2023-05-21 暮らしの知恵

2023年 5月 21日 礼拝 聖書:ヤコブ3:13-18

 自分の問題を自覚するというのは案外難しいものです。痛いとか、苦しいといった具体的な自覚症状がある時ですら「ちょっと調子悪いだけじゃないか」「この間久しぶりに運動したせいだ」なんて自分で勝手に納得しようとしたりする場合があります。

ましてや、自分の生活スタイルや習慣の問題についてはなおさらです。どれほど親切心から出たものだとしても、慣れたやり方を変えるべきだと外から指摘されることはイライラするし、余計なお節介だと感じるかも知れません。

コロナ禍で出社せずにリモートワークが増えたアメリカで、今明らかになったのは従業員のアルコールや薬物依存が増えてしまっていたということだそうです。そうした問題を抱えてしまった人たちのほとんどが『私が依存症のはずはない。そんな問題を抱えたことはない』と言うそうです。「大丈夫ですか」と聞かれると自動的に「大丈夫です」と言ってしまう私にとっては他人ごとに聞こえませんでした。気付き、認めることは何と難しいことでしょうか。

今日は先週に引き続いてヤコブ書を見ていきます。3章から5章までにはイエス様の山上の説教を彷彿とさせる教えが次々と記されています。一つ一つをじっくり学ぶことがとても有益なのですが、今回は聖書全体を見ていくというシリーズなので、要点に触れるだけになります。それでもいろいろなこと気付かされるはずです。

1.本物と偽物

まず、今日読んでいただいた箇所では、人間の行動を左右する二種類の知恵があることを指摘しています。

一つは15節にあるように「上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なもの」で、その特徴は14節にあるように「苦々しいねたみや利己的な思いがあるなら、自慢したり、真理に逆らって偽ったりする」こと。そしてその結果は16節にあるように「秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがある」ということです。

もう一つは「上からの知恵」で、その特徴は17節にあるように「聖いもの…平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません」。当然その結果は18節にあるように「平和をつくる」のです。

回転寿司では自動化が進んでいて、最近ではお皿の枚数を店員が数えることも少なくなって来ているそうです。これは新型コロナ対策や人件費削減を狙った面もあるそうですが、お客のある行動が一つの要因になっているということです。人が皿の枚数を数える時には間違いが起こりやすいです。本当の枚数より少なく数えてしまったとき、殆どのお客さんがそれに気付いてもだまって少ない金額を支払うそうです。中には店員から見えないところに皿を隠してズルをする場合もあるそうです。そして残念ながら、子どもが一緒にいる状況でそのような行動をすることも少なくないということです。もちろんお店にとっては損害ですが、もう一つ私たちが考えなければならないのは、その様子を見た子どもたちが悪い知恵を身につけるということです。自己中心で自分の利益を優先するためにズルをしても良いという知恵を身につけてしまったら、他の場面でも同じようなことをしてしまうでしょう。

しかし、そういう場面で親がさりげなく店員の間違いを伝え、店員が恐縮しながらも笑顔と安心感を示す姿を見たなら、子どもは良い知恵が何をもたらすか自然に学ぶことが出来たかもしれません。

人は口で言うことではなく、心で思っていること、心に根付いたことで行動します。イエス様が良い木を見極めるには実を見れば良いと言いましたが、それはパリサイ人たちの偽善を見分けるために教えたことでした。ヤコブも同じことを教えています。心にあるねたみや利己的が思いがもたらす知恵は混乱や多くの問題を生み出し、まじりけのない愛と寛容さがもたらす本物の知恵は良いものをもたらし、平和を築くのです。

私たちが目指すべきはもちろん、本物の知恵です。両親の良い模範や善良な人たちから学んだ知恵はもちろん素晴らしいですが、神様がこの世界と人間をどのようなものとして造り、愛しておられ、どのようにしたいと願っているかを御言葉から学び、イエス様の模範に倣い、聖霊に励まされ導かれつつ、上からの知恵を身につけるのです。それらを身につけなければ、私たちもまた家族や友人、周りの世界によくないものをまき散らしてしまうことになります。

ここで私たちは前回みた1:5を思い出さなければなりません。こうした知恵はクリスチャンになったからといって自動的に出てくるものではありません。これは新しい生き方ですから、教えられ、身につくまで訓練される必要があります。そしてヤコブを通して神様はそうした新しい生き方の知恵は求めるならちゃんと与えられ、身につけられると約束します。

2.言葉の問題

さて、ヤコブ3章から4章の中頃にかけては、言葉の問題が取り上げられます。特に3:1~12では、クリスチャンの口から神を称える賛美の言葉や歌だけでなく、同じ口からほかの人を馬鹿にしたり、呪うような言葉が出てしまうという、極めて残念な問題を取り上げています。

