2023-06-11 望みに生きる旅人たち

2023年 6月 11日 礼拝 聖書:ペテロ第一1:1-12

 先日、トルコ・シリアの大震災の被災地へ奉仕と視察のために行って来た方から現地の様子をお聞きしました。政府や民間機関が被災者支援のためにあまり機能していない状況の中で、日本の教会が被災地でどのように仕えたかから学びつつ、小さくはあるけれども一生懸命地域の人々のために仕えておられる様子をお聞きしました。もともと聖書の時代に最初にキリスト教会が急拡大した地域で、イスラム教の勢力が圧倒的になってからも相当数のクリスチャンがいましたが、多くのキリスト教徒が暮らしていたと言われる地域が虐殺される出来事がありました。その結果、国内のクリスチャンは圧倒的な少数派になって今に至ります。もちろん、皆が過激な人たちではなく、ほとんどの人たちは親切で温厚な人たちなのですが、宗教的なことではかなり敏感になり、過激な行動をとる人たちがいるために、他宗教には警戒感が強いというのが現実です。

日本もそこまでは過激になることは滅多にありませんが、事情としてはよく似ている面があります。

今週と来週見ていくペテロの手紙は、現在のトルコと同じ地域に暮らし、やはり少数派で迫害の中にあったクリスチャンたちを励ますために書かれたものです。苦難の中でどのように生きていくことができるのか、ご一緒に学んで行きましょう。

1.神の家族として

第一に私たちは、神の民、神の家族とされた者であるということを確信しましょう。

ペテロの手紙の宛先は1:1にありますが、これらの地名は今のトルコ、当時は小アジアと呼ばれていた地域にあります。福音がエルサレムから拡がっていった最初の地域です。そこにはユダヤ人だけでなく、多くのローマ人、ギリシャ人などが暮らしていました。

そしてペテロはもともと、エルサレム教会の指導者でしたが、この手紙を書いた当時はローマにいたようです。

当時、小アジアのクリスチャンたちは地域の中では圧倒的な少数派で、異邦人からはユダヤ教の一派とみなされて嫌がらせを受け、ユダヤ人からはユダヤの伝統から逸脱した者たちとみなされ敵視されていました。そうしたことはクリスチャンが増えたり教会が拡がったりすることで迫害を引き寄せることになりました。

ペテロはそんな状況にいるクリスチャンたちに1:1~12で挨拶を送っています。私たちは神様に選ばれ、それぞれの地に散らされて寄留している神の民なのだと語りかけています。苦難の中にはあるけれども、私たちには生ける望みが与えられていることを思い出させます。その希望ゆえに苦難でさえ不純物を取り除く精錬の火のように私たちの信仰を深め、きよめ、完成へと向かわせてくれるものとして受け止めさせます。私たちには終わりの日に、想像もしなかったような素晴らしいものが待ち受けており、この地上に生きる間は神様の御力によって守られているのだと語りかけます。

そして13節から本文に入りますが、ここでまず宣べられていることが、私たちは神の家族とされたものだということです。

最初のまとまりは13節から2:10まで続きます。

ここでペテロは旧約聖書の神の民を象徴する様々な出来事や象徴的なものを上げながら、ユダヤ人も異邦人も関係なく、みながイエス様によって神の民、神の新しい家族の一員とされたことを説明しています。1:13で「あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」と語り始めますが、これは出エジプト記で、イスラエルの民がいよいよエジプトを脱出する、という時にモーセが民に語った言葉と重なります。それから荒野を旅した旧約の民、過越の出来事やシナイ山で契約を結んだこと、神殿、祭司の民といった旧約でおなじみのイメージを用いながら書き進めています。

馴染みがないとピンとこない面はありますが、しかし旧約の様々なイメージのわかりにくさに惑わされずに重要なポイントを見逃さないようにしましょう。大事なポイントは2:9~10にまとめとして書かれているように、私たちクリスチャンがこの選ばれた神の民とされた者なのだと明快に説明しています。私たちはかつてはそうでなかったが、今はそうだ、というのが鍵です。

イエス様を信じたということは、自分が何者か、という点で決定的な変化があったということです。私たちは以前、この世界の創造主であり、私たちがただ一人神と崇めるべき方を知らずに生きていました。私たちは罪と死に縛られ、自分自身の中にある問題や、家族や民族に受け継がれて来た闇に囚われ逃れられずにいましたが、いまはまことの神を知り、キリストによって新しく生まれた者、新しい神の家族の一員とされたのです。これが決定的に大事です。

2.寄留者の生き方

次のまとまりは2:11~4:11です。「愛する者たち」という呼びかけではじまるこの箇所で、神の民である私たちは、今なおこの世界ではいわば寄留者なのだから、寄留者としての生き方があるということが教えられています。

