2022-11-13 福音を通して生活を見る

2022年 11月 13日 礼拝 聖書:コリント第一 1:1-9

 物事をどういう視点で見るかによって、見え方がだいぶ違うだけでなく、何か問題が起こったときの対処の仕方もずいぶん違ってきます。

11年前の大震災の中で多くのクリスチャンたちは「なぜ神はこのようなことをお許しになるのか」と問いかけました。しかし古代や中世のクリスチャンなら、そういう問い方はほとんどしなかったそうです。人生に災難や悲しみはつきもの。そうした苦しみは信仰を揺るがすものではなく、神に拠り頼み信仰を成長させるものでした。その違いには、現代人と古代の間にある、物の見方の違いがはっきり表れています。当然、対処の仕方も違います。

今日開いているコリント人への手紙は、パウロにとって我が子のような存在であったコリント教会がいくつもの大きな問題を抱えているという知らせを聞き、また具体的な問合せに対して答えるために書かれました。

パウロにしては珍しく約1年半という長い期間コリントの町に留まり、福音を伝え、キリストにあって生きる生き方を教えてきた教会が、混乱し、めいめいが勝手に振る舞っている時に、パウロは福音を通して自分たちの生活や人生のあらゆる面を見ることを教え、その視点での解決の仕方を教えようとしています。

今日は第一の手紙の1~10章に注目したいと思います。

1.分裂

第一にコリント教会には分裂がありました。教会内の分裂、というと「生活の問題」という感じがあまりしないかも知れませんが、私たちの日常的な人間関係の中に、意見の違いや背景の違いで仲違いや分断が起こるのは良くある事です。

コリントは古代ギリシャの大きな港町で、もちろん今でもあります。ギリシャ神話の様々な神々の神殿があり、現代ではそうした遺跡が観光の目玉になっています。パウロの時代もコリントは経済と文化の中心的な都市のひとつでした。

ギリシャのアテネでは、直前に事情があって一人で働かなければならなかったこともあって期待したほどの成果は挙げられず、パウロは失意のうちにコリントにたどり着きました。そこではローマから追放されたユダヤ人クリスチャンのアキラとプリスキラ夫妻に出会い、その後遅れて到着したチームメンバーのシラスとテモテが合流し、心強い宣教チームで一年半腰を据えて伝道し、人々を教えることができました。

その後、コリント教会にはアポロという若く有能な伝道者がやって来ました。彼の福音理解には十分ではないところがありましたが、その欠けを補ったのはパウロではなく、パウロの協力者であったプリスキラ夫婦でした。彼に恥をかかせないよう脇に呼んで、より正確に福音を説明してくれたので、彼はますます諸教会の助けになれるようになりました。それからコリント教会を訪ねたのです。

そんな事情もあって、コリント教会では「パウロにつく」「ケファ(ペテロ)につく」「アポロにつく」といった分裂が起こり、それに対抗して「じゃあ私たちはキリストにつく」とマウントをとって別なグループをつくる人たちが出てきました。1~4章はこの分裂の問題について扱っています。

パウロの実直な福音の伝え方に対して、アポロはギリシャの伝統にある雄弁家と呼ばれるタイプで話しがとても巧みでした。こうしたタイプの違いが、多様な文化が咲き乱れていたコリントでは人気を争うポイントになってしまったようです。

しかしパウロは13節でけっこう厳しい言い方で、教会が人気投票でオシの指導者毎に派閥を作るなんておかしいと指摘します。それから教会がイエスの十字架によってイエス様を中心とした新しい家族であることを説明します。そこでは誰を通してバプテスマを受けたかとか、ユダヤ人とギリシャ人の区別とか、教育を受けた程度による区別とか、この世にありそうな様々な区別は無関係です。私たちはただ、十字架のキリストによって一つとされました。私たちすべてのために十字架で死なれ、罪を赦し、受け入れ、神の民としてくださったキリストによって一つにされたのです。しかも、パウロもアポロもペテロも、福音に仕える者であり、神の前ではそうした指導者も教師も、普通の信者もみなイエス様のしもべです。

3章では、このように福音を通して神の家族である教会を見ることができず、古い人間的な基準で人を比べたり、妬んだり、争ったりするようなコリントのクリスチャンたちを「御霊に属する人ではなく、肉に属する人」「未だにキリストにある幼子のままの人」と呼んでいます。パウロは未だに子どもっぽい見方で争っているコリントのクリスチャンたちに、福音を通して教会を見る、大人のものの見方をするよう強く促しているのです。

