逆走

みなさん、おはようございます。
昨日はじめて自動車の逆走というのを目撃しました。詳しい状況説明をすると長くなるので省きますが、信号待ちしているわずか数十秒の間のことです。ドライバーの姿も表情も見えたのですが、その逆走が間違いだったのか、ちょっと行った先にある交差点に入るためにわざと行ったのかは判別できませんでした。でも、するするっと逆走しはじめるとすぐに直進してきた大型のトレーラーが急ブレーキと急ハンドルで衝突を避け、後続の車も状況判断して事故を回避していました。何事もなかったので良かったですが一歩間違えば大事故だなと実感しました。
世の中の流れに逆らって生きるのがかっこいいとされたロックな世代を通って来た身としては反骨的な精神への憧れはいつになっても完全には消えません。それが「この世と調子を合わせてはいけません」というみことばを妙な具合に解釈させてしまうと、いろいろと衝突を生み出します。逆走が目的ではなく、神様に喜ばれる生き方のために心を新たにし、自分の生き方を変えて行くことが目的だということを忘れないようにしたいと思います。

“この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。” ローマ 12:2

今日は佐々木誠さんの誕生日です。祝福を祈ります。
今日は婦人会と祈祷会もあります。

佐々木真輝

春の味覚

みなさん、おはようございます。
いただきものの春の味。タラの芽やコシアブラの芽をいただき、夕べ家内が天ぷらにしてくれました。春の代表的な味は「苦み」と言われます。フキノトウやウドなど春に採れる山菜の類はだいたい苦みがあります。あの苦みはポリフェノールやアルカロイドという抗酸化作用や新陳代謝を促す成分から来ているのだそうです。春先にこれらの食品を適切にとれば冬から春へと季節が変わる時の体調の変化に良い具合に作用するらしいです。
苦みのある食べ物は主食にはならないでしょうが必要なものではあります。人生における苦みも、毎日味わうのに適したものではないと思いますが、必要なものではあります。苦い経験から学ぶ事、身につけることは実に豊かで私たちに知恵と力をもたらします。

“苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。
それにより 私はあなたのおきてを学びました。” 詩篇 119:71

佐々木真輝

ことばにして祈ること

みなさん、おはようございます。
以前、我が家にいたワンコは水がなくなると器を加えて「なくなったよ〜」とアピールして来ていました(懐かしい)。でも、今いる二匹はそうしません。一匹はあきらめてとぼとぼ戻って来ますし、もう一匹はせわしく訴えて来ます(ただし、いつもせわしないので何を訴えているか分からない)。賢さの違いだけでなく、性格的な違いがあるのかもしれませんね。
人に対しても、神様に対しても、自分の願いや思いを積極的に伝えることができる人と、慎ましく訴える人、言いたくても言えない人など、様々な性格や行動パターンがあります。もちろん神様は私たちが祈る前から分かっていてはくださるのですが、それでも言葉にして祈ることを願っています。神様が求めているのは、私たちの願いをかなえること以上に交わりそのものだからです。

“祈りを聞かれる方よ
みもとにすべての肉なる者が参ります。” 詩篇 65:2

今日は午前中は牧師会、午後は3.11いわて教会ネットワークのコアミーティングです。

佐々木真輝

2022-04-24 身を避ける者を知っておられる主

2022年 4月 24日 礼拝 聖書:ナホム1:1-11

 ある日突然、聖書のことばが、今までとはまったく違った景色や意味合いに見えてくる事があります。創世記から順番に旧約聖書各巻を観て来ました。天地創造の時の祝福から、罪と死の呪いに捕らわれてしまった人間を神様がいかに回復させようとしておられるか。そのようなことを見通していくことができるのではないかと期待していました。それは確かにそうだなということが分かって来ましたが、長い戦争の時代でもあった王国時代と捕囚の時代に神様が遣わした預言者たちのことばは、ただ未来の救い主、キリストの希望や内面的な問題、神様との関係だけを指し示すものではありませんでした。イスラエルを滅ぼそうとする強大な敵や、国内での争い、不正、暴力が現実のものとしてあった時代に、預言者達の言葉はそうした罪に対して厳しい非難と警告を与えてきたのです。

