2023-12-03 もう一つの良い知らせ

2023年 12月 3日 アドベント礼拝 聖書:ルカ1:5-25

 今日からクリスマスを待ち望むアドベントとなります。クリスマスの時期やアドベントの期間について、特に聖書的な根拠があるわけではありません。しかし長い教会が歴史の中で尊重して来た事柄に敬意を払い、主にあって連帯を表したいと思います。そして年に一度、主イエス様が私たちのために人としてお生まれになった出来事にまつわる事柄を特に心に留めるために、アドベントという期間を用いたいと思います。

さて、クリスマスの出来事、約束のキリストが人としてお生まれになったことは「良い知らせ」と呼ばれています。野宿をしていた羊飼いたちに天使が告げた言葉です。

しかし、今日の箇所にはもう一つの「良い知らせ」が登場します。マリアに男の子が生まれると天使によって告げられる前、遡ること半年前に一組の老夫婦にこの良い知らせは告げられました。後にバプテスマのヨハネとして知られるようになる男の子誕生が告げられる場面です。約30年後、この男の子は間もなく登場するキリストの先触れとして、聖書の預言に従って人々の心を備えさせるためにユダヤの荒野で神の言葉を告げ、悔い改めた人々にバプテスマを授けるようになります。

この「もう一つの良い知らせ」を老夫婦がどのように受け取ったかを今日はじっくり見ていくことにしましょう。

1.老夫婦

夫のほうはザカリヤという名で、祭司でした。ザカリヤは「アビヤの組の者」ということですが、これは第一歴代誌24章で定められていた、祭司の24組の組み分けに従ったものです。しかし、バビロン捕囚を経て、再建されたエルサレムに戻って来た祭司はたった4組でした。そこで当時の大祭司エズラはその4組をさらに分けて、もう一度24組にし、かつての名称をそれぞれの組につけたのです。各組は年に2回、それぞれ一週間ずつ神殿で奉仕することができたのです。アビヤの組もそのうちの一つで、第8組にあたりました。

ザカリヤの妻はエリサベツと言いますが、彼女も祭司の家系に生まれた女性だったことが記されています。

さて、6節と7節には、彼らの状況が端的に記されています。

「二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。」

もちろん、二人が全く罪のない人たちだったという意味ではありません。旧約聖書の多くの人物たちにも「正しい人」という表現が用いられますが、それは敬虔に神を敬い、仕えていたという意味です。

「しかし、彼らには子どもがいなかった」という短い文が、彼らの苦悩を表現しています。今日でも不妊は多くのカップルにとって大きな悩みですが、ユダヤ人にとっては望んでいるのに子どもが生まれないという健康や心理的な問題である以上に、信仰上の矛盾に直面することでした。

というのも、ユダヤ人たちにとっては、子どもというのは神に忠実に従う者への祝福のしるし、というふうに信じていたからです。そして追い打ちを掛けるように、「二人ともすでに年をとっていた」と、今後にも希望がないことが記されています。

二人は心を込めて神を敬い、仕えて来ましたが、当然のように期待した子どもに全く恵まれず、年ばかりとって、「どうして神様は私たちに子どもを与えてくださらないのか」と悩んでいたに違いないのです。13節にあるように、ザカリヤ自身、子が与えられることを神に願っていました。24節にあるとおり、妻エリサベツも自分が不妊であることを恥じ、思い悩んでいました。すでに高齢になってもう無理だと分かっていても、子どもがいないことを恥と感じるのは、彼らにとっては、それが不妊症という健康問題ではなく、神に誠実に歩んだのに子どもという祝福のしるしがないという信仰の問題だったからです。

この思い悩みは、旧約時代に登場する多くの夫婦の姿を思い起こさせるものです。アブラハムの妻サラも不妊で年老いていましたし、その息子イサクの妻リベカにもなかなか子どもが生まれませんでした。その息子ヤコブが一番愛した妻ラケルもなかなか子どもが生まれず苛立っていました。最も有名なのは預言者サムエルの母ハンナでしょう。子どもが生まれないということは、彼女たちにとって母となる望みが叶わないという大きな痛手であるとともに、時代とともに夫婦の信仰上の悩みにまでなっていたのです。たとえそれが人間の勝手に考え出した迷信だとしてもです。

しかし彼らに良い知らせがもたらされました。

2.良い知らせ

ザカリヤ夫妻に良い知らせがあったのは、ザカリヤが祭司としてとても大切な務めを果たしている時でした。

アビヤの組の祭司たちは、年に二回ある神殿での奉仕を心待ちにしていたことでしょう。しかし、神殿内の聖所に入って香を焚き、祈りを捧げる務めはたった一人でしなければならず、誰があたるかはくじ引きで決められました。その年、くじ引きで務めを引きあてたのはザカリヤでした。

神様への恐れと大切な務めをいただいた誇らしさを胸に抱きながら、祭司だけが開くことが許されている幕をくぐると、聖所と呼ばれる部屋です。大理石と豪華な装飾が施されたその部屋は静けさで包まれ、パンを並べるテーブル、黄金の燭台、香を焚くための祭壇が置かれています。部屋の一番奥には、さらにもう一つ幕があり、その先は祭司たちのトップである大祭司だけが年に一度入ることが許されています。

神殿の構造は、神の前に立つことができるのはごくごく限られた者だということを象徴的に表していました。神殿の中は健康なユダヤ人だけが入ることが許され、外国人や特定の病気がある人は入れません。神殿内にはさらに男性しか入れない区画があり、その奥に聖所があって、そこは祭司しか入れません。神殿は神の前に進み出て礼拝と祈りを捧げる場でありながら、同時に、ユダヤ人と異邦人を隔てる壁であり、また神と人とを隔てる壁でもあったのです。

さて、聖所に一人入ったザカリヤは、定められた分量の香に火をつけて煙を立ち上らせます。立ち上る香の煙は民の祈りを象徴しています。祭司は、民の思いを代表して神の前に祈りをささげ、とりなし、神の祝福とあわれみを求めます。そこに祭司の個人的な事情や願いごとを入れるのは相応しい事のようには思えません。礼拝の時に牧師が祈る場面で、教会や兄弟姉妹のため、世界や地域のために祈ることはあっても、あまり個人的なことを祈りません。そういうのは個人的な場所で祈るものです。同じように祭司がこのような場面で祈る時はイスラエルが贖われることを祈る、というのが通常だったと考えられます。

祭壇の右側に突然人影が現れました。誰も居るはずのないところに誰かが立っていたら、しかもそれが人間とは違う何かである感じが伝わって来たら、それは取り乱し、恐れます。

御使いは「恐れることはありません。」といつものように語りかけます。そして御使いは「あなたの願いが聞き入れられたのです」と言いました。この時の「願い」とは何でしょうか。

イスラエルの贖いと願う民の思いを代表した祭司ザカリヤの祈りが聞かれ、そのために用いられる男の子が生まれるということです。御使いの説明によれば、この男の子の誕生は、単にザカリヤ夫婦を慰めるための奇跡ではなく、この男の子を通してイスラエルの贖いのための神のご計画を大きく前進させるための奇跡でした。生まれる前から聖霊に満たされた子であり、多くの人を主に立ち返らせることで、約束の救い主の道ぞなえをするのです。しかしもちろん、15節にあるように、この子の誕生は二人にとって溢れるばかりの喜びになるでしょう。けれどもその喜びは二人だけのものではなく、民全体のものとなるはずのものなのです。御使いは、この良い知らせを告げるために神から遣わされて来たのです。

