誰でも違う一面はありますが

みなさん、おはようございます。
「仲の良い家族だと思ってました」「温厚そうな旦那さんでした」とは、何か事件があったときに容疑者として捕まった人や家族に対する印象としてしばしば登場する言葉です。そして私たち夫婦や私に対する過分な評価として、クリスチャンではない友人たちからいただくことのある言葉なので、ちょっとどきっとすることもあります。もちろんそういう仮面を被っているつもりはないので、そのように見られていることは素直に嬉しく思いますが、同時にそうではない場面があることも自覚しています。
人間ですから、普段とは違う一面があるのは当たり前のことです。それ自体は異常なことでも、偽善的なことでもありません。ただ、自分の中の闇の部分を知っていて目をつぶり、ないかのように振る舞って自分を偽っているなら、そこに霊的な歪みがあり心や魂、そして身体にさえ歪みをもたらします。ある種のイメージを保つために自分を偽るのと、自分の足りない面や弱さを自覚しつつも目指す姿・あり方を目指して生活することとの違いには天と地ほどの差があります。

“私は不信実な人とともに座らず
偽善者とともに行きません。” 詩篇 26:4

今日は神学校の用件でいわきまで日帰り出張です。行き帰りの道のりが守られるようお祈りください。

佐々木真輝

牛もお休み

みなさん、おはようございます。
昨日の午後、いつものように大船渡に向かう途中、牛が放牧されているエリアを通るのですが、あの暑さの中、牛たちの姿が見えません。ちらっと視線を送ると、日陰が濃く風通しが良さそうな小屋の中に仲良く並んでいました。さすがにあの暑さの中にはいられなかったのでしょうね。帰り道、夕方同じ場所を通し掛かると、幾分涼しくなった牧草地で牛たちがのんびり草を食んでいました。
今週はかなり気温が上がるようなので、ぜひ皆さん、熱中症にお気を付けください。そして暑い日に日陰や飲み水が必要なように、人生の厳しい時期にも私たちの避け所となり、陰となってくださる神様の恵みが必要です。

“あなたは弱っている者の砦、
貧しい者の、苦しみのときの砦、
嵐のときの避け所、
暑さを避ける陰となられました。
横暴な者たちの息は、
壁に吹きつける嵐のようです。” イザヤ 25:4

佐々木真輝

2023-07-23 生き方こそが

2023年 7月 23日 礼拝 聖書:ユダ 1-25

 私たちは様々なものと戦って生きています。できればそんなに無理をしたくないとも思いますが、病気と戦わなければならないことがあったり、仕事においてノルマやスケジュールと戦っているような時もあります。今はカビが生えやすい季節ですから、湿気と戦っている人もいるでしょう。

もう少し視野を拡げれば、たとえば人権のために戦っている人もいますし、社会の不公平や不正と戦う人もいます。さらには、祖国の解放のために戦っている人たちもいます。

どの戦いにも「こうあるべき」「こうあってほしい」と思い描く姿や理想のため、あるいはそのように生きられる権利があるはずだという確信があるからとか、何か理由があって戦います。時として会社のノルマや戦争のように強いられた戦いもありますが、それでも家族のためといった何か戦う理由を見つけてがんばります。

では信仰の戦いの場合はどうでしょうか。ユダの手紙が書かれた目的は3節にあるよう「信仰のために戦う」よう勧めるためでしたが、果たして信仰のための戦いとはどのようなものでしょうか。

今日は残り二つとなった聖書66巻の中で、最後の手紙となる短いユダの手紙です。短い割に分かりにくいところもある手紙ですし、私もここから語るのは始めてですが、信仰の戦いとは何なのか、何をもたらすのか、ご一緒に学びましょう。

