2023-02-19 希望によって今を生きる

2023年 2月 19日 礼拝 聖書:テサロニケ第二 1:10-12

 諦めずに何度も関わり続ける人がいてくれるというのはとてもありがたい事です。若い時は、あるいは歳を取ってからかもしれませんが、そういうのをうざいと感じたり、放っといて欲しいと思ったりするのですが、忍耐強く関わり続けてくれる人がいるのは大きな恵みだと考えるべきです。

私たちの歩みを振り返ると、何度同じ事を経験してもそこからなかなか学ばない、ということがあります。聖書を学んだからといってすぐレベルアップするというわけではなく、学んだことが身につかないなんてことも良くあります。

それは現代のクリスチャンや教会だけのことではなく、パウロの時代、聖書の時代の教会にも同じことが言えます。

テサロニケ教会もそうでした。先週学んだテサロニケ第一の手紙の宛先、ギリシャのテサロニケ教会は信仰と希望と愛において素晴らしい実を結んでいましたが、キリスト再臨の希望について誤解があり、そのため不要な悲しみと不安に捕らわれていました。そのために手紙を書いたのですが、ほどなく届いた知らせによって、問題が解決するより、さらにひどくなっていたことが分かり、二通目の手紙が必要になりました。

今日はテサロニケ人への手紙第二を通して、キリスト再臨の希望と私たちの日々の暮らしとの関係について学んでいきましょう。

1.困難の中で

第一に、私たちの歩みには困難が伴いますが、希望がより良く生きるための力となります。

テサロニケ教会は迫害の中にありました。ユダヤ人がたきつけ、それに反応したギリシャ人、ローマ人によって生まれたばかりの教会はさまざまな嫌がらせを受けていました。

そんな中でも、前回見たようにテサロニケのクリスチャンたちは信仰を堅く保ち、希望をもって忍耐しながら互いに愛し合い、隣人を愛することに励んでいました。パウロからの手紙に励まされたテサロニケのクリスチャンたちは1:3にあるように成長し、より深く隣人を愛するようになっていました。長引く困難の中で忍耐と信仰を保っていることをパウロは誇りに感じていました。

しかし苦難が長引けば、私たちの心は弱くなりがちです。特に、迫害のような人の悪意に晒され続けることは、病気や災害のような困難とはまた違った苦しみ、正義が満たされないことへの失望や怒りを生み出し、忍耐する力を奪い、喜びや愛をそいでしまいます。

そこでパウロは6節以降で、私たちのキリストにある希望があらゆる労苦への報いであり、今味わっている悪に対する報いの時なのだ、正義は回復されるということを強調しています。

不当な迫害をする人たちに神が報いを与え、苦難の中にある人々に安息を与える、ということは分かりますが、「神を知らない人々や、…福音に従わない人々に罰を与えられます」というのは、横暴ではないかとという感想を持つかも知れません。しかし、ここで強調されているのは、神は忍耐して信頼する者を慰め安息を与えるが、不法を行い暴力で迫害する者には厳しい報いをもたらし正義を回復してくださるということです。テサロニケのクリスチャンたちの証しや説明、そして実際の生き方を見てもなお、神を知ろうとせず、福音に耳を傾けようとせずに迫害していた人たちの運命です。

ある意味で、彼らは望んだ結果を手に入れるのです。自分たちから心を閉ざし、神に背を向けることを選んだので、その望み通りの運命が待ち受けることになっているというのです。山火事に飲み込まれそうなのに、消防隊員の強い警告に耳を貸さずに自分で家を守ると言い張る人や、ベテランのガイドからそっちは危険な道だと警告されているのに、行ってしまう旅行者のようです。その選択は悲し結末を招くだけでなく、生き方の中に悪を招くでしょう。

しかしキリストを待ち望む者たちには、天国で報われるという望みがあるだけでなく、この世にあってより良く生きるための力が与えられます。

最近「推しカツ」という言葉を聞きますが、自分が応援している誰かに会いに行く楽しみが生活にワクワク感や活力を与え、お金や時間の使い方を含め、生活自体を一変させてしまいます。

キリスト再臨の望みは押しカツとは違いますが、それでも苦難の中にあるクリスチャンにとって希望でした。安息が与えられ、神の国に相応しい者であることが認められ、すべての労苦が報われ、私たちのためにいのちを捨てるほどに愛してくださったイエス様がほんとうに素晴らしい方であることを目の当たりして、驚きとともに賛美することになります。この希望によって11節にあるように、「召しにふさわしい者」「善を求める願い」「信仰から出た働き」といったより良く生きるための神様からの力が与えられるのです。

