2025-04-13 主があなたを助けるから

2025年 4月 13日 受難週礼拝 聖書:イザヤ50:4-9

 とても有名で、その人のしたことは誰でも知っているけれど、その人の心に何があったかは知られていない、ということはよくあります。イエス様の場合もそうです。

今日から受難週になります。イエス様が十字架に向かってまっすぐ目を向け、残された時間を惜しむように大切に過ごされました。イエス様はロバの子の背中に乗ってエルサレ入城し、神殿で商売をしている人々の追い出し、弟子の一人に裏切られ、が弟子たちの足を洗う。最後の晩餐を一緒に過ごし、ゲッセマネの園での血の汗を流して祈り、逮捕され無理筋な裁判による鞭で打たれ、十字架を背負い、処刑され埋葬される。こういった印象に残る重要な出来事がわずか一週間の間に起こりました。どの福音書も、イエス様が救い主としての使命のために果たした重要な事柄を淡々と描いていますが、その胸の内にあったことについてはあまり書いていません。

今日開いているイザヤの預言は、イエス様がどのような思いで十字架に向かっていったかを推し量ることのできる箇所です。続きを読む →

2025-04-06 一人ひとりが恵みの器

2025年 4月 6日 礼拝 聖書:イザヤ64:8

 新年度に入り、新しい歩みを始めた方もおられますが、教会としても、心をまた新たにされて歩んで参りたいと思います。

さて、今年度の主題聖句としたイザヤ書には「私たちは粘土で、あなた私たちの陶器師です」という言葉があります。粘土と陶器師を比喩に用いた、私たちと神様との関係はどのようなものでしょうか。

たぶん小学生の時だったと思うのですが、陶芸クラブというのに入っていたことがあります。それ以来、回数は多くありませんが、何度か陶芸に触れる機会があり、その度に不格好な器が増え、今でもその一部が我が家の食器棚に収まっています。あまり使う機会はないのですが、捨てるに捨てられずにいます。陶芸家の古い知人もいて、何度か陶芸についての考えを聞いたことがあります。今日はそんなことも思い出しながら、しかし、聖書自体の文脈とメッセージを見失わないように、神様が預言者を通して語っておられることに耳を傾けたいと思います。続きを読む →

2025-03-30 堅く立つために

2025年 3月 30日 礼拝 聖書:エペソ6:10-24

 サッカーや野球、ラグビーなど、スポーツの試合開始前には選手やコーチがエンジンを組んで、キャプテンから選手たちに激励の言葉がかけられます。有名になったのは昨年のワールドベースボール決勝で大谷選手がスピーチした場面かもしれません。こうした戦いの前の激励の時というのは、もとをたどれば戦場に送り出す王や将軍からの激励と備えよとの命令に遡ります。敵の攻撃を前に、ひるみがちな兵士たちを力づけ、防具と武器を取って大事なものを守るために勇敢であれと励ますわけです。今日はそんな箇所です。

今日はエペソ書最後の箇所になります。これまで、パウロは前半で私たちが召された神様の救いのご計画について語り、後半でその召しにふさわしく歩むようにと教えて来ました。具体的には神の計画の中心には教会があり、教会における歩みのふさわしさは、まず最初に私たちの心と行動の変化、そして家族の関係性に表れるのです。しかしパウロは、召しにふさわしい歩みをしようとするときに、戦いがあるということを良く知っていました。続きを読む →

2025-03-23 我が家と我は

2025年 3月 23日 礼拝 聖書:エペソ6:1-9

 今年に入ってからエペソ書を改めて学び直しています。神様が世界の基の置かれる前から私たちを選び、聖く傷のないものにしようとキリストにあって選んでくださり、私たちの救いのためにご計画を立ててくださいました。イエス様の十字架の死と復活によって神様のご計画は実現しましたが、このご計画には奥義と呼ばれる、まだ明かされていなかった秘密がありました。それは罪と死によってバラバラに分断されていた世界をキリストにあって1つにするというものです。この世界で、その最初の実、具体的な形として主が立ててくださったのが教会です。

改めて驚かされ、考えさせられるのは、教会についての教えなのに、パウロを通して主が私たちに語る内容は、教会として何をするかというようなことではなく、教会に連なるそれぞれの家族がどうあるべきかということなのです。先週は夫婦の関係についてでしたが、今日は親子の関係について、また後半では奴隷と主人の関係についてです。何が教えられているか、じっくり見ていきましょう。続きを読む →

