2024年 12月 1日 礼拝 聖書:マタイ21:1-11
今日からクリスマスまでの4週間、クリスマスを待ち望むアドベントの期間になります。先週、掃除の後でクリスマスの飾り付けもして、ちょっとずつ、クリスマスモードになって来ました。
言うまでもなく、クリスマスはイエス・キリストのお生まれを祝う時なわけですが、新約時代の教会にはそういう習慣はありませんでした。続きを読む →
2024年 12月 1日 礼拝 聖書:マタイ21:1-11
今日からクリスマスまでの4週間、クリスマスを待ち望むアドベントの期間になります。先週、掃除の後でクリスマスの飾り付けもして、ちょっとずつ、クリスマスモードになって来ました。
言うまでもなく、クリスマスはイエス・キリストのお生まれを祝う時なわけですが、新約時代の教会にはそういう習慣はありませんでした。続きを読む →
2024年 11月 24日 礼拝 聖書:詩篇126:1-6
多くの人は努力すれば、頑張れば報われるはずだと信じ、期待していますが、往々にしてその期待は外れます。
日米で野球選手として成功したイチローさんが「努力したら報われるって思ってる人は見返りを求めてる。これだけのやったから、必ず報われるはずだ、その見返りを求める姿勢がダメ」また、「努力してるかどうかは第三者が決めること」と何かのインタビューで話していて話題になったことがあります。ただ、そんなイチローさんも高校野球児たちへの指導の中で「野球に手品、マジックはない、とにかく積み重ねてモノにするしかない」と“継続”の大切さを語っています。がんばったから成果が出るはずだと期待するのと努力によってしか実力や自信は身につかないということは別なことだという何とも禅問答のような話しです。続きを読む →
2024年 11月 17日 礼拝 聖書:ローマ14:7-13
今日、クリスチャンの生き方と一口に言っても、様々なスタイルがあり、いったい何が正しいのかよく分からなくなります。私が青年時代を過ごした頃は、自分たちの教会グループの人たちと知り合う機会が殆どなく、まさに井の中の蛙でした。様々な伝統や考え方があるのを知ったときは本当に驚きでした。自分たちが当たり前だと思っていたことが当たり前ではありませんでした。自分たちよりもずっと砕けた、自由な感じのクリスチャンの生き方もあれば、風呂から上がったらまたネクタイを締め直すようなお堅い生き方もありました。
それ以来、それぞれの考え方に従ってやればいいのだと思うようになりましたが、現代の教会が問われているのは、それぞれが確信しているライフスタイルはそもそも、本当に聖書に根ざしているのか、ということです。続きを読む →
2024年 11月 10日 礼拝 聖書:ミカ書4:1-5
たまに都会に行くと、本当にたくさんの人がいるなあと感心します。北上での暮らしに特別不自由なことはないのですが、盛岡くらいの大きさの街に行っても、人が集まっているだけで相当な賑わいと活力があるのを感じます。
なぜ人は都会に集まるのでしょうか。大きな街には仕事があり、お金が生まれ、うまく行けば成功や名声を手に入れるチャンスがあります。あらゆる遊びと快楽があり、伝統的で古典的な文化からサブカルチャーまで何でもそろっています。音楽や芸術で成功を収めようと思ったら、地方に留まっていないで、とりあえず東京に出なければ話しになりません。
しかし預言者ミカは、やがて人々がまったく違う理由でエルサレムを目指してあらゆる国々から集まって来ると預言しています。続きを読む →
2024年 11月 3日 礼拝 聖書:ローマ13:1-7
日本は二重国籍を認めていないので、他の国から来た人が日本で国籍を取ろうとしたら、今まで持っていた国籍を放棄しなければなりません。しかし、世界にはそれまで持っていた国籍を捨てることなく、国籍を取ること、つまり二重国籍を認めている国が、75%くらいにのぼるそうです。
イエス様を信じて御国の子とされたクリスチャンは、二重国籍を持って生活することに似ています。神の国、天の御国の民であるとともに、この世の国民であり市民です。「私たちの国籍は天にあります」と使徒パウロは有名な言葉をピリピ書に記していますが、天の御国の民である私たちは、同時に、この日本という国に国籍を持ち、また国籍は持っていなくとしても、この国で生活し、法律や義務を守ることが求められます。続きを読む →
2024年 10月 20日 礼拝 聖書:マタイ5:38-48
今日は、イエス様の教えの中でも、理解という点でも、実践という点でもなかなか難しいなあと思わされる教えを共に考えていきたいと思います。「目には目を」とか「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ」、また「あなたの敵を愛しなさい」といった言葉は、それだけが切り取られ、イエス様が言わんとしたことをあまりちゃんと考えず、勝手な意味づけをされながら広まってしまった感じがします。
特に昨今の世界各地の戦争や紛争の記事を読んだり、ニュースを見たりすると、「敵を愛せよ」とか「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ」というイエス様の教えは非現実的な教えに感じられた、ということはないでしょうか。続きを読む →
2024年 10月 13日 礼拝 聖書:コリント第二 3:1-11
キリスト教信仰は神様に対しては祈り、賛美、礼拝などで、また人に対しては夫婦関係、家族関係、社会、奉仕、福音の証、隣人への愛の奉仕などのかたちで具体的に表されます。それらが適切に行われるためには、みことばに聴くこと、つまり自分で聖書を読んだり、学んだり、教えを聴いたりすることが重要です。
しかし、このみことばを聴くということが、日曜日の礼拝で説教を聞くだけで終わらせたり、とりあえず聖書を通読するだけで終わらせず、自発的に、主体的にみことばを学んでいるかというと、なかなかそうはいっていないかも知れません。続きを読む →
2024年 10月 6日 礼拝 聖書:第一テモテ4:4-5
娘が高校生の頃、高校の国際交流事業の一環で、イスラムの女子高生にホームステイしてもらったことがあります。出身国の中でもとくに厳格なイスラム教徒の多い地方から参加した学生でした。
ところが生憎その期間はラマダンというイスラムの断食の期間です。完全に絶食するというわけではなく、日出から日没までは水も飲まないのです。朝早くか日没後には、消化の良いものや果物などを少しだけ食べることができますが、食べるとなっても戒律に従った規制があり、我が家にある調味料などもいちいち調べて、食べられるものを確認してから食事を出すということをしなければなりませんでした。
彼らの信仰なので、それ自体をどうこういうつもりはありませんが、私たちはクリスチャンとして、飲み食いだけでなく、この世のものを味わったり楽しんだりする上で、何か制約があるのでしょうか。それはどのようなものでしょうか。続きを読む →
2024年 9月 29日 礼拝 聖書:第一ペテロ4:7-11
私が高校生くらいの頃から、『北斗の拳』という漫画が流行り出しました。20世紀末に起こった世界的な核戦争によって文明が破壊され、社会の秩序も平和もない、暴力が支配する時代に救世主のように現れた北斗神拳の伝承者、ケンシロウが愛と正義に生きようと戦う物語です。暴力的な話しなので男子には人気でも女子には不人気でした。まあ、でも「お前はもう死んでいる」といった決め台詞は聞いたことがあるかも知れません。続きを読む →