2023-02-12 希望から生まれる愛と聖さ

2023年 2月 12日 礼拝 聖書:テサロニケ第一5:23-28

 クリスチャンであるということで、クリスチャン以外の人たちと様々な違いを感じる場面があります。それは日曜日には教会に行くという外から見て分かる行動や生活習慣の場合もありますし、収入の中から献金するという経済的な感覚の違いである場合もあります。また道徳的な感覚の違い、価値観の違いとして現れる場合もあります。

同調圧力の高めな日本では、他人と違う生き方をするのはなかなかハードなことです。そのことで家族や友だちから馬鹿にされたり、嫌みを言われたり、難癖をつけられたりしたことがあるかも知れません。

しかし、クリスチャンが他の人と違うというのは、生活習慣や価値観といった外側に現れる違いを生み出す信仰と希望から来るものです。信じていることが違えば、自ずと考え方、価値観、振る舞いに違いが現れるものです。

今日はテサロニケ人への手紙第一を取り上げます。パウロの二度目の宣教旅行の時に、ギリシャのマケドニア地方にあるテサロニケの町に生まれた教会は、激しい迫害の中にあっても、堅く信仰に立ち、愛に溢れていました。そんな愛と信仰をもたらすキリストにある希望が、ますますクリスチャンを強め、さらに愛と聖さを増し加えるものであることをパウロは教えようとしています。

1.信仰と希望と愛

テサロニケ第一は前半と後半に綺麗にわかれています。前半の1~3章はテサロニケ教会の信仰と希望と愛の様子についての感謝の祈りと、その愛と希望が強められ、聖さが増し加えられるようにという祈りで締めくくられます。

最初の祈りは1:1~5に出て来ます。「信仰から出た働き…愛から生まれた労苦…望みに支えられた忍耐」とあるように、テサロニケ教会の福音宣教の働きや、困難の中でも忍耐し労苦する力の源は信仰であり、愛であり希望だったのです。パウロはテサロニケ教会が一生懸命がんばっているから感謝しているのではなく、その熱心な歩みをもたらしているのが、信仰と希望と愛であることを心から喜んでいるのです。

テサロニケはギリシャのマケドニア地方にある港町です。1:7に彼らの信仰と希望と愛の姿が「マケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範になった」とありますが、その地域にはピリピ教会やベレヤ教会、コリント教会がありました。今でもギリシャではアテネに次ぐ第二の都市ですが、聖書の時代も重要な都市でマケドニアの州都でした。エーゲ海に面した湾があり、陸路でも重要な街道が通っていてローマ帝国とアジアの国々との間をつなぐ通商都市でした。日本で言ったら横浜みたいな街と言えるかも知れません。

1:9にはパウロを通して福音を聞いた彼らが「偶像から立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、御子が天から来られるの待ち望むようになった」ことは辺り一帯に拡がっていたことが記されています。2:1~12にもピリピを去ったあとにいのちを与えても構わないと思うほどの愛をもって福音を伝え、教えたことが記されています。しかしここでも主にユダヤ人の迫害があり、去らねばなりませんでした。この手紙を書いているのはさらに南に向かいコリントにいる時だと考えられているのですが、残して来た生まれたてのクリスチャンたちが、信仰と愛と希望にしっかりと立っていることを本当に喜んでいました。このあたりの経緯は使徒の働き17章に記されていますので読んでみてください。

しかし、彼らはその信仰と希望の故に苦しみを受けることになりました。2:14には、パウロが同胞であるユダヤ人から苦しみを受けたように、テサロニケのクリスチャンが同胞であるギリシャ人から苦しみを受けたことが記されています。どちらの苦難もイエス様の苦しみとつながるものですが、親のような愛情を抱いているパウロにとっては心が痛み、心配でしかたがありません。そこで3章にあるように、様子を見て励ましてくるようにとテモテを派遣しました。そのため自分はアテネで一人で働きをしなければならず、だいぶ意気消沈するようなことになるのですが、それでもテモテの報告はパウロを慰めるものになりました。3:6~10にあるように、苦難の中にあってもしっかり立っていることでパウロ自身の心も生き返るようでした。むしろ彼らはパウロを慕い、会いたがっており「私たちは大丈夫だ」と傷つきながらも力強く応えてみせたのです。

先日、ランタンの中に残っていた油を燃やしきろうと昼間からランタンに火を灯しました。日中でも灯りがついているのは分かりますが、暗くなるとますます輝きがまします。テサロニケの信仰と希望と愛も苦難の中でこそ輝いて見えたのです。

2.ますます豊かに

テサロニケ第一の前半の締めくくりは3:11~13の祈りです。ここでパウロは、もう一度テサロニケ教会を訪ねるために道が開かれることを願う祈りとともに、テサロニケのクリスチャンたちが日々の歩みのなかですでに表している兄弟姉妹に対する愛と、隣人に対する愛がさらに豊かに溢れるようになること、そして心が強められ聖さにおいても増し加えられることを願い祈っています。

