痛みを担う

みなさん、おはようございます。お久しぶりです。
錦秋湖で神学校理事、教師、スタッフのリトリートが行われ、深い交わりと話し会いが出来、これからの働きのために良い時間となりました。それは良かったのですが、半月程前から足の親指の爪が皮膚に食い込む、巻き爪の状態になっていてかなり痛くなって来ていました。炎症も起きていたので、これ以上悪化する前にと昨日クリニックへ行き処置をしてもらいました。食い込んだ爪を浮かせてそこに保護のためのチューブを入れるのですが、まあこれが痛い事。我慢はできましたけど、それでも処置を受けている間に、小説や映画で何度か見聞きした拷問の場面が脳裏をよぎり「きっと痛みに耐えかねてペラペラしゃべっちゃいそうだな」なんてことを考えていました。
痛みは感覚を狂わせ、心をくじき、判断力を鈍らせ、痛みから逃れるためならば時として信念や道徳的な規範さえも放り出したくなるものです。ご自分が負う必要のなかった大きな痛みを、ただすべての人の罪の赦しと回復のためにイエス様が担ってくださったということの愛の大きさ、意志、謙遜、忍耐の限り、その苦しみの先にある希望を望み見る信仰、それらすべてがあらためてすごいことだなあと思わされます。そして「痛みを担い合う」ということが言葉は美しいけれど、本気でなかったら使えない言葉だなとも。

“まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。” イザヤ 53:4

佐々木真輝

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