2.主の日の希望

第二に、パウロは主の日の希望について、テサロニケ教会のクリスチャンたちが正しく持てるよう、教えています。これは2章の内容になります。

テサロニケ教会には2:2にあるように、主の日がすでに来てしまったと騒ぐ人がいて、自分たちは取り残されたのだと狼狽える人たちや、それが本当だったらどうしようと落ち着きを失う人たちがいました。それに対して、慌てたり心配することはないと語りかけます。

3節から12節は、旧約聖書のイザヤ書、ダニエル書で世界を創造された神に反逆する巨大な帝国の王たちとその振る舞いを描いた箇所を取り上げながら、今経験している苦難をこの世界で繰り返されて来た、そして繰り返されるパターンに重ね合わせています。

イザヤの時代ならバビロン帝国のネブカドネザルが不法の者となり、権力と武力を振るって周りの国々や邪魔者を滅ぼし、ついには自らを神としてしまいました。ダニエルの時代にはペルシャ帝国を脅かす新たな王が同じように振る舞い、天地を造られた神の世界を蹂躙し、自らを神としました。

テサロニケの手紙が書かれた時代には、ローマ帝国がそれらにとって代わっていました。パクス・ロマーナ(ローマの平和)と呼ばれたローマ皇帝による支配は、帝国内に戦争のない豊かな社会を築きましたが、それは独立を求める周辺の弱小民族やライバルを滅ぼし、あるいは奴隷とし、あるいは脅して屈服させることで成り立った平和でした。イエス様のいたユダヤもそのような支配によって抑圧されていたのです。

このように、神様の造られた世界を暴力で支配し、神様のかたちに作られた人間を殺したり奴隷にしたり、追いやる権力者を聖書は常に天地を造られた神への反逆者とみなし、その繁栄はいつまでも続かないと警告してきました。実際、どのような強大な国家も帝国もその繁栄を維持し続けることはありません。そしてやがて8節にあるようにキリストがこれらの反逆者に立ち向かいます。

しかし、イエス様が再臨されることは誰の目にも明らかなことなので、私たちが気付かない間にイエス様がこっそり帰って来たなんてことはないのです。

今、ヨーロッパの戦争を引き起こしている権力者は、まさに聖書に記された「不法の者」に見えますが、だからといってすぐさま世の終わりが来るということではありません。今、彼に立ち向かっている国々だって、日本も含め、力を持ち過ぎれば直ぐに「不法の子」になってしまう可能性は常にあります。

パウロがここで強調しているのは、こういう神に反逆する国や権力者、支配者は、いつの時代にも起こっては消えていくもので、やがてイエス様がそれらに立ち向かい、救いを待ち望む者に慰めを与えるために帰って来られる。それは誰の目にも明らかなような形で来られるから、心配しなくていい、ということです。13~17節にあるように、私たちはやがてキリストによってもたらされる完全な救い、新しい創造の最初の実、初穂であり、約束のうちに守られているのです。ですから、惑わす言葉や教えに振り回されたりしないで、しっかりと福音に立ち、聖書から学び、神の慰めと励ましに力づけられて、よりよく生きることに心を向けるべきなのです。

3.日々誠実に生きる

第三に、パウロはテサロニケ教会にあった具体的な問題について、これまで教えて来たキリストの希望に基づいて注意を与え、日々誠実に生きるよう3章で勧めています。

まず、パウロは自分たちのために祈って欲しいことを告げています。ひねくれた人たちによって邪魔されたり、悪い者によって苦しめられることはあっても、福音が拡がるよう、その務めを十分に果たせるようにというのが、パウロたちの祈りの課題でした。

一方、テサロニケ教会のためには、怠惰な歩みをしないで勤勉に働くようにしなさいと6~13節で注意しています。

再臨について幾らかの間違った理解はあったにしろ、信仰にも希望にも愛にも、褒められるほうが多かったテサロニケのクリスチャンたちの中に、こんな注意を与えなければならないような、だらしない生き方をする人たちがどうしていたのか不思議な感じがします。彼らは怠惰な生活をし、何も仕事をせずにおせっかいばかり焼いている人たちで、人からもらったパンで暮らしているというのです。それは使徒たちが教えたクリスチャンとしての生き方にも、パウロ自身が示した模範にも反する姿でした。

パウロはテサロニケ教会から経済的な報酬を得る当然の権利がありましたが、それでも勤勉に働く模範を示すために、自分で働きながら教会に仕えました。それなのになぜ彼らはそんな怠惰な生活をしていたのでしょうか。