ここであらためて「聖さ」について聖書が教えていることをおさらいしてみたいと思います。

聖くなるとは13節にあるように聖なる神様の前で責められるところのない者となることですが、私たち罪ある者、不完全な者ににとっては、もちろんこのままでは不可能なことです。

しかし、神様は私たちが神様と何の隔たりもなく親しく交わり、安心してともにいることができるために、私たちを聖く傷のないものにしようとされました。エペソ書の最初の祈りの中に書かれていたように、そのため世界の基の置かれる前から私たちをキリストのうちに選んでくださいました。

私たちを聖い者とする最初の重要なポイントは私たちを罪のないものとすることです。罪赦された者、義とされた者とするためにイエス様が十字架で身代わりとなって死なれました。身分として、あるいは立場として聖い者とされたことが13節をはじめ様々な箇所で「聖徒」という言葉で表現されています。

そして私たちを単に立場だけでなく、実質的にも聖なる者とするために聖霊の神様が私たちの心のうちにおられて、助け、導き、力を与えてくださいます。

聖霊の働き方は、自動車やバイクのエンジンのように、すごいパワーで私たちを運んでくれるようなものではなく、電動アシスト自転車のようです。ペダルを漕がなければアシストはありません。私たちがペダルを漕ぎ出すように聖なる者とされるために努力する時、聖霊がそれ以上の力と助けを与えてくださいます。

しかし、聖なる者とされるために、どの方向にハンドルを向けるかも大事です。聖書で聖めるとか、聖くするという場合、その基本的な意味は神のために取り分ける、という意味です。不完全で罪のある私たちが聖い者になるとは、俗世間から離れ完璧に生きるということではなく、私たちの心と人生を神のために取り分けるということです。ローマ書では「心の一新」、エペソ書やコロサイ書には「新しい人を着る」という言い方がされていました。神を知らなかった時の生き方とは違った生き方をしようとすることは、周りとは別な生き方をするということを意味します。

テサロニケ教会のクリスチャンたちの周りでは、ギリシャやローマの宗教や文化、政治が圧倒的な力を持っていました。聖書的な視点から見たら不道徳に思えるようなことが平気で行われていました。4:1~12には、今彼らが信仰に立ち、愛をもって振る舞っていることをますます続けるように言いながら、彼らの周りに溢れていた不品行から離れ、そのことで自分や他人を傷つける事が無いように注意し、愛し合うことにおいてはますますそうし、勤勉に働いて生活を建て上げることを勧めています。

大事なことは転んだり躓いたりしないこと、完璧に生きることではなく、正しい方向を向いていることです。

3.希望のゆえに

最後に、私たちには希望があるので、愛と聖さに生きることができます。

テサロニケ教会は称賛に値するほどの信仰と愛の実践がありましたが、一つの課題がありました。それはクリスチャンの希望に関するもので、放っておくと今は素晴らしい形で現れている信仰と愛がだめになりかねない問題をはらんでいました。

私たちの信じる福音の中には、キリストが十字架で死んでよみがえってくださっただけでなく、天に上げられ、やがてもう一度この世界においでくださる、帰って来てくださるという希望が含まれています。これを「再び臨む」と書いて「再臨」と呼びます。テサロニケの人々は、この再臨信仰について少し誤解していました。しかしその少しの誤解が大きな信仰上の躓きになりつつあったのです。

彼らはイエス様がすぐにでも帰って来てくれるものだと思っていました。パウロという教会の産みの親であり、指導者である人が去ってしまい、同胞の迫害という苦しみの中にあって、イエス様が一日も早く帰って来てくださることを望むのは当然のことかも知れません。主イエス様の再臨は、救いの完成と苦しみの終わりを意味するからです。

ところが4:13にあるように、イエス様がまだ帰って来ていないというのに、先に召されてしまうクリスチャンがちらほらと出始めたのです。

親しい人が亡くなった時に悲しむのは当たり前ですが、彼らの悲しみはそういう喪失の悲しみではなく、先に召された兄弟姉妹たちはキリストの再臨に間に合わず、救われないんじゃないかという不安から来るものでした。このことについてパウロは誤解を解き、彼らが不必要な悲しみに沈むことがないようにと4:13~18で励ましています。

イエス様の再臨がどのようなものであるかは、この箇所からだけでは全体像を語ることができないのですが、16節を見ると人々が王を出迎え場面を喩えに用いていることがわかります。敵に攻撃され、命や財産を奪われてきた町を解放するために軍を率いた王がやって来る時、号令とラッパが高らかに響き渡ります。人々は大歓声とともに解放軍を迎え入れるわけです。その町はもう安全であり、平和がもたらされるからです。

