2024-08-04 私たちも一緒に

2024年 8月 4日 礼拝 聖書:ゼカリヤ8:18-23

 『舟の右側』というキリスト教月刊誌の今月号に「健全な弟子訓練とは」という特集があり、その中で不健全な弟子訓練の特徴について興味深いコメントがありました。私たちの神学校が提供し、教会でも取り組んでいる基本原則の学びの最初は「主の弟子となる」というテキストを用いていますので、とても興味深く読みました。

私も若い頃経験したので注意しなければならないと思っています。記事を書いた先生は「牧師が弟子訓練を教会の数的成長に役立つ【手段】と思っていることが元凶になると」と指摘します。そして本来の弟子訓練は「主イエスのからだに属する信徒一人ひとりが、恵みの中で癒されて成長し、自ら主の御声を聴いて従い、人生の中で結ぶべき実を豊かに結べるように助ける営みのことです」と書いていました。まったくその通りだと思います。続きを読む →

2024-07-28 宝を見つけたら

2024年 7月 28日 礼拝 聖書:マタイ13:44-46

最近はみかけないですが、昔テレビで「徳川埋蔵金」を探すという番組をよくやっていたと思います。江戸時代の終わり、徳川将軍が天皇に権力を明け渡す「大政奉還」の際に、いずれ徳川幕府を再興するときのための資金を密かに隠したという伝説を頼りに、いろいろ推理し、あちこちの山を掘り返す様子を面白く見ていました。

たぶん、実際には徳川埋蔵金は実在しなかったのだと思うのですが、まあそれはそれとして、ロマンのある話ではあったなあと思います。続きを読む →

2024-07-14 荒野で幸せは得られるか

2024年 7月 14日 礼拝 聖書:出エジプト記16:2-18

 住み慣れたところからいきなり知らない土地に放り出されて、それでも幸福でいられるでしょうか。物理的な引っ越しというだけでなく、予期していなかった全く新しい状況に置かれたり、突然困難に直面したとき、私たちはそれでも幸せでいられるでしょうか。続きを読む →

2024-07-07 立って、行きなさい

2024年 7月 7日 礼拝 聖書:使徒の働き 8:26-39

 世の中に様々な人がいるように、神様の家族としての教会にも、実に様々な人がいます。国が一つの価値観や方向性を国民に押しつけるようなら全体主義国家といって、だいたい暴力的で、いびつな社会になります。教会も多様性を失って特定の価値観を押しつけたり、似たような人たちだけが集まるようになったら、やはり健全さを失ってしまうことでしょう。初代教会で典型的な例は、一部のユダヤ人クリスチャンが異邦人クリスチャンにユダヤ人が守っている律法や習慣を守るよう強要することが度々あり、教会がその主張に染まってしまうことがありました。それは健全な福音理解をねじ曲げ、キリストにある自由を失わせました。

しかし多様性を理解し、うまく活かせないと、混乱が生じます。教会は誕生した新約聖書の時代から同じキリストを信じ、同じ福音、同じ信仰を持っていますが、同時に人種、文化、話す言葉、立場の違う者たちの集まりであり、そのためにお互いに違う考え、価値観がありました。そのために、たびたび混乱し、争いになることもありました。それは今も同じです。続きを読む →

2024-06-30 私が弱いときにこそ

2024年 6月 30日 礼拝 聖書:コリント第二 12:1-10

 すごい経験というのは、それ自体は素晴らしいことであっても、本来の自分の器の大きさを見失わせてしまうことがあります。自分まで凄くなったような錯覚をしたり、力が増したような気がしたりすることがあるのです。

昨年、私が倒れてある意味復活したとき、ある人は「先生、めっちゃ強い武器を手に入れましたね」というようなことを言いました。どうやら、すごい経験をしたから、伝道や証しの時に有利なんじゃないかという意味合いだったようです。「そんなふうに思うんだ」と驚きつつ、違和感も感じました。続きを読む →