3.しるしとして

神の民が贖われることを待ち望んでいたザカリヤに素晴らしい知らせが伝えられたのに、彼らの個人的な願いであった子どもが与えられるという、まさにそのことが、ザカリヤにとっては信じがたいことで、御使いの良い知らせを受け止めきれずにいました。

「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょう」。この言葉は、アブラハムが約束の地を与えると言われた時に言ったのと同じ言葉です。アブラハムも「信仰によって義と認められた」と言われた直後にそういう応答をしました。敬虔な人であったザカリヤですが、

私が生死の瀬戸際にいたとき、だれかが家族に「必ず後遺症なしで助かると神様のお告げがありました」と言ったら、励ますつもりなんだろうと思いながらも、「無責任なこと言わないで欲しい」とも思ったのではないでしょうか。信仰があったとしても、しばしば私たちの信仰は神の御業を無条件に受け止め切れないことがあるものです。ザカリヤもそうでした。たとえそれが根拠のない人の思い込みによるものでなく、御使いの確かな言葉だったとしてもです。

しかしザカリヤの応答に対する御使いの言葉は思いのほか厳しいものでした。神からのことばを信じなかったザカリヤは男の子が生まれるまで口が利けなくなるというのです。

生まれて来る男の子には「ヨハネ」という名前をつけるように言われていますが、この名前には「主は恵み深い」という意味があります。主が恵みによって、イスラエルを贖ってくださいという祈りに応えようとしてくださっているのです。しかし、年老いてしまった自分たちの現実から物事を見ているザカリヤには、そのことを信じ切れなかったのです。

「何によって知ることができるでしょうか」はある意味、しるしを求めたことになりますが、御使いは彼に望んだとおりそのしるしを与えたと言えます。子どもが生まれるまで口が利けなくなる、というしるしです。

ザカリヤがなかなか聖所から出て来ないので、皆が少し心配していましたが、出てきたザカリヤの様子から、聖所の中で幻を見たのだと理解しました。

当然のことですが、口が利けなくなっても身振り手振りは出来ますし、祭司であるなら文字も書けたでしょうから、妻エリサベツには御使いが告げたことを伝えたに違いありません。そして二人は、御使いが告げたことを信じたのです。

まもなく、妻エリサベツはみごもりました。イエス様をみごもったマリアの様に聖霊によって身籠もったわけではありませんから、ザカリヤとの間にできた子どもです。24,25節にあるとおりエリサベツは本当に喜び、それまで感じていた恥が取り除かれたことを感謝しました。

そして、長い間不妊のまま高齢になった二人に子どもが与えられたことは、二人の喜びで終わらず、すぐにこのこと自体が神の奇跡のしるしとして後に続くマリアに対するしるしとして用いられます。マリアが自分の身に起こると告げられたことを信じて良いか迷っているとき、御使いは36節でエリサベツの例を挙げて、神にとって不可能なことはないと語り、マリアは神のお告げを受け入れたのです。

適用:良い知らせを聞いたなら

アドベントということでクリスマスを待ち望むことにまつわる聖書箇所の一つ、ゼカリヤとエリサベツに男の子が与えられるというお告げの場面を見て来ました。

もちろんこれは特別な出来事であって、繰り返されるものではありません。

しかし、ザカリヤもエリサベツもいたって普通の人たちでした。誠実に生きて来ましたが、子どもが与えられなかったことに深く傷付き、恥さえ感じていました。祭司として真面目に仕事をし、神の前に真剣に仕え、祈っていましたが、いざ自分に御使いが表れ、常識を遙かに超えたことを告げられると戸惑い、信じられないという反応を示しました。

しかし、口が利けなくなるというペナルティはあったものの、それもまた神が御力をもって事を為すという印であり、彼らは信じました。その結果、子どもを身籠もりますが、そのことはまた、次の信仰の選択を迫られたマリアにとっての励ましのしるしとなって、神には不可能なことがないことを証ししたのです。

こうした奇跡はクリスマスの出来事の中だから起こったことではありますが、そこに見られる人々への取り扱いは私たちに気づきを与え、励まします。

私たちはザカリヤやエリサベツのような経験はしないでしょう。しかし、私たちもまた別なかたちで「良い知らせ」を聞いたのではないでしょうか。皆さんが福音を聞いた時、どんなメッセージを受け取ったでしょうか。

ある人は「あなたは愛されている」と聞いたでしょう。またある人は「あなたは赦されてる」、「あなたは生きる目的を持っていのちを与えられた」と聞いたかも知れません。あるいは「あなたも人を愛することができる」とか「あなたも赦すことができるようになる」と聞いたかも知れません。また「あなたは新しく生まれ変われる」ということが心に響いたかも知れません。

そして同時に「本当にそんなことがあるのだろうか「どうやってそんなことが可能なのか」という疑う気持ちがあったかも知れません。それでも皆さんは信仰をもって良い知らせを受け取りました。

ここで大事なことは、私たちが信仰をもって良い知らせを受け取ったことが、私たち自身の喜びとなるだけでなく、誰かにとっての励ましになるということです。神様は私を愛してくださるんだ、私も誰かを愛する者になれるんだ、私にも居場所があり、赦すことができるようになるだと、その誰かが、自分にとっての良い知らせを受け取るための励ましになり得るということです。ちょうどザカリヤ夫妻に起こったことがマリアの励ましになったように、私たちの信仰の選択は誰かの救いのための助けとなるのです。エリサベツに起こったことは奇跡ですが、私たちのような者にも神の恵みが注がれ、私たちのようなものの小さな経験が誰かの魂の救いの助けになるとしたら、私はそれこそ奇跡ではないかと思っています。

ここに、なぜクリスチャンが積極的に証しすべきかの理由があります。自分のことを話すとなるとザカリヤのように口が閉じてしまう人もいますが、幸か不幸か私たちの口は決して閉ざされてはいません。私たちの身に起こった良いことをよくよく思い巡らし、誰かの助けになりそうな時には喜んで証しさせていただきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

神様が約束を果たされ、救いのご計画を実現させるために、ザカリヤのもとに御使いが遣わされた出来事をご一緒に読ませていただきました。

私たちの身に起こることがないような出来事ですが、しかし、あなたは私たちにも良い知らせを聞かせてくださいました。驚き、怪しんだこともありますが、それでも私たちはその知らせを信じ、イエス様を受け入れて神様の愛と赦しの恵みを受け取りました。

今日の箇所を通して、私たちの身に起こったことが私の救いや慰めになるだけでなく、誰かのための助けになるのだということに気付かされました。どうか、そのような場面で喜んで証しする者にしてください。あなたが私たちにしてくださった良いことを思い起こし、いつでも語れる者としてください。

主イエス様のお名前によって祈ります。」

2023-11-26 草は枯れ花はしぼんでも

2023年 11月 26日 礼拝 聖書:イザヤ40:1-11

 2020年の10月から、聖書全体を一巻ずつ概観するシリーズを始め、先週ようやくヨハネの黙示録を終えました。終盤で長い中断があったせいもあり、2年掛かったことになります。

一つ一つの書物の中心的な内容をすべて覚えてはいられないかもしれませんが、それでも今までほとんど開いたことのなかった箇所を開いたり、気付かなかったことに気付いたり、全く新しい発見があったという感覚は残っているのではないでしょうか。そしておぼろげながらでも、聖書全体のストーリーとそこに流れる神様の偉大なご計画を感じ取れていたなら、このシリーズをやった意味があったと言えます。

