2020年 4月 19日 礼拝 聖書:マタイ25:14-30
まだまだ収まる気配のない新型コロナの影響で、世界のクリスチャンたちの一部では、「もう世界の終わりが来るのではないか」と心をざわつかせている人たちがいます。
今日は3週間ぶりにマタイの福音書に戻りますが、確かに、最近、マタイ24章以降でイエス様が教えておられる「世が終わる時のしるし」が次々と起こっているように思えたりもします。
しかし、イエス様がはっきりおっしゃっているように、イエス様の再臨とさばきの日がいつであるかは誰にも予測できません。
とはいっても、世界の時計は進み続けているわけですから、主の再臨の日に少しずつ近づいていることは間違いないわけです。
主の再臨がすぐにでもあるかは分かりませんが、この新型コロナがもたらした影響は、確実に世界のあり方を変えると言われています。教会にとっても、大きな変化の時になるでしょう。少なくとも、これまでのように、教会に人を招いてのイベント中心の伝道や関係作りといったことは、今年は難しそうです。礼拝のありかただけでなく、福音をどのようにお伝えするか、ということでも根本的に問われているのだと思います。
今日はタラントの譬えから、この時代にあって、ゆだねられたものについてどんな責任があるのか、ご一緒に学んでいきましょう。
1.「終わりの日」とは
まず第一に、「終わりの日」とはどういう時なのか、それは私たちにとってどんな時であるのかをおさらいします。タラントの譬えは、終わりの日に生きる私たちへの教訓になっているからです。
「終わりの日」というのは、聖書全体の教えをまとめるなら、大きく分けて二つの意味合いがあります。
まず、イエス様が天に挙げられてから、再びおいでになる時まで、全体を含めた、大きな時代を指しています。
例えば、ペテロ第一1:20には「キリストは、世界の基が据えられる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために現れてくださいました。」とあります。また、ヨハネ第一2:18にも「幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。」とあります。これらの手紙は紀元1世紀の終わりに書かれましたが、使徒の時代はもうすでに「終わりの時」だと理解されていたのです。イエス様が来られる前が、救いの備えの時代であったように、イエス様の十字架と復活による全ての人への救いの道が完成した今は、もうすでに終わりの日、終わりの時代なんだということです。
だから、2000年の間にも何度も何度も、終わりの時に起こると言われているさまざまな前兆はくり返されて来ました。
もう一つの「終わりの日」の意味としては「主が再びおいでになり、世界をおさばきになる時」を指して使われます。
前回みたマタイ24:14ではこう言われていました。「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。」
この意味での「終わりの時」は「主の日」とも呼ばれたりします。日曜日のことではなく、主が再びおいでになる日ということです。テサロニケ第一5:2「主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。」
イエス様が十字架と復活により救いを備えてくださり、天に挙げられてから、風船はずっと膨らみつづけています。すでに主が再び来られ、世界が終わりを迎える「終わりの日」「主の日」に向かい続けているという意味で、すでに2000年前から「終わりの時」であるのです。
そんな長い期間、私たちは「いつ終わりが来るのだろう」と緊張したり、不安がっていたら身が持ちません。聖書は、その終わりの時をどういう時としてとら、どう過ごすべきかについてはっきりと教えています。
コリント第二6:2「神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」
ローマ9:22「それでいて、もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか。」
この終わりの時は、私たちにとっては恵みの時で、一人でも多くの人が救いを受け取るのを神が寛容と忍耐をもって待っている時だということです。私たちがすべきことは、神の恵みに応答すること、その恵みの知らせを伝えることです。
2.主を待ち望む私たち
第二に、信仰生活とは主の再臨を待ち望む歩みです。
信仰をもって生活を続けるにはゴールが必要です。そのゴールは、私たちが勝手に決めるものではありません。
