデンの園で失った最たるものです。イエス様は失われいのちを回復させ、人間が本来持っているはずだった姿、神や人との愛に根ざした交わりへと回復させてくださるのです。それはイエス様を信じる時与えられ、永遠に続きます。

2.十字架と復活

しかし、このいのちを得させることを妨げるものが私たちにはあります。神に背を向け、聖なる神様、愛なる神様の前に相応しくない思いや行動をしてしまう罪が私たちにはあるのです。

ヨハネの福音書後半の二つ目のまとまりは18章から20章で描かれるイエス様の十字架の死と復活です。

18章に入ってすぐ、ゲッセマネの園に場面が移りますが、ヨハネはイエス様の祈りには触れることなくユダの裏切りと逮捕に注目します。イエス様がどのように苦難を受ける覚悟を決めたかより、イエス様が背負おうとしている人間の罪深い様を描くようです。

イエス様を捕らえにやって来た人々に向かってイエス様は「だれを捜しているのか」と訊ねました。人々は「ナザレ人イエスを」と応じると、イエス様は「わたしがそれだ」とお応えになりました。その迫力に、人々は後ずさりし倒れてしまいました。

実は「わたしがそれだ」という言葉はヨハネの福音書の中で重要なキーワードになっています。例えばサマリヤの女と井戸の傍らでお話したとき、彼女が待ち望んでいるメシヤについて話すとイエス様が「このわたしがそれです」と答えました。あるいは「わたしがいのちのパンです」や「わたしは世の光です」というようなときもまったく同じギリシャ語で「エゴー・エイミ」とおっしゃっているのです。

中でも重要なのは8:28です。「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。」ここで「わたしはある」が括弧書きになっているのに気づくと思います。この言葉は神様がモーセに燃える柴の中で表れた時に、ご自分の名前として語られた言葉です。もとはヘブル語ですが、イエス様の時代に広まっていたギリシャ語聖書では「エゴー・エイミ」と訳されていました。その言葉をそのままイエス様はご自分に当てはめて、「わたしがあのモーセに『わたしはある』と告げた者である」と言っているのです。

つまり、十字架に付けらる方は、モーセの前に「わたしはある」と言う者であると言って現れてくださった神であり、人として来られた神ご自身が全ての人の罪を背負おうとしているのです。

イエス様が私たちに与えようとしている永遠のいのち、神ご自身を知り、その愛を深く知って、イエス様との交わりの中に留まり、その愛に根ざして生きるといういのちを妨げてしまう罪を「取り除こう」としてくださったのです。

私たちは神様の愛に感動し、イエス様の赦しの大きさに感激し、感謝と賛美を献げますが、舌の根も乾かぬうちに人の陰口をたたいたり、うらみごとを言ってしまったりする者です。私たち人間は愛を望み、愛の中に生きたいという強い願いを持ちながら、愛に根ざして生きることを嫌っているかのような矛盾したことを思い、やってしまう存在です。私たちのうちにある罪がそうさせてしまいます。ですから、ヨハネの福音書は、イエス様が私たちの罪を赦すためだけでなく、「取り除く」ために来られたと強調します。

そしてイエス様は十字架の上でなすべきことをやり遂げました。19:30で「完了した」と言われ、息を引き取りました。

3.いのちを得るために

第三に、イエス様のなさったこと、語ったこと、イエス様の身の上に起こったことの一つ一つは、私たちがイエス様を信じていのちを得るためでした。

ヨハネの福音書後半の三つ目のまとまりを見ていますが、その最後は復活の記事になります。三日目の復活によって十字架で死なれたイエス様が神の御子であり愛をもって罪と死に打ち勝った方であることを証明します。この十字架と復活の場面でのイエス様の弟子たちに対する態度には愛が溢れています。

イエス様は十字架の上でご自分が誰よりも苦しんでいるのに、9:26と27節で母マリヤと弟子のヨハネに語りかけます。「ご覧なさい。あなたの息子です。」「ご覧なさい。あなたの母です。」この後、ヨハネがマリアを自分のところに引き取ります。

復活の日の朝、イエス様の遺体が見当たらないと墓の前で泣いているマグダラのマリアにイエス様はやさしく「マリア」と語りかけます。また、恐れて部屋に閉じこもっている弟子たちに「平安があなたがたにあるように」と語りかけ、「聖霊を受けなさい」と息を吹きかけました。まるで、人間が創造されたとき土で作られた人に神の息が吹き込まれて生きる者となったという創世記の記事を思い起こさせます。

また疑い深いトマスにも「平安があるように」と語りかけ、彼が望んだとおりに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい」と釘で打たれた跡が残る手を差しのばしてくださいました。

こうしてイエス様が確かに人となられた神の御子であり、愛をもって死に打ち勝った王なる方であり、聖霊によって私たちに新しいいのちを与える方であることが証明されたとヨハネは語ります。

そしてヨハネは19:30~31で彼が福音書を書いた目的を改めて示します。「イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」