使徒パウロがエペソの長老たちに語ったように、聖書全体を通して明らかにされた神様のご計画は私たちが誰でも学び、理解できるものです。私たちは研究者ではありませんから、細かな点を詳細に学び記憶するより、全体像を掴み、私たちの人生や教会の歩みの助けとなるようにすることです。

そこで今日は、イザヤ40章のみことばを手がかりにこれまで見て来たことを振り返りながら、神様のご計画の大筋を確かめ、そのご計画に結び合わされた私たちの歩み、教会の歩みについて思い巡らすことにしたいと思います。

1.慰めのために

第一に、神様の偉大なご計画は私たちに慰めを与えるものです。

イザヤ書の前半はイスラエルに対する神の裁きについて警告する内容が記され、およそ100年後にそれは現実のものとなりす。アッシリヤ帝とバビロン帝国によって王国が滅ぼされ、捕囚として連れて行かれます。

しかしイザヤ書後半は、滅亡の後に残される希望について語られます。主はその希望を宣言するように、「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。」と語りかけるのです。

思い出していただけるでしょうか。神様の偉大なご計画について最初に示されたのは創世記のアブラハムに対してでした。アブラハムとその子孫に土地を与え、彼らを通して全世界を祝福するという約束のかたちで示されました。

そこには「慰め」という言葉は出て来ませんが、アブラハム、イサク、ヤコブと3代続く族長たち家族を神様がお取り扱いになった時、彼らに慰めがもたらされていたことを見ることができます。

アブラハムと妻サラには子孫が与えられると約束されましたが、ご存じの通りサラは不妊症であり、二人ともすでに高齢でした。しかし、神様はアブラハムとサラの間に男の子を与えました。この、不妊の女性を神様が憐れみ、子どもを宿らせて慰めを与えるという奇跡は、旧約聖書を通して繰り返し表れるパターンです。

アブラハムの息子イサクは両親に可愛がられて育ちましたが、母サラがなくなった時、アブラハムだけでなくイサクも深く悲しみました。イサクの将来を考えたアブラハムはしもべに嫁探しを託し、リベカを見出します。イサクはリベカを妻として迎えることで、母を失った喪失からようやく慰めを得たことが記されています。

イサクの息子ヤコブはエジプト王の前で「不幸な人生だった」と嘆きました。争いの絶えない兄弟たちや愛する息子ヨセフを失った悲しみに心を痛めていましたが、エジプトの地で息子と再会し、家族そろって飢饉の苦しみから救出され、晩年は落ち着いた生活ができました。約束の地からは離れてしまいましたが、いつの日か子孫がその地に帰ることを信じていました。

ヤコブの子孫であるイスラエルがエジプトで長い間奴隷として苦しんだ時、その嘆きと叫びは神様のもとに届き、モーセを通して解放され約束の地を目指す旅へと力強く出発しました。

その後、王国を建国しましたがイザヤの時代には神に背を向けることが多く、その報いとして他国に滅ぼされることが警告されていました。それでも約束を果たされる神様は慰めると改めて約束なさったのです。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている、と。」

主のご計画において、私たちに対する慰めは、単に苦しみや悩みの中にある者への労りや励ましというだけでなく、自らの罪によって招いてしまった苦しみ、痛みを贖い、癒すことが含まれます。マイナスだった人生をプラマイゼロに戻すだけでなく、さらに祝福を与えるものですから「二倍のものを」主からいただくのです。

この慰めのご計画の中にあるとき、完全な形ではなくても、主の慰めを味わうことができ、未来に約束された完全な慰めを思い起こさせてくれるのです。

2.まっすぐな道

第二に、神の偉大なご計画を通して人類は人としてあるべき姿へと回復されていきます。そのことを2~5節では、道がまっすぐにされるという喩えで言い表しています。

この箇所は、イエス様が登場する直前にバプテスマのヨハネが自分のことを問われたと、自己紹介に使った聖句です。約束のキリストをお迎えするために、悔い改めなさいと語るためにイザヤ書のこの箇所が引用されました。

道を真っ直ぐにする、谷が引き上げられ、山や丘が低くされる。曲がったところが真っ直ぐにされ、険しい地は平らになる。こうしたイメージは、曲がった心や生き方が正され、高慢な者は遜らされ、貶められていた者は名誉を回復することを表しています。そのようにして、神のかたちとして造られた人間が本来あるべき姿へと整えられ、回復することが、神の救いのご計画にとって重要な部分です。

貧しかった者が顧みられ、虐げられていた人々が救いに招かれる。逆に高い地位にあった者たちや金持ちたちが御国から拒絶される。こうした図式は福音書の中でよく出て来ました。しかし大事なポイントは立場の逆転ではありません。権力に支配され苦しんでいた民衆が立ちあがって立場が逆転した、というような歴史上の出来事は小説や映画に美しい物語として語られますが、現実にはどの革命も相当に残酷で凄惨な話しが付きまといます。

神様の救いのポイントは、貧しい者も虐げられたり除外されることなく救いに預かることができ、金持ちや権力者たちがひいきされることもなく、立場に関係なく神の前にへりくだる時にその歩む道がまっすぐにされ、あるべき人間性を取り戻せるということです。

人の権力や豊かさは、時が経てばしおれる草や散ってしまう花のようです。実際、イスラエルの王国は神に頼ることをやめたとき、力を失い滅びて行きました。イスラエルを滅ぼしたバビロンもその栄華の極みの中であっという間に次の権力者に取って代わられました。幾らかのお金と力は私たちの暮らし向きを良くし、いろいろな心配ごとや悩みを解決してはくれますが、それを私たちの救い、魂の回復と同一視したとき、私たちもまた草や花のようにやがてしおれてしまうのです。

しかし8節にあるように、「私たちの神のことばは永遠に立」ち続けます。神の偉大なご計画を記した聖書のことばこそが、私たちが頼りにできるものです。

聖書が信頼できる、という確信はキリスト教信仰の要となるものです。ヘブル1:1に「神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られました」と記されているように、神様はおよそ1500年に渡る歴史の中で、様々な人を通して、様々な状況で語られました。またその文体も物語形式、法律文書、歴史書、詩、金言ことわざ集、手紙、黙示文学など様々。用いられた言語もヘブル語とギリシャ語が中心ですが、一部アラム語も用いられます。ユダヤ人もいれば異邦人クリスチャンもいます。

私たちはこの聖書を通して読んできて、そこに一貫した流れがあったことに気付きました。時代が変わっても、変わらない神様のご計画と人の不信仰や不誠実さに拘わらず、約束を果たそうとする神様の強い意志、力強い働きを見て来たのです。

3.私たちの羊飼い

第三に、私たちに慰めをもたらす神の偉大なご計画は、私たちの羊飼いとなってくださる方を通して実現します。

旧約聖書の主なテーマは、神の約束が果たされるために、神ご自身が遣わす王であり、祭司であり、預言者である方、神でありしもべである約束の救い主がおいでになることに焦点が当てられていました。

新約聖書、特に福音書では、約束された方が歴史上、実在する方としておいでになり、神が約束の地として示した土地で生活し、神の約束が成就し神の国として実現したことを様々な奇跡や教えを通して記し、何よりも生涯の終わりに十字架につけられて死に、三日目に復活することで贖いが成し遂げられたことを明らかにします。