2024-06-23 誠実であること

2024年 6月 23日 礼拝 聖書:第一サムエル24:1-22

 この世に生きている間は、よほど幸運な人でない限り「どうしてそんな目に遭わなければならないのか」と思うような理不尽をがまんしなければならないことがあります。

クリスチャンにとっては、イエス様の教えがさらに輪をかけます。有名なところでは「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」とか、悪に対して悪をもって報いてはならない、かえって善を行いなさいとか。

もっと具体的には、クリスチャンではない主人や夫に対しても反抗したり、軽く見たりしないで敬い、主に仕えるような気持ちで仕えなさいとまで言われています。いったいなぜそこまで誠実さを求められるのでしょうか。続きを読む →

2023-06-19 神の愛を知らずに

2024年 6月 16日 礼拝 聖書:ルカ15:11-32

 病人を癒したり、抑圧されている人々の友となるイエス様には、いつも大勢の人々がつきまとうと言っていいほどに、人が集まっていました。

そのようなイエス様の行動は、貧しく助けを求めるあてのない庶民にとっては人気で、好意的に受け止められますが、ある人たちにとっては面白くない話でした。

現代なら教会がいやしの賜物を活用して無償で病人を救う活動をしたらたちまち医療関係や行政からはもちろん、社会的に非難を浴びそうですし、社会的弱者に寄り添う活動は称賛される一方で、社会的にはうさんくさく見られることが少なくないように思います。

イエス様の時代、事情はだいぶ違っていましたが、批判する人たちの心理的なメカニズムはほとんど変わりなかったと言えます。続きを読む →

2024-06-02 聞くことは力

2024年 6月 2日 礼拝 聖書:エレミヤ23:16-29

 皆さんは、「主との交わり」や「神様との交わり」と聞くとどのようなことだと考えるでしょうか。また「主との交わりの時間を持っていますか」と聞かれたら何と答えるでしょうか。

若い頃、クリスチャンキャンプに参加したりすると、「神様との交わりの時間を大事にしなさい」「習慣にしなさい」とよく言われました。聖書を読んで祈る時間を持つように、ということだと思いました。良い雰囲気の中にあれば、何となく神様を近くに感じるのですが、家に帰って日常に戻ると、ただ聖書のことばを目で追って、簡単に祈って終わりで、神様との交わりを持っているという実感は沸いてきません。続きを読む →

2024-05-26 約束の証印

2024年 5月 26日 礼拝 聖書:エペソ1:3-14

 「ハンコレス」ということが言われるようになったのは2000年頃からだそうです。最近ではとくにコロナ禍でテレワークが増えたり、感染症対策の観点からハンコレスが拡がったと言われます。確かに、かつてはいろいろな場面で「認印」を忘れたりする手続きが出来ずに慌てたり、ハンコを取りに戻ったりなんてことがありましたが、最近はハンコなしで済むことが多くなり、「あれ?こんなに簡単なんだっけ」と思うこともしばしばです。。

しかしながら契約を結ぶ場合にはやはりハンコが必要です。しかもちゃんと役所に登録した実印が必要です。日本では戦国時代くらいから今のような使い方で個人が印章を持つようになり、江戸時代に商人や町人が持つようになったそうです。ただ、ハンコ自体はもっと古い時代に遡り、有名なのでは国宝に指定された金印ですが、昔の印章は個人が「売ります、買います」の意思表示を保証する意味ではなく、王や権力者の地位を象徴するものとして持つものであったそうです。続きを読む →

2024-05-19 私たちを生かす聖霊

2024年 5月 19日 礼拝 聖書:エゼキエル37:1-14

 今日は教会暦で「ペンテコステ」と呼ばれる記念日です。ユダヤ教では過越の祭から七週が過ぎた時に行われる「シャブオット=七週の祭」という祭の日です。シナイ山で律法が与えられたことを記念します。しかしキリスト教においては、その過越の祭の時にイエス様が十字架につけられ死んでよみがえり、それから50日、ちょうど七週の祭の時にイエス様が約束された聖霊がくだり教会が誕生した日として新しい意味でペンテコステを祝います。続きを読む →