2022-11-20 すべてを信仰、希望、愛をもって

2022年 11月 20日 礼拝 聖書:コリント第一 16:13-24

 だいぶ前にも紹介したことがありますが、学生時代に読んで大変感動し、教えられた小さな本があります。『クリスチャンのしるし』というものです。私たちはクリスチャンであるということが、どうやって人の目に見えるようになるか、あの人がクリスチャンだ、私がクリスチャンだというしるしはどこにあるのかを、イエス様の「互いに愛し合いなさい」とい教えを土台に丁寧に説き明かしてくれた本です。

何を信じているかはもちろん大事です。それなしにイエス様を信じたとは言えないからです。教会が伝統的に大事にしているシンボル、たとえば十字架や小羊、百合の花、星などのイメージも悪くありません。コリント人への手紙が書かれた時代には、まだそれほどはっきりしたシンボルは定着していなかったかもしれませんが、たとえそのようなものがあったとしても、コリント教会には、彼らが何者であるかについて、別のしるしがありました。先週も見たように、教会内での不一致の問題、不品行の問題、偶像にささげた食べ物の問題。そうしたことで対立と争いが起き、醜い妬みや競争心、自己主張が悪目立ちし、それはクリスチャンのしるしというよりは、彼らが肉に属する者であることのしるしでした。

今日は残りの部分を見ていくことにしましょう。どのようにしたら真のクリスチャンのしるしを取り戻すことができるでしょうか。

1.教会の集まり

第一に、コリント教会の集まりには様々な混乱が見られました。

集会の混乱の問題は11章から14章まで、わりと大きなスペースを割いて取り上げられます。これは混乱の原因が一つだけではなかったため、一つ一つ丁寧に取り扱う必要があったからです。

一つ目は、11:2~16に出て来る、人前に立つ役割のある女性が、かぶり物を身につけずに教会の集まりに参加しているということでした。

二つ目は11:17~34節に出て来る、主の晩餐をめぐる混乱でした。当時の礼拝の様子が伺える貴重な記録でもありますが、せっかくの主の晩餐の記念がかえって害になっていました。

三つ目は12~14章まで、最もページを割いて取り扱っている賜物の用い方をめぐる問題です。

全体として、パウロが教会に教えていることは、教会の集まりに秩序を取り戻す鍵は互いへの愛だということです。

11:2にあるように、コリント教会の礼拝や集会で教えられる教えは、使徒たちから教えられた内容をしっかり守っていました。しかし、彼らが信じ語っていることと、礼拝における行動には大きな開き、食い違いがあったのです。

3~16節では女性が神様から示されたことを礼拝の中で語る際に、かぶり物を着けずに人前に立つことが問題にされています。ローマ・ギリシャ文化の中では、女性は人前に出るときはかぶり物を着けるのが自然なことでした。しかし、コリントの能力豊かな女性たちは、そういう古くさい考え方にあえて挑戦し、かぶり物をうち捨てて人前に立ったのです。聖書は女性が説教したり教えたりする事を否定しているのではなく、そのために教会の秩序を壊すようなやり方を非難しているのです。

11章後半の主の晩餐の問題は当時の礼拝の姿を反映しています。教会はいくつかの信徒の家々に集まって礼拝をささげ、交わりをしていました。彼らは自分が属している家庭集会に集まると、食事の交わりをし、主晩餐のパンとぶどう酒を分け合い、それから聖書を朗読したり、使徒たちの教えを学んだりしていました。

ところが、コリント教会の一部の裕福な人たちは先に食事を済ませ、中には酔っ払うまでぶどう酒を飲んでいる人たちもいる始末です。後からやって来た貧しい人たち、奴隷などが仕事を終えてからやっと来た時にはもう何も食べるものがなく、自分たちも何も持ってこられないので恥をかくことになりました。

そんな教会に対して、礼拝も主の晩餐もそんなことのためにあるのではないと、改めて意義を説明し、互いに配慮し合うよう工夫しなさいと教えました。

12~14章という長いページを割いて教会の中での賜物の用い方が教えられています。賜物とはクリスチャンが互いに仕え合い、お互いの益となるように与えられた様々な能力や技能ですが、コリント教会にはそうした能力が豊かに与えられていました。ところが、それを競い合ったり、引け目に思ったりして、正しく用いられていなかったのです。そのため礼拝の場が混乱してしまっていました。パウロは教会を体に喩えて、どんな人も一つのからだとして大切な存在であることを丁寧に解説します。14:40にあるように教会の集まりは秩序をもって行うことが大事です。

