2022-10-16 全ての人への良い知らせ

2022年 10月 16日 礼拝 聖書:ローマ1:8-17

 以前もお話したことがありますが、我が家で飼っていた二匹目のワンコがジストという特殊ながんにかかったとき、手術や治療がなかなか難しいと言われました。ただし、人間用に開発された分子標的薬なら、犬に使ったケースはほとんどないけれど効果があるかもしれないと教えてもらいました。保険が利かないし、国内で手に入れようとするとかなり高額になりますが、海外から個人輸入という形ならだいぶ安くなるという情報も教えてもらいました。実際、それを用いたら腫瘍が小さくなっていき、最後はほとんど見当たらないまでになったので、ジストの話しや犬の薬の話しになると、ついつい聞かれてもいないのにしゃべるようになりました。良い知らせとはそういうものです。

聖書を創世記から順番に見ていくシリーズは今日からいよいよ書巻に入ります。まずはローマ書ですが、これも今日と来週と二回に分けて見ていきます。ローマ書のテーマは全ての人への良い知らせとしての福音(良い知らせ)ということができます。実際、ローマ書ほど福音について詳しく、幅広く説明されている手紙はありません。しかしパウロは、この福音の説明を私たち教会家族を結びつける唯一のものだという説明のためにしています。それはどういうことかご一緒に見ていきましょう。今日は1~4章までを取り上げます。

1.神の義と人の罪

第一に、福音には神様の義が現れていて、私たちはこの神様の前ではみな罪人です。

いや、もちろん神様は正しい方で、そんな方の前に立ったら、それは誰だって罪人だろう、そう考えるかも知れません。神様はパウロを通して私たちに何を言いたいのでしょうか。

義なる神の前で私たちはみな罪人だとわざわざ指摘された意図を当時のローマ教会にパウロが手紙を書かなければならなかった事情をふまえて考えてみたいと思います。

パウロは神様の救いのご計画の全体像を人々に明らかにし、異邦人と呼ばれたユダヤ人以外の人たちにその良い知らせを伝えるためにイエス様ご自身によって召された使徒でした。もともとは教会に反対し迫害する人でしたが、ダマスコの町にある教会を潰すために旅をしている途中で復活されたイエス様と出会い、使徒とされたのです。パウロは世界中を旅しながら教会を建て、教会を教え励ますために手紙を書きました。ローマ人への手紙もそんな手紙の一つです。13通ある手紙のなかで最初に置かれていますが、実際にはパウロの晩年頃に書かれたものです。

ローマは、当時の巨大なローマ帝国の首都でした。ここにはあらゆる人種が集まっていました。使徒の働き18:1~2にローマ教会の事情が少し描かれています。ローマにはパウロが行く前から教会があり、ユダヤ人もいれば異邦人もいる教会として存在していました。ところがローマ皇帝クラウディウスがローマからユダヤ人を追放してしまうのです。そのお陰でパウロはローマから追放されたアクラとプリスキラという素晴らしい協力者と出会うことになります。ユダヤ人のローマ追放から5年後、追放令は取り下げられ、ユダヤ人もローマに帰ることができるようになるのですが、それが新しい問題を引き起こしました。ユダヤ人がいなくなった教会は5年の間にすっかり様変わりし、生活習慣はユダヤっぽいものがなくなっていました。以前はそんなことで対立せず、それぞれの生活習慣を尊重していたのでしょうが、ユダヤ人クリスチャンからすれば「おいおい、なんだよ」という感じです。その対立はやがて分裂へと発展してしまいます。ユダヤ人クリスチャンは異邦人がクリスチャンになるためには割礼を守ったり安息日を守ったり、食べ物も気をつけたり、旧約律法とユダヤの伝統を受け入れ、その上でイエスを信じてクリスチャンになれるのだと主張し始めたのです。

そんな状態を耳にしたパウロはローマ教会の一致を回復させるために手紙を書きました。ユダヤ人も異邦人をも含む神の家族である教会は何によって結び合わされているか、何が教会を一つにするのか。それはイエス様のもたらした良い知らせ、福音です。16節にあるように「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力」なのです。パウロは教会の一致の土台である福音を明らかにし、その福音にふさわしい生き方を改めて示すことで教会に一致を取り戻させようとしているのです。

その教会の土台である福音には神の義が表れていると17節にあります。どういうことでしょうか。二つの面があります。神は正しい方でいつも正義を行う方だということと、神様は約束を必ず守る誠実な方だということです。だから、私たちすべてが罪人であるにも拘わらず、信仰によって生きる道が備えられているのです。