そして今、私たちは戦争の残虐さ無意味さというものをほとんどリアルタイムで見せつけられています。今日開いているナホム書はそれほど有名な箇所ではないかもしれませんが、どのページを開いても飛び出してくる戦争の残酷な姿がこの状況で、突然リアルなものとなり、神様は単に私たちの内面的な罪や個人的な罪に関心を持っているだけでなく、社会や国家の大きな罪に対しても目を向けておられ、その中で苦しみ、神に救いを求める者に目を注いでおられるのだということに気づかされます。

1.傲慢な国は滅びる

第一に、ナホム書が描いている一番大きな内容は、傲慢な国は滅びるということです。1:1に「ニネベについての宣告」とあります。かつてヨナが預言をし、悔い改めた世代はとうの昔のことになります。預言者ナホムの時代はニネベを首都とするアッシリヤ帝国によって北イスラエル王国が滅ぼされた後です。

アッシリヤは力を誇り、領土を次々と拡大し、打ち破った国の人々を捕囚として連れていき、そこから帝国内のあちこちに散らし、混血を進めることで、各民族が反逆できないようにしました。まるでゲームの駒のように侵略し、占領した国や民族、人々の人生をもてあそび、好きなように動かしていたのです。そしてアッシリヤは南のユダ王国にも手を伸ばそうとしていました。

預言者ナホムはそのニネベとアッシリヤ帝国に対して宣告を告げるために遣わされました。「幻の記録」とあるように、神様はナホムに対して言葉以上に視覚に訴える幻を通して語るべきことを伝えました。2章と3章には戦争の場面や残酷な様子が非常にリアルに描かれています。まるでテレビやネットでウクライナの戦場や、破壊された町、道端に放置された遺体、避難した人々の過酷な生活、取り残された人々のもっと過酷な状況を見ているように、ナホムは戦争によって滅ぼされる町の光景を幻を通して見せられたのです。

傲慢なニネベとニネベを首都とするアッシリヤ帝国に向かって、神様が怒りを持って姿を現す様子がまず描かれます。2節から6節です。「主はねたんで復讐する神」とか「憤る方」「怒る方」ということばが並び、ちょっと怖さ、恐ろしさを感じさせます。しかしこれらは、神様の基本的な性質を表すものではありません。神様はいつも怒り狂い、近づく者を寄せ付けないような恐ろしさをまとっている方なのではありません。あくまでも残虐非道なアッシリヤの罪深さに対する、義なる神様としての立ち向かい方を表しています。ふだんは穏やかで優しい人でも、自分が大切にしている家族や仲間が傷つけられたり、侮辱されたときに、いつもは見せない激しい怒りを表すことがあります。そのように、神様は基本的にいつくしみ深く、恵み深い方です。しかし、あくまで神様に反抗し残酷な支配を続けるニネベとアッシリアに対しては怒りをもって立ち向かうのです。神様の怒りの前では誰も立っていられる者がいません。

2章と3章は首都ニネベとアッシリヤ帝国にもたらされる裁きが描かれています。心が健やかな状態でなければ読むのが辛くなるような、暴力的で、容赦の無い残酷なさばきが待ち受けています。しかし実は、この残酷さと暴力性はアッシリヤ帝国が侵略し占領していった国々で彼ら自身がやってきたこと、示してきたことです。

アッシリヤ帝国は大軍で押し寄せ、侵略し、兵士たちの盾は敵の血で赤く染まり、人々を戦車で追い回し、身分の高い人たちを連れ去り、町には火を放ち、金目のものはすべて奪い去ります。兵士も一般人も区別なく攻撃します。周辺の国々はアッシリヤに攻撃された町や国がどうなるか、恐る恐る固唾を飲んで見守るしかありません。今まさにヨーロッパで起こっている戦争と、それをとりまく世界の有様とそっくりです。しかし、歴史を振り返れば同じように傲慢に世界を支配しようとしたどんな帝国も、自分がやってきたことをそっくりそのままされて滅んできたのです。神様は国家や権力者の傲慢で残酷なふるまいをそのままにはしておかないのです。

