2023-01-15 家族の家族、教会

2023年 31月 15日 礼拝 聖書:エペソ3:14-21

 近年の調査では、キリスト教国といわれる国々で、自分はクリスチャンであると思う人の割合が減っているそうですが、それ以上に減っているのが、実際に教会に定期的に集まっているという人の数だそうです。特に若い人たちの間で、クリスチャンではあっても教会に行かないという人が増えているのだそうです。

理由は様々考えられます。日本なら信仰心はあっても団体の属することを嫌がる傾向があります。ネット社会で知りたいと思ったことはすぐ調べられるし、有名な説教者のメッセージは教会に行かなくても聴けます。教会での奉仕や献金から解放され、好きな時に自分に必要なものだけを得られれば効率的だと考えるのはいかにも現代的です。しかし、そこには教会についての神様のご計画をまったく理解していない、教えられていない、という問題があります。

メッセージのあとの讃美歌の歌詞の中に「数々の争いが教会の交わりを裂き、世の人たちがばかにして悩むことがあるけれど」という意味の歌詞があります。それでもクリスチャンが教会につながっているべき理由は何でしょうか。神様はいったい教会についてどんなご計画を持っているのでしょうか。

獄中で囚われの身になっていることなどまるで感じさせない喜びと壮大な神のご計画への感動に満ちたエペソ書のテーマは、ずばり教会です。それでは見ていくことにしましょう。

1.獄中での賛美

第一に、パウロは獄中から神を称える歌をもってこの手紙を始めています。

パウロが獄中にいたことはすぐには触れられていませんが、その事情はおそらくエペソ教会を始めとする当時の諸教会にはすでに知られていたと思います。4:1には「主にある囚人」と自分について語り、6:20では「福音のために、鎖につながれ」ていると記しています。しかし、そんなことは全く感じさせない賛美の歌、祈りの詩が1:3~14まで続きます。

ギリシャ語の聖書を見ると、この詩は文の区切りが最後までなく、一続きの文になっています。そのため、パウロはあらかじめ練った詩を書いたのではなく、神の恵みとご計画について書き始めたら自然に次から次へと思いがあふれて来た、というふうに考える人もいます。先週、錦秋湖の荒木さんと近藤先生にインタビュー動画を撮影したのですが、次から次へと言葉が途切れず出て来て編集が大変でした。そんな感じだったのかも知れません。

しかし、内容がばらばらで混乱しているわけではなく、はっきりとしたテーマがあり、しっかりした構成があります。

パウロの賛美の祈りは、4~6節で父なる神の永遠のご計画について賛美し、7~12節でその計画が御子キリストによって実現されたこと、その目的がキリストにあってすべての人々が神の恵みにあずかることだと賛美し、13~14節では約束の聖霊によってその恵みが私たちに与えられ、未来にわたって保証されていることを讃えています。それぞれの項目は「神がほめたたえられるためです」という言葉で締めくくられています。

そしてパウロは1:15~19で溢れるような願いを書いています。エペソのクリスチャンたちの信仰と、他のクリスチャンたちへの愛の深さを感謝はしています。しかしそれ以上にこの賛美の祈りの中で表された神の永遠の目的によって与えられる希望と祝福、力がどれほど素晴らしいものかを知って欲しいと心から願い、この手紙を書いたのです。このような賛美を献げているパウロですが、いったい何があったのでしょうか。

エペソでの宣教の働きについては使徒の働き19章に記されています。エペソは今も観光地になっていますが、パウロの時代もエーゲ海に面した大きな港がある都市で、ギリシャ神話の女神アルテミスをまつる神殿を中心とした一大観光地のようでした。

そこでパウロは2年間滞在し、福音を宣べ伝え、多くの人々が信じて教会が誕生しました。その後、エサレムに行く途中でエペソのリーダーたちを呼び寄せ、もう会う機会はないだろうと話します。その中で、パウロが去った後に教会を荒らし回る凶暴な狼のような者たちが曲がった教えを説いて惑わすようになるから気をつけなさいと警告しています。そしてパウロはエルサレムに行ったときに、異邦人に救いを伝えることをよく思わないユダヤ人たちによって訴えられ、囚われの身となってしまうのです。根深い問題でした。

パウロはそんな時代の教会に、ユダヤ人も異邦人も区別なく神の救いをキリストによって一つにされる、ということの意味合いをさらに深め、その上で、それならば私たちは家族や教会をどういうものととらえ、その中でどう振る舞うのが相応しいか、ということを教えようとしているのです。

2.福音の奥義

エペソ書は大きく二つに分けられます。最初の部分は1~3章で、ここでは福音の奥義が神の家族としての教会であることが明らかにされます。残りの4~6章が二つ目の部分で、福音の奥義に根ざしたならどう生きるべきかが勧めというかたちで記されています。

まず、福音の奥義が神の家族としての教会であるとはどういうことか見ていきましょう。

「奥義」という言葉の日本語としての別の読み方は「おうぎ」です。この「おうぎ」の場合、その意味は武術や芸術の道を究めた先で極める技などを意味します。それは並の人間には到達できない境地であり、ごくごく限られた者しか身につけられないものです。