2.不品行

第二に、パウロはコリントのクリスチャンたちの間で横行し、放置されていた不品行の問題を取り上げます。

コリント書は、パウロのもとに届いた知らせや相談に答えるかたちで書かれているので、何章かずつ問題を取り上げ、「こういうことが行われていると聞いている」や「何々についてですが」とはじめ、問題の行動を取り上げ、それらを福音の視点で見直し、それから福音に立って生きるならこういうふうに変えるべきだと具体的な勧めをする形になっています。一見、ばらばらな問題をつぎつぎと取り上げているようですが、実はそこに福音によるものの見方と、すべての問題解決に共通した信仰の確信があります。

さて、不品行の問題は5章から7章まで続きます。

5:1~2には問題の深刻さが表れています。性的な関係について夫婦間に厳しく限定しているユダヤ人に比べ、異邦人はそのあたりのことはだいぶ緩かったのですが、それでも一定の限度はありました。ところがコリント教会の中には、そんな異邦人世界でも常識を越えた乱れた関係がまかり通っていました。中には義理の母と関係を持っている者がいたほどです。しかも2節ではコリント教会がそういった罪を止めさせようとしなかっただけでなく、そんなの大した問題ではないかのように思い上がっているというのです。

コリントの人々が性的な問題を起こしやすかった背景のひとつに、コリントの町自体にあった異教の文化があったと考えられています。ギリシャ神話の神殿には神殿娼婦という職業の人々がいました。ギリシャの女神を祀る神殿には女性の神官がいて、彼女たちと性的な関係を持つことで女神の恵みと祝福を受けられるという信仰があったのです。また逆に神殿男娼として女性を相手にする神殿付の神官たちもいました。そういう習慣から抜け出そうとしない人たちがいたと考えられます。ですからパウロは5~7章の中で性的な問題を偶像礼拝の問題と結びつけながら戒めているのです。たとえば5:10~11、6:9などです。

しかしまた別な要因として、キリストにある自由を都合良く解釈する人たちがいました。6:12に「すべてのことが私には許されている」という言い方がありますが、これを拡大解釈してキリストによる罪の赦しに限りはないから何をしても大丈夫!と考える人たちがいたのです。

しかしパウロは、イエス様は私たちの罪のために死なれたのであり、私たちはイエス様の復活のいのちによって新しく生きる者とされました。ですから、この体は、私が好き勝手にして良いものではなく、神の栄光を現す用い方、生き方をすべきなのです。

今日、コリントの異教の神殿にあったようなことはもう廃れてはいます。しかし結婚の外での性的な関係についての誘惑はますます多くなり、ハードルはどんどん下がっています。神殿娼婦のいる女神の神殿はありませんが、その代わりになるようなものはリアルな世界にもネット上にもあります。

また、現代の先進国の大きな流れは、神様が定めた秩序や結婚のあり方より、自己決定権を重視します。本人同士が良くて他に迷惑を掛けなければいいではないか、という考えが大勢を占めているかも知れませんが、私たちのからだはキリストに贖われたものであることを忘れてはいけません。

3.食べ物

第三に、パウロは食べ物に関する問題を取り上げます。

8章から10章で取り上げられている食べ物の問題は、ユダヤ人と異邦人の食生活の違いというようなことではなく、偶像に献げた肉を食べてもよいか、という問題でした。このためにコリント教会には分裂が起こっていたのです。

そもそも、様々なギリシャの神々が祀られている町で、殆どの場合、肉がお店に並ぶ前に、一度は神々の前に献げられてからお店に卸されるというのが普通でした。

また、人々の交流は、偶像が祀られた神殿の広場などで行われるのが普通で、そういう場所で出される食事は神々への供え物にされた肉が振る舞われるのが一般的でした。しかも、割合貧しい人たちにとっては、そういう場でしか肉を食べられないという事情もあり、仲間たちとの交流を持ち続けたいというだけでなく、ご馳走が振る舞われるならできるだけ逃したくない、というのが本音でした。

そのような事情があって、あるクリスチャンたちにとって、特にイエス様を信じたばかりのユダヤ人クリスチャンにとっては、その肉が偶像に献げられたものである可能性があるということが、「食べても大丈夫なんだろうか、偶像礼拝にならないだろうか」と気がかりになりました。しかし他の人たちは、神は唯一で、ギリシャの神々なんて実在しないのだから気にすることはない、という考えでした。

欧米の人たちにはピンとこない話しのようですが、私たち日本人にとっては、仏壇や神棚にあげたものを降ろして食べるなんてことは古い家ではよくありましたし、そうでなくても大抵の食品は初物を神社に奉納してから出荷する、神主を呼んで祈祷してから出荷する、なんてことは今でも普通に行われていますから、気になる人には気になります。

これに対してパウロは、偶像は実在しておらず、私たちが従うのはまことの神様だけだという前提に立って、8:7以下で詳しく説明していきます。話しの筋が見えなくなりがちが箇所ですが、10章まで、偶像に献げた肉についてどう扱えばいいかの原則を教えるための詳しい説明になっています。