2025-03-16 この奥義は偉大です

2025年 3月 16日 礼拝 聖書:エペソ5:21-33

 今日の箇所は結婚式のときに読まれる箇所です。妻は夫に従いなさいという言葉に席上の男性たちが大きく頷き、夫は妻を愛しなさいという言葉に席上の女性たちがもっと大きく頷きます。そして32節の「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです」という言葉に「ん?」とちょっと首をかしげます。

エペソ書は教会について教えている手紙ですが、教会運営の方法や教会の財政のこと、伝道計画など、私たちが教会で話題にするようなテーマは一切出て来ません。教会とは何なのか、どうあるべきなのかを、イエス・キリストによって実現した神の救いのご計画に基づいて解き明かし、私たちが本当に目を向けなければならないことに中を向けさせます。前回は、この世の様々な誘惑やだましごとに惑わされずに真の愛と喜びのうちに歩むよう教えていました。そして今日の箇所は愛と一致がもっとも強く表される結婚関係へと話題が移ります。聖書は私たちに何を語っているのでしょうか。未婚の方にとってもこの箇所は何か学ぶべきことがあるのでしょうか。続きを読む →

2025-03-09 愛と喜び

2025年 3月 9日 礼拝 聖書:エペソ5:1-20

 中学生くらいの頃、アディダスのスポーツバッグが流行りました。今の日本はブランドの偽物に厳しいですが、当時は「バッタもん」と言って、デザインやロゴをよく真似た偽物がかなり出回っていました。よくみたら「Adidas」が「Adios」になっていたとか、笑うしかありません。

激安だと喜んで偽物をつかんでしまった私たちは、騙されやすかったということで笑い話で済むかもしれませんが、本物を誇りと愛情を込めて作っているメーカーとしてはたまったものではなかったに違いありません。

神様は、ご自身の永遠の救いのご計画をお立てになり、キリストにあった私たちを選び、愛と喜びに満ちた歩みへと招いてくださったのですが、私たちはその愛と喜びを教会家族との交わりの中で、隣人との関わりの中で具体的に見出して、味わい楽しんでいきますが、もし偽物を掴んでしまったら、どうでしょう。神様はとても悲しみ、私たちは空しさを味わうことになってしまいます。続きを読む →

2025-03-02 新しい生き方に根ざす交わり

2025年 3月 2日 礼拝 聖書:エペソ4:17-32

 「このお城は誰が作ったのでしょう」という子供じみたひっかけ問題があります。その土地の殿様が作ったと答えると「残念でした~正解は大工さんで~す!」と返すのがお決まりです。

しかしこの子供じみたクイズには、何かを成し遂げることについての重要な考えが含まれています。何かを計画し、資金や材料を調達し、指揮する権力者と、その計画に基づいて務めを果たす技術者や労働者が働いてお城なり、ピラミッドなり、神殿なりが建てられていきます。そして名前が残るのは、人々が主人と仰いで従った王や権力者たちです。

神の家族である教会を建て上げにも同じことを問えます。イエス様が「わたしはわたしの教会を建てる」と言われましたし、エペソ書で学んできたように、これは神の救いのご計画の奥義、ずっと前から計画されてきたことです。そして、私たちは神の奥義の実現のために召され、一致を守り、それぞれ自分なりの仕え方で仕え合って、愛のうちに教会は建て上げられていきます。

私たちをイエス様に似た者に造り変えていくことも、神の家族である教会を生み出し、神の満ち満ちた様にまで成長させてくださるのも聖霊の神様なのですが、私たちにも果たすべき役割があり、そのために自分を献げていくことが求められます。エペソ書後半の教えは、そうした私たちの責任について教えています。続きを読む →

2025-02-16 キリストの愛の上に

2025年 2月 16日 礼拝 聖書:エペソ3:14-21

 何かを学ぶことには、意義や目的があります。一時だけの、たとえば農業体験とか、お菓子作りの体験だとしても、私たちの視野を広げ、新しい関心に目覚めさせたり、小さな発見が考え方を大きく変えることもあるでしょう。もちろん、知的な好奇心を満足させて終わりっていうこともありますが、それは1それで私たちの人生を豊かにするに違いありません。

しかし、ある人のもとに弟子入りしたら、そこで学ぶことはもっと明確な意味を持ちます。そこで学ぶことは、その人自身の仕事と人生の知恵と力になっていきます。私たちはイエス様の弟子となりました。ですから、イエス様のことばを学ぶことには、知的な好奇心を満たすことや教養を身につける以上の意味があるはずです。

今日開いている箇所は、パウロがこれまで説明してきた神様の救いの大きなご計画を受けて、ほとばしるような祈りとなっています。神様の思いを知った私たちの人生は何を目指すべきなのかを祈りとして表しているのです。