2.高ぶる者とへりくだる者

第二に、高ぶる民とへりくだる民ではまったく異なる運命が待ち受けています。

怒りに満ちた神の登場で始まったナホム書は7節で急にトーンが変わります。「主はいつくしみ深く、/苦難の日の砦。/ご自分に身を避ける者を知っていてくださる。」

残酷で暴力的なニネベとアッシリアに対しては怒る神ですが、苦難のときに身を避け、より頼む者にはいつくしみ深い方なのです。

戦争で追い回され、逃げ場を失った人たちを救出に来た屈強な兵士のように、敵対し続ける者には恐ろしい存在になりますが、助けを待ち望んでいた人にとっては大きな慰めとなります。

今ここにいる私たちのほとんどは戦争を直接経験していません。11年前の震災の直後、山田町の津波と火災で破壊された町に向かった時、避難した方から戦時中の艦砲射撃と空爆を思い出したという高齢の方々に何度か出会いました。それも十分恐ろしいことだったはずですし、戦渦にも似た震災の風景は圧倒的に恐ろしかったです。それでも津波自体には悪意も憎しみもありません。しかしアッシリヤがイスラエルを侵略するために、あるいは他の民族を飲み込むために大軍を送り込むとき、その兵士たちの顔には憎しみと暴力性があふれています。

戦争を知らない私たちには、しばしば聖書の描写が暴力的過ぎるように見え、神様の裁きにも、ひいてしまうほどに残酷に見えることがあります。

しかし、ナホム書もそうですが、長い戦争の時代を生きていた人たちにとっては、それが実際に差し迫った恐怖であり、助け出して欲しい悪夢であり、何の意味もなく命が失われていく容赦のない現実でした。そのように圧倒的な暴力で他者を侵略し、支配しようとする国は傲慢の極みです。神の造られた人間の尊厳も、美しさも、自分以外には認めず、他人が生きるも死ぬも自分に決定権があると思い込んでいる、とんでもない傲慢さです。そのような者たちに対して、神様はいつの時代でも、いつまでも許しておくことはなさらず、必ず終焉を迎えさせました。

一方、そのような暴力的で抑圧的な国家にために、命の危機にさらされる人々が常にいました。神様はそうした罪もないのにいとも簡単に奪われてしまう人々の苦しみと訴えに心を留めてくださいます。もちろん罪がないというのは、聖なる神様のまえで全き人だという意味ではありませんが、人に殺されても仕方がないような人たちではないはずでした。

私たちはこういう聖書箇所を読む時、信仰ゆえの戦いや迫害のようなことに当てはめたり、霊的な戦いに読み替えることがあります。それもまた有り得ることですが、ナホムの時代の人々にとっては、文字通りアッシリアに蹂躙される中で味わった苦しみであり、その中で神様に助けを求めたのでした。まるで砦の中で助けを待って身を潜めているような心持ちとも読めますが、実際に砦に籠もって主が助けてくださるのを待っていた人たちもいたことでしょう。

私たちはそこまでの脅威にはさらされていませんが、同じように私たちが直面する困難、苦難、病、痛みなども現実のものです。そして、そんな悩みの中で訴え、助けを求める私たちを知っていてくださるのだと預言者は語ります。

3.平和を告げ知らせる人

第三に、神の平和は必ず訪れるから、あなたがたは信仰に立ち続けなさいと預言者は励まします。15節「見よ。良い知らせを伝える人の足が、/平和を告げ知らせる人の足が山々の上にある。/ユダよ、あなたの祭りを祝い、/あなたの誓願を果たせ。/よこしまな者たちは、/もう二度とあなたの間を通り過ぎることがない。/彼らはみな、絶ち滅ぼされた。」

似たような言葉がイザヤ書の預言にも出てきます。そしてローマ書の中で使徒パウロがまことの神様を知らなかった人たちに福音を伝える人について語る時に引用しています。そのため、どうしても私たちはこの言葉が福音を宣べ伝える人について語っているかのように読んでしまいやすいところがあります。