そして使徒の働きとそれに結びつけられる手紙を通して、約束された方が天に帰られた後も生きておられ、教会を通して神の救いの御わざが続いて居ること、やがてもう一度救い主が、今度は王として帰って来られることを指し示し続けます。

そうした中で約束された方を表す一貫したイメージが王であり、また羊飼いであるということです。

このイザヤ書でも、主ご自身が力を持って来られ、治める方として、また羊飼いとして、その群であるご自身の民を引き寄せ、懐に抱き、優しく導くことが宣言されており、その良い知らせを声を上げて知らせよと呼びかけています。

イエス様が約束された方としてお生まれになり、人々の前に現れた時、多くの人々は救い主を力で自由と尊厳を回復してくれる力強い王を期待していました。ですから、そういう意味でのユダヤ人の王であることは否定しましたし、そのような期待に応えるつもりはありませんでした。ただし喩えの中ではしばしば王や主人といった喩えを用いています。しかし、それ以上にイエス様が何度も用いたイメージは羊飼いです。たとえ話として語ることもありましたし、私たちはイエス様の弟子たちや人々に対する接し方、振る舞いの中に良き羊飼いとしてのモデルを見ることができます。

新約聖書の他の手紙では、やはりイエス様を王として、また羊飼いとして描き、その権威のもとに、その守りの御手の中に留まり、励まされながら歩むようにと勧めています。

神の偉大なご計画を実現するためにおいでになる方が羊飼いとして描かれるのは、聖書の舞台となった中近東の文化と土壌が背景にあるのは間違いありません。羊飼いと彼らが世話する羊の群の関係性が、確かに神と民との関係性をよく表していました。羊飼いと羊の群の関係性は、民を導く者として神から務めを委ねられた王と国民の関係にも当てはめられましたし、新約時代には教会のリーダーたちとクリスチャンの関係に当てはめられました。牧師の「牧」は羊飼いを表し、ギリシャ語では文字通り羊飼いを意味する言葉が用いられています。そしてヘブル13:2では、羊飼いの羊飼い、という意味で、「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエス」という称号が捧げられています。

私たちの牧者としてお来られたイエス様は、贖いのための犠牲の小羊になっただけでなく、引き続き永遠の契約の血による大牧者として私たちが神のかたちとして完全に回復され、真に慰められるまで私たちを守り、導いてくださると聖書全体が語っているのです。

適用:変わらぬみことばに

聖書全体を貫いている神の偉大なご計画は、私たちとこの世界に慰めをもたらすものです。その慰めは私たちを神のかたちとしてあるべき姿へと回復し造り変えることによってであり、その約束は永遠に変わることがありません。そしてこの偉大なご計画は羊飼いとしておいでくださった、そしてやがて再びおいでくださるイエス・キリストを通してなされるものです。

私たちがキリスト教に関心を持ったり、聖書を読み始めたとき、学びはじめたときには様々な動機があったことと思います。

ある人は人生の目的が分からずに悩んでいました。ある人はどうしてこんなにも苦難が続くのだろうかと救いを求め、ある人はたまたま誘われて来た教会の交わりの温かさに憧れました。ある人は子どもの頃から聴かされていた聖書のお話を自分のこととして考える何かのきっかけがあり、ある人は自分がいやで変わりたいと願いました。またある人は自分の居場所を探していました。別なひとはお付き合いしていた人がクリスチャンだから関心を持ちました。

動機は何であれ、真剣なものですし、どれが正しくどれが間違っているということはありません。私たち人間は誰でも、神のかたちとして造られたのに、そのあるべき姿から離れてしまい、真っ直ぐな道を見失い、直ぐに枯れたりしおれたりする草花のようなものに答えがないかと探しているような者でした。

しかし、神様は不思議な導きによって私たちを聖書に出会わせ、大牧者であるイエス様に出会わせてくださいました。そのことによって、私たちは自分の人生が、今までとはまったく違う物語として見えるようになりました。

私はたまたまクリスチャンの両親のもとに生まれ、近所の友だちや同級生とは違った家庭環境や習慣があり、そのことでたまにからかわれたり、寂しい思いをしたのを隠して、教会では良い子でいる、少しひねくれたところのある青年として育っただけの者ではありませんでした。神様の偉大なご計画のもとで、羊飼いなるイエス様の贖いにより、欠けはたくさんあるけれど、私も神のかたちとしてあるべき姿へと回復され、造り変えられる途中にあることを知り、いろいろな人との出会いや聖書のことば、出来事を通して慰めをいただきながら、やがて与えられる完全な慰めを待ち望んで、希望を持って生きられる者だということを知りました。不完全であることを恥じることはないし、いろいろなコンプレックスを持っている者でもあることを否定しないで認めて、そのままで生きて良いことを教えられました。

教会の中にさえ入り込んでいる人間の作り上げた伝統や歴史、習慣、価値観に生き方を縛られるのではなく、神様の永遠に変わらないみことばによって示しておられる原則に頼って生きるとき、自由でいられることを知り、慰めと平安が与えられました。

たとえ、人生の中に困難があり、周りの人の無理解や悪意に傷付いたり困ることがあっても、私の牧者である方が私の味方でいて下さいます。地上において解決が与えられなくても、主が再びおいでになる時に望みを置くことができます。

このような新しい物語の中に私自身を置いて、草や花のように移り変わるものではなく、永遠にかわらない神のことばに根ざして一歩ずつ歩んでいきたいと心から願います。

祈り

「天の父なる神様。

聖書全体を貫いて表されているあなたの偉大なご計画が、私たちに慰めをもたらすものであることをありがとうございます。ただ気持ちに寄り添ってくださるだけでなく、私たちを新しく造り変え、神のかたちとしての在るべき姿に回復させようと、大牧者なるイエス様を与えてくださり、ありがとうございます。

どうか、この救いに招き入れられた者として、あなたの変わらないみことばに信頼し、根ざして歩むことができますように。移ろい易いこの世のものではなく、変わらないあなたの約束とイエス様の真実さに信頼させてください。

イエス・キリストのお名前によって祈ります。」

2023-11-19 すべてが新しく

2023年 11月 19日 礼拝 聖書:黙示録21:1-8

 物語には終わりがあります。感動的な終わり方をする物語もあれば、もやもやした感じが残る物語もあります。

ゲームやスポーツにも始まりがあれば試合終了やゲームクリアがあります。アンコールが繰り返されるくらい盛り上がったコンサートやライブだっていつかは終わりが来ます。

そして何かを計画したら、その計画が完了する時に何を得たいか、というゴールが必ずあります。ゴールがなければそれは計画ではありません。

有名なエレミヤ29:11には「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」とあり、神様が明確なご計画を持っておられることを明らかにしています。

そして使徒パウロもエペソ教会の長老たちを集めて別れのスピーチをしたときに言いました。「私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。」神様のご計画は学び理解することができるものです。

今日は黙示録の最後の部分、17~22章を見ていきます。ここも様々な象徴的な幻にあふれていますが、神様の聖書全体を貫くご計画のゴールを表していると考えられます。

1.獣の国の滅亡

17~19章前半には、「大淫婦」とも呼ばれる「バビロン」が滅ぼされることが書かれています。そして「大淫婦」が乗り回す7つの頭と十本の角を持った恐ろしい獣も登場します。