1.私たちの父

最初にパウロは私たちの父である神様の前に跪いて祈ります、と書き始めます。

「祈ります」という言葉は補足のために日本語訳に加えられたもので、実際の文章は「御父の前に膝をかがめます」となります。もちろん、内容は祈りなのですが、パウロの心にあったのは、何よりも、思わず膝をついてひれ伏してしまうほどの神様に対する畏敬の念と、神様のご計画を知ることで分かったキリストの深い愛に圧倒される思いです。

天地の基が置かれる前から私たちを愛し、ご自身の子とし、イエス様に似た傷のない者にしようとされ、しかも罪と死によってばらばらに分断されたこの世界をもう一度キリストにあって結び合わせ、神の民、神の家族にしようとしてくださったこと。信じる者のうちに聖霊の力を豊かに働かせ、新しい人生を与えてくださったこと。私たちを神の家族としての教会の一員とし、この救いの知らせ、福音を全くもって不十分な私たちに委ねてくださったこと。その知恵の深さと恵みの大きさ。そのようなことを考えれば考えるほど、神様の知恵と愛の深さに圧倒されます。

そして、私たちが父と呼ぶ神様は「天と地にあるすべての、「家族」という呼び名の元である」方というふうに描きます。

ここにもちょっとしたパウロのユーモアが表れています。父はギリシャ語で「パテール」といい、家族は「パテーリア」と言います。単なるダジャレではなく、家族という共同体が父の存在から始まることを表しています。

先週、礼拝のあとで両親の結婚60年をお祝いする食事会がありました。サプライズにしようということで兄妹たちで企画し、準備を進めて来ました。家族にとってはとても良い時間でした。子どもたちそれぞれの家族が一緒に集まり、中には曾孫もいましたし、孫の一人は彼氏を連れて来て皆を驚かせていました。その様子を眺めながら、ああ、この家族のつながりは、この両親から始まったんだなあと深く実感しました。もちろん、これまでの歩みには良いことだけじゃなく、悲しいことも、危機的な時もあったのですが、それでも「家族」と呼べるのは凄いことだなあと実感したのです。

神の家族と呼ばれる共同体は、エペソだけでなく、世界のあちこちにあり、時空を越えて2025年の北上にもこうして神の家族が続いています。やはり神の家族も、いつの時代も完璧ではないので色んな失敗もあります。それでも新しく人々を加えながら神の家族は大きくなっていきました。それらすべての家族は、同じ方を父とする大きな神の家族なのです。パウロは福音を委ねられた自分を最も小さい者と言いましたが、2000年の教会の歴史を振り返れば、教会もまた小さい者、愚かで躓きやすい者だということは明白です。それでも、この地上で互いに愛し合うことを目指し、罪の赦しと恵みを福音として人々に証しするために教会の交わりを用いるというとてつもないアイディアは神様の深い知恵と愛によるものです。あちらこちらにある教会というクリスチャンの交わりがなかったら、キリスト教の教えはただの素晴らしい教えか、高尚だけれど古くさい教養で終わっていたに違いないのです。私たちは、そんなすごいことを考えて実現してくださった、素晴らしい神様を父とする、大きな神の家族なのだという実感がこもった言い方なのです。

2.キリストの愛の上に

ではパウロの祈りの中身を見ていきましょう。

複雑な文章で、ちょっとみただけだと何が中心点か分かりにくいのですが、大きくまとめるなら、クリスチャン一人ひとり、そして神の家族である教会が、キリストの愛に根差し、キリストの愛の上にしっかりと建て上げられていくように、ということです。何を建て上げるのかといえば、私たちの人生、生き方、そして教会の交わりのあり方とこの世界における使命を果たす、ということをしっかり確立するということです。その具体的な内容は4章以降で取り上げられますが、ここでは、祈りのことばとして、キリストの愛に根ざし、建て上げられるようにと語っています。

そしてここでも16節にあるように、私たちが建て上げられるのは私たちの力ではなく、聖霊の力によってであり、聖霊を遣わし、キリストを私たちのうちに住まわせる父なる神によるのです。

パウロが神の愛と知恵の深さに感動と畏怖の念を抱き、思わず跪く中で祈るとき、出て来た祈りが神の子どもとされた者達、その集まりである神の家族、教会がキリストの愛に根ざし、しっかり建て上げられるようにと祈ったことの意味合いを少し考えてみましょう。