イエス様が神の子キリストであることを信じることが永遠のいのちを得るための鍵であることは、福音書の中でも何度も示されて来ました。福音書の導入部分にある有名な1:12「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった」。ニコデモとの対話の時にヨハネが書き込んだ結論、3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

大事なのはイエス様を与えた神の愛と、その愛に対する応答としてイエス様を信頼するという、新しい関係性です。それこそが神の愛を知り、神の愛に根ざして生きるという新しいいのちにつながるのです。永遠のいのちは永遠の聖く愛なる神との本来あるべき結びつきです。

福音書に登場した様々な人物の経験と自分を重ね合わせながら、イエス様が私を愛して、私のために死なれた神の御子、キリストであると信じることが、神の愛を知り、神の愛の中を歩み、愛に根ざして歩んで行く新しいいのちを得るただ一つの道なのです。

適用 豊かな実を結ぶ

最後に、21章はヨハネの福音書のまとめであり、結論部分になります。今日のお話の結論にもなります。

よみがえったイエス様が弟子たちに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と言われた時、弟子たちに対して「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」と言われ、福音を委ねました。

しかし21章を見ると、弟子たちは福音を伝えに出ていくのではなく魚を捕るために漁にでかけました。言われた通りにガリラヤにもどって来てはいたのですが、まだ聖霊を受けていない弟子たちはどうして良いか解りません。それでもお腹は空きます。

弟子たちの中にはペテロを初めとする本職の漁師がいました。しかし一晩中漁をしても何も捕れません。

明け方近く、岸辺に人影がありました。弟子たちはまだ気づいていませんが、それはイエス様でした。その人影が舟の右側に網を打ってみなさいと言います。言われた通りにやってみるとたくさんの魚が捕れました。その時、ヨハネがイエス様だと気づき、ペテロに「主だ」と言うと、ペテロはイエス様に会いに行くために大急ぎで服を着こみました。しかし他の弟子たちは魚を引き揚げるの手一杯で舟を岸に寄せるのは無理だと見て取ると、ペテロは服を着たまま湖に飛び込んで泳いで岸に向かいます。

残りの弟子たちも揃ったとき、イエス様が用意してくれた炭火と魚、パン、そして今獲ってきたばかりの魚も追加して、皆で朝食の時間となりました。たくさん食べて、温まり、落ち着いたところであの有名な場面となります。イエス様とペテロが「わたしを愛するか」「はい私があなたを愛していることはあなたがご存じです」「わたしの羊を飼いなさい」というやり取りを3度繰り返す場面です。

この一連の出来事と会話は、イエス様によって新しいいのちを頂き、イエス様から委ねられた使命や権威があったとしても、良い実を豊かに結んでいくためには、イエス様の声に聞き、信頼して従うこと、イエス様の愛に愛をもって応答することが必要であることを表しています。

イエス様は5:24でこう言われました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」

私たちはイエス様を信じて「すでに」死からいのちに移っています。イエス様の救いの中には、からだのよみがえりと完全な回復を含んでいて、それは将来に備えられ約束されたものです。しかし、今既に死からいのちに移されているのは、神の愛を知り、神の愛に根ざして生きる者、神の子どもへと変えられたからです。この新しい関係性、神の愛の中に生きる者とされたことこそが永遠に変わらない私たちのいのちの核です。それはやがて向かえる死をも越えてやがて復活のからだに至るまで保たれ続けるものです。

しかし、このいのちの素晴らしさを味わい、豊かな実を結んでいけるかどうかは、私たちが日々の暮らしや仕事、人間関係のすみずみにわたって、イエス様の愛に留まり、そのただ中でイエス様の御声に聞き、信頼して従うかどうかにかかっています。

ヨハネは福音書の最後で「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」と書きました。イエス様のみわざは今もなお続いていて、私たち一人一人の人生と生活のあらゆる場面で継続しています。私たちの歩みを通して著されるイエス様のみわざを驚きと喜びを持って見させていただけるよう、その愛に留まり、信頼して歩みましょう。

祈り

「天の父なる神様。

今日はご一緒にヨハネの福音書の後半を見てきました。イエス様が十字架の死と復活を通して与えようとしたいのちは、信じる全ての者に与えられ、私たちはすでに永遠のいのちに移されています。病や老いによって肉体はおとろえ、復活の希望は未来のものとして備えられていますが、すでに私たちは神の愛の中に生きる者として、イエス様と結びついて歩ませていただいています。

私たちの中にはなおもこの愛に生きることを難しくさせる罪があります。しかし、イエス様の十字架と復活はその罪を取り除く力があることを信じます。どうか日々の暮らしの中で、仕事や人間関係の中で、イエス様の愛に応え、その御声に聞き、信頼して歩ませてくださり、葡萄の木につながった枝のように、豊かな実を結ぶことが出来ますように、祝福し、聖霊様が助けてくださいますように。

イエス・キリストの皆によって祈ります。」

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