バビロンという国はとっくの昔に滅びています。7つの頭というと、八岐大蛇やキングギドラを思い起こしてしまうのですが、そのような怪獣が世の終わりに登場するということでもありません。ゴジラや怪獣の世界はあくまでテレビや映画の中のファンタジーです。しかし、これらの幻がには明確な意味があります。

旧約時代に軍事力と経済力を誇って神に対して高慢になり、周りの国々を力で支配した帝国に由来する「バビロン」という名前は、歴史上登場する似たような国々、人々の象徴です。そしてヨハネの黙示録を受け取った最初のクリスチャンたちは、黙示録が描くバビロンがローマ帝国とそっくりなことにすぐ気付いたはずです。

その特徴は17:4にあるように経済的な力を誇り、道徳的には堕落しています。さらに5~6節を見ると、大バビロンという名前であり、地上のあらゆる忌まわしいものの源であることが記されています。その振る舞いは「聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っている」というのです。

これは歴史上に現れる特定の女性を指しているのではなく、力と繁栄によって欲しいままに振る舞い、邪魔なものは力で排除する傲慢で神に対しても反抗的な人間たちの象徴です。権力者たちだけでなく、その守護のもとで金儲けをしたり欲望のままに生きる人々をもこの大バビロンは支配しています。

ローマは共和制から皇帝をトップとする帝国に変貌を遂げてからヨーロッパ世界を支配し、「パクスロマーナ」と呼ばれる平和と繁栄をもたらしました。今でも帝国時代のローマを理想的な国家像とする人たちはいます。しかし、ローマの平和と繁栄は少数民族や敵を力で支配し、都合の悪い者、例えばクリスチャンを迫害することで成り立っているものでした。

これはローマだけでなく、世界を見渡せば、歴史上いくつもそうした国々が出て来たことが分かりますし、現代も同じです。

大淫婦が乗る頭が何個もあって次々と襲いかかってくる獣の幻が出てきますが、これはローマだけでなく歴史上起こっては滅び、消えたかと思えば何度も姿を変えて登場する、バビロンの性質を持った国々を表しています。古代の大帝国や独裁国家だけでなく民主主義の国であろうと社会主義の国だろうと関係なく、力と繁栄を誇る国は起こります。

国のあり方が正義や寛容さを失い、軍事力や経済力に頼りはじめると「獣化する」と言うことがありますが、日本もそうした歴史があります。明治時代以降、西洋の列強に負けないようにと軍事力と近代化を進め経済的に力をつけた日本は、やがて東洋の盟主として君臨する野望を抱き、アジアを欧米の支配から解放するという理想を掲げますが、その計画は軍事力と経済力による支配でした。発展を遂げた日本はあっという間に獣化してしまったと言えます。

19章では、この消えては現れる大バビロンに対して最終的な裁きが下されることを、旧約の預言書で用いられる様々なイメージを用いて描いています。自分たちの軍事力や繁栄を誇り神とするような者たちはやがて滅びるのです。

2.最後の戦い

黙示録や聖書が示すのは、主イエス様が再びおいでになるとき、力と富を神とする大バビロンに代えて、ご自身の王国を建て、正義と平和をもたらすということなのですが、どのようにしてでしょうか。黙示録19~20章でそのことが描かれています。

幻の中で繰り返されてきた最後の審判は、雷鳴、地震、炎といったイメージでしたが、ここでは「最後の戦い」として描かれます。

19:11に白い馬に乗った方が戦うために天から来られます。イエス様を表すこの幻には大きな特徴があります。13節にあるように、最後の戦いが始まる前にすでにその衣が血に染まっているのです。ピンと来た方もおられると思いますが、衣を染める血は、イエス様が十字架で流された血を表しています。イエス様がご自分の御国の王であり、力と富を神とし不正と欲望の限りを尽くす世界に裁きを下す権威を持っておられるのは、罪の贖いを成し遂げた方だからです。

イエス様がこの世界のために十字架に掛かられたのは、天地創造の時に良いものとして造られたこの世界が暴力と罪で汚されたためで、この世界とそこに生きる人々を贖い、再び良いものとして立たせようと十字架で血を流されたのです。それなのに、あくまでそれを拒み、この世界に悪をもたらし続ける人々の責任が問われるのです。そして、イエス様は彼ら自身がこの世界にもたらした地獄を彼ら自身に返すのです。

そして20:1-7では御使いが登場し、人間を欺き、誘惑してきた悪魔を捉え千年の間封印するという幻が現れます。悪魔が封印された後、イエス様に従って殉教した人々が生き返って王としてキリストとともに世界を治めるというのです。これは「千年王国」と呼ばれています。

この千年王国についてはいくつか解釈の幅があります。ある人たちは文字通り千年続く王国でその統治をかつて殉教したク人々に委ねられると考えます。しかし他の人たちは象徴的な表現であって、イエス様が私はすでに勝利した、天の御国はあなたがたのただ中にあると言われたように、イエス様の復活から現在に至るまでの勝利を象徴していると考えます。

いずれにしても重要なポイントは力と富を神とあがめる悪の世界に対して再びおいでになるイエス様が勝利されるということです。

その後、8節から15節では解き放たれた悪魔が再び諸国を惑わし、イエス様に対して最後の戦いを挑みます。聖徒たちと都を包囲しいよいよ襲いかかろうかと言うところで天から火が下り、彼らは焼き尽くされてしまいます。悪魔も獣も、惑わす偽預言者も火と硫黄に投げ込まれ、さらには20:11以下で、全ての人々が生きている者も死んだ者も天の御座の前で開かれる書物に従って裁かれる場面へと続きます。いわゆる最後の審判と呼ばれる場面です。

しかしここである人たちは反論します。極悪非道なことをした犯罪者と人の悪口を言った程度の人も同じ罰を受けるのはつり合わないんじゃないか。けれどもここで裁きを受けている人たちを見ると、そもそも神とともにあることを望まなかった人たちです。彼らが受ける報いは罪の種類や大きさというより、彼らが望んだとおりに神から永遠に引き離されるという結果を招くのだというふうに言うことができます。

3.新しい天と地

黙示録の最後の部分は21~22章です。ここがいわゆる「天国」についての幻が続く箇所になります。

しかし、読み進めて行くと、この箇所は私たちがやがて住まう天国についての詳細な見取り図のようなものではなく、天地創造の後に起こった人間の堕落によって引き起こされた世界の痛みを回復する神様の壮大なご計画の結末を描いているのだということが分かります。

もっとも大切な宣言は21:5です。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」

もちろん3~4節に書かれているように、この世にあって労苦し、時には迫害によって命を失うような目にさえ会った神の民に対して、すべてが報われ、慰められ、涙が拭い取られる日ではあります。しかしそれ以上の日であることが黙示録には記されています。

21:1には「新しい天と新しい地」、2節には「新しいエルサレム」そして22:1~2を見ると「いのちの水の川」、「いのちの木」とあります。エデンの園という言葉自体は出て来ませんが、新しいエデンの園として描かれていることが分かります。

これらは旧約聖書の中で神様がお造りになり、祝福し、ご臨在されるところとしてお選びになった場所を代表しています。遠く隔てられ天におられた神様がおいでくださり、新しくされた世界をまるで花嫁として迎えるように喜び迎え、愛し、慈しみ、祝福されるのです。そしてせっかく造られた世界が人間の罪によって汚され破壊がもたらしてしまったところを回復し、神の名が置かれた都として選ばれたエルサレムなのに神に背を向け数々の非道な行いが積み重ねられついに滅びたエルサレムが回復され、罪を犯した人間から遠ざけられたエデンの園が回復されるのです。