パウロはエペソの教会やすべてのクリスチャンたちに、主から託された福音の奥義を解き明かして来ました。神の永遠のご計画、キリストによって罪の赦しとともにすべてが一つにされるという壮大なビジョン、そのビジョンの具体的な形としての教会。ユダヤ人も異邦人も関係なく、神の民、神の家族とされた教会であること。そうしたことを解き明かす理由は、教会がキリストの愛によって確立するためであることを祈りを通して示しました。言い換えるなら、私たちがみことばを学ぶ目的は、私たちがますますキリストの愛を深く知り、キリストの愛を土台としてしっかりと立っていくためだということです。

教会は、ただお一人の父なる神様の愛から始まった神の家族です。罪ある人間を救い、一つに結び合わせたのは、キリストの愛と十字架の死と復活です。私たちはこの神を、このキリストを信ずべき神、信ずべき救い主と思えたのは、教えの素晴らしさや神の力が分かったということ以上に、それらの背後にある私たちに対する愛を感じ取ったからではないでしょうか。

私たちの信仰はキリストの愛に根ざしたものです。であるなら、その上に築かれる人生、生活、交わりは私たちが根ざしている愛を表すものであるべきです。そして様々な場面で、自分の愛がどれほど小さいか、心が狭いかを知るたびに、イエス様の愛の深さ、神様の愛の大きさをもっと知って、私たちの生活や交わりがますます豊かなものになることを求めていくべきではないでしょうか。

もちろん、私たちはそうすべきだということを頭で分かっています。ところがなかなか実行できないのです。親しい人や好きな相手には出来ても、何か隔たりを感じている相手にはよそよそしかったり、距離をとってしまいます。だからパウロは、これらのことを教えや勧めというかたちではなく、祈りとして上げたのではないでしょうか。キリストの愛に根ざし、キリストの愛をもっと深く知り、建て上げられることを果たすべき命令としてではなく、願いとして受け取ることがまずは大事なのではないでしょうか。

3.私たちのうちに働く力

私たちは、キリストの愛に根ざし、より深く愛を知り、愛の上に私たちの歩み、教会の交わりを築き上げていくことが一生の仕事であることを理解しなければなりません。それは絶えず学び続け、取り組み続けることです。そのためには、私たちのうちに働き力がどのようなものかを知っておくことが必要です。

祈りの最後の部分、20~21節を改めて読んでみましょう。まず20節です。「どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、」この言葉は父なる神様のことですが、父なる神様の働き方について大事なポイントを二つあげています。

まず、神様は私たちのうちに御力を働かせてくださる方であること。そして神様がなさることは、私たちの願いや思いをはるかに越えるものだということです。

私たちは自分の持っている力や理解力や愛の深さを考えたら、確かにできることは少ないし、神様のご計画やみことばについて理解することも十分に出来ないように思えるかも知れないし、愛することに至っては、イエス様のような愛なんてとてもとてもと思うかも知れません。しかしながら、神様が私たちになさろうとしていることは、神様ご自身の力によるものであり、私たちの想像を遙かに超えたものだというのです。私たちのうちに起こる変化は、一晩ですべてが変わったり、一日経ったらまるで別人になったかのような劇的で大規模なものではないかもしれませんが、私たちのうちで働き、生涯を通して私たちを少しずつ、本質的に造りかえていくものです。

変化が小さいからといって、私たちのうちに働く御力を過小評価したり、まるでそんな変化なんかないかのように無視したり、忘れたりすべきではありません。

むしろ私たちは、パウロが祈ったように、私たちの父なる神様は私たちのうちに御力を働かせ、私たちの想像をはるかに超えたことを私のうちに、そして私たちを通して成し遂げる方なのだと、信じて告白し、祈るべきではないでしょうか。それを信じずして、いったい何が信仰の歩みだというのでしょうか。

キリストが私たちのためにしてくれたということを、つまり十字架で死なれ三日目によみがえられたこと、それが私たちの罪の赦しと救いをもたらすことを信じているならば、イエス様をよみがえらせた力を私たちのうちに働かせて、私たちを生涯にわたって新しく造りかえると約束されたことをも信じるべきです。信仰は過去の神の業を信じるだけでなく、未来に続く神の業を信じることでもあるのです。

ヘブル11:1には「信仰は、臨んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」とあります。また同じヘブル12:2には「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないようにしなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです」とあります。イエス様の目には、私たちの信仰が完成し、すっかり造り変えられた姿が見えているのです。そのために喜んで十字架にご自身を引き渡されました。イエス様が私たちを信じてくださっているのです。私たちも信じましょう。

