2022-10-02 いのちの喜び

2022年 10月 2日 礼拝 聖書:イザヤ65:16-20

 私たちにとって、健康問題は日常的な悩み、関心です。

私は子どもの頃、体が冷えるとじんましんが出る寒冷アレルギーというのにずいぶん悩みました。あちこちにじんましんが出て痒みや火照りが出るのですが、それ以上に、恥ずかしさがありました。冬場はまだいいのですが、夏のプールなんかはそのせいで大分苦手意識ができました。

今、寒冷アレルギーの症状は出ることは滅多にありませんが、その代わり、花粉や埃でアレルギーが出て困ります。

生命に関わるものでなくても、暮らしにくさや気持ちの面で辛さを味わうことはあるものです。もちろん、大きな病気に直面することがあります。そういう場合は自分だけでなく、家族にとっても大きな心配であり、日々の暮らしへの影響、経済的な負担、将来への不安としてのしかかります。

それ以外にも、食べ物や環境、医薬品などについてすごく気にする方もおられます。

医療がずいぶん発達した現代は、聖書の時代とはまた違った形でいのちや健康について悩むものです。

今日は第一主日ですので、年間主題「主の回復の年」にちなみ、私たちのいのちや健康の回復ということについて聖書が語っていることを聞いていきたいと思います。

1.新しい創造

第一に、神様の救いのご計画にはいのちや健康の回復が含まれています。

イザヤ書は旧約時代のイスラエルが南北に分かれていた時代のもののです。北のイスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされ、南ユダ王国もこのままで破滅に向かうという厳しい時代にイザヤを通して神様が人々に語ったものです。

イザヤ書は神様の救いのご計画について非常に重要な内容を伝える大事な書物で、来るべきメシヤ、キリストがどのようなお方か、その救いはどのようなものかが告げられています。

神様の救いのご計画はキリストが地上に人としてお生まれになり、十字架と復活を通して成就しますが、その完成はもう少し先のことで、イザヤ書を始めとする聖書のあちこちで17節にあるような「新しい天と新しい地を創造する」という表現で示されます。

創世記の最初に描かれるのが天地創造で、その時のアダムとエバの堕落によって罪と死が入った世界を再創造するというのが神様のご計画です。

天地創造や新しい創造なんていうと話しが大きすぎていまひとつイメージしにくいかも知れません。私たちが生きているこの世界、地球も十分に大きく広いですが、それでも宇宙全体からくらべたら本当に小さな存在。それほど大きな天をも含めた再創造ってどんなだろうと、いくら考えても想像力が及追いつきません。

しかし、イザヤ書は新しい創造をもう少し現実的な、私たちの身近な例をあげて示してくれています。

それがいのちと健康の回復です。

16節で「この地で祝福される者」という言い方が出て来ます。「地」とは人間が生きる世界のことです。神様の再創造の祝福は天における霊的な世界での話しだけでなく、私たちが生きているこの世界、地上での祝福でもあります。

今、私たちの世界にはいのちが損なわれる病気や障害、事故、老化があり、やがて肉体的な死が訪れます。この世界全体を死が覆っているとも言えます。

しかし、これらの苦難は忘れられ、悲しみも涙も過去のものになるとイザヤは告げます。イザヤの時代、赤ん坊が生まれすぐに死んでしまうということは、おそらくよくあった悲劇だったことでしょう。病気や戦争のために寿命を全うできない人もありふれていました。そうした悲しみが過去のものになると告げます。

現代の日本では、新生児の死亡率は劇的に改善していますし、寿命も相当延びています。しかし、戦争の危機はまた世界を覆い始めていますし、体だけでなく心の病も増えています。病気と直接関係ないかもしれませんが、日本では自らいのちを断つ人が毎年2万人以上います。個々人だけでなく社会全体が病んでいるのは間違いないと思います。

新生児の死亡がゼロになり、平均寿命が100歳を越えることが救いの完成という意味ではなく、それは神がもたらすいのちの回復を具体的にイメージさせるための表現なのでしょう。それでも神様がこの世界を回復し、新しい創造を成し遂げてくださる時、それはこの世界全体の話しであるだけでなく、私たち自身のいのちの回復なのだということをイザヤははっきり示していると思います。

2.今、ここにある恵み

第二に、神様のいのちに対する祝福と恵みは、未来に約束されているだけでなく、今、ここにある恵みとしても私たちに与えられています。

イザヤの預言は、さばきに直面していたイスラエルの民に悔い改めを促し、希望を持って忍耐するよう励ますためでしたが、それでも救いが自分の生きている時にどんなかたちでも与えられないのだとしたら、この世は苦しくて我慢するだけの歩みになってしまいます。ですから、神様は将来の希望を与えると共に、今生きている私たちへの恵みも与えてくださっています。

