2024-02-25 仰ぎ見れば生きる

2024年 2月 25日 礼拝 聖書:民数記21:4-9

 今日の聖書箇所を特別なものにしているのは、1200年後のイエス様が、人が永遠のいのちを得るために必要なのは信仰だということを説明するために、この出来事を引用していることです。

そのことについては最後に取り上げますが、それにしてもなぜ「青銅の蛇」なのでしょうか。

今から90年前くらいのことです。シナイ半島とアラビア半島の付け根あたりにあるティムナ渓谷で遺跡の発掘調査が行われました。今日の物語の舞台となったホル山にほど近い渓谷です。30年に及ぶ調査の中で貴重な発見がいくつもありました。その調査の中で「青銅の蛇」が発見されたのです。年代的にもモーセの時代とほぼ同時代ということが分かりました。もちろん、この青銅の蛇はモーセが作成したものではありません。というのも、モーセの時代からおよそ700年後、ヒゼキヤ王の時代に偶像だらけになってしまった神殿の中からモーセが作った青銅の蛇が発見され、宗教改革を進めるヒゼキヤがそれを壊してしまったからです。

しかし、民数記に登場する同時代の青銅の蛇が発見されたことで、この物語が単なるお話ではなく、歴史的な事実にもとづくものであることがより確かになったのでした。

そんな青銅の蛇を中心に、今日は人を救い癒すのは何によるのかということをご一緒に学んでいきましょう。

1.信頼しきれない人々

まず、今日もまた神様を信頼しきれない人々が登場します。

およそ40年にわたる荒野の旅も終盤となり、約束の地にはもう一息のところに来ていました。これまでの間、イスラエルの民は神様が天から降らせるマナを食べながら飢えることなく旅を続けてきました。何度も失敗を繰り返しながら神の恵みとことばに信頼して生きることを教えられ、訓練されてきました。

それなのに、彼らはまたしても我慢できなくなりました。エドム人の土地を迂回し、最初に話したティムナ渓谷沿いに北上してカナンの地に行くことができます。ただそれは遠回りというか、逆方向に向かうことになります。その途中で不満が爆発し、彼らの父や祖父の時代の民と同じようにまた文句を言い出しました。

「なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」

彼らの父祖たちがエジプトを出発してほどなくモーセと神に逆らって言った言葉とほとんど変わりません。民数記を少し遡って、14章を開いてみましょう。ここは、数週間で終わるはずだった荒野の旅が40年にも延びてしまった原因となる事件があった箇所です。1節に「すると、全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした」とあります。カデシュという土地に宿営していた時、モーセは12部族から代表者を選び、約束の地であるカナンを偵察に行かせました。偵察にいった12人は、約束の地が豊かでとても魅力的なことに気付きます。しかし、そこに先住しているカナン人は凶悪で体の大きい戦士たちがいるのを見て怖じ気づき、帰って来てからヨシュアとカレブ以外の10人は「あの土地を手に入れるのは絶対無理だ、死にたくない」と強硬に反対するのでした。それを聞いておおくの民は信仰が揺らぎ、泣き叫んだというわけです。その時に彼らは2~3節にあるように、神は荒野でわれわれを死なせるためにエジプトから連れ出したんじゃないか、これならエジプトに帰って奴隷生活に戻る方がましだと訴えたのです。

神様は、神様のことばを信頼するならばしっかりと約束は果たされ、幸せになれることを学ばせるために、偵察部隊が偵察してきた40日になぞらえて40年の荒野の旅を課したのです。

しかし、イスラエルの民は40年経っても学びきれていませんでした。またしても我慢できず、あろうことか神様の恵み深さと忠実さの象徴でもあるマナを「みじめ」で「飽き飽き」したとさえ言うのです。

私たちクリスチャンも時々、神様の恵み深さと忠実さになれきってしまって同じような気持ちになったり、言葉を吐いたりする事があるかも知れません。日々の糧として与えられているはずの聖書の言葉に飽きてしまって読まなくなったり、教えが古くさくて現代に合わないと深く考えもせず文句を言ったり、またその話しかと耳を閉ざしてしまったりしてしまいます。

そんな私たちでも神様は見離すことなく、語りかけ続けてくださいますが、聞かずにいればいるほどに神様の恵みには鈍感になっていきます。毎日与えられるマナに惨めだなあ、飽き飽きしたなあと思えば思うほど神様の恵みとして感じられず、むしろこんな酷い目に合わされていると腹を立てはじめてしまったのです。

2.さばきと悔い改め

恵みを恵みとして受け取れず、身勝手に腹を立てるイスラエルの民に対する取り扱いは大変厳しいものでした。私たちに対する教訓のためでもあります。つまり、イエス様以降の教の時代に生きる私たちに同じような裁きが下るわけではないけれども、神様の恵みと真実さをないがしろにし、不遜な態度を取ることは本当にひどい罪なのだという教訓です。