で、結論は何かという10:23~33にあります。

23節は不品行の問題の時にも出てきた言い回しです。すべてのことが許されているが、私たちの行動がすべて益となるわけではありません。互いの徳を高め、励ますために私たちの権利は用いられるべきです。

そこで、具体的には市場に売っているものや誰かの家に招待されたときに出される食べ物を「偶像に献げられたものかどうか」といちいち気にしなくてもいい。感謝して食べればいい。

しかし、もしそのことをすごく気にする人がいて、自分が遠慮無く食べることで、自分ではなくその人が「偶像礼拝と関わっている」と気に病むようだったら、その人のために食べるのを遠慮しなさいというのです。どっちでもいいから好きなように、ではなく、どっちでもいいけど自分の自由で他人を傷つけないよう、愛をもって振る舞いなさいといのがこの問題に対する聖書の原則なのです。31~33節がこの原則をはっきりと現しています。

適用:福音を通して見る

今日は、ここまでになります。11章からは、コリント教会で混乱しがちだった集会の持ち方、そして復活の信仰に対する一部の人たちの疑いについてパウロが詳しく教えていますので、来週は残りの部分を見ていきます。

コリント書を通して、聖書は私たちに日常生活の様々な問題を福音という視点で見る見方、そして解決のための指針としての福音という考え方、取り組み方を教えてくれています。

誰のもとでバプテスマを受けたかが私たちの問題には滅多にならないかもしれないし、不品行の問題が横行していたというようなことが問題になっているか分かりません。また偶像に献げた食べ物を食べて良いかという問題が、スーパーに並んでいる食材を選ぶ時に問題になることは滅多にないかも知れません。

しかし、別の問題で教会に分裂が起きる可能性はいつだってありますし、コリント教会とは別の形で性的な混乱が家族や人間関係を傷つけ壊すことはあり得ます。お祭りの屋台の焼きそばやたこ焼きを食べることに良心の痛みを覚える人がいるかもしれません。伝統的に福音的な教会の多くは飲酒やタバコを禁じますが、それについて意見が分かれることがあります。

いずれの問題でも、パウロがコリント教会を教えていることから共通した原則が見られます。

私たちはイエス様によって罪赦され、自由とされたけれど、この体はイエス様の十字架の死と復活によって贖われ、新しくされたものです。従って、私たちの体も生活も、好きなようにしていいのではなく、福音に相応しい生き方、神の愛と恵みを現す生き方をすべきだということです。

そして何が罪で、何が罪ではないかは、私たちの好き嫌いや習慣、伝統で決めることではなく、聖書の教えを丁寧に学んだ上で判断しなければならないし、その上で具体的にどう行動するかは、兄弟姉妹たちへの愛を土台にすることが大原則です。

何度か繰り返されていたように、「私たちにはすべてのことが許されているが、全てのことが相手の益となるわけではありません」。教会はキリストによって罪赦され、自由とされた人々が、互いへの尊敬と愛によって結び合わされ、建て上げられていく大きな家のようです。

現代的な感覚では、意見が違ったり価値観が違ったら、別の道を歩めばいいとなるかもしれませんが、キリストによって贖われ神の民とされた大きな家族である神の教会の絆はそんなに簡単に壊して良いものではありません。自己主張ではなく、互いへの愛と思いやりともって、ともにイエス様によって一つとされているという新しい現実を見なければなりません。

世の中で道徳的な基準が移り変わり、神の聖さより、個人の自由が優先されるようになったとしても、自由は無制限ではないし、キリストによって贖われたこの体、この生活にはふさわしさがあることを知らなければなりません。

私たちの教会もまた、これから先、様々なことで考え方や価値観の違いが別れることはあるかもしれませんし、自由に振る舞いたいと思うことがらもあるでしょう。そのようなときに、福音を通して生活を見る、ということを忘れないようにしましょう。そして互いに神に愛された者であること、イエス様によって贖われた者であることを思い出し、愛と恵みを示す者となりましょう。

祈り

「天の父なる神様。

今日はコリント書の途中まででしたが、現実の教会に起こりうる様々な問題をどう見るか、どのような原則で解決に向かうのかを学びました。

イエス様の贖いによって罪赦され、自由とされた私たちが、神様の愛と恵みを現し、兄弟姉妹に対しても、愛を示すことができますように。様々な問題が起こったり、対立が起こる時に、自分の権利を主張したり、自分の正しいと思うことを主張するのではなく、まずは福音を通して問題を調べ、考え、愛と恵み相応しい行動を選択していくことができるように助けてください。

教会の交わりと私たちの生活が神様の栄光を現すもの、イエス様の愛と恵みを現すものでありますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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