しかし聖書で「おくぎ」と訳されている言葉はだいぶ意味合いが違います。ギリシャ語では「ミステリオン」という言葉が使われており、英語の「ミステリー」の元になった言葉です。この言葉の意味としては「隠されていたもの」となります。しかし、武術の奥義(おうぎ)と違って、神の福音の奥義は、以前は隠されていたけれど、今はすべての人に明らかにされています。ではエペソ書でどのように奥義が明らかにされているでしょうか。

1章の賛美の祈りにまた戻りたいと思いますが、3節で父なる神様が祝福のためのご計画を立てたとあります。その計画とはキリストによって世界の基の置かれる前から選んでくださった私たちをご自分の子とするという内容でした。その計画が何を目的としているかというと、10節にあるようにすべてのものがキリストにあって一つに集められることです。

これらの祈り自体は、神様がアブラハムに約束されたことと深く関わっています。神様はアブラハムの子孫を通して全世界を祝福すると約束されましたが、彼自身はそれがどうやって実現されるかは知りませんでした。この約束が預言者達を通して時代と共に内容が少しずつ明らかにされるのですが、大抵は部分的なためなかなか全体像が見えません。それを完全に明らかにされたのがイエス様です。イエス様の生涯と十字架、復活を通して神様のご計画が実現されたことで、隠されていた奥義がはっきりしたのです。

イエス様の十字架によって実現した救いが全世界に及ぶために、神様が用意しておられたのが、実は教会なのだということが1:22~23で示されています。これが福音の奥義です。

2章では、ユダヤ人だけでなく異邦人もただ信仰により恵みによって救われたこととが繰り返されています。実際、エペソ教会にもユダヤ人や異邦人、自由人や奴隷人などがいましたが、2:19にあるように、様々に隔てられていた人々がキリストにあって一つに集められ、同じ神の民とされ、神の家族とされたのです。

3章ではこの「神の家族を通してすべての人に明らかにされる」ことこそが神の福音の奥義であることがさらに詳しく述べられています。8~11節を見てみましょう。私たちの周りにいる人たちが神様の救いの恵みを知るのは私たち教会を通してなのです。ですから、今日読んだ箇所でパウロは、神の家族である教会に属する者となったクリスチャン全員に、この奥義の意味、恵みの豊かさ、愛の深さ、力の大きさを知って欲しいと祈るのです。それこそが死からよみがえったイエス様の力を体験することなのです。

3.福音に生きる

さて、エペソ書の二つ目の大きなまとまりは4~6章です。これまで述べてきた福音の奥義が神の家族としての教会であるなら、私たちはどう生きるべきかを考えさせようとしています。

まず4:1にあるように、神の奥義である大きな神の家族の一員として召され、その恵みと愛、力の豊かさを知り、私たち教会を通してさらに他の人たちに救いを知らせるために召されている私たちは、その召しにふさわしい歩み方をするがあります。ここでは特に教会をキリストがかしらである体に喩えて、互いに結びつき、仕え合う事で教会を建て上げていくことが教えられています。教会が健全に建て上げられるためには11~12節にあるようにクリスチャンを聖書によって導く指導者たちの働きと、17節以降にあるような実際生活の中での道徳的な基準が必要です。23節と24節では、私たちの理解、考え方、判断が新しくされ、キリストに相応しく生きることを新しい服に着替えることに喩えて「新しい人を着る」と言っています。サッカーやオリンピックで日本代表が選ばれると、新しい代表チームのユニフォームを着ます。神様の家族の一員になったら、私たちも新しいユニフォームを着るのです。その具体的な内容が4:25~5:21まで記されています。

脱ぎ捨てるべき古い人、それは偽りであり、怒りに捕らわれること、盗み、噂話、復讐、性的な不道徳、酒に酔うといったことであり、身につけるべき新しい人は、真実な言葉、平和、施し、人を励ますこと、赦す事、自制、そして聖霊に満たされることです。隣人を愛することの具体的な表れだということに気づかされます。

これらの教えから分かることは、クリスチャンとしての歩みは日曜日だけのものではないし、教会に集まった時だけのものではない、ということです。むしろ大きな神の家族の一員とされ、この世界のただ中に生かされている者として、教会の交わりの中でも、仕事や生活を営む社会の中でも、親密な家族の中でも、私たちは神の民として召された者、神の子とされた者として、新しいユニフォームを着るように、神のご性質を映し出すような生き方をすべきだということです。

