2023-01-29 上にあるものを思って

2023年 1月 29日 礼拝 聖書:コロサイ3:1-11

 走るときは、足元ばかり見ないで、顔を上げゴールを見ることが大事と言われます。山登りするときも、足元はしっかり見なければなりませんが、たえず顔を上げて周囲を観察することが大事です。

頭を下げたり、下を見るのではなく、頭を上げ、視線を上げることが体全体の姿勢やバランスにとってとても大事なことのようです。同じことが信仰の歩みにも言えます。

今日ご一緒に開いているのは小アジアのフリギア地方のコロサイという町にあった教会宛てにパウロが書き送った手紙です。この教会はパウロが生み出した教会ではなく、エパフラスという人が開拓した教会でした。ところが教会に忍び込んだ問題があり、そのことでエパフラスが獄中のパウロに相談に行き、その返事が手紙として記されたのです。ですので、先週みたピリピ書やその前のエペソ書と同じ時期に書かれたと思われます。

パウロはコロサイ教会にあった問題を聞き、様々な問題に揺り動かされないために、教会のかしらであるキリストを共に見上げることが大事だと教えます。そして、キリストを見上げるとは、具体的にはイエス様が私たちにとってどんな方かをよりはっきりと知ることと、イエス様が再びおいでになる時には、イエスに似た者に変えられることを思って、そのつもりで生きることだということを教えようとしています。

1.万物を和解させる方

第一に、教会のかしらであるイエス・キリストは万物を和解させる方だと教えます。

コロサイ書は1:1挨拶に続き、パウロからの感謝と祈りが記されています。このあたりの構成は「いつもの」という感じがします。その感謝の中で、コロサイ教会の信仰と希望と愛とが豊かに実を結んでいることを心から喜んでいる様子が覗えます。

9節からの祈りでは、さらに彼らの理解力が増し加えられることで、主にふさわしい歩み、良いわざのうちに実を結び、もっと深く神を知ることができるようにと祈っています。要するに、神のみこころをより深く知ることで、クリスチャンとしての生き方、隣人に対する愛の行いがさらに豊かなものになることを願っているのです。

その、より深く知るべき神のみこころが、コロサイ書の大きなテーマである、御子キリストとはどういうお方かということです。

獄中書巻と呼ばれるエペソ、ピリピ、コロサイの手紙の特徴に、それぞれのテーマに関連する重要な詩が記されているということですが、コロサイ書の場合は1:15~23がその詩にあたります。この詩を通してパウロは、教会のかしらである御子キリストがどういう方であるかを描いています。

まず15~17節で御子イエス・キリストは唯一の神と同一の存在であり、すべてを造られた創造者であり、全世界の王であることが歌われています。

続けて18~20節ではキリストがからだなる教会のかしらであり、死者の中からよみがえられた方、十字架によって平和をもたらした方、最終的には御子キリストによって万物を和解させる方だと歌われています。

和解する、というと仲直りのイメージですが、確かに神様と人間との関係をあるべき姿に戻すという意味では仲直りに近いです。しかしそれだけでなく、万物=すべてのものとの和解と言われていますから、この宇宙も自然も、本来の美しさを取り戻し、死と破壊に覆われているこの世界が平和を取り戻すことも含まれているのです。ガラテヤ書で「新しい創造」という言葉が使われていましたが、まさに全てのものを和解させるというのは新しい創造です。

さらに万物を和解させるキリストによって「あなたがた」つまり、コロサイのクリスチャンや、この手紙を読む全てのクリスチャンが、罪と死の中から、聖なる者、傷のない者、責められるところのない者とされたことが21~23節では説明されています。

私たちが自分の罪に気づき、イエス様の十字架と復活を信じて赦され、神様の子どもとされたことは、全世界の回復、新しい創造の大切な一部なのです。

さまざまな人々が、キリストのからだと呼ばれる教会に加えられるのは、すべてのものがやがてキリストにあって一つにされることの前触れです。

しかし、この万物の和解、新しい創造の生き生きとした営みの中にあって、私たちが回復され続け、新しくされ続けていくためには23節にあるように、信仰に土台を据え、その上にしっかりと立ち、福音の望みから外れずに留まることが大事です。というのも、引き裂こうとするものが絶えずあるからです。