1.信仰の戦いとは

第一に信仰の戦いとは、福音を土台とした生き方を守るための戦いです。

この手紙を書いたのはユダですが、もちろんイエス様を裏切ったイスカリオテのユダではありません。ヤコブの兄弟ユダと1節にありますが、イエス様の弟にあたります。

兄ヤコブもユダも、イエス様が十字架にかけられるまではイエス様を信じておらず、遠巻きに見ているだけでしたが、十字架の死から三日目によみがえったイエス様に会って、それからイエス様を信じ弟子となりました。開かなくて結構ですが、第一コリント9:5にはパウロが他の使徒たちやペテロと並んで「主の兄弟たち」が妻を伴って福音の働きに従事していたことを記しています。

ヤコブもユダも、ユダヤ人を中心とする教会の指導者でした。そしてこの手紙も、ユダヤ人の割合が多い教会に宛てて書かれたようです。もともとは3節にあるように「私たちがともにあずかっている救いについて」手紙を書こうとしていたのですが、ユダヤ人クリスチャンたちが信仰の戦いに直面していることを聞いたユダは別のテーマで手紙を書くよう計画を変更しました。

いったい、どういう信仰の戦いがあったのでしょうか。4節には「ある者たちが、忍び込んできた」とあります。ここ最近の聖書箇所で度々登場してきた「惑わす者」、「偽教師」たちがここでも登場したというわけです。

4節によれば、偽りを教える者たちは「不敬虔な者たち」つまり神を敬う心とふるまいがない人たちでした。彼らはまた「神の恵みを放縦に変え」つまりキリストにあって自由とされたことを好き勝手に生き、罪を犯しても構わないとねじ曲げて解釈していました。その上、唯一の支配者である主イエス・キリストを否定している者たち、つまり主の教えや命令を軽んじる人たちです。

こういう人たちとの戦いをユダは「信仰の戦い」と言っているのです。しかし戦いといっても、彼らと論争し、論破することで打ち負かすとか、勢力争いを繰り広げて仲間を増やすことで立ち向かうとか、そういうやり方を示してはいません。

神様がユダを通して示している信仰の戦いは、そのような歪んだ教えで惑わす者たちに惑わされずに、神様の豊かな恵みに支えられて福音に根ざして生活していくための戦いです。それは誰か個人と対決するということよりむしろ、惑わされやすい自分自身を自覚し、自分が何に立って生きるべきかを思い定めるという戦いです。

当時すでに多くの教会、クリスチャンたちが偽教師たちの攻撃に晒されていただけでなく、迫害の中にもありましたが、その場合も信仰の戦いは基本的に同じです。迫害するものを打ち倒すとか、キリスト教を認めない社会や国家をひっくり返す運動や活動をするというよりは、そうした誘惑や圧力に負けずに福音に生きるための、自分自身のうちなる信仰の戦いなのです。

ちょうど畑の雑草との戦いのようです。確かに作物や花にとって雑草は生長を妨げ、美観を損ねます。でも雑草との戦いばかりに気を取られず、作物を丈夫に育て、花を美しく育てるための戦い、水や栄養が十分行き渡るようにとか、他の害虫や病気から守るといったことにも注意を払わなければなりません。目標は敵を倒すことではなく、信仰によって建て上げられることです。

2.思い起こすこと

では、信仰の戦いはどのようにして戦っていくのでしょうか。

まずユダが繰り返し述べていることは「思い起こしなさい」ということです。信仰の戦いは、神様が様々な方法で教えてくださっている大切なことを思い起こすことから始まります。

「思い起こしてほしい」というユダの言葉が5節と17節に出てきます。実際、5~19節は旧約聖書の様々な例を挙げながら偽教師たちのような生き方がどういう結末をもたらしたかを思い起こして、そのような生き方に惑わされないように、という警告になっています。

さて、この5~19節はユダの手紙の中でもややこしい箇所の一つと言われています。一見すると分かり難いかも知れませんが、よく読んで見ると、旧約の出来事とはいっても、旧約聖書から直接引用している部分と、聖書以外のユダヤ人の文書からの引用とが入り交じっているからです。これはユダヤ人以外の人たちには簡単にはピンとこない所なので、この手紙がユダヤ人クリスチャンに向けて書かれた、といわれる理由の一つになっています。