それらは単に昔の姿に戻るというのではなく、本来神様が目指したもっと素晴らしい姿に新しくされます。

そして人間もです。天地創造の時に神のかたちとして造られた人間にこの世界を治めるようにと務めを与えられたのに、罪故に失敗し、逆に呪いを招いてしまいました。小羊であるイエス様によって贖われた人々は、神のかたちとして地を治める務めを再び果たすようになることが21:24以下の都の統治や諸国に恵みをもたらすことによって果たして行く姿が描かれます。

細かな点について考えるとまだまだ謎なことはあります。例えば新しい都にはいのちの書に記された人しか入れないとありますが、都の外にいる諸国の民とはどういう人たちなのでしょう。恐らく多くのことは実際にイエス様が再びおいでになって、この壮大なご計画の結末を見てみなければ分からないでしょう。

しかしヨハネに託されたいくつもの幻が、ローマ帝国による迫害という現実の試練に直面していた初代教会と、後の時代の私たちに伝えようとしている中心的なメッセージは明確です。

ヨハネの幻は歴史の中で繰り返されるパターンとそれに対する神の約束を対比しています。人間の罪深さは、どの時代でもバビロンのようになり、国々は獣のようになってしまうけれど、イエス様を信じる人々は神がやがて世界から悪を取り除いて新しくしてくださる約束を信じて立ち向かい、流されないよう心を定めなさい、ということです。

適用:希望を持って

自分たちが生きている時代を評価するのはなかなか難しいことです。初代教会が迫害に直面し、自分たちのいのちが掛かっているのに、再臨を約束されたイエス様はなかなか帰って来てくださらないように見え、この状況をどう理解して良いか分からないということがあったでしょう。問題はそれだけでなく、偽教師が入り込んで来たり、教会の交わりが表面的になったり、世の中の様々な誘惑にさらされて信仰の道から離れる人がいたりと、心を悩ますことはいくらでもありました。

その点では私たちも同じではないでしょうか。イエス様の再臨はそんなにすぐではない、ということは初代教会の人たちよりは分かっているかも知れません。しかし、私たちが生きる世界には良い面以上に堕落し、悪意があり、不公平で正義が失われているように見え、多くの世界でクリスチャンたちが迫害されてもいます。私たちはいのちの危険があるような迫害ではないにしろ信仰故につらい目に会うことや嫌がらせを受けることはあり得ます。聖書が示す正しさを追い求めて疲れたり、徒労感を覚えることだってあります。

しかしヨハネの黙示録のメッセージを通して、初代教会のクリスチャンたちは自分たちが経験している試練が決して自分たちだけが味わったものではないことを理解しましたし、いつまでも続くわけではないことも分かりました。そしてイエス様が再びおいでになって、全てを新たにし聖書全体を貫いている神様の救いのご計画がゴールを迎えるという確信を得ることができました。

それは、神のご計画の全体像を通して現実の世界を見る知恵が与えられたということだけではありません。彼らが個人的な経験として、また教会の経験として、イエス様が帰ってくるのをいたずらに先延ばしにしているわけではないこと。何よりも、自分たちのことをちゃんと覚えていてくださって、おいでになったときには「よくやった良いしもべよ」と一人ひとりに語りかけ、ねぎらい、涙を拭い、傷を癒してくださるという希望を得たのです。

イエス様は22:12でこう言われます「見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

すぐに手に入るような利益や得になることがあるからではなく、イエス様にある希望があるから、すべてが新しくされる日にすべてが報われることを信じるから、私たちに委ねられた人生を望みを持って誠実に生きて生きましょう。そのような生き方を選ぶ者となりましょう。

アルファでありオメガ、最初であり最後であるイエス様はすべての全てであり、すべてを見通し、始めた事を必ず完成してくださる方です。ですからイエス様は今の世界の有り様をしっかりと見定めておられるだけでなく、私たちのこともイエス様から決して忘れられてはいませんし、これまでの労苦も、今直面している悩みも、今後味わう試練や苦難もちゃんと心に留めていてくださいます。

17節で「来てください」と言うようにと勧められています。イエス様が再びおいでになることを私たちの望みとして告白し続けましょう。求める者には渇きをいやすいのちの水を惜しげもなく与えてくださる聖霊が私たちとともにおられます。

祈り

「天の父なる神様。

私たちは大変な時代に生かされていると感じることがありますが、歴史上の多くの主にある人々も同じように、また明らかにさらに過酷な時代を生き、その中で戦い、信仰を全うして来たことを思う時、黙示録に示されている知恵と希望をしっかりと持つことがどれほど大事かと教えられます。

どうか、歴史上繰り返されて来たパターンを越えて、主がおいでになって全てを新しくし、回復してくださるという希望を確かなものとして持つ事ができるように励まし、強めてください。イエス様が私たちのことを覚えていてくださることに希望を持ち、恐れではなく平安を持ち、傲慢さや怒りではなく愛と喜びをもって歩むことができますように。

やがておいでくださるイエス・キリストの御名によって祈ります。」

2023-11-5 あなたとともにいるから

2023年 11月 5日 礼拝 聖書:イザヤ41:8-13

 誰かが傍らにいてくれることは、私たちにとって愛を感じ、信頼や希望が持てるということでもあります。

今日は入院中に気付かされたことをみことばとともに思い巡らす、いちおう最後の回にしたいと思いますが、ちょうと今年度の主題聖句にも通じる内容になるのではないかと思います。

意識が回復してからの入院生活で何よりの楽しみはリハビリの時間でした。はじめはベッドの脇に立つだけで精一杯だったのが少しずつ回復して自力で歩けるようになり、その距離も伸びていくという楽しさもありましたが、何より嬉しかったのは、リハビリのために来てくださる理学療法士の方々の存在です。もちろん、看護師の皆さんや看護助手、検査技師、清掃スタッフと様々な方々が病室を訪れ、簡単な挨拶をしたり、ちょっとした世間話をしたりするのですが、リハビリの時間はもう少しまとまった時間、そばにいてくださってその日の目標のために励まし、助けてくれます。必要以上に世話を焼くことはありませんが、安全のためにいつも手の届く距離にいて、こちらのペースに合わせて一緒に歩き、今日はもうちょっと頑張ってみましょうかとか、少し休憩しましょうかとか、適宜声を掛けてくれるのです。

その体験は、傷付いたり弱ったりしている魂の回復のために助けになるとはどういうことかについて考えさせられるものでした。

1.助け合う人々とは

今日開いているイザヤ書を通して、神様がわたしたちとともにいてくださる、ということについて考えた上で、私たちが誰かのために共にいる、ということを考えていきたいと思っています。

しかしその前に、6節と7節に注目しましょう。

助け合い、励まし合っている様子は一見、良い情景のように見えますが、実はこの場面は主に背を向ける人々が偶像を造るために頑張っている姿を描いています。鋳物師、金細工人、金槌で打つ者、鉄床をたたく者はそれぞれ青銅や金を用いて偶像を立派に造るための職人たちです。そうやって職人の手で造り出された偶像は、真剣な仕事であったかもしれませんが、釘で打ち付けて床に固定されたもの、やはりいのちも力もないものでした。

なぜ彼らがそんなふうに頑張って偶像をこしらえているかというよ、41章の始めから語られているように、主が来られるからです。主は人々に救いをもたらすためにおいでになり、招いてくださるのですが、それを望まない人々にとっては敗北の時であり、恐ろしい時として映るのです。そのため、彼らは自分たちが拠り頼む神々をますます立派に造ろうとしているのです。

