眼のかゆみとともに

みなさん、おはようございます。
黄砂のためにうっすらとそらが黄色がかって、折からの花粉とのダブルパンチで昨日は一日中眼がかゆくてしかたがありませんでした。今年になって花粉症になったという友人もおり「いらっしゃいませ〜」と仲間が増えたことを喜んでます。悪いですね。この辛さを共有できる人が身の回り増えるくらいしか楽しいことがないのが花粉症の辛さです笑。
私たちがこの世界に生きている限り、この世界の様々な動きに影響されます。大陸の砂漠が生み出す黄砂は周辺の土地を豊かにするような効果もあるのだそうですが、遠く離れた日本ではちょっとした公害にならざるを得ません。人間が良かれと思って山ほど植えた杉の木がこんなにたくさんの花粉をまき散らしてアレルギーを引き起こすなんて、たぶん誰も想像しなかったことでしょう。この世界は人間が思うように扱えるほど小さくはないし、人間に良いものを与えるだけでなく厳しさもあるのです。このあたりも、やがてイエス様の救いの完成とともに回復されるはずです。罪によって傷ついた人間が赦され救われるだけでなく、罪のために傷ついたこの世界もいやされるのです。

“被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。” ローマ 8:21

今日は婦人会と祈祷会があります。

佐々木真輝

ていねいに生きる

みなさん、おはようございます。
昨日の夜、サッカー日本代表のワールドカップ予選をテレビで観戦しました。相手はモンゴル。実力差があるのは分かっていましたが、それでも14対0という一方的な試合でした。そんな大差でつまらない試合だったかというとそうでもありませんでした。かといってコテンパンにやっつけてやろうとか、力でねじ伏せようというような嫌な感じもありません(主観的かもしれませんが)。日本代表も最後の最後まで一切手を抜かず、余裕をこくこともありませんでした。だから相手チームも負けたとはいえ、最後まで全力で挑戦し続けていました。
実力差があっても甘く見ない。余裕で出来ることでも手を抜かない。こういう姿勢は相手や仕事に対する敬意、誠実さとして大切なことだなあと思わされました。やり慣れたこととか、それなりにベテランの域に入っているなら、なおさら忘れてはいけない事ですね。今日も丁寧に生きて生きたいと思います。

“主は正直な人のために、すぐれた知性を蓄え、
誠実に歩む人たちの盾となり、
公正の道筋を保ち、
主にある敬虔な人たちの道を守られる。” 箴言 2:7-8

佐々木真輝

言いたいことがたくさんあると

みなさん、おはようございます。
昨日はおどろくほどの温かさでしたね。さて、昨日は以前収録されたラジオ番組が市内のコミュニティFMで放送されました。実際には20分以上話したので、それを半分以下に収めるには編集作業が必要です。そこはお任せだったので、どういう放送になるかどきどきしながら聞いていました。「あそこは使われなかったんだ」とか「これを拾ってくれたのね」と感じることはありましたが、番組の方向性とうまくバランスを取りながらまとめてくれたと思います。それより自分のしゃべり方がとても気になりました。
言いたいことがたくさんあっても、どんなふうに理解され、受け止められるかは相手次第というところがあります。思ってもみなかった受け止められ方をして、誤解やすれ違いに困ることもあります。ですから、お互いによく聞くこと、できるだけ相手の立場にたって言葉を尽くすことが大事ですが、言いたいことがいっぱいあればあるほど、どちらもおろそかになりがちです。