そして先ほど取り上げた箇所をはさんで4:1~10では争いを引き起こす時に私たちのうちにある、二心を悔い改めることを求めています。神を愛すると言いながら自分のことを第一にしたり、この世のものを愛する心です。そして再び4:11~12で言葉の問題、ここでは特に悪口を言うことについて戒めを与えています。

言葉の問題は本当に悩ましいものです。3:2に「もし、こことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です」とありますが、まさにその通りだと思わされます。

イエス様も「口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです。」(マタイ15:11)とか「…口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。」(マタイ15:18)と言われました。

私も今は熱くなって激しい議論をするということは滅多になくなり、かなり意見の違う人とでも割と落ち着いて話し合えるのですが、昔は結構激しい議論もしていました。今はそれより場を温めようと軽い冗談を言う時に口をすべらせて「今のはやばかったな」と焦ることが、どちらかというとやりがちなことかも知れません。

あからさまに人を貶めたり、わざと傷つけるようなことを言う人もいますが、人前では立派なことを語り、まさに神を賛美するような人が、家族や身内にはひどい事を言ってしまう、ということもあるでしょう。あるいは、伝え方や言葉の選び方に知恵が足りなくて、正直ではあるかもしれませんが、人を苛立たせたり、傷つける言い方をする人もいます。

「口は災いの元」と言いますが、6節にあるように言葉の問題が人生の車輪を燃やして、人生を台無しにしてしまうことさえあるのです。「ゲヘナの火」とあるように、言葉による罪は、それほどに罪深く、深刻な問題なのです。

さらに4:11~12では他人の悪口を言うことは神への挑戦だということを厳しく指摘しています。悪口を言うことは、自分の価値観や判断で他人を裁くことです。しかし、何が正しく聖いことかを定め、さばきを行う権威のある方は神様ただ一人です。ですから、自分の勝手な基準や思いで人を非難したり、悪口を言うことは神様への挑戦だということを覚えるべきです。たとえ、誰かの行動に大いに問題があると感じ何か言うべきだとしても、よくよく考え、神への畏れと人に対する敬意や自分を省みる謙虚さが必要です。パウロもガラテヤ書で御霊の導きと助けの中で「柔和な心で」あること、また「自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」と教えていました。

ユダヤ人クリスチャンが迫害やききんといった試練の中で、互いに思いやりを示し合い助け合っていた一方で、えこひいきや愛のない行動があったとすれば、こうした言葉が引き起こすトラブルがあったことは容易に想像されます。私たちの口は何のために与えられたのか、そして神を畏れることを忘れずにいましょう。

3.強欲の問題

ヤコブ書の次のの大きなテーマは「富の問題」です。しかしこれは見方を変えればお金の問題だけではなく、分をわきまえず、他者への思いやりを欠いた強欲の問題と言うことができます。

4:13~17では神様のご計画やみこころを考えずに自分の利益を優先するような考え、行動を戒めています。

また続く5:1~6には特に金持ちたちに対する戒めが記されています。富は魅力的ですし、自分を良く見せたり、将来の不安に備えさせたり、今を楽しく生きるのにかなり役立ちます。しかし、富は果物が腐ったり虫に食われたりするように、一時的であり、むしろ悪臭やらカビやらをまき散らすものになりかねません。

利益を求め、集めるために不正を働く誘惑があり、支払うべき義務を怠ったり、不当に扱ったり、楽しみを通り越して貧しい人をまったく顧みない贅沢や快楽へと誘惑します。

これらの富に関する問題の前に、4:1~10で争いの原因となっている二心が取り上げられていました。神を愛すると言いながら実はこの世のものを愛している人が、自分が願っても手には入らないと争い、戦い、人殺しさえする罪が人間のうちにあり、悪い動機で求める罪がある。そうしたことをわきまえて、神の前にへりくだり、悔い改めるよう求めていた箇所です。

富の問題に共通する強欲さが基本にあるように思われます。

強欲なんていうと、いかにも欲まみれの嫌な顔つきの人を想像するかもしれません。あるいは隣国の豊富な資源を狙って軍事力で手に入れようとするような国のことを考えるかも知れません。

しかし自分の分を超えて欲しがるというのは誰でも経験があることかもしれません。強欲という言い方は大げさかもしれませんが、それでも心のうちにある欲が争いを引き起こし、自分の利益を守るためにちょっとズルをしたり、誰かに分け与えることをやめてしまったりすることがあるのではないでしょうか。

私たちが身につけるべき知恵の一つは、そうした欲や誘惑が自分のうちにもあるということをはっきり自覚することです。その上でみことばに聞いてより良く生きる知恵を身につけることが大事す。

5:7~11が示しているのは、私たちの利益を永遠の尺度で見直すようにということです。豊かな永遠の収穫のために、今日という日々に忍耐を働かせ、心を強くし、文句ばかり言ってないで信仰によって生きた人々の模範を思い出しなさいということです。