適用:人生の目的

さて、今日はパウロの祈りに注目して来ましたが、21節にあるように、この祈りにアーメンと言うなら、私たちには新しい人生の目的が出来たことを意味します。

キリストの愛をより深く知り、キリストの愛の上に私たちの心、人生、人間関係を確かなものとして築いていくことで、神の栄光を表すことが私たちの新しい人生の目的になりました。

自分の冨や名声のためでなく、他の誰かのためでもなく、神の豊かさと栄光が称賛されること、それはどんなことでしょうか。黙示録には人々がイエス様の前に跪いたり、自分の王冠を投げ出す幻が出てきます。「イエス様の素晴らしさにはまいった。降参です。」という感じです。それまで神様のことなんかこれっぽっちも認めていなかった人が、あなたの信じている神様って素晴らしいんだと人々が気付いたら、神の豊かさと栄光が表れたと言えるのではないでしょうか。お父さんやお母さんが信じて来た神様って本物なんだねと子どもたちが認めるようになること。そして私たち自身が、このお方に信頼して生きて来て良かったと人生を振り返られるようになること。そんな生き方が出来たら、どれほど素晴らしいでしょうか。

そして、パウロの祈りは私たちクリスチャン個々人がそのような人生の目的をもって生きることだけでなく、教会の歩み、教会の交わりがキリストの愛に根ざし、建て上げられ、神の豊かさと栄光を表すようになることを祈っているのに注目すべきです。

もちろん、教会には福音を世界の隅々まで届ける使命が与えられています。しかしその使命を果たすためには、神の家族である教会が、神の家族らしさ、つまり、キリストの愛に根ざし、キリストの愛の上にしっかりと築き上げられている必要があります。

なぜなら、愛こそは福音が真実であることを証するものだからです。イエス様は言われました。ヨハネ13:34。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」次の35節が重要です。「互いの間に合いがあるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようにあります。」

今も70周年記念誌の編集を諦めずに続けていますが、その中で教えられたことがあります。皆さんに書いていただいた証は、イエス様が一人ひとりのうちで始められた救いの御わざが完成に至るまでの一ページでした。年表にはたくさんのことが記されていますが、教会にとって本当に大事なことは何かの事業をやり遂げたり大きなイベントをすることではなく、教会の交わりに加えられた一人ひとりが、正式な教会員であるかどうかに関わらず、イエス様がこの交わりの中で、その人のために何かを始めてくださったという足跡でした。多くの場合、誰かが信仰のあかしとしてバプテスマを受けたとか、この年この人が教会の交わりに加えられたとか、新しいところへ旅立って行ったということしか書き記せません。その人の中で神様が為し続ける御わざのほとんどは記録には残っていませんが、確かに、神様の御わざはなされています。使徒ヨハネが福音書の締めくくりに書いたとおりです。「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」

全くその通りだと思います。イエス様が私たち一人ひとりと、教会の交わりの中に初めてくださった御わざが完成し、イエス様の愛のうちに私たちがしっかりと建て上げられ、神様の栄光を表すものとなることを生涯かけて追い求めましょう。

祈り

「天の父なる神様。

どうか、ますますイエス様の愛を深く知り、愛に根ざし、愛の上に確かなものとして建て上げられていくように、私たち一人ひとり、そして神の家族としての教会の交わりを務め、導いてください。聖霊の力が豊かに働き、イエス様ご自身が私たちのうちに住んでいてくださいますように。父なる神様の豊かさと栄光が表されますように。それが私たちの人生と教会の目的であることを確信できますように。

イエス様のお名前によって祈ります。」

2025-02-09 計り知れない富のために

2025年 2月 9日 礼拝 聖書:エペソ3:1-13

 今日開いている箇所は、パウロのユーモアが垣間見える書き出しで始まっています。救いはユダヤ人だけでなく、律法の外にいる、彼らが異邦人と呼んで遠ざけていた人たちにも等しく与えられるのだとパウロが言い広めていたことに腹を立てたユダヤ人が難癖をつけて訴え、裁判を待つ間、パウロは囚われの身となっていたのです。

そうした状況について、エペソのクリスチャンだけでなく、多くの人々がパウロの身を案じつつ、ある種の信仰の危機に直面していました。なぜ神様のご用のために労苦している人がそういう目に遭うのか。なぜ神はペテロを牢獄から連れ出した奇跡をパウロの身に起こさないのか。それに対してパウロは「私はローマのじゃなく、キリストの囚人なんだ!」と笑い飛ばしているかのようです。

私たちも苦難に直面したとき、ユーモアをもって笑い飛ばせるくらいの心のゆとりが欲しいところですが、なぜパウロはそんなふうに言えたのでしょうか。続きを読む →