イザヤ書からは少し離れてしまいますが、私たちが今与えられているものにも気づかせていただきたいと思います。

まず、神様は私たち人間の身体に病気にかかりにくくする様々な防御システムと、病気になっても自分で治る治癒能力を与えてくださいました。白血球や体の中をめぐっている様々な細胞や物質が免疫力として働くことはよく知られています。それ以外にも体全体を覆う皮膚や涙、まつげ、鼻毛まで、外部から異物が侵入するのを防ぐ大事な役割を果たしています。目や耳も、匂いを嗅ぎ分けたり、舌先でちょっと舐めても危険を察知することができます。どれも万能ではありませんが、普段の生活の中では十分に機能します。こうしたものを神様はあらかじめ備えてくださっているので、相当の病気が事前に防げています。

さらに、神様の恵みとして人に与えられた知恵や技術が磨かれることで医療が発展しました。心や身体に関する知識や治療の技術、薬などが開発され、かなりの種類の病気が治療可能で、ほとんど恐れる必要のないものになりました。新型コロナでは世界中が大きな危機感を抱きましたが、競争と協力がうまく噛み合って驚くほど早くワクチンが作られ、治療方法が見出されました。先日は新しいアルツハイマーの薬が開発されたという記事を読みました。たぶん様々な健康問題は解決の糸口を見つけていくのでしょう。

しかし、それとともに医療費が高額になり家計や国の予算を圧迫し、貧富の差によって受けられる医療の格差ができるなど別な問題も出てきます。

そのうえ、やはりどうがんばっても治療法が分からない病気はあります。私もがんやASLの新約開発のために寄付をしていますが、今苦しんでいる人には助けにはなっていません。イザヤの時代に人々が苦しんでいた病気は現代では何らかの治療法があるものが多いと思いますが、千年も二千年も待てるわけではありません。

しかし、イエス様が来られた時、この世界に神の国が到来したことを示すためにイエス様は人々を癒やしました。聖書は現代の私たちにも病の回復のために祈るよう励ましています。昨年がんの告知を受け余命数ヶ月と言われた友人が、多くの人の祈りの中で奇跡的に回復に向かっていることを聞き、そこに神様の癒やしの御手を感じ取っています。10年以上前になりますが、妻ががんになったときに、教会の皆さんが祈ってくださり、また毎週有志の方々が自発的に祈りのチームを作ってくださったことは決して忘れません。

そんなふうに神様は、私たちのいのちと健康の回復のために様々な道を備えてくださり、この地上で、私たちの暮らしの中で、健康を取り戻し、また生きていける喜びも味わわせてくださるのです。

3.いのちの回復

第三に、それでも私たちには神の再創造による、最終的ないのちの回復が希望として与えられています。

先ほどから言っているように、神様が私たちのいのちを守り健康を回復させるための様々な恵みを備えてくださっているとしても、それらは限りあるものだからです。神様は私たちの体に免疫や治癒能力を備えてくださっていますが未知のウイルスによって病気になることもあれば怪我した所が何年経っても治らないなんてことがあります。神様が与えてくださった知恵を用いて医療が発達しても治療法が見つからない病気はまだまだあります。祈りに神様が答えてくださって奇跡的に回復が与えられても、いつかまた別な病に冒されますし、老化は避けられません。

預言者たちによって病気を癒されたり、イエス様ご自身の手によって癒された人たちも、生き返ったラザロも、永遠に生きられるようないのちを得たのではありませんでした。

ではなぜ神様はそうした力を私たちに備えていてくださったり、時々奇跡によって癒したりするのでしょうか。それは神様にとって私たちの存在、神のかたちに造られ、いのちあるものとして生きている私たちの存在を神様が喜び、慈しみ、祝福しておられるからです。そして、罪のために不完全になってしまったこの世界で苦しむ私たちに、完全な回復を与えようとしておられる神に目を向けさせ、希望を持つようにと語りかけておられるのです。

ローマ8:18~25を開いてみましょう。預言者イザヤが預言したことが、イエス様によって実現されたこととして描き直されている箇所です。

今私たちはイエス様が罪のあがないを成し遂げて神の救いのご計画を実現されたことを知っています。神様が私たちを愛し、最初に造られたこの世界をも愛し回復したいと願っておられることを私たちは知っています。そして、神様が私たちに聖霊を与えることで始まった私たちの救いと回復の物語は、やがて訪れる完全な回復、新しい天と新しい地へと続いていきます。

救い主がおいでになり、その救いを私たちが受けとったということが、傷付き痛んでいるこの世界全体にとっての希望なのだとパウロは説明しています。

そして私たちもまた、今は小さなことでさえ傷付き痛む者ですが、希望のある救いを受け取った者だということを絶えず思い起こす必要があります。まだ完成された姿は見ていませんが、この希望があるゆえに忍耐して待ち望むことができるのです。

