2023-04-02 いつまでも残るもの

2023年 4月 2日 礼拝 聖書:コリント第一 13:13

 新年度に入り、最初の主の日は受難週のはじまりです。そして今年度は70周年を記念するいくつかの事業を行おうとしています。

およそ2000年前にイエス様が十字架への道のりを歩まれたことと、70年前にひとつの宣教師家族が川岸で伝道を始めたこと、そして今私たちがここにあることには深いつながりがあります。

教会の歴史は、イエス様がなしてくだったこと、教えてくださったことを世界中に拡げながら、それらを世代を超えて伝え続けて来た歴史です。二千年前のローマ世界のクリスチャンたちと現代の私たちでは話す言葉も、服装も、食べ物も、習慣も、社会の仕組みもかなり違いますが、同じ信仰、同じ希望、同じ愛に生きています。

今年度の主題候補を選ぶにあたって役員会では様々な案を出しながら考えました。その中で、私たちはこの70年の歩みの中で何を受け継ぎ、これから始まる新しい時代に何を残していくべきなのかという意識の中で、このコリント第一の有名なみことばが与えられました。「もうこれしかないんじゃないか」ということで一案だけ皆さんに提示して、承認していただいたわけです。

私たちの教会がこの70年の間に信仰の先輩たちから受け継いだものはたくさんあります。その中で最も大切なもの、そして他は残さなくても、これだけは次の世代に残していくべきものは信仰と希望と愛なのだということをあらためて覚えましょう。

1.信仰

一つ目は「キリストとその福音への信仰」です。

以前、コリント書をとりあげましたので覚えておられる方も多いと思いますが、コリント教会は様々な問題を抱えていました。他の地域よりもずっと長く腰を据えて教会を生み出し、育ててきたパウロにとってはとても心の痛いことだったはずです。

そんなコリント教会のために、様々な問題に具体的に戒めやアドバイスを送るのですが、その時、パウロは常にイエス様がどういう方か、イエス様は何をしてくださったか、というところに立って勧めをしています。クリスチャン生活の土台は、イエス様ご自身とそのみわざです。私たちはそれを信じたからクリスチャンとされ、神の家族に加えられました。

つまり、信仰というのは、信じる信仰心はもちろん大事ですが、誰を信じているか、何を信じているか、という内容がとても大事ということなのです。その信じる内容を聖書は福音と呼んでいます。

パウロはこの手紙の中で、私たちの信仰にとってもっとも重要な内容、福音についてはっきりと記しています。これまた有名な聖句の一つですが、15:1~5節を開いてみましょう。

この箇所にも、世代を超えて受け継がれたものとしての信仰が描かれています。1節にあるように、コリントの人々はパウロを通して福音を伝えられ、受け入れて信じました。この福音の内容こそが信じる者を救うものです。そして3節にあるように、この福音はパウロ自身も以前受け取ったものです。

「聖書に書いてあるとおりに」とありますが、イエス様は突然現れた謎めいた存在ではなく、神様の深いご計画の中で最初アブラハムに約束され、その約束を受け継いだ人々を通して少しずつ明らかにされ、預言者たちによって待ち望むよう告げられてきた方です。

その約束された救い主として来られたイエス様は私たちの罪のために死なれ、葬られました。救い主が罪の身代わりとして死ぬこととともに、三日目によみがえることも聖書を通して約束されていました。復活の後、イエス様が約束された通りの救い主であることを証言する使徒たち、弟子たちの前に現れてくださいました。コリントの手紙が書かれた時点で、それらの証人たちの多くはまだ生きていましたので、聞こうと思えば話しを聞ける状況です。

話しのポイントは、私たちの信仰というのは、出所のはっきりしない神秘的な話しを信じ込んでいるというのではなく、歴史の中で神が約束して来られた救い主が、生きている人々が目撃する中で死んでよみがえったという事実に根ざしているということです。

私たちが救われるのは、二千年続いた教会の文化や伝統によるものではないし、私たちの信仰心の強さによるのでもありません。

教会70年の歩みの中で、私たちはたくさんの良いものを受け継いで来ました。失敗や痛みの経験も、それ自体は辛いことでしたが、そこから学び、遜らされました。自由に使える立派な会堂や納骨堂、北上教会らしい雰囲気や文化があります。それらは良いものですが、時代とともに変わりますし変わっていくべきものです。

ちょうど今日から受難週です。十字架を見る度に思い出しましょう。十字架は、私たちは愛されていること、そして完全に赦されていることを証ししています。私たちはそのことを信じます。この愛され赦されているとの信仰は、いつまでも残るものです。

