2023-05-14 地球の歩き方

2023年 5月 14日 礼拝 聖書:ヤコブ1:1-8

 今でもあると思いますが、「地球の歩き方」という個人の海外旅行者向けの観光案内本がありました。単なる観光スポットの紹介ではなく、個人が旅行するとき、現地での移動手段や滞在方法などを紹介する本で、実際に旅行した人の情報をそのまま掲載するコーナーもあって便利がられたそうです。見栄えのいいポイントだけを紹介するのではなく、実際にそこに行くための手段は何があるのかとか、経験した人からの情報は確かに有益でしょう。

残念ながら私は海外旅行とはほとんど縁がありませんでしたので使うことはありませんが、この地上をクリスチャンとして歩むうえで、どう歩いたらいいのか、ということは大事な問題です。

私たちは人生の中で起こってくる多くのことをまるでガイドブックから情報を得るように、事前に見聞きしているものです。ある年代になると疲れ易くなるとか、老眼が始まるというのは聞いていました。信仰生活には楽しいことだけでなく悩みもあれば試練もあるとは聞かされています。しかし自分のリアルな経験としては、それらの経験はどれも初めて歩く道のように思われるものです。ですから単なる観光情報ではなく、歩き方の知恵が必要です。

ヤコブ書はクリスチャンの生き方についての教えがパッチワークのように張り合わされて記されています。今日と来週の二回に分けてこの知恵について学んでいきましょう。

1.試練という贈り物

第一に、ヤコブはクリスチャンが経験する試練を「贈り物」として捉えています。

本題に入る前に、著者のヤコブやこの手紙が書かれた背景についてお話しておきましょう。

ヤコブは「主の兄弟ヤコブ」として知られる人で、イエス様とは兄弟関係にありました。お父さんのヨセフが早くに亡くなって再婚した後の父親違いの兄弟だったという説もあります。福音書の中では、ヤコブをはじめとするイエス様の兄弟たちがイエス様に対してかなり懐疑的で、迷惑がっているようにすら思われる様子が記されています。しかし、イエス様が十字架の死からよみがえったあと、まっさきにお会いになった一人がこの弟のヤコブでした。

後にヤコブはエルサレム教会の優れた指導者となります。しかし、イエス様が天に挙げられた後、エルサレムで始まった最初の教会は大変な試練を何度も経験します。そのあたりのことは使徒の働きの中で描かれています。イエス様のことで根に持っている祭司長たちのグループはしつこく教会を迫害し、そのため一部のユダヤ人クリスチャンはエルサレムから追放され、ローマ帝国内に散らされていきました。その後も飢饉が襲いかかり相当な貧困の中に置かれることもありました。

このような背景があるので、1:1~2に「離散している十二部族」とか「様々な試練にあうときは」といった言葉が出てきます。もちろん、手紙はユダヤ人クリスチャンを念頭に書いてはいても、ユダヤ人に限定したものではなく、すべてのクリスチャンに向けて書かれたものです。そしてこの手紙を書くにあたってヤコブはイエス様の山上の説教や箴言の知恵を数多く引用しています。福音についての新しい教えや考え方を示すためではなく、試練の多いこの地上での歩みのための具体的な原則と知恵を与えるためです。

それで最初に試練を贈り物と捉えようと語り出すのです。これは私たちが実際に感じることとは正反対のものです。

安全運転しているのに、他の車にぶつけられたりすると「もらい事故」なんて言い方をしますが、そこには有り難さとか贈り物という意味はありません。

しかしヤコブは「人生の試練こそが忍耐を生み、忍耐が欠けのない成熟した者にしてくれる。だから、試練を贈り物として喜んで受け取りなさい」と励ますのです。ボンヘッファーの『善き力に我囲まれ』の3番の歌詞、「たとい主から差し出される杯は苦くとも 恐れず感謝を込めて 愛する手から受けよう」という歌詞が思い出されました。試練は苦いもので、その苦みは変わらないのだけれど、これを愛なる主の手から差し出されたものとして受け取る時、その苦難は不思議な力を発揮し始め、私たちを欠けのない者とするのです。

4節に出て来る「欠けのない」という言葉はヤコブ書のキーワードの一つです。意味合いとしては、信仰と行動が一貫した誠実な生き方をする人を差しています。もともと私たちは不完全で、いろいろな思いや考え方に影響され揺らぎやすく、変なことにこだわり過ぎて的外れになりがちなのです。しかし、試練を通してそういったところが訓練され、整えられて、誠実でクリスチャンとして一貫性のある生き方ができるようになるというのです。