聖霊によって新しい人を着た人たちには聖霊のしるしが現れます。5:19~21にあるように、神を称える音楽があり、感謝があり、互いを敬い仕え合うことです。

この聖霊のしるし、特に互いを敬い仕え合うことが最もよく現れるべき関係がクリスチャンの家庭です。

5:22~6:9には、各家庭の中での私たちのあり方が教えられています。もちろん、現代の私たちの家庭には奴隷と主人の関係はありません。しかし血がつながっているかどうかは関係ありません。またここには同居している親や義理の親のことは出てきませんが当然そうした人たちも含まれます。家族であるということは、その家庭において全員がお客さんではなく当事者です。誰も責任を負うことなくお客さんのように、あるいは王様のようにしていて良いわけはないのです。家族として共に歩む者たちが、互いを愛し、尊重し、自分の責任を果たすことで仕え合う姿はキリストと教会の関係、つまり神の家族の縮図です。クリスチャンの家庭の一つ一つがこのような姿に成長することで、教会全体が強められ、いよいよ神様の素晴らしさと恵みを表すことができるようになるのです。

適用:大きな家族の中で

最後に、エペソ書の終わりの部分でパウロは霊的な戦いに備えるよう注意を与えています。6:10からの箇所です。

私たちが大きな神の家族の一員であるという自覚をもって、教会や地域社会、家庭の中で生きようとするとき、その一致や平和、互いへの思いやりや献身を邪魔しようと悪魔ががんばります。悪魔は私たちに悪霊を取り憑かせたり、幽霊を見せて怖がらせるようなことは普通はしません。もっと簡単に私たちを揺さぶり、道を逸らせることが出来ることを知っているのです。

悪魔は私たちの心の弱いところを突きます。自信のなさだったり、密かに抱いている怒りや恨み、不満をたきつけたます。高慢さや憐れみのなさを悔い改めへりくだるよりも、それらを隠して形だけクリスチャンらしく振る舞うよう誘惑したりします。

だから私たちは神の武具を取らなければならないとパウロは忠告します。真理、正義、平和、信仰、救い、神のことば。これらは救い主キリストのうちに見られた特徴です。イエス様と共に歩む者として私たちはこれらを身に付けていれば、霊的な戦いに勝利することができます。そのためにはやはり祈ることが大事です。御霊によって祈ること、すなわち、神のことばを通して語りかける聖霊によって祈るために聖書を読むことが重要です。

経験上、私たちが霊的に弱るとき、この世の流れに流されやすくなる時というのは、礼拝や教会の交わりから遠ざかる時です。それは毎週教会に来るというきまりを破るからではなく、みことばと祈りから遠ざかってしまうからです。自分の力で神の武具の替わりを準備しようとしても貧弱なものしか身につけられないのです。そうなったらあっという間に狙いを定めている悪魔にからめとられ、気づいたら餌食にされていた、ということになってしまうのです。

パウロはエペソ教会に何か特別な問題があるからこの手紙を書いたわけではありませんでした。むしろ、エペソ教会は立派に成長していました。その様子を聞くと自然と感謝の言葉が出てきました。

しかしすべての教会、クリスチャンがそうだというわけではありません。福音の奥義をはっきりと理解し、大きな神の家族の一員として置かれた場所、交わり、家族の中で神の子どもとして相応しく歩むこと、それを邪魔する悪魔の攻撃に対抗できるよう神の武具を取らなければ、この愛と一致、平和と喜びはすぐに失われます。

しばしばクリスチャン生活の中で喜びがなく心が満たされないといって、他の教会に行ったり、特別集会で祝福されたいと思うことがあります。しかし、他の誰かから何かをもらったりやってもらうことで喜びが取り戻され、満足が得られるのではありません。

パウロを通して神様が私たちに教えているのは、あなた方は誰一人としてこの教会のお客さんじゃないということです。制度上、正会員とか客員とかあるかもしれないけれど、神様の前では同じ神の家族の一員です。であるなら、自分から兄弟姉妹を愛すること、仕えること、教会の交わりで励まし合うこと、役割を担うこと、献げることをしようとしなければ、愛されることも、励まされることも、労苦をともにする喜びも、主の生き生きとした御わざを目撃して感動することもできません。

パウロは牢につながれ、多くの制約があってもこの福音の恵みを、この福音の奥義を人々に伝えたいと願い、そのために祈って欲しいと訴えました。私たちは牢につながれてはいません。パウロのような賜物と知識はないですが、自由はあります。この自由を神様からの恵みとして、より良く用い、神の家族である教会の一員として、また教会家族の互いのために、そしてのこの恵みを知らなければならない多くの人々のために使いましょう。

祈り

「天の父なる神様。

エペソ書を通して、福音の奥義が、キリストによって一つに集められた神の家族である教会であること。この教会を通して神様の恵みが明らかになり、世界に祝福がもたらされることを改めて学びました。

それが私たちの生活をどう変えるのか、よく考える時、教会の交わりの中で、社会の中で、家庭の中で、私たちはどう歩んで来たか考えさせられます。聖書が教えるように、へりくだって互いに愛し合い、仕えることができますように。どうぞ私たち一人一人の小さな変化が家庭や職場、社会、そして教会に豊かな恵みを表していけますように。そのようにして永遠の神の祝福をもたらすご計画が私たちの周りの世界に実現しますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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