2.希望

いつまでも残るものの二つ目は「キリストにある希望」です。

希望が必要だということはクリスチャンでなくても、いろいろな人々が様々な場面で語ります。病気との闘いで健康を取り戻すため、災害のただ中で生き延びるため、戦争の暗闇の中で平和な生活を取り戻すため、困難な時に歩き続けるため、私たちには希望が必要です。

しかし聖書がいつまでも残るものとして語っている希望は、キリストにある希望です。この希望はイエス様が死に打ち勝ちよみがえられたことと、天にあげられたイエス様が再び帰って来られるという約束に根ざす希望です。

受難週が明けるとイースターです。15:4にあったように復活は福音の内容の大事な部分です。

12節以下はイエス様の復活と、私たちの復活の希望についての関連を説明している部分ですが、ここでパウロが語っていることは、神様が罪と死に囚われた私たちをよみがえらせるというご計画があるからこそイエス様を十字架の死から復活させたのだというふうに説明しています。私たち自身がよみがらされるという計画がなかったら、そもそもキリストは復活しなかったし、キリストの復活がないなら、私たち信仰はまったく中身のない空しいものだというのです。つまり、神様は私たちを新しく生かし、復活のいのちを与えるために、イエス様をよみがえらせたと言えます。イエス様がよみがえられたことを信じることと、私たちが新しいいのちに生き、やがて死を越えてよみがえる希望とは表裏一体なのです。

復活によってイエス様が聖書で預言されていた救い主であることが証明されました。それとともに、イエス様を信じる者が新しいいのちをいただき、新しい人として生きていくことができ、死んだ後も私たちの存在は守られ、やがてイエス様がおいでになる時にイエス様に似た者としてよみがえらされるという希望を与えます。

十字架が、愛され、赦された者として私たちの存在を確かなものにしてくれるとすれば、復活は救いを保証し完成に向かう道のりの中で希望となるものです。

ところが、コリント教会の中にもあったように、残念ながら現代のクリスチャンの中にも復活について懐疑的な人たちはいます。

コリント教会の場合、問題になっていたのはイエス様ご自身がよみがえったことへの疑いではなく、イエス様を信じた人がよみがえる、という信仰への疑いでした。何しろ、復活を直接目撃した証人たちが生きていた時代ですから、イエス様の復活について異論を挟む人はまずいません。しかし、イエス様の復活のいのちをいただいて、新しくされるということを疑ったのです。

けれども、私たちがイエス様の復活のいのちをいただいて新しくされていくという希望を信じられなかったら、私たちの信仰は空しいものになってしまうとパウロは警告します。復活の希望が私たちの歩みにいのちと力をもたらします。

今は罪の力に負けることがあるし、肉体の弱さや衰えに悩むこともあるし、この世界の理不尽さに傷付き、努力や正義が報われないこともあるけれど、主イエスにあってすべてが新しくされるし、そこに向かって私自身が日々新たにされるのだという希望が私たちのクリスチャン生活と教会の交わりを確かなものにするのです。

3.愛

いつまでも残るものの3つ目、そして最も優れたものとされているのは「愛」です。

もっとも、「一番すぐれている」と強調されているのは、信仰と希望と愛の間に序列や格の違いがるというようなことではなく、おそらくはコリント教会にあった分裂や他の人を顧みない愛のない風潮を意識してのことです。信仰と希望と愛の3つは深く結びついており、あたかも父と子と聖霊なる神の三位一体のようです。

十字架が愛され、赦された者として私たちの存在を確かなものにし、復活が救いを保証し完成に向かう道のりの中で希望となるものとするなら、愛は私たちの力と慰めであり、生き方の原則です。

愛が私たちの力と慰めであるというのは、愛なる神のゆるがない愛が私たちに注がれているからです。信仰と希望は私たちが神に対していだくものですが、愛だけはまず神様が私たちに注いでくださったものです。そして、その愛があるからこそ私たちはイエス様を信じ、イエス様によって希望を抱くことができるのです。

この愛は決して揺るぎません。もちろん神様は私たちが神様の聖さや正義に背を向けて罪を犯したり汚れたことを行えば悲しみますし、怒りもします。聖書の実例を見ればその怒りはほんもので、厳しい裁きとして表されることも度々でした。しかし、それは神の聖さと正義を教えるためであって、後の時代の人々への教訓とするためでした。そのようなことがあっても神の愛が揺るがなかったことは、旧約時代のイスラエルの歴史が証明しています。彼らが何度反抗的になっても、神様はその愛と慈しみのゆえに約束を放り出すようなことはなさらず、約束のキリストをお与えくださいました。

使徒パウロもローマ書で、この世界のどんなものもキリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできないと断言しています。私たちは様々な欠点を持ち、弱さを持ち、迷い、悩む者ですが、神の愛が決して揺らぐことがないので、十字架を通して与えられた愛され、赦されているという確信はますます確かなものになります。