ナホムが15節で言っている「良い知らせを伝える者」とは、イスラエルや多くの国々、民族に残忍な暴力で襲いかかり奪い、滅ぼそうとするアッシリヤを神様が退け、主に拠り頼む者たちに戦争の終わりと回復の時がやって来ることを知らせる人です。山の上の物見台から「主の助けが来たぞ」「もう戦いは終わりだ」「もう大丈夫だ」と告げる人のことです。つまり、イスラエルが直面していたアッシリヤによる暴虐は必ず終わりが来る。そして戦争によって荒廃した町と暮らしには回復が訪れると約束しているのです。

ですからナホムは、神がもたらす平和を信仰によって先取りし、「あなたの祭を祝い、あなたの誓願を果たせ」と呼びかけます。これは、律法に定められた過越の祭などの祭、そして誓願は和解のささげもののことで、神への祈りが届いた時に感謝をもって捧げるささげものです。つまり、神の約束を信じて、今はまだ戦いと苦難の最中にあるけれど、主に礼拝を捧げようと呼びかけているのです。

今、ヨーロッパの戦渦の中で、クリスチャンたちが礼拝を捧げ続けています。アジアのあちこちでも、もうニュースにならなくなったけれども続いている戦いや迫害の中でクリスチャンたちが礼拝を捧げ続けています。それは、神様が平和をもたらしてくださったから、戦いを勝利のうちに終わらせてくださったからではありません。やがてこの世界から争いを終わらせ、完全な平和を回復させると約束してくださった神様を信じるからです。

この約束は救い主キリストが遣わされることで確かなものとして、あらためて私たちに示されたました。イエス様は戦争によって敵を滅ぼすことで平和をもたらすのではなく、無力で、だまって引かれていく小羊のように十字架で処刑される道を辿りました。それは一見、約束と違うことのようにも見えます。実際、それが弟子たちのキリスト理解を混乱させてしまうことにもなります。

しかし、イエス様がナホムや他の預言者たちが約束した平和の回復の意味を明らかにしてくださいました。イエス様は単にイスラエルの敵を滅ぼして平和をもたらすというのではなく、神との間に平和をもたらし、ついで戦争を引き起こしたり、人に残酷で暴力的なことをさせてしまう罪から人間を解放することで、人と人との間の平和を少しずつ回復させようとしているのです。そうして良い知らせである福音が世界中に告げ知らされ、すべての人が神様の前にへりくだることでこの世界は救われていきます。それでもなお神に反抗し、罪の中に留まるなら、ナホムが告げているように、その傲慢さにふさわしい報いは避けられません。

適用 重苦しさの中で

さて、今日はだいぶ重苦しい内容になってしまいました。預言書の時代背景がそもそも重苦しい時代ですし、扱われている内容も神に背いたイスラエルの民への非難だったり、暴力的で抑圧的な国々へのさばきの宣告だったりするので、重苦しさ、厳しさがあるのは当たり前のことです。

今私たちはヨーロッパの戦渦を目の当たりにし、その上、日本も周辺の国々との間の緊張感が高まって、もっと防衛予算を引き上げようとか、攻撃能力を増やすべきだというような空気感が濃くなって来ていますから、なおさら重苦しさを感じます。戦争とはこのようなものだったのだということをあらためて突き付けられます。

神様はナホム書を通して、義なる性質のゆえにアッシリアに限らず、暴力的で傲慢な国々を滅ぼし、そのいつくしみ深さゆえに、暴力によって苦しめられ、死ななければならなかった罪なき人々の訴え、嘆きに心を留めておられることを明らかにしています。そしてキリストによって平和を約束してくださいます。

神様のもたらす平和は、単に国同士の戦争がなくなることではないのは確かですが、しかしナホム書が中心的に語っているのは、傲慢で暴力的な国々に対する神の怒りと裁きであることも確かです。それを無視して個人的なことに適用しすぎるとちょっと無理があります。ナホム書のメッセージを個人的な罪の問題や、人間関係、内面的な問題に当てはめるような読み方をすると、敵対する個人、名前と顔が思い浮かぶ人に対して、赦すべきなのに、神による復讐を願っているのではないかという心のジレンマが生まれたりして、真面目に読む人ほど精神的に辛いことになり得ます。