2.復活の信仰

コリント書第一の最後の大きなテーマは「復活の信仰」についてです。これは15章で取り上げられています。

12節にあるように、コリント教会には死者の復活を信じない人たちがいました。イエス様の復活を、という意味でははく、クリスチャンがやがてよみがえるという信仰を捨てようとしていたのです。そこでパウロは、彼が実際にコリントの町に1年半滞在し、伝道し教えていたときに何度も話した内容を改めて語ります。それはパウロ自身もかつて教えられた内容です。使徒の働き9章にその時の様子が描かれています。

3節にあるように、この内容が福音全体の中でも最も大切で、すべての土台となるものです。その一部でも欠けてしまったら、私たちの信仰がまったくの無駄になってしまうほど重要なものです。

その内容とは、主イエス・キリストが旧約聖書で約束されていたとおりに、私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日目によみがえったこと。弟子たちの前に現れ生きておられることを証しされたということでした。イエス様はパウロにも現れてくださり、教会を迫害する者として救いを受けるに値しない者にも神の恵みのゆえに彼を救い、福音を伝える者として用いてくださいました。

コリントの人々はそのことを良く知っていたはずです。そして、確かに彼らはそのように信じたはずでした。

何があって彼らの信仰が変わってしまったのかはっきりとは分かりません。コリントの町の人々の「死人が復活するなんてあり得ない」とキリスト教信仰を馬鹿にする風潮に負けてしまったのかも知れません。彼らはイエス様の復活は信じていたでしょうが、キリストが再び来られるときにクリスチャンがよみがえるという復活信仰を捨てようとしていたのです。

そうした人々に対して、そもそも死者の復活がないのだとしたら、イエス様がよみがえるということも無かったはずだと言います。復活がイエス様だけの経験であるなら、それは私たちにとって何の意味もありません。イエス様を信じてそのいのちにあずかるのだと言われても、死んでお終いなら、なぜ忍耐して信仰の歩みを続け、あなたも信じなさいと福音を伝えなければならないのでしょうか。そして、19節にあるとおり、この地上での労苦がすべて報われ、すべてが回復される時が来ると信じて望みを置いている私たちは、愚かで憐れ者ということになります。

イエス様のいのちにあずかった者が死んでなおよみがえるという希望がなかったら無意味なことは他にもあります。29節にはコリント教会にあった変な風習、死んだ人のためにバプテスマを受けるということも無意味なことです。32節にはパウロが福音のためにエペソで獣と戦うという命がけの迫害をくぐり抜けましたが、それも無意味です。

35節以下では、私たちが完成した神の国に入るためにはこの滅びる肉体から、新しい朽ちない体に変えられる必要があり、そのようにして、死に対する勝利が完全なものとなります。復活の希望についてのまとめが58節にあります。この希望があるから、私たちの信仰の歩みには意味があり、労苦も無駄になることはないと信じて生きていけるのです。苦労したとしてもより良く生き、正しく生きようとする努力にも意味が生まれるのです。

3.信仰、希望、愛

最後の16章は手紙では終わりの挨拶文ということになります。困難な状況にあったエルサレムの兄弟姉妹のための献金についての話しは、これからのパウロの予定との関連で触れているものです。パウロはギリシャのマケドニア地方の諸教会、ピリピ、ベレヤ、テサロニケといった教会を励ました後でコリント教会を訪問し、冬を越す予定を立てていました。ついでに立ち寄る程度ではなく、しばらく滞在したいと考えていました。

またパウロにとって弟子であるテモテや同労者であるアポロの動向について触れた後で、今日最初にお読みいただいた13節からの最後の挨拶文になっていきます。

この挨拶文の中にも、分裂し、様々な問題をかかえたコリント教会であってもパウロのいわば牧会的な配慮と労苦が続いており、どれほど大事に思っているかが表れています。また、コリント教会の中にも忠実に奉仕している模範とすべき人々がおり、また主にある他の教会との交わりと愛のこもった祈りの中にあることを思い出させています。教会がイエス様を信じた人たちが好きに集まって、自分のことだけに関心を持ち、自己主張する場ではなく、愛をもって互いに仕え合い、恵みを与えあう神の家族なのだということを描いているのです。

その最後の挨拶の冒頭、13節と14節にはこうあります。「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。一切のことを、愛をもって行いなさい。」

これがコリント教会の、そして現代の教会にも共通する、あらゆる問題を取り扱い、解決していくための土台です。

コリント書の中にはおそらくもっと有名な言葉があります。愛の章と呼ばれる13章の最後、13節。「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」

使徒パウロは、どのような問題であろうと教会が様々な課題に直面したとき、何を土台に問題をとらえ、解決していくか、その一貫した土台があることを教えています。それがイエス様への信仰とイエス様によって家族とされた互いであることの確信、主が再びおいでになるとき私たちも新しいからだに復活し、すべてが回復されるという希望があること、そして神様がイエス様を通して現してくださった愛にならって互いを敬い愛することなのです。