当然のことですが、ユダヤ人は聖書以外の書物も書いていますし、よく読んでいました。現代のクリスチャンにも、信仰の理解や励ましに役立つような書物を読むよう薦めることがありますが、ユダヤ人たちもそうやって聖書ではないけど、これも読んだほうがいいよ、というような書物があったのです。具体的には「エノク書」とか「モーセの遺訓」といった書物から引用されています。

さて、そうしたものを用いながらもユダは旧約の幾つかの実例を思い出させます。

5~10節には神に反逆した人々の反抗と、それに対する神の裁きの例が挙げられています。荒野で反逆したイスラエルの民、神に反逆した御使いたち、神の御使いに暴力を振るおうとしたソドムの男たち。彼らは神様の権威に逆らい、性的な不道徳に陥り、彼らに警告を与えるために訪れた神の使いを拒絶しました。

また11~13節には人々を惑わし堕落させた実例が挙げられています。

彼らはいずれも、厳しい神の裁きがくだされ、後生の人々への警告とされました。そして12~16節にあるように、教会を惑わす人々は、こうした反逆し、人々を堕落させた者たちと何も変わらないのです。一緒に食事をしているけれど、その交わりを汚す人であり、自分を養うことにしか関心がなく、雨を降らせない雲のようにただ流されるだけで役にたたないもの。枯れて根っこも抜かれたき付けや薪として燃やされるのを待つだけの木のように何の実もむすばないもの。これらの厳しい言葉は旧約の預言者たちがそれぞれの時代の反抗的な民や指導者に向けて語った言葉でした。またやはりここにも聖書以外のユダヤ文学からの引用もあります。

その上で、17~19節で使徒たちが語った警告を「思い起こすように」とここでも語っています。人を惑わす者が現れることはパウロやペテロ、ヨハネなどの手紙を通しても繰り返し警告されていたことが思い出されます。福音をねじ曲げ、クリスチャンが福音に根ざして生きることや教会が建て上げられるのを邪魔する者たちです。どれほど信仰深そうに聞こえる言葉を語っているとしても教会に分裂を引き起こすようなことは聖霊によるものではありません。

3.自分自身を築き上げる

信仰の戦いのもう一つの面は20節以下の最後の勧めに書かれているように、「最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げ」ることです。

「最も聖なる信仰」というのは、惑わす者たちの、聖霊によらず神への敬いもなく、キリストの権威も認めず、自己中心な考え方に対して、聖霊が指し示してくださる信仰のことを言っています。つまり、私たちが聞いて信じた福音のことです。この福音の上に自分自身を築き上げることが私たちの信仰の戦いなのです。

イエス様を罪からの救い主として、私たちが加えられた御国の王として信じ、敬い、イエス様が神を愛し隣人を愛しなさい、互いに愛し合いなさいと命じ、使徒たちを通して示された新しい人としての生き方を自分の生き方としていくことです。

そしてこれは個人のことではなく、兄弟姉妹とともに、まるで神殿建設のように教会を建て上げていくことを示しています。

この勧めからも、クリスチャン生活や教会の交わりを惑わす者との戦いは、誰かをやっつけたり戦うことではなく、信仰に根ざした愛の交わり、祈りとみことばによって私たちの歩み、教会の交わりと働きをしっかりと建て上げる戦いだということが分かります。戦うべき相手がいるとしたら、それは惑わされやすい私たち自身だと言えるかも知れません。

偽教師の考え方や自分勝手で欲望にまみれた生活を変えてやろうと努力することは徒労に終わる場合が多いです。可能ならば間違った道から救い出してあげるべきですが、私たちのなすべき分は自分自身を建て上げることです。