ですからナホム書のメッセージをよりはっきりと、今日私たちが目にしている暴力と悪に対する神様の思いとして、そのために苦しんでいる人たちへの正義の回復と平和の希望として受け止めることが大事なのではないかと思わされています。

暴力によって国民を支配したり、異なる意見を押しつぶす国。他国を侵略する国。そうした国々で苦しむ兄弟姉妹がいます。クリスチャンであってもなくても受ける苦しみは同じです。私たちは神様がそのような状況に怒っておられることを知っているべきです。神様はいつまでも放っては置かれないことを信じ、思いを寄せ、義なる神様に助けを求めて祈り続けましょう。神様もご自身に身を避ける者を知っていてくださり、助けを与えようとしておられることを信じましょう。

悪は戦争だけではありません。もっと身近なところでは身勝手な犯罪、暴力、性暴力、差別といったかたちで襲いかかることがあります。自分が被害者になったことがなくても、身の回りには少なからずそのような事で嘆き、苦しんでおられる方々がいます。その悩みに簡単に立ち入ることはできませんが、やはり心を寄せ、救いを祈り、もし自分に出来ることがあるなら手を差し伸べましょう。

私たちがそのようなことに心を向けるべきなのは、主なる神様ご自身が正義を取り戻し、平和を回復しておられると信じており、希望を持っているからです。

この重苦しい時代に生きることになってしまった私たちにとって、今もなお主ご自身が私たちの救いであり希望であることを告白しながら歩んでいきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

あなたは今、この世界をどのようにご覧になっているでしょうか。預言者ナホムの時代と変わらない傲慢さと暴力が力を振るうこの時代を嘆くだけでなく、怒りをもってご覧になっておられるに違いありません。

主がやがて正義を取り戻してくださること、平和を回復してくださることを信じます。しかし、今この時に苦難の中にある人々にとっては、今が救いと助けが必要な時です。どうぞあなたの約束のゆえに、あなたのあわれみのゆえに、助けをお与えください。そして平和をつくる者、慰めを与える者として召されている私たちをあなたのご用のために用いてくださり、痛む人々に寄り添わせてください。

この重苦しい時代にあっても、希望を見失うことがないように、私たちの魂を守り、キリストにある平和を告げ知らさせてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

桜の下で

みなさん、おはようございます。
昨日、朝メールで展勝地に行きそびれているということを書きましたが、家内に誘われて夕方行って来ました。今年はさくらまつりの期間中でも夜のライトアップはありません。出店や屋台も早めに店じまい。鯉のぼりも遊覧船も渡し船もありません。ですので夕方の展勝地は散り始めてはいるものの、まだまだ花を楽しめますし、人も少なく、静かで、むしろ良かったです。ただただ桜の花を愛で、風に舞う花びらを目で追い、夕暮れ時に桜の下を歩いている家族連れやカップル、学生たちを眺め、たわいもないおしゃべりをする。そんな時間がただただ幸せでした。
いろいろなことが制約されたり、我慢を強いられたりしても、何かしら喜びを見つけ、感謝して受け取る時、神様が与えてくださる幸せを実感できます。

“朝ごとに
あなたの恵みで私たちを満ち足らせてください。
私たちのすべての日に
喜び歌い 楽しむことができるように。” 詩篇 90:14

佐々木真輝

桜の見頃

みなさん、おはようございます。
あまりの混雑ぶりを見聞きして、今年は展勝地に行きそびれ、桜の見頃を見逃してしまいそうです。街中の公園に咲いている桜や、他の川沿いの桜並木もあるので「さくらまつり」の雰囲気はないですが、美しさはちゃんと目に入っています。
億劫だなあとか、まあいいか、他にやることあるし、きっと今は時じゃない、失敗するのが怖い…。様々な理由や言い訳で時を逃してしまうことがあります。桜の花は来年も咲きますが、二度と巡ってこない機会もあります。私もそんなふうにして機会を逃し後悔したことが何度もあります。案ずるより産むが易しとはよく言ったものです。

“ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。” ガラテヤ 6:10

佐々木真輝

なりたい自分とは違ったけど

みなさん、おはようございます。
月曜から三日間、朝のラジオ番組で聖書から短くお話させていただきました(もちろんあらかじめ収録したものです)。朝のラジオということで、いつもよりはっきりと、ワントーン明るく、ということを意識してお話したつもりですが、実際放送されたものを聞いてみると、なんだか午後のまったりした時間にうとうとしながら聞くほうが良さそうでした笑。もともと自分の声や話し方にはちょっとコンプレックスがあるのですが、それでも「聞きました」とか、わざわざ電話を掛けてこられた方がいたりと、少しは手応えがあって励まされました。
「なりたい自分になる」という現代の理想は、現代人にとってのある種の呪いだと言った人がいます。掲げた理想や夢に縛られて苦しくなることがあるのです。それよりも、神様がそれぞれに与えてくださったものをしっかりと受け止めて、地に足の着いた生き方をすることで自由で豊かな生き方ができ、人のために役立てる者ともなり得ることを覚えたいと思います。

“それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。” 1ペテロ 4:10

佐々木真輝

親戚ではないけれど

みなさん、おはようございます。
海の向こうから「佐々木朗希投手はあなたの甥っ子ですか」というメールが来たのでお答えします笑。質問はジョークだと思いますが、完全試合を成し遂げたニュースは海外にも伝わっているようです。残念ながら親戚ではありませんね。でも、同じ岩手出身であり、11年前の震災の時にお父さんと祖父母を津波で亡くすという辛い経験をした小学生が野球に打ち込み、支えてくれた人たちへの感謝を抱きながらプレーしている姿は、親戚のような誇らしい気持ちになります。
あのような「偉業」は誰にでも出来るわけでありません。でも、感謝して一生懸命取り組むことは誰にでも出来ることです。それらの感謝や一生懸命さには、そこに至るまでの、それぞれの人生の物語があるはずで、そこに私は心を打たれ、誇らしさや感謝の思いがわき上がるのです。

“私は夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こし、先祖がしてきたように、私もきよい良心をもって仕えている神に感謝しています。” 2テモテ 1:3

今日は全キ災の全国会合がオンラインで開催されます。司会をしますので、しっかり務めを果たせるようお祈りください。

佐々木真輝

イベントより大事なこと

みなさん、イースターおめでとうございます。
先日、知り合いの牧師がSNSにイースターに関する牧師たちへの励ましの言葉を紹介していました。「牧師の皆さん、今週はイースターサンデーを華やかで劇的にしなければならないといういつも以上のプレッシャーを感じておられるのではないでしょうか。」と始まり、ホームランは狙わなくていいから、みことばに忠実なメッセージを語れば良いとのことでした。今はコロナで大きなイベントは出来ないと半分諦めているのであまりプレッシャーはないのですが、でもその感覚は分かります。実際、何人もの友人たちがそれぞれの教会で行う楽しそうなイベントのことを写真つきで紹介してくれます。
もちろん楽しいのは悪いことではありません。ですから今年もイースタークッキーを用意したり、ちょっとした飾り付けをしたりしています。けれども楽しさより大事なことは、主イエス様の復活に思いを巡らし、主をよみがえらせた神の力が私たちにも働いていることとその意味を深く味わうことです。

“また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ…” エペソ1:19-20

佐々木真輝

2022-04-17 三度の問いかけ

2022年 4月 17日 イースター礼拝 聖書:ヨハネ21:15-19

 今日はイースターです。主イエス様の復活を祝い、喜び、記念する日です。毎年、日付が変わるのは、月の動きによってカレンダーがつくられていた時代の名残で、春分の日以後の満月から最初に訪れる日曜日となっています。とはいえ、正教会では少し数え方が違っていたり、そもそも4世紀くらいまでは統一されていませんでしたので、これはあくまで伝統的なものという程度のものです。

大事なことは日付ではなく、何を祝うかということです。

今日はご一緒にイエス・キリストによって与えられる復活のいのちによって生きるとはどういうことか、ペテロの再起の場面を通して思い巡らしていきたいと思います。続きを読む →