「この願いがかなうまでこの神様をお参りしよう」とか、「この病気がなるようにあそこの神様にお願いしにいこう」という感じで、信仰が、自分の求める結果を目指すものになってしまったら、キリスト教もまた御利益宗教の一つとなり、やがていのちが失われていきます。クリスチャンも、あいかわらず自分のことが中心の生き方のままになってしまいます。
聖書は私たちに、信仰生活のゴールを主が再びおいでになる日に設定するようにと教えています。
なぜならば、その時こそが、私たちに与えられた救いが完全な姿を表す日、すべての労苦が報われる日、死の中から新しい身体によみがえり先に召された愛する兄弟姉妹と再会する日、だからです。
14節をもう一度見て見ましょう。「天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。」
今日の譬え話、タラントの譬えでは、旅にでかける主人がイエス様、その留守の間、任されたもので務めを果たすことを期待されているしもべたちが、私たちクリスチャンを表しています。
自分に任されたものを今日、どうするか、というのが日々の生活の中で果たす役割ですが、そのような人生がどこに向かっているかというなら、主人が帰ってくる時です。
そのように、私たちは神のいない世界で、自分がいいと思うように生きれば良いということではなく、自分の人生をこの世界を、やがてお戻りになる、私たちの主であるイエス様の期待や目的を考えながら暮らしていくものなのだということです。
以前飼っていた犬は留守番をしている間、ずいぶんいろいろとイタズラをする子でした。家族の帰りを待っている間、たぶん誰かが訪ねて来れば大騒ぎをして、立派に番犬の役割も果たしてくれたとは思いますが、どこからともなく雑誌や新聞などの見つけて来てはバラバラに引きちぎって部屋やソファの上に盛大に散らかしていることが何度もありました。きっとすごく楽しそうに遊んでいたのだと思います。しかし、私や家族が家に帰ると、飛び上がって慌てて物陰に隠れます。「やべえ叱られる」という表情がなんともおかしくて仕方ありませんでした。また、小さなテーブルの上に飛び乗ったはいいものの、降りれなくて私が帰って来るまで困った顔でずっと待っているなんてこともありました。
私たちは神様のペットじゃありませんが、主人であるイエス様を待ち望むものとして日々を暮らし、人生を生きる者です。
主であるイエス様が帰って来られることをすっかり忘れて、自分のしたいことに夢中になって、その日を慌てて迎えたり、途方に暮れたままその日をただ待つだけ、ということがないようにしたいものです。
3.大事なのは忠実さ
第三に、私たちは忠実さが問われています。
イエス様が帰って来られるのを待ち望む私たちにとって、もっと大切なのは、忠実さです。
譬え話にもどりましょう。
旅に出ることになった主人は、自分の財産をしもべたちに分けて預けました。
「しもべ」という言葉は、もっと直接敵に翻訳するなら「奴隷」という意味の言葉です。しかし、言われたことをただただ機械的にこなす労働力としての奴隷を思い浮かべると、クリスチャンがまるで神の道具、下手をすれば教会や牧師の手足となって奉仕をするコマのように勘違いしていまうことがあります。
イエス様の時代、ローマ世界での奴隷というのは、もっと責任のある者でした、確かに主人と奴隷には主従関係があり、それは主人が自由にすると宣言しない限り、覆ることはありませんでした。けれども奴隷たちは、単なる労働力ではありません。もちろん、能力によっては単純作業しか任されない奴隷もいましたが、能力があれば、財産管理を任されたり、子供の教育やしつけを任されることもあったのです。
この譬えでも、家の主人はしもべたちに財産を預けています。
一人には5タラント、別の人には2タラント、他の人には1タラントです。1タラントは一日の労賃である1デナリの6000倍です。年間の労働日数が300日だとして、普通の労働者の20年分の給料に相当するのが1タラントです。ですから5タラントといえば、人が一生働いても稼げないくらいの金額になります。少ないほうの人でも、決して額としては少なくありません。
主人が財産を預けたのは、しもべたちがそれで利益をあげ、資産を増やすことを期待していたからでした。
その意向を汲んだしもべたちはそれぞれ、預かったお金を元手に商売を始めます。5タラントあずかった人はさらに5タラントもうけ、2タラントの人はさらに2タラントに。
ところが1タラントの人は、地面に穴を掘って金を隠しました。
主人が帰ってきて清算をしたとき、主人は何を基準に評価したでしょうか。
5タラントもうけたしもべと2タラントもうけたしもべに対する主人の言葉はまったく同じです。21節と23節に『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』と二度同じ言葉くり返されています。