私たちは様々な問題に直面したとき、ついつい他人を変えようと躍起になって疲れ切ってしまいます。他人の問題のほうが見えやすいということもありますし、自分の問題には気付いても「正当な」あるいは「やむを得ない」理由や事情があると思いたがります。それにも関わらず、相手の問題についいては「やむを得ない」と思いやることが難しかったりするのです。

しかし、ユダが手紙を書き送った教会で人々を惑わしていた偽教師たちのように、明らかに問題がある、それ以上に忌み嫌うべきやり方、教え方をしているとしても、それでも彼らをどうこうするよいも、彼らに倣わないよう注意し続け、自分自身が福音に根ざした生き方を確立することに注意を払いなさいというのです。

なぜ、ユダや他の使徒たちも、福音を信じているというだけでなく、信じている福音の上に自分の人生や教会を建て上げることを重視し、偽教師や惑わすものを見分ける基準にさえしているのかといえば、やはり生き方こそが、福音が真実であることをあかしするものだからです。

イエス・キリストが死からよみがえられた救い主で、信じる者の罪を赦し、新しいいのちに生きる者にしてくださるという福音が本物かどうかは、緻密な論理やこざかしい議論によってではなく、クリスチャンの生き方にしか現れないのです。

だからクリスチャンたちが偽教師や惑わす者に出会った時、彼らと論争したり、やっつけたりすることより、惑わされず自分自身の生活、教会の交わりを福音の上に建て上げること、愛のうちに築き上げられることに注意を向けるべきなのです。

適用:恵みに応えて

最後にユダの手紙のまとめにあたる箇所を読んで終わりましょう。24節と25節です。他の手紙にもあるように、読者のために祝福を祈る祈りですが、ここに私たちがイエス様を信じるだけでなく、信じて生きること、福音によって生きることの動機、また力の源があります。

特に24節はユダの手紙独特な強調点です。「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方、」

私たちはイエス様から大きな恵みを与えられています。私たちはイエス様によって罪赦されただけでなく、長い人生の中で惑わされたり、誘惑されたり、自分自身でも確信が持てなくなるようなことがあったりしても、つまずかないよう守っていただくことができ、傷のない者として立たせていただけるよう造り変えることのできる唯一の方です。

私たちはこのお方に助けを求め、また惜しみなく助けてくださるその恵みに応えて、信仰による戦いを戦い、福音に根ざした生き方を確立していくべきです。それ以外の方法で戦おうとしても結局は力及ばず、疲れて終わってしまいます。

実は、近々我が家のワンコは内視鏡検査を受けることになっています。ペットのためにそこまでやるかと思うかもしれませんが、二日に一回はご飯を食べたがらなかったり吐いたりするのが何週間も続いて、かかりつけのクリニックでも「ここの設備では原因がはっきり見つけられない」と言われたら、やはり何とかしてあげたくなります。紹介された動物病院は専門の設備と技術があるということです。もちろん、お金がもったいないとか、きっと大したことはないだろうと勝手に決め込んだりすれば、その助力は得られません。そこに頼らないという選択肢は私たちにはありませんでした。

ところが、私たちは霊的な事柄について、つまり私たちの生活を福音に相応しいものに整え直していくという大切な努めについては、労力を惜しんだり、問題に向き合うことを避けたり、このままでも大丈夫だろうと勝手に自分に都合良く決め込んでイエス様の助けを得ようとしないでしまうことがあるのです。

ある時、ややこしい人間関係の問題にぶつかってしまい、私はその問題を「敵との戦い」のように捕らえてしまいました。手を尽くして相手に勝つことを求めましたが、それは何も生み出さないばかりか、消耗戦のようになってただただ疲れるだけでした。ずいぶん時間がかかりましたが、相手が正しかったか間違っていたかという見方を手放して、自分は今置かれた場所で福音に根ざして生きるとはどういうことか、ということを考え始めた時に、ようやく落ち着きを取り戻し、喜びを回復しました。

イエス様は24節にあるように、私たちを大きな喜びとともに立たせることのできる方です。イエス様の願いは福音に根ざした生き方を身につけ、大きな喜びを味わうことです。そのために十字架で死によみがえってくださったのであり、私たちを躓きから守り、傷のない者にしようと助けてもくださいます。