2.知恵の身に付け方

試練や苦難を、誠実で一貫した生き方ができる成熟したクリスチャンとして整えるものとして受け止めるには、知恵が必要です。

知恵というのは、困った状況になったときや初めて直面する状況で問題を解決する能力です。目的を達成するために問題を今までとは違った視点で見直し、手持ちの知識と技術、道具を工夫しますす。コップがないからといって水を飲むのを諦めるのは知恵ではありません。手ですくったり、直接口をつけたり、大きな葉っぱでコップ代わりの器を作ったりするのは初歩的な知恵ですが、十分役立ちます。誰かが通りかかるのを待ったり、貸してくれそうな人に頼むのも立派な知恵です。諦めたり、なんだ「コップないじゃん」と苛立ったりするだけでは何も解決しません。

そうした知恵の必要性は、水を飲むような日常的な小さなことだけでなく、初代教会が直面していた迫害や飢饉による貧困といった深刻な状況でも変わりません。起こった出来事に不満を訴え、いらだち、不幸だと嘆くことに信仰も知恵も必要ありません。しかし、ヤコブが勧めているように不幸と思える出来事や環境の中に神の贈り物を見つけ、受け止めていくには信仰と知恵が必要です。

知恵による生き方は、起こった出来事や置かれた状況に単純に反応するだけの生き方から、神が誠実で私を愛しておられるという新しいものの見方と確信に立って物事を見直すことから始まります。

そのような見方をすることで、9~11節にあるように、貧しい境遇に置かれた人は神のゆえに誇りをもって生きることができ、富む人はへりくだることを学び、一時与えられている善きものをどのように使うべきか考えさせられることでしょう。

試練を耐える者には素晴らしい名誉が約束されていますが、何より大事なのは神様が私たちを愛しておられるし、私たちが試練にあうのも神の愛の御手の中でのことです。そのような見方ができれば、試練と誘惑の区別もつけられます。試練は私たちを整え訓練するために神の許しの中で外からやって来るものですが、誘惑は外からではなく自分の内側から起こるものです。17節にあるように、光を造られた神様は私たちを真理によって整えるためにあらゆる善い贈り物をくださる方です。

ですから、私たちがこの地上を歩んでいくために必要な知恵は、心からあふれてくるものや、自動的に反応してしまう感情に基づいて判断したり、行動したりするのではなく、御言葉によって、21節にあるように心に植え付けられたみことばを素直に受け入れることで得られるのです。

みことばを受け入れるというのは、聴いて終わりではなく、実行する者になるということです。一回やってうまく行かなかったからやめてしまったりしないで、25節にあるように「一心に見つめて離れない人」になることです。これはみことばの実践において成功し続けるということでなく、失敗したり間違ったりしてもあきらめないということです。世の中がどうであれ、たとえ困難があっても、そして失敗したり迷ったりしても、それでも神を愛し、人を愛するという教えに集約される神のことばによって生きていくのだという覚悟を決め、本気で求めるなら、神様は私たちのうちに知恵を与え、揺るがない心へと鍛え上げ、欠けのないもの、信仰と生活が一致した誠実な者へと造り変えてくださいます。

3.ほんとうの愛

さて、2章に入ると終わりの5章までにいくつかの教えが次々と記されていきます。これらはクリスチャン生活というこの地上の歩き方の具体的な原則と知恵を教えるものです。よく出来た旅行ガイドに、旅先で出くわしがちなトラブルの対処法が書かれているように、クリスチャン生活の中で起こりがちないくつかの問題について原則を示し、知恵を与えようとしているのです。

2章では、ほんとうの愛とはどういうものか、そして本当の信仰には本当の愛の行いが伴うものだということが教えられています。

ヤコブはまず、ほんとうの愛について語るために立派な身なりをした金持ちとみすぼらしい格好をした人が教会に来たときにあなたがはどうするかと問いかけます。

人間というのは実に浅ましく、愚かです。ヤコブが手紙を書いたとき、迫害や苦難の中でエルサレムから散らされた人たちを念頭に置いていましたが、人はそういう状況にあっても、外見で人を判断し、差別したり、えこひいきしたりしてしまう、そんな愚かさがあります。今も人を外見で判断してはいけないと盛んに言われますが、残念ながらクリスチャンになってもその習慣から抜けきれない部分があることを認めざるを得ません。

しかしヤコブは5節で「私の愛する兄弟たち、よく聞きなさい」と呼びかけます。イエス様が「まことにあなたがたに告げます」とか「耳のある者は聞きなさい」と語りかけたのを彷彿とさせる言い方ですが、続く言葉もそうです。「貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」と言われたように、神様は貧しい人、弱い人、悲しむ人、虐げられている人を選んで信仰に富む者とされました。

もし聖書に従って、クリスチャン生活の基本は「隣人を愛することだ」と公言し、ある程度それを実践していたとしても、ふとした場面で出て来る差別やえこひいきがすべてを台無しにしてしまいます。ヤコブの教えは山上の説教のように鋭く、厳しいですが、何もそういう不完全な愛しか持ち合わせてない私たちが天国には相応しくない、さばきに合うだろうと予告しているのではありません。愛だなんだと言っても、聖く義なる神様から退けられても仕方が無い程度の愛しか持ち合わせてないことに気付いて、本当の愛を実行する人になることを求めるようにと促しているのです。