2.神の義と主イエスの贖い

第二に神は約束を誠実に果たし、主イエス様の贖いによる罪の赦しをもたらしました。

すべての人が罪人であるということは1:18~32節で説明されています。神に背を向けた人間は罪に縛られ、そのためますます罪にのめり込み、偶像礼拝にふけっています。現代人は無宗教だという人も多いかも知れませんが、宗教的な偶像の代わりの何かに人生や心と思いを献げようとします。豊かさかもしれないし、「いいね」をもらうことかもしれないし、他人が興味を持たそうなことかもしれません。アルコールやギャンブルが偶像になることもあります。趣味も生活を狂わせるほどなら偶像礼拝となっています。どんな形の偶像礼拝も、神のかたちとして造られたはずの人間性をだめにし、破壊してしまいます。当然、義なる神様の前では有罪です。

そういう話しをすると、ユダヤ人は「ほら、だから異邦人は」「自分たちはこういう悪の世界から救い出され、律法を与えられた」と言うのですが、パウロはユダヤ人に対しても「いや、あなたがたはもっと悪い」といいます。

2章では異邦人をさばくユダヤ人に対して、あなたがたは神を知っており、神のみこころが示された律法を持っていながら罪を犯しているのだからもっと悪いのだと鋭く指摘します。

3:9では、同じユダヤ人としてパウロが「では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシャ人も、すべての人が罪の下にあるからです」と告白しています。

こういう私たち人間に対して、義なる神様はどうなさったのでしょうか。一点の染みも一粒のチリも許さない潔癖な人のようにすべてを箒で捌き出すように、地獄に落としてしまうのでしょうか。

3:21には「律法と預言者たちの書(つまり旧約聖書)によって証しされて、神の義が示されました」とあります。

人間を有罪とし、きれいさっぱり処分してしまうのではなく、約束した救い主が遣わされ、イエス様は人間のすべての罪の身代わりとなり、罪がもたらす苦しみと受けるべき裁きを代わりに背負い死なれました。そして死からよみがえり、罪と死の力に勝利されました。そしてこの復活のいのちをすべての人が受け取れる道を開いてくださったのです。

治るみこみのなかった病気に特効薬が安く手に入るというのが良い知らせであるように、義なる神の前に罪ある私たちが、滅びる運命にあるのではなく、神が約束を果たし、備えられた赦しの道があるというのはすべての人にとっての良い知らせです。

パウロはイエス様を信じる人々に神の義を与えると説明しています。行いによって正しさを証明し義を得るのではなく、罪ある者、弱い者がイエス様に信頼することによって義を得る、信仰によって義とされるというのが、福音の最も大切な真理です。

思い出してください。ローマ教会ではユダヤ人クリスチャンが、異邦人クリスチャンに、あなたがたの生き方では神の義は得られないと言っていたのです。割礼を受け、安息日を守り、食べちゃいけないリストを守るべきだと。しかし福音は、人を義とするのはイエス様への信仰だけなのだとはっきり告げているのです。この信仰に立つことが分裂を解決し一致を取り戻す唯一の道でした。

3.神の義と信仰による家族

第三に、神の義が与えられることで私たちは信仰による神の家族とされます。

私たちはイエス様を信じることで三つの変化を経験します。一つ目は罪ある者から罪赦された者とされます。二つ目に神を知らなかった者から神の家族に加えられます。さらに三つ目に、罪と死に定められ、捕らわれていた者が、イエス様のいのちによって人生が変えられ、新しい生き方ができるようにされるのです。

パウロは4章で、これらの変化、イエス様の救いが与えられることの最も重要な根拠となっているアブラハムとの契約を思い出させます。ユダヤ人にとってはおなじみの内容です。私たちもおよそ2年前から旧約聖書を通して何度も聞いて来たことですね。

創世記の1~11章でこの世界がどのように造られ、罪に落ち、神様に背を向け、ますます酷くなっていったかが記された後で、12章になってアブラムという一人の人物に焦点が当てられます。神様は罪に捕らわれ死に定められた世界を回復し、祝福するためのご計画を備えてくださいました。その鍵となるのが、アブラハムの子孫から生まれる救い主です。キリストの誕生と十字架のあがないはアブラハムへの約束、契約の成就であるというのが聖書全体の視点です。神は義なる方なので、アブラハムの子孫たち、イスラエルの反抗や失敗にも拘わらず、この契約を誠実に果たしたのです。

アブラハムの子孫には契約のしるしとして割礼をはじめとする律法が与えられました。ローマ教会でまさに今、ユダヤ人クリスチャンが神の民になるために全ての人々が守るべきだと主張していた律法です。彼らは律法を守ることで神の前に義とされ、それで神の民となれると考えていました。しかしパウロは、アブラハムが義とされたのは律法より前だったということを繰り返し説明します。割礼を受けたから義とされたのではなく、神の約束を信じたことで義とされたのであり、割礼はそのしるしに過ぎなかったのです。

その意義について4:11~12で説明しています。「それは、彼が、割礼を受けないままで信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められるためであり」と、アブラハムは異邦人クリスチャンにとっての信仰の父とされます。また12節では「私たちの父アブラハムが割礼を受けていなかったときの信仰の足跡にしたがって歩む者たちにとって、割礼の父となるためでした」とユダヤ人クリスチャンにとっての信仰の父でもあり続けます。