異なる価値観、異なる世界観、異なる習慣などが出会うとき、良くも悪くも波が立ちます。神の国の民とされた私たちが神の民として、この世で生きていこうとするとき、違いが明らかになり、良い影響を与え、「私もああいうふうに生きたい」と思う人たちが起こされるだけでなく、腹を立てたり、妬んだり、憎んだりする人たちも起こる可能性があります。

かといって、何の衝突も起こさないように、「郷に入っては郷に従う」ということをやり過ぎると、結局はかつての生き方に戻り、周りの人たちに何の希望も、新しい生き方を示すこともないだけでなく、自分も再び罪の欲へと引き戻されてしまうのです。

ですからペテロは2:11~12で「あなたがたは旅人、寄留者なのですから、…異邦人の中で立派に振る舞いなさい。彼らが…神の訪れの日に神をあがめるようになるためです。」

この世界で神の民として歩むための大事な原則は、問題やもめ事を起こさないように無難に振る舞うとか、周りに合わせて振る舞うということではなく、立派に振る舞うということです。それは、今は神に背を向けている人たちが私たちの歩みを通してやがて神をあがめる者になることを期待してのことです。そこでペテロは、日常生活の中でだれもが直面する問題を取り上げていきます。

まず2:13でこの世界の社会制度を尊重して生きるようにということです。国や社会のあり方は必ずしも理想的ではないし、大きな問題を抱えていることもあります。それでもまずは兄弟姉妹や隣人を尊重し、敬うのと変わりなく、この世の権威を認め、敬うことが求められています。敬意のない批判はただの文句です。

次に2:18では仕えるべき相手に対しては敬意を払うこと。たとえ、それが理不尽なことを求めるひどい上司や主人だとしても敬意を忘れないことです。

また3:1ではクリスチャンではない夫でも敬うことを求めています。妻だけが信仰をもって夫の無理解に長く忍耐する必要があったのは日本だけのことではなかったようです。もちろん、夫も妻を尊敬し、その体力差や社会的な立場の弱さを担うべきです。

さらに3:8で私たちの基本は愛と寛容、謙虚さであるべきで、悪を行う者に対しても善と祝福をもって応えるよう励まします。

こうした振る舞いは、この世ではクリスチャンがある意味で損な生き方を選ばなければならないことを意味しています。けれどもこのような生き方こそがイエス様の生き方であり、苦しみの中でも希望をもって生きるなら、よい証しの機会になることを3:14で示しています。

そして、このような新しい生き方を選んだことの誓いの印が、バプテスマなのだと21節で思い出させます。

4:7~11ではもう一度、この世における寄留者としての生き方をまとめています。旅人あるいは寄留者である、ということはこの世が全てではないと知っていることです。主のあがないが完成する終わりの時を意識しながら今を、この世界で生きるのです。

3.待ち望む喜び

ペテロの手紙第一の最後のまとまりは4:12~5:9です。再び「愛する者たち」という呼びかけで始まる最後のまとまりでは特に私たちが待ち望む希望に焦点を当てています。

クリスチャン生活に苦難が起こること、試練が訪れることを思いがけないことのように驚くなとペテロは語りかけます。イエス様が十字架の苦難を経て栄光を受けたように、私たちも苦難の先に喜びがあるのです。

この希望があるから、迫害されたり、みんなと違うからといってそれを恥じることはありません。むしろ私たちがこの世にあってクリスチャンであるために様々な違いを感じ、もめ事を恐れて周りに合わせてしまうと15節にあるように、罪に囚われ自らを苦しめることになります。誰もが人殺しや泥棒をするということではないでしょうが、周りに流されて「良くないなあ」と思いながらその道に戻ってしまえば、結局は自分を苦しめることになります。

人と違う生き方をすることで苦しみにあったり、恥ずかしい思いをさせられることがあっても、私たちには苦難の先にある希望があるから恥じる事はないと、ペテロを通して諭されています。罪に対する最終的なさばきが近づいているこの時代に、まず私たちが救われたのは、この福音が私たちを通して届けられるためです。その私たちが苦しみから逃れるために古い生き方に戻ったり、流れに合わせる生き方をしてしまったら、誰にも福音は届きません。

5:1からは教会の指導者たちの役割について書かれていますが、彼らの役割は、苦難の多いこの世の歩みの中で、私たちが待ち望んでいる喜びを思い出させ、大牧者なるイエス様がおいでになるときに栄光の冠を受け取るに相応しいものになっていられるよう教え導くことです。

ですから指導者たちは喜んでその務めを果たし、卑しい利得を求めず、心を込めて務めを果たし、支配するのではなく模範になるべきだとペテロは教えます。そして5節で「若い人たち」とありますがこれは単に年齢のことではなく、そうした指導者のもとでクリスチャン生活を送る人たちへの勧めです。謙虚にみことばの教えに聞くことを身につけるべきです。

私たちがへりくだることを学べば、神様がちょうどよいときに引き上げてくださり、高く上げてくださいます。ですから、7節にあるように、この世にあって苦難はあっても、いろいろ心配したりせず、神様にお任せして、自分自身は神の民、神の家族として望みを持ち、へりくだった心で、周りの人々やこの社会に敬意を払い、愛することを求めていくべきです。