その時々の利益や楽しさばかりで物事を判断していたら、収穫のために忍耐しながら労苦する農夫のような生き方は当然できないでしょうし、そうなれば結果として豊かな収穫も得られないのです。

私たちクリスチャンが忘れていけないのは、私たちには神様の無尽蔵の祝福が約束されており、そのうちのほんの味見程度のものはこの地上で味わえるけれど、すべてを受け継ぐのは未来のことだということ。そして、その日まで私たちは忍耐し、心を強くして日々を暮らしていかなければならないということです。そうしないと、私たちのうちからあふれて来る欲や誘惑が簡単に私たちを捕らえ、すぐに悪いものを周りの人たちにまき散らす者になってしまうからです。そして忍耐は必要ですが、神様は私たちを単に苦しめる方ではなく、慈愛に富み憐れみに満ちた方ですから、労苦への報いは生きている間にも、私たちを慰めるほどに与えてもくださいます。

適用:暮らしの知恵

ヤコブ書の終わりはあまり手紙っぽさがありません。12節では自分の言葉に誠実であること、13節からは信仰によって祈ること、最後19~20節は真理から迷い出た人を連れ戻す努力について語っています。終わりの挨拶のようなものはありません。もともとは挨拶文があったのかも知れませんが、聖書には含まれず、あくまで実際的な知恵を伝えることに集中しています。

以前は「おばあちゃんの知恵袋」とか「○○家の食卓」といった暮らしに役立つ知恵や情報を取り扱う本や雑誌、テレビ番組がありましたが、最近はあまり見かけないような気がします。おそらく何でもネットで検索できるようになったためだと思います。いつの時代でもよりよく生きるための知恵は必要です。

衣食住のための知恵はもちろん私たちの暮らしに役立ちます。しかし、聖書は衣食住についての知恵については殆ど語っていないように思います。野の花や空の鳥を引き合いにして、住む場所や着る物について心配するな、という有名な山上の説教はあります。しかし、内容として圧倒的に多いのは、クリスチャンが神を愛し、人を愛する者としての生き方についての知恵です。

一つ一つの教えを十分時間をかけて取り上げることはまた別の機会に譲りたいと思いますが、このような知恵の書をパラパラとめくり、心に止まった箇所にしっかり向き合い、開かれた心で聞くなら、気付かずにいた自分の中にある問題や、目をそらしてきた罪に気付かされるかもしれません。

キリスト教の歴史を見るとき、迫害の中でクリスチャンの信仰が研ぎ澄まされ、強くされるという面がよく見られるのですが、ヤコブ書を見ると、そういう状況でも人間には弱さがあり、罪があるということ。その現実に気付いて、聖書の教えにしっかりと立ち、神様の恵みとイエス様の愛、聖霊の助けに頼ってより良く生きていこうとしなかったら、やっぱりクリスチャンの歩みは間違ってしまうということです。試練があるから必ず強くなる、迫害があるから必ずきよめられるということではなく、そのような状況でみことばに根ざした知恵をもって生きることで私たちは清く、強い者とされていくのです。

ですから、5:12以下にあったように、自分は大丈夫だなんて大見得を切ったりしないで、遜った心で自分の言葉に誠実であるよう務め、苦しんでいる人や弱っている人、罪に陥った人のために祈り、苦しみのために信仰から迷い出た人がいるなら励まし、連れ戻す努力をしなさいと教えられているのではないでしょうか。

神様がヤコブを通して私たちに教えている暮らしの知恵というのは、単に道徳的に立派な生活をしなさいということではなく、試練や誘惑の多い、そしてしばしばそれらに負けてしまう私たちの信仰の歩みの現実の中で、神と人を愛する者となり、神の家族とされた私たちが愛の交わりの中で共に歩んでいくために何に気をつけ、何に目を留め、何を大事にすべきかという知恵なのではないでしょうか。それは私たちがこの世の旅路で神の子どもとされたことの幸いを味わうためであり、自己中心、混乱、嘘、暴力に溢れ奪うことの多いこの世界で、平和で、柔和で、真実で、憐れみと慰め、自ら与える生き方がキリストにあるなら出来るということを証しし、世の光となっていくためです。

聖書が勧めるように、これらのクリスチャンとしての暮らしの知恵を心から求めていきましょう。今まで気付いていなかった問題が私たち自身の中にあるなら、神様の前にへりくだって整えていただくことを願い求めていきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

ヤコブ書を通して私たちの歩みについて様々な知恵を与え、大切なことに気付かせてくださりありがとうございます。

それぞれに気付いたこと、自分の問題は違っていますが、そのどれもが神を愛し、人を愛する者としての生き方を教え、整えるものです。この曲がった世界で、ただ私たちが正しく生きるためではなく、より良い生き方、恵みと真実、平和と慰めに満ちた生き方が出来る事を私たちの暮らしを通して証しできるためであることを知りました。

どうか、私たちを励まし、導き、整えてください。

主イエス様のお名前によって祈ります。」

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