今日も様々な理由、動機で、聖書的な視点からすると偶像にあたるものをつくる人々がいます。美術や文化の表現として仏像を彫る人はプロだけでなく、一般の人もいます。そこには信仰心が含まれることも多いです。また、お祭りのための御神輿や山車を地域の共同体として造ることも多いと思います。

そうしたことを馬鹿にする気持ちはありませんし、真剣さや関わる人たちの一体感も本物だと思います。日常の辛さから一時でも解き放たれるという意味で救いと感じることも分かるような気がします。

しかしながら、それが本当に救いになるのか。人が抱えている罪と死から解放されるのか、そしてこの世界の創造主の前で問われた時に立ち仰せるのか、というと、やはり違うのだと言わざるを得ません。

病気を治す治療法を持っている医者に背を向けて、自分たちで頑張るからと患者同士が励まし合っているようなもので、その励まし合いは美しいものだとしても問題の解決にはならないのです。

入院生活の終わり頃、隣のベッドにいた方は退院後に松葉杖が必要でした。リハビリの先生から「勝手に調整したり歩いたりしないで、私がちゃんと調整して、それから歩き方の指導を受けてからにしてください」と念を押されたのに、松葉杖を受け取ったその日のうちに、自己流で使い始めていました。何とか転倒や怪我をすることはありませんでしたが、とても危なっかしく、また無駄な力を使うので必要以上に疲れたようです。幸い、翌日ちゃんと指導を受けて無理なことをしないで歩けるようになり退院していきました。

本当に救いをもたらすことのできる方に頼らず、自力ですることの問題は、愚かさというより危うさなのかも知れません。その努力がどれほど本気で、チームワークや技術が美しいものだとしても、一時与えられる解放感やエキサイトした気分を救いと勘違いしてしまうことが何より怖いのです。それは文字通りの偶像をつくることだけでなく、スポーツや音楽のライブ、仕事、その他どんなものにも偶像となり得る危険は潜んでいます。

2.主がわたしを助ける

人々が頼る偶像と対照的に、イザヤの預言は、主が私たちを助けるのだと告げます。私たちを助けること、救うことができるのは、主だけだというのが預言者イザヤ、聖書の主張です。

8節「だがイスラエルよ、あなたはわたしのしもべ。わたしが選んだヤコブよ、あなたは、わたしの友アブラハムの裔だ。」

主の救いはアブラハムへの約束に基づいています。「イスラエルよ」とありますが、もちろんこの救いはイスラエル民族だけのものではなく、イエス様を信じる信仰によって神の子どもとされ、神の民に加えられ、アブラハムの子孫と見なされたあらゆる民族のクリスチャンを含むものです。それは9節にも見られるようにイザヤの預言を通しても示されてはいましたが、まだはっきりと理解されてはいませんでした。それでも、この預言を受け取った人たちに理解できたことは、自分たちの祖先であるアブラハムに神様が約束されたことが今も有効で、その約束に基づいて自分たちを救ってくださると主が語ってくださったことです。

私たち人間はどこかで、私たち人間の信心深さ、信仰深さ、確信の強さによって救いが左右されるような理解をしているところがあります。それはある意味やむを得ないかも知れません。人間同士、この社会は信頼関係に成り立っていて、約束があっても相手が信頼を裏切り約束を破れば、もはや約束は終わりです。どんな契約にも片方が約束を破った場合は無効になるとか、違約金が発生するといったことが書かれています。相手が約束やぶってもこちらは守り続けるなんて損なことはしないのが普通です。

そういう感覚があるからなのか、私たちが神への信頼、信仰、確信が揺らぐと神の救いや祝福から外れてしまうのではないか、得られる恵みが減ってしまうのではないかと考えがちです。

しかし、預言者が私たちに告げているのは、私たちの救いは神様ご自身が約束したことに基づくというのです。

実際、イザヤが活躍した時代、アブラハムの子孫であるイスラエル民族は二つに分かれ、北王国は神に背を向けてもう長い時間が経っていましたし、その報いとして滅亡の危機にありました。南王国も度々、神に背を向け北王国と同じ運命を辿ろうとしていたのです。歴史の中で味わった敗北や侵略を受けるといった経験も、神が見捨てたということではなく、懲らしめ、悔い改めを促すためのものでした。ですから、そんなイスラエルの民に対して「わたしはあなたを選んで、退けなかった」というのです。

私たちが不忠実で不真実だったとしても、主は変わらずに真実で、約束を守られるというのは聖書全体を通して繰り返されていることです。たとえば第二テモテ2:13「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」、ヘブル10:23「約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。」、第一ヨハネ1:9「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」

いずれも、私たちは失敗し、動揺し、罪を犯すこともあることが当たり前のこととして、それでも主は真実だから恐れるのではなく、諦めるのでもなく、信頼し続けようと励ましています。

3.ともにおられる主

そんな私たちに対して約束に忠実でいてくださる主がどのように私たちと関わり、救いをもたらしてくださるのかというと、「ともにいることによって」です。

イザヤ41:10で主は預言者を通してこう語りかけています。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」

有名な聖句の一つだと思いますし、聖書中の様々な登場人物が重要な場面で聞かされてきた言葉でもあります。そして多くのクリスチャンが個人的な主からの励ましとして聞いて来ました。

しかしここで一つ理解しておくべきことがあります。イザヤを一とする預言者たちが告げたことは、イスラエルの南北それぞれの王国は一度その背信の罪ゆえに捨てられる、厳しい裁きが待っているということです。それでもなお、主は約束されたことに忠実だとはどういうことでしょうか。一方で捨てると言っておきながら、こちらでは決して見捨てないとはどういうことでしょうか。

神様の約束には永遠の視点と今この時の視点があります。永遠の視点では、確かに神様は約束されたことを守り私たちを救い祝福を注いでくださいます。しかし、短い人生の中では罪の結果を自ら刈り取らなければならないことがあります。気づきを与えるために苦難に直面することを神様が許されることもあり、反抗的なときに手を離されることがあるかもしれません。しかしそれは一時的な事です。やはり神様はともに居続けてくださるのです。

入院中に、隣りの部屋でリハビリを嫌がっている患者さんがいました。リハビリの先生は一生懸命励まし、これをやらないと家に帰られないんですよ、がんばりましょうと言うのですが、何としてもやりたがらず、しまいに怒りだしてしまう始末です。リハビリの先生もついに折れて「それじゃ、今日はここまでにしましょうね。また明日来ますね」と言ってその場を離れたようでした。しかし一時的に手放していますが見捨てたわけではないですね。患者を歩けるようにして返すというミッションを捨ててはいないはずなのです。

アブラハムの子孫であったイスラエルの民には約束の地を受け継ぎ、彼らを通して世界が祝福されるという約束がありました。神様はイエス・キリストを通して救いを誰でも求める者に与え、どんな人でも人種や身分に拘わらず神の民とすることでその約束を果たしてくださいました。しかし、民族としてのイスラエルへの約束も消えたわけではありません。

いま、その聖地で行われている戦争はどちらにも正義があり、それ以上にどちらにも罪深い行いがあります。多くのクリスチャンのイスラエル側の肩を持ちたくなる心情も分からなくはありませんが、それが神の約束を実現する正しい道とは私には思えません。戦争に勝ったとしても、世界に祝福より憎しみをまき散らすのではないかと恐れます。その結果を現代のイスラエルの民が引き受けなければならないかも知れません。