“私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。” ヤコブ 1:19

今日は****さんの誕生日です。祝福を祈ります。
昨日の放送はYouTubeで聞くことができます。

佐々木真輝

ほんとうに出来るか

みなさん、おはようございます。
昨日から受難週が始まりました。土曜日に受難週に向けた説教の準備をしている最中にMさんの母国のお兄さんが召されたとの知らせがあり、翌日語ろうとしている内容について改めて考えさせられ、祈らされました。結局、内容を変えることなく、そのまま昨日の礼拝でお話させていただきました(午後の大船渡礼拝でも同じ内容)。イエス様が十字架の苦難の向こう側にあるものを見据えて待ち受けるものをすべて受け止めたように、私もイエス様の愛に信頼し、約束に望みを置いて、たとえ苦難があっても、これからの人生を受け止めて生きて行きたいとお話したのですが、それを語りながら、Mさんが経験したような大きな悲しみ、理不尽とも言える苦しみを本当に受け止めて行けるのか?と問われていました。
イエス様はむやみに誓うことを戒め、「『はい』は『はい』、『いいえ』は「いいえ」としなさい」と教えました。だからこれから待ち受けるすべてのことを今想像しているようにちゃんと受け止めると決意はするけれど、誓うことはできないなあ、その時になれば逃げ出したり、めちゃくちゃ混乱したりするのかもしれません。人生はわりとそんなふうにみっともない面が多かったりするのだとは思いますが、それでも支えてくださる神様の愛と哀れみを信じます。

“あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。” マタイ 5:37

今日は牧師会があります。まだオンライン開催が続きます。

佐々木真輝

2021-03-28 十字架の向こうに

今週は受難週となります。イエス・キリストが十字架につけられるためにエルサレムに入場した、「棕櫚の日曜日」から始まり、木曜の最後の晩餐、金曜の十字架、そして復活を待つ沈黙の土曜日まで、イエス様が私たちの救いのために苦しみを受けてくださったことを思い起こす一週間となっています。

イエス様が私たちのためにご自身を捧げてくださったことを思い巡らし、味わうために受難週に断食をしたり、断食とまではいかなくても、いつも楽しみにしているものや好きなことを一週間我慢する、ということを実践する人たちもいます。どのような過ごし方でも良いので、ぜひイエス様の十字架に至る道のりを覚えて過ごしましょう。なぜならば、この受難週こそは、何のためにイエス様がこの世においでくださったかをはっきりと指し示すものだからです。続きを読む →

道半ばなはずだから

みなさん、おはようございます。
昨日からオリンピックに向けての聖火ランナーのリレーが始まったそうです。世界的にコロナ禍の終息が見えない現状では個人的には開催に賛成できません。ただ、オリンピックに情熱を傾け、全てを賭けるくらいの決意で取り組んでいる人たちもいるのですから、大声で反対を叫ぶ気持ちにもなりきれません。最終的に開催されるかどうかもなんだか良く分からない感じですが、やるならやるで、本当に頑張っている人たちのためにも、心から応援する形にしてほしいところです。オリンピックを招致する時は「震災から復興したこと」を世界に示すということだったと思いますが、いつのまにか「コロナに打ち勝った証し」が追加されて、震災復興も道半ばで、原発事故の解決に至ってはまるで先が見えない上に、コロナまでしょいこんで果たして大丈夫なのかと、余計なお世話かもしれませんが心配しています。
出来ていない事を出来ているかのように強がってみせたり、出来もしないことを出来ると言い張るより、道半ばだから応援してください、力を貸してください、という方が正直なうえに本当の解決につながり、自分自身の助けや成長にもつながります。そして、私たちは誰もが道半ばなはずですね。

“私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。” ピリピ 3:12

佐々木真輝

毎朝の楽しみ

みなさん、おはようございます。
だいぶ日が長くなって来て、空気や風がまだ冷たく感じることはありますが、少しずつ温かくなって来ています。家と教会の庭をながめて「次は何が花を咲かせるか、あれの芽はちゃんと出て来たか」と確認するのが最近の朝の楽しみです。我が家ではスイセンが早くから葉っぱを伸ばしていますが、花を咲かせるまでが結構日がかかります。いまか、いまかと待っているほどに咲いたときの嬉しさはひとしおです。しかしまた、「あれ、こんなところに、こんな花があったんだ」と思いがけない所で思いがけない出会いがあるのも驚きとともに嬉しいものです。
神様が私たちの祈りに応えてくださるのはいつかと待ちわび、ついに喜びを見出すこともあれば、神様が備えてくださった思いがけない贈り物に驚きとともに喜ぶこともあります。神様は私たちの人生に良いものを与えたいと願っておられます。花の芽も青い草もまだ顔を出していないような人生の季節の時には特に、神様がそのような方であることを信じて期待しましょう。

“あなたの一生を 良いもので満ち足らせる。
あなたの若さは 鷲のように新しくなる。” 詩篇 103:5

今日は婦人会と祈祷会があります。

佐々木真輝

いのちを与える羊飼い

みなさん、おはようございます。
昨日、たまたま観ていたテレビ番組の中で、どこかの国からの投稿動画が紹介されていました。食肉加工場から牛が脱走し、道路の真ん中を走っていたのです。そこにたまたま車で通りかかったカウボーイがその腕前を発揮して牛を捕獲したのです。その牛はどうなったか。どういうやりとりがあったのかは分かりませんが、その牛は食肉加工場には戻されず、動物保護センターに移されたのです。肉屋さんにとっては損害だったかもしれませんが、牛にとっては命を得たことになりますね。
私たちもまた罪と死の支配から逃げ出し、イエス様に捕らえていただいた者です。牛はカウボーイのことを忘れてしまうかもしれませんが、私たちは、私たちを救い出し、再び罪と死の支配の中に連れ戻すのではなく、赦しと新しいいのちを与えてくださったイエス様をいつでも思いましょう。

“わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。” ヨハネ 10:28

昨日は*****さんの誕生日でした。遅ればせながら祝福を祈ります。
今日は今学期最後の神学校のクラスがあります。どうぞお祈りください。

佐々木真輝

皆さんは大丈夫でしたか

みなさん、おはようございます。
昨日の夕方、また少し大きな揺れが来ました。ちゃんと片付けておけばいいのに、乱雑に積み上げていたものがちょっと落ちた程度で被害はありませんでした。何人かの方々から無事との連絡がありましたが皆さんいかがだったでしょうか。この間の地震の時より揺れは短く小さかったので大丈夫だろうと思いましたが、津波注意報も出ていましたね。内陸で感じる揺れの大きさだけでなく、震源の深さ(浅さ)が大きく影響しますからね。
この間も感じましたが、地震やその直前の「地震が来ます」という例のアラームにけっこう体が反応します。揺れの状態と部屋の様子を見て「これは大丈夫だろう」と判断できても、心臓の方は急激に心拍数が上がり、強い不安もやって来ます。バアルと戦った後の預言者エリヤが自分の死を願うほどのうつ状態になったことを思い出します。どんなに信仰が強かったり合理的に判断する力あるとしても、人間の心身には限界があります。それは弱さというより、神様が与えてくださった心と身体を守るための安全装置みたいなものです。そういうときは無理をしなくていいのです。神様もそのような時は休息と回復を与えてくださいます。

“主の使いがもう一度戻って来て彼に触れ、「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と言った。” 列王記第一 19:7

今日はペルーから帰国した川崎淳宣教師が報告を兼ねてオンラインでご奉仕してくださいます。

佐々木真輝

春を告げるもの

みなさん、おはようございます。
私にとって春を実感できるのは教会の庭にフクジュソウが咲いた時です(花粉で目がかゆくなるのも春先のしるしですが、これはあまり嬉しいものではない)。昨日はだいぶ暖かくて、お昼頃、駐車場に車を入れる時、朝には見えなかった黄色い花がポツポツと目に入りました。あんなに重い雪の下にあったのに、よくぞまた咲いてくれました!という気分です。皆さんにとって春を感じる瞬間、きっかけって何でしょう。
人によって春を感じるしるしに違いがあるように、神様の恵み、祝福が注がれていることに気づくきっかけは様々です。神様はいろいろな仕方で私たちにささやき、語りかけてくださいます。フクジュソウを見かけたら、たとえまた一時雪が降ったり寒さが戻ってくることがあっても、確かに春が来ていることを疑う必要がないように、そんな神様のささやきに気づいたら、もう疑う必要がありません。

“見よ 主を恐れる人は
確かに このように祝福を受ける。” 詩篇 128:4

佐々木真輝