こうしてイエス様を信じる信仰によって神の義を与えられたすべての人々は同じアブラハムの子孫、神の民、神の家族とされるのだよと、パウロは対立し合っているローマのクリスチャンたちに語りかけます。特に、律法を守らなければホンモノのクリスチャンにはなれないと主張していたユダヤ人クリスチャンたちに対しては14節で、そういう主張が福音そのものを破壊してしまうことを鋭く指摘します。「もし律法による者たちが相続人であるなら、信仰は空しくなり、約束は無効になってしまいます。」

そして、律法なしに、信仰によって多くの人々がアブラハムの子孫となり、神の民に加えられることがアブラハムへの約束の成就だということを18節で説明しています。「彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。」

適用:私たちを結ぶもの

さて今日はローマ書の最初の4章にだけ注目して来ました。ローマ教会に起こっていた分裂を解決し、一致を取り戻すための土台が福音だけであることが1~4章で明らかにされてきました。

キリストの贖いゆえに私たちは誰もが無条件で神様に受け入れられていますし、愛されています。それゆに私たちも互いに受け入れ、愛し合うのです。しかしまた、私たちは新しい生き方にも招かれています。来週はローマ書の続きから、どんな歩みへと招かれているのかご一緒に学んでいきます。

重ねて言いますが、パウロがローマ書で福音を説き明かしているのは、正しい教理を正確に言えるようになって欲しいからではありません。福音の意味するところを知ることで教会に一致を取り戻して欲しいのです。ローマ書を調べて、神の義や人間の罪、キリストの贖い、アブラハムへの契約などについて正しいことを言えるようになることが目的ではありません。私たちが互いの違いに気づいた時、それがどれほど深い溝のように思えたとしても、信仰によって義とされた私たちは互いに罪赦され、共に家族に迎えられ、新しい生き方に招かれていることを思い出し、確信するためです。

もっと言うなら、どんなに大きな隔たりのように思えても、神の正義と誠実さに根ざしたキリストの救いの恵みの前では実に小さなものだということに気づかなければならないのです。神の家族である教会の一致は、同じ生活習慣になることや、同じ意見を持つことで生まれるのではありません。同じ神を信じ、同じ罪人としてキリストの贖いによる救いにあずかっているという確信によります。

もちろん、今日ではローマ教会で起こっていたような、旧約の律法を守るべきかどうか、ということで論争になることはおそらくありません。しかし、誰が神の家族にふさわしいかということで議論になったり、分裂が起こるということはあり得ることです。

私たちの教会でも過去を振り返れば、大きな意見の違いや感情のすれ違いで危機的な状況になったことはあったはずです。あるいは特定の罪や行動が教会には相応しくないという理由で交わりから遠ざけられた人たちもいます。そういうことを思い出すのは嫌なものですし、何が正しかったかみたいな判断を今の私たちがするのは難しい面もあります。

ただしそういう議論の中で、頑なに反抗し続けるとか自説を曲げないということは別として、教会家族の一員であるためのふさわしさについて、イエス様を信じる信仰告白以外の何かを要求していたとするなら、それこそが福音の真理にそぐわないことです。

現代の教会では政治的な立場、結婚や家庭のあり方についての理解、性的多様性についての理解や対応といったことが教会の一致を脅かし易いテーマになっています。もちろん、目指すべき姿や聖書の原則はあります。でも、それに届かない、どうしても及ばないということがあります。私たちは誰もが例外なく不完全な人間ですから。そういう時に目に付いた問題だけを取り上げて「それを守れないならホンモノのクリスチャンじゃない」とか「教会員として相応しくない」と言うなら、それは神がキリストの十字架の贖いによって成し遂げた罪の赦しと神の子どもとし神の家族とする救いを否定することかもしれません。私たちはそんな人を裁く言葉を口にする前にへりくだって良く考える必要があります。

私自身もこれまでの歩みを振り返って、何を大切にしてきただろうかと深く考えさせられています。

1:17を振り返ってみましょう。「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませる」とあります。イエス様を信じてクリスチャンとなった私たちは皆、信仰の歩みの途上にあります。完全に罪赦され、神の真実ゆえに神の家族の一員であることに揺るぎはありませんが、私たち自身は不完全です。だからこそ、私たちを結びつけているのは福音の恵み以外にはないことをはっきりと理解し、確信し、その土台に立って歩んでいく必要があるのです。

祈り

「天の父なる神様。今日は、私たちを結び合わせているのがただ福音の恵みのみであることを学びました。義なる神様の前で罪ある私たちが、真実な神様の約束通りに来られたイエス様の十字架の贖いにより赦され、神の子どもとされ、神の家族である教会に結び合わされました。お互いの違いや分断に気づく時、問題の大きさよりもあなたの救いの確かさと恵みの豊かさにこそ気づくことができますように。イエス様が願ったように、私たちをひとつにしてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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