だとしても、いつの日か、どのようなかたちなのかは分かりませんが、イスラエルの民が主のもとに帰るようにしてくださるでしょう。主が誓われた約束に対して主は常に真実です。その真実さは私たちにも向けられています。

適用:ともにある人となる

以前も、信仰生活はリハビリのようなものだと言ったことがありますが、ますますその通りだなあと思わされています。私たちはそれぞれに神のかたちとして回復されていくべき課題があり、主は片時も離れず私たちとともにおられ、励まし、導き、力を与えてくださるのです。

ですから今日の箇所の結論として10節と13節で繰り返されているように「恐れるな」と言われるのです。この「恐れるな」の第一義的な意味は、当時敵に囲まれていたイスラエルや、これから起こることとして告げられていた苦難の時代に、迫り来る敵や苦難を恐れることはない、ということです。しかし同時に、現代の私たちや将来のクリスチャンも含めた神様の救いのご計画の中にある者たちへのメッセージとして、人生の中で迫り来る苦難があっても恐れることはない、あるいは自分たちの不誠実さや不忠実さゆえに神の約束からこぼれ落ちてしまうことを恐れなくて良い、という慰めのメッセージでもあります。

では、神がご自身の約束に基づいて私たちとともにおられ、助けてくださるから恐れなくて良い、という慰めを受け取った私たちは、どのように生きるべきなのでしょうか。

安心して生きていられればそれで良いということなのでしょうか。大きく傷付いた状態から回復したばかりなら無理せずゆっくり過ごす必要もあります。でも、力を取り戻したらやはり、アブラハムの子孫を通してこの世界を祝福するというご計画に召された者として、神様の祝福を周りの人たちに届ける者となることが良いのではないでしょうか。

新約聖書の中でも、慰めを受けたなら慰める者になりなさい、赦されたのだから赦す者になりなさい、神との和解を受け取ったのだから和解の使者となりなさい、と受け取った恵みを周りの人と共有することを教えられています。主がわたしたちとともにいてくださってもう恐れることはないのだから、私たちも誰かとともにいる者になるということではないでしょうか。

先週、仙台のある教会の若い牧師が狭心症で倒れました。私がなった心筋梗塞の一歩手前の症状です。幸い大ごとにはなりませんでしたが、今月中にはもう一度カテーテル手術が必要とのことで心配されます。先生と奥様の話を聞くと、少し前にあった婦人同労者会で妻が話したことや私の症状についての説明を思い出して病院に駆け込むことができたということでした。それでも不安や落ち込みの中にあるようだということで、先生に直接電話をしてお気持ちを聞きました。似たような病気であることもあって、お互い共感することがあり、いくらか力になれたようです。

私たちには神様と違って病を癒す力はないし、敵を退ける力もありません。しかし、同じ痛みや弱さを知ることができますし、かたわらにいることで励まされ、慰められることがあることも知っています。

こちらの善意や考え、やり方を押しつけるのは身勝手ですし、助けになっているという感覚に満足を覚えるためにするならただの自己満足です。しかし共感し、相手の迷いや決意をそのまま受け止めて支えることは大きな助けになるはずです。リハビリの先生がすぐに手を差し伸べる距離で一緒に歩き、患者自身が歩けるよう励ますように、お互いにクリスチャン生活というリハビリの歩みをする者として、ともにいるようになりたいと思わされます。主が、まず私たちにそうしてくださったからです。

そうして励まし合い、支え合いながら歩む私たちを、やがて主はともに完全に回復させ、受け取るべき天の祝福、健やかさ、栄誉を受け継がせてくださいます。

祈り

「天の父なる神様。

今日は、私たちのただお一人の救いである主が、私たちのこの地上での歩みの間、どのような時もともにいてくださることを改めて学びました。主がともにいてくださるので、私たちは救いの確かさについて不安になる必要はないし、差し迫る苦難の時にも恐れることはないと励まされています。

そのような励ましと慰めを受けた者として、誰かとともにいる者とさせてください。そうして、私たちがともに歩み続け、やがての日には豊かな恵みと祝福に与れますように。

主イエス様のお名前によって祈ります。」

2023-10-24 世代を超えて

2023年 10月 24日 礼拝 聖書:創世記50:15-21

 入院中に気付かされ、考えさせられたことをみことばとともに思い巡らすシリーズも今日と再来週で終わりにしたいと思います。他にも様々な気づきがあったのですが、また何かの折りに触れるくらいにしたいと思います。

今日は世代を超えた課題に取り組むことについてお話しします。続きを読む →

2023-10-08 教会への恵みのしるし

2023年 10月 8日 礼拝 聖書:使徒の働き12:4-17

 今日、こうして再び講壇に立つことができることをとても嬉しく思います。ここに至るまで、多くの祈りが捧げられたことや教会同士の交わりの中で教会が支えられたことに感謝で一杯です。

多くの方々が、この回復を奇跡だと言ってくださいました。主の真実さや主のみわざを見ることができたと喜んでくださいました。おそらく、8月15日の朝、倒れて1週間意識がなかった私より、皆さんのほうがずっとそのように実感しておられるのだと思います。私は、そうした声や言葉を聞きながら、「そうなんだなあ」と後追いするように確認するのが精一杯でした。続きを読む →

War is over?

みなさん、おはようございます。
今日はは「日本にとっての」終戦の日です。日本がアジア諸国に手を伸ばし、さらにはハワイの真珠湾に奇襲攻撃をしかけて始まった太平洋戦争に敗れて「終わった」日ですが、アメリカにとっての戦勝記念日は9月2日ですし、ロシア(当時はソ連)にとっては9月3日です。8月15日は玉音放送が流れた日ですが、9月2日は戦艦ミズーリの艦上で降伏文書に調印した日です。その調印式が行われている日に後出しジャンケンのように北方領土に進出したソ連はつじつまを合わせるように9月3日を戦勝記念日にしてしまいました。
戦争がいつ終わったかなんて、政治的な理由で結構都合良く書き換えられるものです。むしろ戦争で父親や夫が帰ってこなかった人にとっては何十年経っても「戦争は終わっていない」という感じがするのかもしれません。銃を置くとき、組織的な戦闘は終わりますが、平和になったとは言えるか微妙です。むしろ別な戦いが始まるのが世の常です。それでも失望せずに平和の君である主が真に平和をもたらしてくださるのを待ち望みましょう。

“主は国々の間をさばき、
多くの民族に判決を下す。
彼らはその剣を鋤に、
その槍を鎌に打ち直す。
国は国に向かって剣を上げず、
もう戦うことを学ばない。” イザヤ 2:4

昨日は岩橋洋子さんの誕生日でした。遅ればせながら祝福を祈ります。

佐々木真輝

2023-08-13 苦難の中にある教会へ

2023年 8月 13日 礼拝 聖書:黙示録1:1-11

 今日から3回に分けて黙示録を取り上げます。およそ2年半前にはじめた、創世記から順番に一書ずつ概観するシリーズの最後は、当然黙示録ということになります。

しかし、黙示録ほど解釈が分かれ、時には興味本位で好き勝手にいじられてきた書巻はないかもしれません。一般的に、この世の終わりについて、しかも破滅的な世界の終末が書かれていると理解されている黙示録は、誤解もされやすく、また難解で、読んで恵まれるという感じを受けにくい書物です。続きを読む →