というのも、8節にあるようにこの世で迫害があったり、誰かから嫌がらせがあったり、罪に誘惑されたりすることがあるとき、本当の敵は目の前の人や社会ではなく、その背後にあって彼らを騙し、そそのかし、そのうえ私たちをも脅して道から離れさせようとする悪魔の存在があるからです。そのような暗闇の力こそが本当の敵です。悪魔の策略にまんまとはまらないために、歴代の信仰の先輩たちがそうしてきたように堅く信仰に立つなら、神様がこの苦難の後に回復させ、揺るぎないものにしてくださると10節で希望を指し示します。

私たちはイエス様を信じ、イエス様の足跡を歩んでいるのです。

適用:信仰と希望と愛と

さて、今日はペテロの手紙第一を駆け足で見てきました。5:12からは手紙の最後の挨拶になります。ここからシルワノという信頼の置ける弟子が代筆してこの手紙が書かれたこと、その時、ペテロがバビロンの教会と呼んでいる、ローマ教会で奉仕していたことや一緒にマルコがいることが分かります。ローマをバビロンと呼ぶのは、その繁栄とは裏腹に罪深く傲慢になっている様子を旧約時代に神の民を捕囚とし、その傲慢さのゆえに滅んだバビロンになぞらえてのことです。

ペテロが手紙を書き送った小アジアの諸教会は、ローマ帝国の中では西のはずれに近いところでしたが、間違いなく、彼がバビロンと呼ぶローマを中心とする帝国の支配の中で苦難にあっていたのです。そのことに痛みを覚えつつ、ローマにいる兄弟姉妹と祈りを合わせてこの手紙を書いたのではないかと思わせます。

そして改めて、手紙の書き出しで書かれた賛美の歌を見てみましょう。1:3~12です。

私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを与えてくださった神を賛美したあと、私たちのために備えられている豊かな報いを、やがて時が来て相続が実行されるまで銀行にしっかりと保管された相続財産のようなものとして描いています。この素晴らしい望みがあるから、私たちは様々な試練の中で悲しむことを避けられないのですが、この望みがあるから、喜び踊ってさえいるのだとキリストの救いの素晴らしさを称えます。

そしてこの救いの中での苦難、試練の意味を7節の有名なことばで説明しています。「試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」

以前の翻訳よりずいぶん良くなった箇所ですが、信仰は試練を経て高価なものとなっていきます。金山から採掘された金は、他の金属と一緒に混じった状態で精錬所に運ばれます。金が混じった岩くれは2000度くらいまで温度が上げられた炉の中で溶かされ、不純物が取り除かれて純度が高められていきます。実際は様々な工程があったり、単に鉱石を溶かすだけではないそうですが、ともかく金は火で精錬されて価値あるものとなります。

私たちの信仰は、私たちの古い生き方や迷い、恐れ、弱さが入り交じった岩くれの中にありますが、試練を通して純度の高いものになっていくのです。おそらく現代の私たちが経験しがちな誘惑の一つは、そこまで純度の高い信仰じゃなくてもいいじゃないか、というものかもしれません。ほどほどでいい。だいたいでいい。私たちはすでに今の世の背後で策略を巡らし、私たちがイエス様に似た者に変えられて行く生き方を忍耐強く続けることでこの世界に希望をもたらすという大切な使命から目をそらし、諦めさせようとする罠にまんまとはまってしまっているのかもしれません。信仰故の戦いはなるべく避けたいと思うかも知れませんが、好むと好まざるとに関わらず、私たちはすでに霊的な戦いの中におかれているのです。

だから聖書は言います「あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」

私たちはこの世では旅人のようですが、疲れとぼとぼ歩む者ではなく、望みに生きる旅人です。そして周りの人たちに、まだ大丈夫、希望はあると光を掲げる務めを委ねられた者としての自覚を持って歩んでいきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

試練の中にあったクリスチャンたちのために書かれた手紙を通して、もう一度私たちに希望を握って歩むよう背中を押してくださりありがとうございます。

私たちはイエス様を通して与えられた救いの素晴らしさと、終わりの日のために備えられている豊かな報いの素晴らしさを忘れたり、考えずに、ただ、今の時を無難に生きることを願い、わざわざ苦しい目にあってまでして信仰が強められることを願いません。私たちはすでにこの世の考え方やその背後にある悪魔の策略に振り回されています。そのために混じりけの多い、ぼんやりした信仰のままでいたり、解決されていない古い生活や心のうちに潜む罪によって自分自身や他人を傷つけ苦しめるようなことがあります。

主よ、ペテロが呼びかけたように、心を引き締め、身を慎み、主イエス様がふたたびおいでになる時を待ち望んで生きる者としてください。私たちの生活を通して、こんな世の中にも希望があることを証しできる者へと整えてくださいますように。

主イエス様のお名前によって祈ります。」

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