私たちが信仰の戦いに立つ時、私たちの戦いは福音に立って生きることを学びとる戦いであることを思い出しましょう。惑わす者や責める者と同じ土俵に立ってしまわないように注意し、自分自身を築き上げること、教会の交わりを建て上げることに力と知恵を尽くしましょう。そして私たちを躓きから守り、助けてくださるイエス様の大きな恵みに心から応答しましょう。

祈り

「天の父なる神様。

ユダの手紙を通して私たちの信仰の戦いというものがどういうものなのか教えてくださり感謝します。

私たちの戦いは敵や惑わす者と争ったり、打ち負かしたりすることではなく、私が福音に立って生きているかどうかにあります。いつもそのことを思い起こさせてくださり、私たちが躓かないよう手を差し伸べてくださるイエス様の恵みに頼り、助けを求めて歩ませてください。

惑わす者や敵対する者がいたとしても、そうしたものに惑わされたり確信を投げ捨てたりせず、信仰を持って歩み続けられるように約束の通りに私たちを支えてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」

梅雨明け?

みなさん、おはようございます。
今日はもしかしたら梅雨明けかも知れないと聞きました。どうでしょうね。止まない雨はないとか、明けない夜はないとはよく言われます。観測技術と気象の研究が進んだことで、あと何分くらいで雨が降ります、なんて情報がスマホに届き、その通りに降るのが当たり前になって来て、梅雨明けの見通しも結構正確に分かるようになってきました。夜明けの時間なんて、何年先までもほとんど誤差なく予測できます。
私たちの人生に降りかかる雨や暗闇のほうは、残念ながらいつ止み、明けるかを予測できません。ただ、そうした苦しみや嘆きの時は永遠ではないし、主の御手の中でかならず明けるとき、止む時が来ると希望を持つ事ができます。そのことは忘れないようにしたいです。

“私に耳を傾け
急いで私を救い出してください。
私の力の岩となり
強い砦となって 救ってください。” 詩篇 31:2

佐々木真輝

大丈夫でしたか

みなさん、おはようございます。
昨日はなかなかの豪雨で、北上や花巻では洪水や土砂崩れなどの危険があるとのことで避難指示が出た地域がありました。皆様、ご無事でしょうか。それらの地域に親戚や友人がいるという方もおられると思いますので、きっと心配されたことでしょう。もし、教会としてお手伝いできることがありましたらぜひご連絡ください。
大規模災害の時にしたようなかたちで教会が支援活動することは、限られたエリアでの場合には難しさがあります(地域に認知された支援団体というわけではないので)。けれども、家族や友人、知り合いなどのつながりがあれば何かはできます。そういう時は遠慮せず、助けを求め、また迷うことなく手を差し伸べたいですね。

“あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。” 2テサ 2:17

今日は3.11いわて教会ネットワークの集まりで宮古に行ってきます。

佐々木真輝

2023-07-16 愛する者よ幸いなれ

2023年 7月 16日 礼拝 聖書:第三ヨハネ1-15

 誰でも愛する人や大切な人のためには幸せを願います。たとえ困難に直面することや乗り越えるべき試練があるものだと分かっていても、それでも子どもたちや大切な仲間が酷い目に会わないようにと心から願います。彼らが健やかであること、誰にも何にも傷つけられていないこと、安心していること、自分の生きている世界を肯定していられることを願います。続きを読む →

おひさしぶり

みなさん、おはようございます。
昨日は「岩手教会連合デイ」で、久しぶりに岩手教会連合諸教会の皆さんとお会いすることができました。とても良い交わりができたと思います。夕方、家に帰ってから少し涼しくなったところで家の周りの草刈。草刈作業中にこちらも久しぶりに「スイッチョン」を見かけました。子供の頃はこうした昆虫類は身近にたくさんいましたので、なんだか懐かしい再会のような気がしました。
連合デイで久しぶりにお会いした方々と親しい交わりが出来たように、いろいろな事情でしばらくお会いしていない方々とも「お久しぶり」と言ってお会いしたいなあと心から思わされました。