イザヤ書に戻りましょう。天地が新しくされる時、その回復は私たちの記憶とも結びついています。大怪我から回復しても、その傷をもたらした忌まわしい事故の記憶に長年苦しんだり、罪の赦しをいただいたのに過去の過ちのために長い間後悔と自責の念に苦しむことがあります。悲しい出来事によって失われた家族や友人たちがいれば、たとえ生活が戻っても喪失感や怒りは簡単に消えません。

しかし、イエス様による救いが完成するとき、過去の記憶が私たちを苦しめることはもうありません。だから今月のみことばにもあるように「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。」と言われるのです。

適用:いのちを喜んで

さて今週は、第一主日ということで、今年度の主題「主の回復の年」にちなんだ箇所を開きました。

新型コロナ感染症の影響がまだ収まらず、出口も見えないうちにどんどん世の中の動きだけは加速しています。その中で多くの方が不安をかかえ、一部の人たちにしわ寄せがかかるような事態になっています。

兄弟姉妹の中にも病をかかえ、あるいは老化に伴う衰えを実感しておられる方々がおられます。そのような時に喜べと言われてもなかなか実感として嬉しい気分にはなりにくいかもしれません。

信仰的な面で何らかの成長が出来たとしても、体の方は衰える一方のようにも感じられます。

しかし神様はイザヤを通して、18節で主の再創造のみわざのゆえに「いついつまでも楽しみ喜べ」と語りかけています。ローマ書でも見たように、私たちは再創造の御わざ、イエス様による回復の働きの中にすでに入れられています。私たちは新しいいのちによって生かされております。冬の間、樹が目立たぬところで春に備えるように、この再創造のわざ、回復の働きは地道でゆっくりしたものかも知れませんが、確かになされているのです。

もちろんある面ではこの地上にいる間は衰えたり弱っていくのを忍耐しつつ受け入れていかなければならないでしょう。

私はまだ若いとは思っていますが、それでも30代くらいか左の耳が聞こえにくくなっています。それは年々悪くはなっても良くなる気配はありません。随分前にお医者さんから「治ることはないし、酷くなるから」と言われているので、何とか工夫してやり過ごしています。老眼も進んで時々ピントを合わせるのに眼鏡をかけたり外したりしなければなりません。いやいや、その程度は大したことない。私なんかもっと大変だ、そのうちもっといろいろあるよという人がきっといることでしょう。それが私たち人間の辿る道です。しかし、だとしても、私たちはただ失っていくのではありません。それらもまた新しくされるために通らなければならない段階なのです。弱さや衰えを感じるたびに、むしろ神様の完全な回復へと近づいているのだと考えたいと思います。

そして私たちは日々の暮らしの中で、気をつけていればちゃんと気づける神様の恵みに満たされ、支えられています。

朝、新しい日を迎えて起き上がる力が与えられたこと。怪我をしても回復できたこと。病気になっても癒されたこと。薬やリハビリが効果を上げたこと。老化のために生活が不便になっても周りに助けてくれる人たちや社会の制度があること。何よりも、互いのために祈り合える仲間がいること。こうしたすべては神様から与えられた恵みの様々な姿です。

与えられている恵みの数々を思い出して、今日、生きていることを感謝しましょう。主イエス様から与えられている恵みと希望を信頼して、病んでいる人、弱さの中にある人のために心を込めて祈りましょう。そして、聖書が「いついつまでも楽しみ喜べ」と語りかけているように、このいのちを喜び楽しみ、互いの存在を祝福しましょう。主イエス様が成し遂げた救いの御わざが完成に至る、いのちの回復の道のりにあることを信じて、いのちの喜びを味わって歩ませていただきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

私たちのいのちには限りがあり、地上での歩みに労苦は耐えません。肉体的に、心理的に弱さを覚え、絶望の淵に立たされることもあります。

しかし神様は私たちの存在を喜び、祝福しておられます。神様が私たちに備えたあらゆる恵みを総動員して、私たちの日々の歩みを支えてくださっています。そして、私たちには完全な回復が約束され、そのプロセスの中にすでに入れられています。

しかし難しい状況の中にいると、その恵みと希望をなかなか思い出せず、実感しにくいです。

どうぞ、私たちの目を開き、神様が繰り返し聖書を通して約束し、励ましていることを思い出させてください。与えられているいのちを喜び、楽しみ、互いを祝福し、病むときには信仰をもって祈る者としてください。

あなたが私のこの心と身体、弱ったり衰えたりするこの心と身体を慈しみ、御手を置いてくださることを感謝します。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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