愛は私たちの力と慰めであるとともに、私たちの生き方の基本的な原則でもあります。原則というのは時代や状況が変わっても動かないものです。旧約律法のもとにあったイスラエルの王国時代とコリント教会の時代と現代では時代も文化も抱えている問題もそれぞれ違いますが、神の民としての生活の基本となるのは神を愛し、隣人を愛することだというのは変わりません。その表し方は変わるでしょう。コリント教会の婦人たちが公の場で帽子をとって夫たちに恥をかかせたということは私たちには理解できない文化かもしれませんが、自分の権利や自由を押し通すために誰かを傷つけたり恥をかかせるような事があることを私たちは知っています。そういう場面で、ほんの少し周りの人たちを思いやる愛があればそんなことにはならないことも分かります。神を愛することの表現方法も文化によって違うでしょうが、神を愛することは聖書を通して教えられる神の願いや思いを大切にすることだということはどんな時代にも変わらないものです。

こうして信仰と希望と愛の中身を比べてみると、それぞれの中にそれぞれの要素が含まれていて、全体として一つに結びついていることが分かります。これら信仰・希望・愛こそが、世代を超えて受け継がれて来たものの本質であり、いつまでも残るものです。

適用:未来に残すもの

さて、はじめにお話したように今年度は70周年を記念したいくつかの取り組みを予定しています。5月の70周年記念礼拝ではこれまでの神様のみわざを感謝する時となるでしょう。これまでの歩みを振り返るスライドショーをする予定もありますし、メッセンジャーには無牧時代に神学生として奉仕してくださった先生を招いています。70年前にこの地で伝道を始めた宣教師はすでに亡くなっていますが、その息子さんがゲストでおいでくださいます。

7月の召天者記念礼拝の時までには合葬墓を建てる予定ですが、そこに刻まれる一人一人の名前は教会家族の歩んで来た道のりの跡でもあります。

秋には記念誌を出しますが、そこにもまた教会の歴史が記されることになるでしょう。

そうした取り組みの中で私たちがしようとしていることは、もちろん過去の信仰の先輩たちの歩みを知ることになると思います。ここ数年の間に、まるで見失われていたパズルのピースが突然見つかるような古い記録や証しに触れる機会が何度かあり、その都度感動しました。

そうしたことを通して私たちが何より感動するのは神様がどんな時代にも真実であり、生きておられ、その時代時代に生きていた人々を愛してくださっていたということです。

私たちは過去の業績を記念し、そこに携わった人々を覚えますが、大事なことはそれらを通して私たちに信仰と希望と愛とが受け渡されてきたことです。それらなしにはどんな事業も成功も無意味になってしまうからです。

そうであるならば、私たちがこれからの時代、未来に残すべきものは何でしょうか。過去の記憶を記録して残すことも大事ですが、それ以上に私たちは何を信じているのか、どんな希望を抱いているのか、神がどれほど愛してくださり、私たちを愛に生きるように召してくださったか、そのことが伝えられ、受け継がれていくようにすべきです。それが最優先です。他のことは変わっていっても、忘れられても、記録から漏れてもいいのです。いずれ天国に行った時に思い出せるから大丈夫です。

しかし、この世に生きている間、私たちが、そして次の世代のクリスチャンたちが、世の中の荒波や自分の弱さと向き合いながら揺さぶられたり、失敗したり、迷ったりしながらも船をしっかりとつなぎ止める錨のように、地震や嵐の時に家を支える土台のように、神の民を守りその歩みを確かにするのは信仰と希望と愛です。

私たちがキリストの十字架の死と復活によって神に愛され赦されていると確信し、新しい人としてい生き、日々新しくされ得るという希望を持って生き、神を愛し隣人を愛して生きているなら、福音が本当に救いを与えるもの、人生を変える力あることを、たとえ言葉は少なくとも自然に証しすることができます。それは派手なイベントを成功させることより、立派な建物を建てることよりずっと確かで説得力のある証しです。世界遺産になるようなすごい大聖堂が残っても、神の民が信仰と希望と愛を失ったら、観光名所にはなっても福音によって人々に希望や愛をもたらすことはできないのです。

次の世代のために、私たちは先輩たちを通して受けとった信仰と希望と愛をしっかりとつかみ、信仰と希望と愛によって生きていきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

今日は今年度の主題聖句に選ばれた箇所から、いつまでも変わらず、残り、私たちの歩みの土台となる信仰と希望と愛について学びました。

私たちが受け取ったもっとも大切なものを次の世代にバトンをつないでいけるように、私たち自身がまず、信仰と希望と愛によってしっかりと歩んでいけるように助けていてください。

主イェス様のお名前によって祈ります。」

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