2.引き裂くもの

第二に、私たちをキリストにある絆から引き裂き、留まっているべき希望や信仰の土台から突き落とそうとするものがあります。

まず1:24~2:5で使徒パウロ自身が経験していることで、教会の外からのしかかる力です。彼が牢に入れられていたのは、私たちの信じるイエス・キリストが万物の創造主であり、王であり、救い主であり、この方によってすべてが赦され一つとされるのだ、というメッセージを語ったからです。それを快く思わない人たちがいつの時代にもいました。異邦人も見境なく仲間に引き入れるように見えてそれを律法への冒とくだと思ったユダヤ人だけでなく、イエスが王、救世主だなんて、ローマを戦争の時代から解放したローマ皇帝に反逆することだと怒った人たちもいました。現代なら、個人が王様になっていますから、たとえそれが幻想だとしても、それを破って、イエス様を主として迎え入れることを良しとしない人は少なくありません。自分の罪深さを多様性だといって主張したり、新しい家族の一員になるなんて面倒だと思う人もいます。時代が変われば今は信仰の自由を認めている国がある日豹変して牙をむくことだってあります。しかしパウロはそうした外から来る力によって受ける苦しみを24節にあるようにキリストの苦しみをともにすることだと受け止め、揺るがされるのではなく、かえって福音を語り教えることに励んだのです。

二つ目と三つ目は教会の中に働く力です。2:6~23にはコロサイ教会が直面していた、宗教的な流行とまたしても登場する律法主義の問題が描かれています。

2:8に「あの空しいだましごとの哲学」とあります。これは何のことを言っているかというと、当時流行っていた神秘主義の多神教的な考え方のことです。様々な神々や霊の力の影響を受けてこの世界は動いているから、それらの霊とうまく付き合うことで成功や幸せを手に入れ、不幸を避けることができるというような考えは今も昔も変わらずにあります。『千と千尋の○○』『鬼滅の○』とか『呪術○戦』といったお話を娯楽として楽しんでいるうちはいいでしょうが、それらの背後にある世界観に影響され、私たちの考えや行動が歪められてしまうなら大問題です。私たちは9~10節にあるように、すべての上に立つ方であるキリストを宿す者であり、イエス様はすべてに勝利された方です。

もう一つは当時の教会にはおなじみの律法主義、ユダヤ主義です。異邦人クリスチャンも本当に救われるためには律法を守り、伝統を守るべきだと主張する人たちがいました。16~23節に描かれています。様々な律法の規定を守ることだったり、神の前で罪深い者であることを強調するのは良いことですが、キリストの恵みと赦しを無視するような自己卑下をしたり、枝葉の事に夢中になって肝心の教会のかしらであるイエス様に結びつくことをしません。そんな状態でどんな規則や伝統や習慣を守ったとしても23節にあるように、それはただ肉を満足させるだけ、自己満足なのです。

外から来る、キリストを主とすることに対する抵抗や、教会のうちから起こってくる、この世の考え方に振り回されたり、神に従うふりをして自己満足におちいる律法主義は今もあります。それらはキリストから引き離そうとする力です。しかし、キリストはすでにそれらに勝利されたことを忘れてはなりません。

3.新しい人として

さて、コロサイ書も最後のまとまり、3~4章に入ります。ここではイエス様の復活のいのちをいただいた、新しい人として歩むようにとの勧めが語られています。

他の手紙でも取り上げられている、ギリシア人もユダヤ人もないキリストにある新しい神の家族の姿。この世の基準とは異なる、神の国の民としての新しい道徳的な基準。当時のローマ社会の家族のあり方とは異なる愛と恵みによる家族の姿に変えられていくことを教えています。しかし、下手をすればそれも新しい律法主義や表面的な敬虔さに陥ってしまう恐れがあります。そこで鍵となるのが、今日司会者に読んでいただいた3:1~2です。

「上にあるものを求めなさい」「上にあるものを思いなさい」

これはどういう意味でしょうか。

まず「こういうわけで」で始まることから考えましょう。パウロはこれまで最初の詩の部分で、イエス様が永遠の神であり、万物の創造者、王であることが歌われました。この方によってこの宇宙は成り立ち、保たれており、さらにキリストの十字架の死と復活によってすべてを和解させる方だということが歌われました。今、様々な人たちが教会として集められているのは、キリストによってすべてが一つにされることをしるしであり、恵みのあらわれです。

私たちが信じ、宣べ伝えているのはこういうお方なのです。しかし、自分たち上にイエス様が立たれることを良しとしない人々の反抗や、教会の内側から起こって来る、この世の考え方や、表面的な敬虔さで自己満足に陥らせようとする力が働き、私たちをキリストの絆から引き離そうとします。

「こういうわけで」私たちは上にあるものを思うべきだとパウロはつないでいます。前にも触れたように、万物を回復させる、新しい創造の生き生きとしたみわざの中に留まり続けるためには、私たちはこの信仰に堅く立つ必要があります。そこで大事になるのが、上にあるものを思う、ということなのです。