主は21:6にあるように、「燃える蛇」をたくさん送り込みました。おそらく砂漠に住む毒蛇の一種でしょう。送り込んだという表現にはなっていますが、もともと荒野には猛毒をもった蛇が何種類かいましたから、むしろこれまでの旅の間は神様がイスラエルの民を蛇の被害から守っていてくださったのだと思われます。

旅の間に特別な守りがあったことは聖書の記述から明らかです。例えば申命記8:3~4節を開いてみましょう。マナを与えて人が「パンだけで生きるのではなく、主の御口から出るすべてのことばで生きる」ことを学ばせ、40年の旅の間、彼らの衣服はすり切れず、足が腫れることもありませんでした。いくぶん詩的で誇張した表現だとしても、この旅自体が神の恵みと御力に守られて来たことは明らかでした。

その守りが外された時、それまで群の外に追いやられていた毒蛇たちが民の間に入り込み、次々と噛まれてしまいました。結果、多くの人々が蛇の毒で苦しみ、死んでしまいます。

人間は苦しみから逃れたくて、あるいは罰が怖くて「ご免なさい、私が悪かったです」と言うことがあります。時としてそれは真実な悔い改めや謝罪ではなく、苦しみを逃れるための口先だけのものであったりします。しかしまた、実際に苦しみに会ったり不都合なことにならないと必死に悔い改めたりしないのが人間の真実な姿かも知れません。罪に気付くこと、悔い改めることというのは冷静で穏やかな事柄ではなく、私たちの認識と感情が激しく揺さぶられ痛みさえ伴う事柄なのです。

教会で人間には罪があるんだよと教えられて「そうなんですね。確かに言われてみればそうかもしれません」と何となく知的に理解できた時と、自分のうちにある闇の深さに気付いたり、周りの人に与えた傷の大きさ・かけた迷惑の大きさに打ちのめされて悔い改めた時ではまるで異なる心の動きがあります。

イスラエルの民はあまりの苦しさ、悲惨さに民は自分たちがしでかしたことの重大さにようやく気付き、モーセに執り成しの祈りをしてくれるように、この蛇たちを取り去ってくださるよう主新野ってくださいと願いました。

7節「私たちは主とあなたを非難したりして、罪を犯しました。」苦しさの中から出た告白だとしても、いや、そうだからこそ切実な罪の告白であり、悔い改めと言えます。

それに対してモーセはどうしたでしょうか。「お前たち苦しみから逃れたいから口先だけで悔い改めたのだろう」と決めつけたり、「その悔い改めは本物か」と疑ったり、「ではまず悔い改めの実を結びなさい」と求めたりはしませんでした。7節の終わりに簡潔に記されているように、彼らの願いに応じて「モーセは民のために祈った」のです。

3.仰ぎ見れば生きる

さて、ここからが問題です。神様は8節でこう言われました。

「すると主はモーセに言われた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」」

蛇を作れと言われたら、もちろん本物は作り出せませんから、蛇を模った何かだということは明らかです。当時の文化では粘土でかたちを作って焼くか石を削り出して作る、あるいは金属、たとえば金、銀、青銅といった金属を加工して作るというような方法が考えられました。

神様は特に材質についての指示はしていませんので、何でも良かったのでしょう。しかし最初に話したように、モーセの時代にはすでに青銅製の蛇の像が一般的に知られていましたし、その制作に関する知識もあったのでしょう。蛇の像といえば青銅の蛇が思い浮かぶようなことだったと思われます。モーセは急いで職人を呼び寄せ青銅の蛇を作らせました。

そして作られた青銅の蛇は神様のことばに従って旗竿の上に掲げられました。モーセはそれを民の前で高く挙げ「これを仰ぎ見る者は生きる」と大声で叫んだことでしょう。

しかし、なぜ青銅の蛇だったのでしょうか。この出来事から約700年後、ヒゼキヤ王は先代の王たちが神殿に運び入れた様々な偶像や偶像礼拝の器具を処分し、宗教改革を推し進めていました。その中にモーセが作ったこの青銅の蛇が出て来たのです。第二列王記18:4には「モーセが作った青銅の蛇を砕いた。そのころまで、イスラエル人がこれに犠牲を供えていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。」とあります。最初は記念としてだったかもしれませんが保存されていた青銅の蛇は時とともに礼拝の対象となり、かつて毒蛇から民を救ったように、アッシリヤや外国の敵がもたらす苦しみから救ってくれるようにと神として崇め、いけにえまで献げていたのです。