同じように、イエス様が来られる時、私たちは待ち望んだ王が救いを完成し、正義を回復し、平和と慰めをもたらしてくださることを喜んで迎えることになるのです。主が再び来られる時、すべての苦難と闘いは止み、私たちは安息と慰めを受けるからです。そしてここでのポイントは先に召された人たちもよみがえらされて、ちゃんとイエス様に迎えられるから心配ないよ、ということです。

このイエス様の再臨の時期については5:1~2にあるように私たちには知らされていません。神に背を向けていた世界にとっては突然やって来る裁きです。しかしイエス様を待ち望む私たちにとっては完全な救いの日です。

私たちにはその解放の日という希望があるので、5:6~23にあるように、解放を待ち望む兵士のように、目を覚まし、私たちの今の戦い、つまり新しい人のように生き、互いに励まし合い、互いを高め合うことを続けていくようにと呼びかけられているのです。

適用:生き方の違い

テサロニケ第一の最後は今日読んでいただいた箇所ですが、5:23~28の祈りで閉じられます。

パウロの祈りは、ここでも私たちの聖さについての祈りになっています。神様ご自身がイエス様の再び来られる日までに、私たちの心も身体も、すべてが聖いものとして保たれるよう祈り、また必ずそうしてくださるという力強い確信が告白されています。

私たちは自分の弱さや足りなさを良く知っているので、どうしてもそちらのほうが目についてしまいます。聖さといったって、自分のことじゃない気がします。自転車の練習を始めた子どもが、転ばないように、次は上手く乗れるようにと肩に力が入り、足元を見、ハンドルをぎゅっと握って何とかバランスを取ろうとハンドルを左右に振ってはますますバランスを崩すように、正しく生きよう、罪を犯さないようにしよう、失敗しないようにしようと力めば力むほど、私たちは自分のうちにある罪から離れるのが簡単ではないことを思い知らされます。

しかし、私たちの赦しのために死んでよみがえってくださったイエス様は「あなたがたを召された方」つまり呼んでくださった方です。もうあなたのための償いは終わったから、顔を上げて、私のほうまっすぐ見なさいと呼びかけてくださっています。

今の私たちがどのような者であろうと、どんな状態であろうと、イエス様が私たちを聖く傷のないものにしてくださる。そして戦場のようなこの世界でのあらゆる苦しみ、攻撃、悩みから解放され、自由になり、完全な平和と安全を得させてくださる、その日を私たちは待ち望みます。その日が来ることを信じて、困難の中でも勇敢であることが可能になります。この希望が、私たちを今さえ良ければと生きる周りの人たちとは違う生き方を選び取り、生き続ける力を与えてくれます。

先日ある友人牧師から、どのようにしてクリスチャンになったかというお話を聞きました。仕事の営業先で、とても親切で気が利き、良く働くアルバイトの女の子がいたそうです。営業先の社長に「良い子が来ましたね」と話したら、「他の人は言わないで欲しいんだけど、あの子の家庭は牧師家庭で貧しくて、毎日500円ずつ、売上をごまかして盗んでいるんだ」と言うのです。それでキリスト教に対して警戒感を持つようになりましたが、ある時どうしても我慢できず、そのバイトの子に「そんなことしちゃだめだよ」と話してしまったのだそうです。ところが、その女の子は慌てるでもなく、謝るでもなく「話してくださってありがとうございます」と言ったのだそうです。後から分かったことは、実は取引先の社長のほうが嘘をついていて、クリスチャンのバイトの子の評判の良さをやっかんで、ある事無いこと、取引先の担当者に吹き込んでいたのだそうです。その子も急に周りの人たちの態度が冷たくなったので「自分は何かしたのだろうか」と神様に「教えてください」と祈っていたら、そんな話しを聞かされたので、ああこういうことだったのかと納得したのだそうです。クリスチャンになる前のその先生は翌日からもうバイトに来ないんじゃないかと思っていたのに、前と変わらず元気に良く働いているにとても驚き、それがきっかけで後に教会に行くようになったのだそうです。それまでクリスチャンなんて宗教にすがる弱い人たちだと思っていたのですが、とんでもない強さがあるのだと感じたのだそうです。

イエス様への信頼と希望がある時、クリスチャンはそのような強さを持つことができます。そして神様が与えてくださる愛と聖さを、明らかに回りの人とは違う生き方として表すことさえ出来るのです。

もう一度、私たちの祈りとして23節と24節を読んで終わります。

祈り

「天の父なる神様。

今日はテサロニケ人への手紙をご一緒に見てまいりました。

私たちのうちにも信仰があり、希望があり、周りの人に対する愛があります。小さく欠けだらけのものに思えてしまいますが、それは間違いなく、あなたが私たちにくださったものです。

そして、あなたは私たちがイエス様にある希望のゆえにますます信仰に堅くたち、愛に溢れ、聖い者として生きることを願っておられることを知りました。いえ、神様ご自身が必ずそのような者にしてくださいます。どうか、その望みを持って、私たちも勇敢に生きていくことができますように助けてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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