“近いうちにあなたに会いたいと思います。そうしたら、直接話し合いましょう。” 3ヨハネ 1:14

昨日は*****さんの誕生日でした。遅ればせながら祝福を祈ります。

佐々木真輝

依頼主の要望

みなさん、おはようございます。
思いがけないお声がけがあって、今日は夜にカメラマンのバイトをすることになりました。滅多にない経験でもありますし、チャリティイベントの実行委員同士のつながりの中で声を掛けていただいたということもあって引き受けることにしました。自分の趣味として、また自分なりに目指すものを撮影するのと違って、依頼した方の要望に応える写真を撮るというのはまったく違う行為ですので、きっと新しい学びもあることでしょう。
私たちクリスチャンの生活や奉仕は、私たちの趣味や好みでやるものではありません。私たちにいのちを与え、信頼して人生を任せてくださった神様の願い、意図を汲んで生きることが大切です。そしてゆだねてくださった神様に対して、私たちは責任を負ってもいますね。

“まことに、あなたがたに言います。主人はその人に自分の全財産を任せるようになります。” マタイ 24:47

佐々木真輝

見るもおぞましい…

みなさん、おはようございます。
昨日、教会の台所に行ってみると、何やら非常に小さな虫が這い回っているのが見えました。良く見ると、水切りにあげられたグラスや炊飯器の蓋の上、立ててあるペーパータオルなど、そこかしこに…。たぶんダニの一種ではないかと思いました。こんなことは初めてだったので何が起こったのかとふと換気扇を見上げると何やらカサカサと音が。ハクセキレイのつがいが換気扇のフード内に新居を構えており、おそらくそこがダニの発生源かと推測。急きょ近所のドラッグストアに走って虫を駆除する薬剤を入手し、台所のあちこちを目張りして密室を作り薬剤散布。それから鳥たちには申し訳なかったですが巣を撤去(まだ卵はなかった)。多少パニックになっている鳥たちに追い打ちをかけるように換気扇フードには侵入を防ぐネットを設置しました。ダニは卵から産卵まで1〜2週間あるそうなので、その頃もう一度薬剤散布が必要です。
虫嫌いな人には想像しただけでもゾワゾワする光景だったと思いますが、見てしまった以上は見なかったことには出来ませんし、ドアを閉じても何の解決にもなりません。私たちは時々、人間の中に(そして自分自身の中に)見なかったほうが良かったと思えるような、いやなものを見てしまうことがあります。それを照らし出すイエス様の光は、いやす力でもあることに感謝したいと思います。

“「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。” 2コリント 4:6

佐々木真輝

災害のたびに

みなさん、おはようございます。
九州方面での豪雨による被害がとても気の毒で心配でもあります。雨が止んでも土砂崩れの恐れがありますし、これから来る暑さは衛生面の問題や復旧作業を厳しいものにするのは容易に想像できます。昨年、福岡に転任されたO先生家族のことが気がかりで、昨日の朝連絡しましたが「晴れ間を見て犬の散歩に行くつもり」とのいつもながらの返信に安心しつつも、無理しないでねと思いました。他にも何人かの顔が浮かびます。
毎回、このような災害が起こる度に「どうすれば防げたのか」ということが問われますが、東日本大震災の後、「防災」ではなく「減災」と言われるようになりました。どこまで想定したり、予測の精度を上げても災害を完全に防ぐことは出来ないから、減らす工夫や準備、教育、訓練をしましょうということですね。いろいろな備えは大事なことなのですが、最後に私たちを救い、支える神様がいてくださることを覚えましょう。

“戦いの日のためには馬が備えられる。
しかし、救いは主による。” 箴言 21:31

佐々木真輝