そして14節以下では、本当の信仰というのは、そういう小さくても真実な愛を実践するものだと教えています。

兄弟姉妹の誰かが困っている時に「安心しなさい、主がともにいてくださるから」と言って何もしないなら、そんな言葉は何の役にも立たないとヤコブは鋭く指摘します。主がともにいれば大丈夫だという信仰は立派ですが、行いが伴わないなら信仰は死んだものなのです。

これも私たちには耳の痛い言葉かも知れません。イエス様が山上の説教で語った時もぎょっとさせたり、心をざわつかせるような言い方をして、人間の隠された闇を顕わにし、問題に気付かせ、考えを改めるよう促しました。ヤコブも同じようにしています。つまり、神の愛や恵みを信じるなら、自分自身がその神の愛や恵みの手足となり、器となって兄弟姉妹や隣人に関わり、仕えるべきだと言っているのです。

適用:信仰を完成させる

さて、今日はヤコブ書1~2章までを見て来ました。残りの3~5章は次週改めて読んでいくことにします。

困難や悩み、悲しみによって試されることの多い、この地上での生き方について見て来たわけです。神様はヤコブの手紙を通して、そうした試練は私たちの信仰を完成させる贈り物だという新しい見方を示します。ただし、そのためには知恵が必要で、口先で神の教えを語ったり、信仰を表明しているだけでは無意味なことを突き付けます。その最たるものが兄弟姉妹や隣人への愛なのです。私たちが置かれたその生活の場、環境、人生の中で神の誠実さと愛を信頼して、私たち自身が神の愛と恵みの器となる覚悟を決めましょう。その場面場面でどうすることが愛を示すことになるのか考え、実行する、そんな積み重ねが私たちの信仰と生活を一貫したものとする訓練となり、欠けのないものにしていくのです。

信仰を完成させるとか、信仰の成長という言葉を聞くと、強い信仰心や聖書の教えに深く通じることを連想する人もいます。それは大事なことですが、ヤコブ書の視点では、信仰の完成とは、信じているように生きていることなのです。

イエス様は、ご自分のもとに来ようとしている幼子たちを喜んで迎え入れ、子どもが出しゃばるなと叱る弟子たちを逆に叱って、この子どもたちのように素直であるようにと教えました。

別の場面では有り余る中から大金を投げ入れている金持ちの隣りで僅かなお金を、しかし精一杯のものを捧げいているやもめの信仰こそが本物だと称賛しました。

聖書の知識や規則を守ることでは一番だと自慢してはばからないパリサイ人が横柄な態度で祈っている隣りで、ローマの手先になって取税人家業をしていた人が罪深い自分を赦してくださいと祈ったとき、イエス様は彼の祈りが聞かれたのだと言われました。

タラントのたとえで褒められたしもべたちも、儲けた金額の大きさで褒められたのではなく、任されたものに忠実だったかどうかで褒められたのでした。こうしてみると、信仰の完成とか、欠けのない者というのは、やり遂げたことの大きさではなく、その時その人が持っている信仰に応じた生き方をしているかどうかで計られるということではないでしょうか。

もちろん、神様の願いは信仰と生活のどちらの面でもより豊かに、より確かなものへと成長していくことを願っておられますが、まずは、今あるところ、今持っているものを神への愛と隣人への愛のために賢く、正しく用いることです。

私は北上に戻って来て、驚くことにもう23年になります。70周年を迎えている今年、初代の宣教師からはじまり、歴代の宣教師や牧師たちが成し遂げて来たことと比べ、年数ばかりで何も出来ていないと感じます。焦る気持ちがすぐに沸き起こってきます。欠けのない者なんてほど遠い話しです。しかし、こうして毎週みことばを説き明かすために聖書に取り組みながら、本当にこのように信じているか、そのように生きているだろうかと問われ、日々の暮らし方を思い起こし、立ちあがってくる出来事に向き合い続けきて、いくらかは知恵や忍耐する力も与えられたように思います。しかし、そう出来たと思うと、また不完全な者であることを痛いほど突き付けられるような失敗をしたりして落ち込んでみたりもします。

私たちはこの地上にある間は、どこまでいっても旅人であり、歩き方を学び続ける者です。しかしこの一歩一歩が、信仰の完成に至り、欠けのない者とされ、愛する者に約束してくださったいのちの冠に値する者に造りかえられていく一歩一歩なのです。

祈り

「天の父なる神様

ヤコブ書を通して教えてくださったように、この人生、地上での歩みの中で起こる試練や直面する様々な問題を、神様からの贈り物として受け取れるような信仰と知恵は私たちにあるでしょうか。

心をふらつかせず、まっすぐに御言葉を信じ、信仰と生き方が一致するようにと願い、覚悟を決めて生きているでしょうか。

そのような問いかけをいただいた私たちが、あなたの愛と真実に信頼しきって、知恵を身につけ、本当の愛の器として歩めますようにどうぞ助け導いてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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