コリント書を振り返って見れば、どの問題に関しても同じ信仰、希望、愛が貫かれていることがわかるはずです。

私たちはイエス様の十字架によって罪赦され、神様の家族とされた者たちだから、あらゆる違いを超えて互いを受け入れ、尊重しますし、この体はイエス様のいのちの代価で買い取られたものだから相応しく生活すべきです。そして、イエス様にあってやがて新しいからだでよみがえる希望の中にあるから、忍耐し、努力する意味があります。

そして、中でも実際的な対応にあたって最も重要な役割を果たすのが愛です。どんなに正しくても、どんなに賜物豊かでも、どんなに知識や知恵があっても、私たちの兄弟姉妹や隣人との関わりに愛がなかったらすべては無意味です。ですから16:20~24には再び愛が繰り返されているのです。

適用:私たちの生き様

さて、二週にわたってコリント人への手紙第一を見て来ました。教会の中に様々な問題を抱えていたコリント教会をパウロがどのように教え、指導したかを学ぶことは、現代の私たちに対して神様が教会をどのようなものとして見、問題をどういう土台にたって解決すべきと意図しておられるかを学ぶことです。

コリント教会は、信仰においても、知識においても、様々な能力においても優れた教会でした。問題は、罪があること、人間的な弱さがあることではありません。

問題は、私たちが信じた福音に立って生活しているかです。キリストにあって救われた者だから、神様の愛と恵みを現す生活を目指す。キリストにあって神の家族とされたのだから、互いを敬い愛し、違いよりも受け入れることを選ぶ。キリストの体として互いの益となるように私たちには様々な能力、賜物が与えられているのだからそれを自己主張のために用いるのではなく、へりくだった態度で相手の必要に応えるよう用いる。

それらは私たちの自己中心になりがちな気持ちや、態度とぶつかりますし、この世の大きな流れに逆らうような生き方かも知れません。そこには苦労も苦難もあるでしょう。しかし、私たちには死の先にある復活の希望があり、そのとき全てが報われ、癒され、回復し、勝利が与えられます。だから、どんな労苦も忍耐も決して無題に終わることがありません。それゆえ私たちはどんな時でも愛することを最優先にするのです。

パウロを通して神様は私たちにクリスチャンらしい生き様とは何かを教えてくれているのです。

コリント教会にあった問題は私たちの問題とは違うかも知れません。女性が帽子を被るかどうかみたいな文化的な問題は、全く同じとは言えません。しかし、不一致や不道徳はいつでも起こり得ます。自己主張のために能力をひけらかすことや逆に自分は何も出来ないといじけることもあるでしょう。

コリント書はクリスチャンや教会が直面するすべての問題を取り扱うために書かれたものではないので、現代の日本の社会、文化の中で特有の問題があります。

新型コロナをめぐるマスクやワクチン、行動制限に教会はどう対処するか、戦争の問題についてどんな態度を取るか、ますます多様化していく家族や性のあり方についてどう理解し、向き合っていくか。日本ならではの、家とお寺の関係や地域社会と神社の関わりにどう対処するか。信仰の継承と宗教二世という難題と思えることにどう答えるか。高齢化する教会や牧師の不足という状況に私たちはどう備えていくのか。この町の特徴といえるかも知れませんが、シフト制で働く若者たちへの伝道やそうしたクリスチャンたちの礼拝や交わりの機会をどう作っていくか。

数え上げればきりの無い様々な問題があり、それらはしばしば対立や混乱を生み出します。中にはどう頑張っても意見が一つにまとまらないこともあるでしょう。

たとえそうであっても、私たちは互いを愛し敬うことを諦めないようにしましょう。私たちは互いにキリストにあって聖徒として召された者たちなのですから。

世の中ではどうでもいい、好きなようにすればいいという問題でも、キリストにあって真剣に考えましょう。私たちのからだはキリストの十字架によって贖われたものですから。

世の中では、もうそんなやつ放って置こう、距離を置こうというような場合でも愛することを止めないようにしましょう。私たちはただ恵みによって神の民とされ、神の家族、キリストのからだなる教会に結ばれた者同士なのですから。

祈り

「天の父なる神様。

先週に引き続き、コリント人への手紙から私たちの生き方について学びました。イエス様にある信仰と希望、そして愛を土台として、私たちの生活を見つめ、兄弟姉妹や隣人に対する態度と振る舞いを選んでいくことができますように。

私たちの教会の交わりが神様の愛と恵みを豊かにあらわすものでありますように、どうぞ励まし、導いてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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