報いとしてもっと多くのものを任せたいと言っていますが、それも、二人のそれぞれに能力に応じたものにはなると思いますが、評価という点ではまったく同じです。
しかし、3人目のしもべだけは別でした。彼は、主人の期待が大きすぎて、無理なことを求められていると勝手に判断しました。減らすよりはと思って地面に隠したのですが、それを主人は不忠実さと判断し、すべてを取り上げ、追い出してしまったのです。主人は銀行に預けた利息でも良かったのだと言っていますから、やはり問題は金額の多い少ないではなく、任せて下さった主への忠実さだということが分かります。
適用 私は何を
イエス様はこのたとえを通して、イエス様がふたたびおいでになる「主の日」を待ち望む、終わりの時代に生きるすべての弟子たちに、教えてきました。
イエス様は私たちそれぞれに、能力に応じて委ねてくださっているものがあるということ。主が帰って来られる日に向かって、ゆだねてくださった主に忠実であるように、それらを用いて、しもべとして自分の務めを果たしていくべきだということです。
しかし、私たちと神様との関係は奴隷のようなものではなく、子供とされたのではなかったのかと、少し混乱するかもしれません。
確かに、私たちはイエス様を信じることとで罪赦され、神様の子供とされました。私たちは何もおそれることなく、遠慮することもなく、ありのままで神様の前に出て「天のお父様」と呼びかけ、その愛を条件なしに受け取ることができます。
身分としては、もう罪の奴隷でも、律法の奴隷でもなく、間違いなく、神の子供とされたのです。
しかし、この、終わりに向かっている時代に生かされた者としての役割は、イエス様のしもべです。
ちょうど神の御子であるイエス様が、その特権をすべてすてて、罪の為に滅びに向かっているこの世界とすべての人間のために、仕える者、しもべとなってくださったのと同じです。
私たちは神様の子供とされていますが、しもべとなって仕えるのです。それが、世の終わりの時代に生きるクリスチャンの生き方です。
では私にはイエス様から何が与えられているでしょうか。また、それらをどう用いることが、イエス様に喜ばれることでしょうか。
イエス様は私たち一人一人に、めいめい、ふさわしいものを与えてくださっています。このタラントは時々「賜物」 「というふうに理解されます。実際、英語での「タレント」は「天からの贈り物」とか「才能」というふうに、何か特別なものという意味で普通に使われています。
しかし、イエス様はここではそこまで狭い意味では語っていません。もっと広い意味で、神様が私たちに任せてくださったもの全てを示しています。
私たちは自分のいのちを含め、ほとんどのものを与えられて生きて居ます。自分の力で手に入れたと思うようなものでさえ、必死の努力や忍耐があったからではあっても、よく考えれば、誰かの支えやめぐりあわせなど、様々な助けがあって得られたものだということが分かります。
自分で「これは神様からいただいた良いものだ」というものだけでなく、自分の中で残念だ、ダメだと思っているところ、他人に迷惑ばかり掛けている病気や障害などさえも、ふとしたきっかけで、ほかの人のために用いられる神様からの贈り物だったと思えることがあります。
役に立つかどうか分からない政府支給のマスクだって、政府に文句をいう道具にしてしまうこともできますが、誰か自分より必要としている人にプレゼントするために用いることも出来ます。
間違いなく、イエス様は私たちにゆだねてくださっている事、ものがあるのです。「何にもない」というのは、1タラントあずかったしもべの言い分と同じだということに気付きましょう。
イエス様が自分に何を与えてくださっているか分かるように、それをどう用いれば良いか知恵が与えられるように、そして実際に用いて仕えていくための勇気が与えられるように、祈り求めていきましょう。私たちはイエス様と同じように、神様の子供でありながら、主に忠実な、人々にお仕えするしもべなのです。
祈り
「天の父なる神様。
使徒たちや最初の教会が経験していたのと同じように、私たちは終わりの時代に生きています。
イエス様が帰って来られるのを待ち望む者として、どう生きるべきか教えてくださりありがとうございます。
特に、この新型コロナウイルスによって世界が大きく揺れ動いている今このときに生かされている全てのクリスチャンには、なすべきことがきっとあります。
どうぞ私たちに何が与えられているか教えてください。どう用いるのが相応しいのか知恵を与えてください。勇気を持って仕える者になっていけるように助けを与えてください。
主イエス様のお名前によって祈ります。」