そんな大きな過ちを招きかねないものであったにもかかわらず、神様は蛇の像を作り、それを掲げて見上げることを求めました。そこにはやはり大事な意味があるのです。

蛇という生き物はエジプトもそうでしたし、日本でもそうなのですが、脱皮を繰り返す生態から死と再生の象徴として信仰の対象になることが多いです。蛇の偶像は珍しいものではなかったのです。一方聖書では、蛇も神様が造られた生き物の一つとして「良いもの」として造られたのですが、その直後、人間に罪を犯させた悪魔の象徴として出て来ます。蛇は忌まわしい生き物と見なされ、また実際毒蛇が人や動物を殺すこともあったわけですから恐れられていました。今まさにその蛇によって人々が苦しみ死んでいるのです。

それに対して忌まわしい蛇を模った青銅は、見るからにおぞましく、忌まわしく見えたに違いないのですが、その蛇には命がありません。人々を苦しめいのちを奪った蛇がこうして神によって死せるものとして掲げられました。神のことばに従ってこれを見上げるなら、つまり、神のことばを信じて見上げるなら、毒の苦しみから癒され、回復すると約束されたのです。

青銅の蛇には何の力もありませんが、それを見上げることが「いのちを得るだろう」と言われた神を信じることの象徴なのです。

適用:ヨハネ3:16へ

受難節第二週目の箇所として与えられた青銅の蛇の箇所は、ちょっと異質な感じがしますが、この箇所をイエス様が取り上げたことで本質的な意味合いが明らかにされます。

モーセの時代から1000年以上の時が経ち、約束の救い主がおいでになったとき、ニコデモという聖書の教師との対話の中にふたたび青銅の蛇の話しが出て来ます。ヨハネの福音書3章です。

ニコデモはイエス様の話しとその働きの様子を見ながら、この人ならば神の御国に入る確かな道を教えてくれるかもしれないと夜になってからイエス様を訪ねます。イエス様は「新しく生まれ変わる」ことが必要だと言われましたが、人間というものをよく知っているニコデモは「そんなことが誰に出来るだろうか」と問い返します。イエス様は聖霊によって新しく生まれるのだとお答えになりますが、ニコデモはまだ分からず「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか」とさらに問いかけます。

これに対してイエス様はイスラエルの教師でありながら分からないのか?問題は、イエス様のお話、働きを見ておきながら、イエス様が神から遣わされた約束の救い主であると信じるかどうかだと言われるのです。そこで今日の青銅の蛇の箇所に触れます。いのちのない呪われた存在である蛇が上げられ、信じて見上げた者がいのちを得たように、十字架に上げられるイエス様を、信仰を持って見上げる者が永遠のいのちを持つのです。

彼は後に、イエス様が十字架につけられる場面に立ち会っていました。この時のイエス様との会話を鮮明に思い出したはずです。

蛇が忌まわしい生き物であったように、十字架に磔にされることは罪と汚れを背負った忌まわしい者と見なされることです。「神の子なら十字架から降りてみろ」「他人を救ったのに自分を救えないのか」と言われても、力なくうなだれているイエス様にもはや何かを救う力が残されているようには見えませんでした。そして数時間後には完全に息絶え、死せる者となったのがイエス様です。

しかし十字架にかけられ呪われた者となって死ぬことで人々に赦しと永遠のいのちをもたらすことが神様のご計画です。

十字架のイエス様を信仰をもって見上げることが、私たちが救われるただ一つの道です。ニコデモはその救いを得るために何かをすることとか、知的に理解することではなく、神が備えられた救い主を信じて見上げることこそが必要なのだと知る必要がありました。青銅の蛇の出来事はそのことをよく現していたはずなのです。

すべてを見届けたニコデモは、イエス様の仲間だとバレるのを恐れた弟子たちとは正反対に、アリマタヤのヨセフとともにイエス様の遺体を引き取り埋葬の準備をして、彼なりの信仰を表明します。

使徒ヨハネはニコデモとのこの会話をまとめるように16節でこう記しています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

青銅の蛇を備えた神様には反抗的なイスラエルの民にたいする憐れみがありました。それ以上に、すべての人のためにイエス様を十字架に向かわせた背後には、神様の深い愛があるのです。青銅の蛇を見上げることが何で救いになるのかと問うより、神の愛とその言葉を信じて見上げることが大事だったように、イエス様の十字架と私たちの罪とどうすればリンクするのかとか、頭で理解する前に、この方を信じるようにと言われた神様の愛を信頼してイエス様を見上げましょう。すでにイエス様を信じている人たちも、私たちが完全な赦しと永遠のいのちの中にあることを思い起こすために何度でもイエス様の十字架を見上げましょう。

祈り

「天の父なる神様。

荒野で旧約の民が苦しみの中で悔い改めた時に、神様が青銅の蛇を備えて、これを見上げよと言われた出来事を通して、信仰をもってイエス様を見上げることを深く思い巡らすことができました。

私たちのために呪われた者、死せる者となられたイエス様を、私たちは、私たちの救い主として、あなたの愛のしるしとして、信じます。どうぞ私たちを救い、完全な赦しといのちの中に守っていてください。この確信と平安の中に留まれるように、いつもイエス様の十字架を思い起こし見上げさせてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA