主は与え、主は取られる

みなさん、おはようございます。
おとといは、**さんの息子さんがADSLのために亡くなられてちょうど一年でした。その日、**さんの二人目のお孫さんが誕生したという知らせが届きました(生まれたのは前日でしたが)。すぐさまヨブ記の「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」というみことばを思い起こしました。二つの別々の家庭で、一年を隔てて起こった出来事ではありますが、私自身の心の中では、無関係には思えませんでした。
生まれることにも、死ぬことにも、与えらえることにも取り上げられることにも、すべてが神様の御手の中にある、というのが私たちの信仰です。ですが、それゆえに「なぜ神様はこうなさるのか、これを許されるのか」という思いが起こるものです。そこには私たちには知り得ない神様の思いやご計画があることを認め、受け止めようという意志が「主の御名はほむべきかな」という言葉になるのだと思います。私たちが今日捧げる賛美には、いろんな気持ちが込められていて良いのだと思います。

“…主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな。” ヨブ 1:21

今日は第二日曜なので、愛さん礼拝(夕拝)があります。

佐々木真輝

ずっといつまでも

みなさん、おはようございます。
ペットとの暮らしでの幸せな時間の一つは、小さな生き物が(小さいとは限りませんが)、飼い主に安心して体をすり寄せ、寝息を立てている時かもしれません。体にかかる重みと温もりに、いのちを安心して預けている、という感じがしますし、単純にその可愛さに癒されるという面もあります。
ただ、長時間足の上に乗っかっていたり、お腹のうえに乗っていたりすると、まあまあ負担になります。足がしびれたり、痛くなったり、夏なら暑くて蒸れたりします。それで嫌いになったりはしませんが、ちょっと勘弁してね、と思うことはあります。さらに人間同士の場合は、愛し合っている間柄であっても、もうちょっと複雑な感情も湧いて来ますから、うっとうしいときや重荷に感じてしまうこともありますね。そう考えると、ずっと背負い続けてくださる神様の愛は、とてつもなく大きく、暖かく、忍耐強く、なんとありがたいことでしょうか。

“あなたがたが年をとっても、
わたしは同じようにする。
あなたがたが白髪になっても、
わたしは背負う。
わたしはそうしてきたのだ。
わたしは運ぶ。
背負って救い出す。” イザヤ 46:4

佐々木真輝

打ち壊すべきは内側に

みなさん、おはようございます。
人間になし得る平和とは、多くの場合「戦争をしない」という消極的なものが精一杯です。その精一杯の平和がいとも簡単に打ち砕かられるかもしれない危機が今そこにあります。そんな最中に、相手の国の文化財も標的にすると強弁する指導者がいます。もちろんそれは国際法にも条約にも反することなのですが、恐ろしく乱暴で恥知らずな行為です。それがたとえ自分たちには価値がなく、信じるものと異なっているとしてもです。
聖書は、確かに偶像と決別し、捨てなさいと教えていますが、それはあくまで自分の中にあるもの、自分たちの領域にあるものであって、他人が大事にしているものを踏みにじることを正当化するものではありません。そんなことをする権利があると思うことはとんでもない傲慢です。私たちが追い払い、打ちこわし、きよめなければならないものは、私たち自身の中にこそあることを自覚しなければなりません。

“洗え。身を清めよ。
わたしの目の前から、
あなたがたの悪い行いを取り除け。
悪事を働くのをやめよ。” イザヤ1:16

今日は婦人会と祈祷会があります。

佐々木真輝