今にも再臨が近づいているから、働いている場合ではない、仕事なんかしててもしょうがない、と考えたのではないかと言われています。私もそのように理解して来ましたが、最近はもう少し具体的な背景が指摘されています。ローマにはパトロヌスとクリエンテスという制度がありました。日本でいうと親分子分のような関係が少し似ています。子分が親分に忠誠を誓い、なんでも言うことを聞く代わりに、経済的に援助してもらったり、困りごとがあれば助けてもらうという関係です。これがローマ社会の日常的なもめ事をまるく治めたり、経済的に不安定な家庭をサポートする機能を果たしていたのです。しかし、その習慣を悪用し、親分に媚びることで喰わせてもらう、楽して生きる人たちもいたのです。それはローマ社会では褒められた生き方ではないにしろ、まあ、そういう人もいるよなという受け止められ方をしたようです。しかし残念なことに、クリスチャンの中にもそういう生き方に落ちてしまう人たちがいたのです。間違った再臨についての理解がそういう生活スタイルを悪い意味で後押ししてしまったのかもしれません。

そこでパウロは、落ち着いて仕事をし、自分で得た収入で生活するようにしなさいと諭します。そうすることで、むしろ本当に助けが必要な貧しい人たちを助けることもできるのだと教えます。

日本の社会では逆に、仕事を言い訳にして夫婦や親子の責任をおろそかにしたり、地域や教会で仕えること、聖書を学ぶ時間から距離を置くようなことが多いかも知れません。ここで強調されているのは、仕事をたくさんすれば良いということではなく、日々を誠実に生きることです。どういう生活スタイルを築くことが、キリストを待ち望む者、信仰と希望と愛に生きる者としてふさわしい家族や社会、教会との関わり方を作り出せるか、そのために何を変えたら良いのか、ということに注意を向けさせているのです。

適用:希望によって

最後に14節と15節で、手紙に記した教えに従わないクリスチャンがいたら、少し距離を置きなさいと命じます。「その人が恥じ入るため」というのはなんだかひどい言葉のような印象を受けるかも知れませんが、「恥をさらしなさい」と「恥をかかせなさい」ということではありません。

彼らの行動を冷やかしたり、皆で責め立てたりするのではなく恥ずかしいことだと気付かせるためです。キリストの再臨の希望によってよりよく生きるのではなく、怠惰な生活を続けることは恥ずかしいことだと気付かせるためです。ですから「敵とは見ないで、兄弟として諭しなさい」と、あくまで気付きを与えるためだということを強調しています。

教会の寛容さは大事な特質ですが、恥ずべき事まで放置し、大したことがないように扱ってはいけないのです。ですから、怠惰な生活や、噂話、盗み、嘘、仲間割れ、差別やえこひいき、結婚以外の性的関係といったことは何度も恥ずべき事だと繰り返し教えているわけです。

それほどまでに、イエス様を救い主と信じ、イエス様が王として再び帰って来られることを望みとして、今この時を愛ときよさを求めて生きることが大切なことなのです。実際、そのような生活スタイルを築き上げて行くことが、ローマ社会の中でごくごく少数派だったキリスト教会が急成長を遂げていく一番の原動力でした。彼らは文字通り、地の塩、世の光として生きていたのです。

キリストにある希望は、今を生きる力と、誠実に生きる方向性を与えてくれます。

様々な災害の現場で、絶望的な中でも奇跡的に救助される人たちのことがニュースで取り上げられます。僅かな隙間の中で生き延びた人たちは救助が来てくれるのを待ち望み、空腹や喉の渇き、寒さに耐えたのだと思います。もしかしたら生死を分けたのは、救助に来てくれるはずだという希望だったのかも知れません。

私たちはこの苦難の多い世界で、単に生き延びるのではなく、より良く生きるよう招かれています。その希望に根ざした生き方が、生きる意味や目的、希望を見いだせない人たちの光となるようにと、神様は私たちをこの世界に置いたままにしています。

3:16の最後の励ましの言葉、祈りの言葉をもう一度読んでみます。

「どうか、平和の主ご自身が、どんな時にも、どんな場合にも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてとともにいてくださいますように。」

私たちには、イエス様が私たちの罪のために死んでくださり、あがなってくださったので、どれほど弱く足りない者だとしても完全な赦しと永遠の守りの中にいるという保証があります。

イエス様が再びおいでになる時まで、聖霊が私たちのうちにおられ、希望を指し示し、愛ときよさを求めて生きることを助けてくださいます。

そして、やがてイエス様が王としてこの世界に帰って来られる時、私たちのすべての労苦は報われ、私たちが願った愛ときよさは完全なものとされます。

この希望の故に、神様の深い愛のゆえに、この戦いと困難の多い世界にあっても平和の神である主がともにいてくださり、平安を与えてくださいます。

ですから、神様が聖書を通して語りかけるように、希望をもって今日という日々を誠実に生きていきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

私たちを愛してご自分のいのちを与えてくださった主が、再びおいでになる日を私たちは待ち望みます。

この世にあっては患難あがると、主はおっしゃいました。その通りであることを私たちは経験しています。しかしすでに勝利された主が、勇敢でありなさいと言われました。

どうぞ希望によって、今この時を、日々を誠実に歩ませてください。私たちにその願いと心とを与え、愛ときよさに根ざした生活を築き上げていかせてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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