1節で「あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら」とあります。また2節には「地にあるもの思ってはなりません」とあります。私たちはイエス様を信じて、イエス様の十字架の死と復活に結び合わされ、新しい人とされたと教えられますが、しかし現実にはこの地上にある限り、様々な弱さや罪を抱えたままです。私たちの周りの世界も、再創造され回復されているようにはなかなか見えません。私たちやこの世界が本当に新しくされ、完全に回復される、和解されるのは未来のことです。イエス様が再び王としてこの世界に戻って来られる時のことです。その時、私たちは本当の意味で新しくされます。それまでの間、私たちはこの地上で、やがてそうなる者として、そのつもりで自覚を持って生きなさいということなのです。

牢につながれている人が、本当に回心して新しく生きようと思ったら、刑務所を出てからちゃんとするのではなく、服役中から真っ当に生きようとし始めます。まして私たちはすでに罪と死の支配から自由にされました。私たちの中に弱さが残っていても、やがて自由にされ、新しくされる者と考えて周りの人たちと関わり、家族を愛し、教会の兄弟姉妹に仕えるのです。イエス様は万物の王であり、私の家と教会の主です。この方を思って生きるのです。

適用:私の思いはどこに

コロサイ書の最後の部分は、手紙の挨拶になっています。ここには、パウロのもとから何人か遣わすから歓迎して迎えいれてほしいという願いや一緒にいる同労者たちからの挨拶が記されています。

けれどもここには、コロサイ書で述べて来た内容を元に、「上にあるものを求めなさい」と勧めたパウロが、「あなたがたの思いはどこにあるか」と問いかける仕掛けが込められています。

パウロの様子を伝え、手紙を届けるのはティキコという同労者です。彼とともにオネシモというクリスチャンを送り出すと言っています。このオネシモについて「あなたがたの仲間の一人で、忠実な、愛する兄弟オネシモ」と紹介しています。もともとコロサイ出身の人です。実は、この人はコロサイ書と同じ時期に書かれたピレモンへの手紙に登場します。コロサイ出身のオネシモがパウロのもとにいたのは、彼がもともと奴隷だったのに、主人のもとから逃げ出して来たためでした。その元主人がピレモンだったわけですが、どうやら何か主人のもとで失敗をし、損害を与えてしまい、それを咎められるのを恐れて逃げ出したようです。当時、逃亡奴隷は非常に厳しい扱いを受ける運命にありましたが、逃亡先でパウロと出会い、イエス様を信じクリスチャンになったのです。それだけでなく、パウロの同労者としてよく仕え、共に旅をし、仲間の一人、愛する兄弟となったというわけです。そして、ティキコを遣わす時に一緒にコロサイに送り返し、ピレモンと和解するようにと計画したのです。そのあたりのことは後でピレモン書を学ぶ時に詳しく見ていきます。

大事なのは、上のものを思う、キリストから目を離さないということは、そういう生活の中にある一つ一つの場面の中で問われるということです。コロサイ教会の人たちは教会員であるピレモンのところにいた奴隷が逃げ出した顛末を知っていたでしょう。しかし、今主にある兄弟として迎えて欲しいとパウロに言われた時、何を見るかを問われるのです。過去の損害や傷付いたプライドか、それとも一人の罪ある奴隷がキリストに出会って主にある家族とされたことか。

私たちには逃亡奴隷はいないでしょうが、過去に因縁のある誰かがいるかも知れません。私もそういう人たちとの関わりや今抱いている感情に目を向ける時に、いったい何を見ているだろうか、何に思いを向けているだろうかと考えさせられます。

地上のことを思うなと言われているのに、新しい人として生きなさいと言われているのに、なかなか過去の苦い感情から自由になれなかったり、イエス様の愛も真実も知らないこの世の人がするのと同じような態度を反射的に取ってしまったりすることがあるのに気付かされます。

そういう傷付いた感情を捨てることや、態度を変えることが難しいのをパウロも知っています。だから、律法的にどうこうするのがルールだと言うのではなく、まずは「上にあるものを思いなさい」「新しい人とされていることを思い出しなさい」と、私たちの心と思いを軌道修正することら始めようとするのではないでしょうか。

皆さんの思いはどこにあるでしょうか。何を見て、何を思っているでしょうか。キリストのいのちをいただいた者として、上にあるものを求め、思うようにさせていただきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

今日はご一緒にコロサイ書を学びました。パウロは福音のために不当に捕らえられ、教会の中には怪しげな宗教や流行の考え方に惑わされる人や、律法を大事にするあまりキリストに結びつくことより外面だけの敬虔さで満足している人たちが現れ、キリストにある教会のきずなを壊そうとする力が働いていました。それは今日も起こりうることです。しかし、神様はパウロを通して、新しい創造の中にあり、新しい人とされた者として、上を見上げて生きろと教えてくださいました。

どうぞ、日々の暮らしの中で、私たちの信仰、生き方の土台が問われるようなときに、私は何を思い、何を求めているか、よくよく振り返ることができますように。そして、上にあるものを思う者としてくださいますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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