2024-03-24 この思いを抱いて

2024年 3月 24日 礼拝 聖書:ピリピ2:5-11

 皆さんは、誰か憧れの人や見習いたいと思っている人はいるでしょうか。「自分のライバルは自分です」みたいなタイプの人もいるでしょうが、「こうなりたい」と思わせてくれる人に出会えるのは素晴らしいことです。私が中学生の頃は今で云う中二病に見事に冒されていたので、ブルース・リーの強さに憧れていましたが、大人になるにつれて、特定の誰かのようにとは思わなくなりました。その代わり、個人的に知り合えたり書籍を通して尊敬できる様々な人たちとの出会い、強い影響を受けて来たと思います。

私たちの人格形成において、モデルや憧れの存在はともて大切です。たとえ周りに良い模範となる人がいない不幸な環境だったとしても、それでも必ず影響は受けるものです。逆に言えば、この社会にいる限り、自覚がなくても私たち自身が次の世代の良い模範になったり悪い模範になったりしています。

今日は「棕櫚の日曜日」と呼ばれ、イエス様が棕櫚の葉の敷かれた道をロバの背に乗ってエルサレムに入場したことを記念する日で、今日から十字架に向かう受難週が始まります。

そして今日開いている箇所はピリピにある教会に書き送られたパウロの手紙です。この箇所には当時歌われていた讃美歌の歌詞と言われる詩を引用して、十字架に向かったイエス様に倣うように・イエス様を模範とするようにと教えている箇所です。

1.イエスのうちにある思い

まず5節ですが、「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。」とあります。

私たちは、イエス様のうちにある思いを自分たちの思いとして持つように、しかも「あなたがたの間で」ということですから、教会の交わりの中でキリストの思いがしっかりと共有されることを命じています。

ここで「この思い」と訳されている言葉には、考え方とか思考、精神といった意味合いがあります。つまり、表面的にイエス様の行動を真似するとか、クリスチャンっぽいお決まりの習慣を守るということではなく、イエス様と同じ心を持って考え、行動するようになりなさいということです。

伝統ある学校や組織に加わると「○○精神を宿そう」というようなことが言われます。会社によっては朝礼の度に、社訓を唱和して会社の精神を社員に徹底させるというようなところもあるでしょう。

神の民とされたクリスチャンは、神様の御国という新しい共同体に加えられたのですから、古い精神に代わる、新しいキリストの精神を心にしっかり宿す必要があります。というのも、それがないと、私たち人間には、絶えず交わりをバラバラにし、損得で考え、自分の権利や欲求のために他者や組織を利用しようとする精神が悪い道へと導いてしまうからです。

パウロが手紙の中でピリピのクリスチャンたちに警戒すべき、古い精神、考え方、態度をいくつかあげています。1:15では福音宣教に熱心な人たちの中には「ねたみや争い」が動機になっている人たちがいると指摘しています。

2:3では「利己的な思いや虚栄」を動機とした行動や態度を改めるよう促して、今日の箇所へとつなげています。

3:2には「犬どもに気をつけなさい」と、ワンコを家族のように思っている私たちにはちょっと辛い言い方ですが、まあ、これは昔の慣用句ですから仕方がありません。何を言っているかというと「悪い働き人たち」に気をつけるようにということです。キリストの心を宿さず外面的なしるしに頼るような教師、指導者たちがいたのです。当然そういう人から指導を受けたクリスチャンもキリストの心を理解せず、外面的にクリスチャンっぽく振る舞うだけの者になってしまう可能性が大です。

問題はそういうことが人間の罪の性質に根ざしたものであるために、特定の悪人だけのものでなく、誰にでもあることだということです。外面的なしるし、例えば持ち物とか学位とか礼拝の出席率とか聖書を何回通読したかとか目立った奉仕をしたとか、そんなことを自慢げにするクリスチャンが時々います。一方でそういう姿に反発し、心の中で見下したり、逆に勝手気ままな生き方をして自分はもっと自由だと言い張るクリスチャンも時々います。そういう人たちが周りに押しつける律法主義的な雰囲気だったり、他人の良心を踏みにじるような言動が人を傷つける様を見ることがあります。キリストの精神をしっかり私たちのものにしなければ、私たちは自分のうちにある、キリストの精神あらざるものにいとも簡単に取り込まれ、自分が何に捕らわれているかも気付かないで、周りに毒だけまき散らすことになりかねないのです。

2.へりくだりと高挙

そこでパウロは3:5~11で当時よく知られていた讃美歌を引用し、そのキリストの精神がどのようなものかを伝えます。

内容としては大きく二つに分かれます。6~8節がキリストのへりくだりの姿を描き、9~11節は神がキリストを高く引き上げてくださったことを描きます。では中身を見ていきましょう。

6節「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず」

ここでイエス・キリストは目で見ることのできない神が私たちの目に見える姿を取られた方であると言われています。つまり、イエス様は神ご自身なのだということです。そんな方が、神としてのあり方を捨てられないとは考えなかった。「考えず」というのは「固執しない」「拘らない」という意味の言葉が使われています。私たち人間のために神としての栄光や権威、力で捨てても構わないと考えてくださったのです。

7節「ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました」

この箇所はイザヤ53:3や8節と深いつながりがあります。「苦難のしもべ」と呼ばれるキリストについての預言の箇所ですが、そこに描かれているのは人々からの酷い言葉や扱いを受けてもそれを甘んじて受けている姿です。へりくだって自分の本来の立場や威光を笠に着ない態度というのは、自分の心構えとしてそうだというだけでなく、尊厳を傷つけられるような他者からのさげすみの言葉や仕打ちを受けたときにそれをどう受け止めるに現れます。そしてイエス様のへりくだりは、すべての人間がそうであるように、やがて訪れる死を受け入れました。永遠のいのちそのものである方が死ぬということは神としてのあり方の根本まで捨てるということです。しかもその死に方は十字架という、神に呪われた者として死ぬことです。それが父なる神が人々の救いのために備えた道だったからイエス様はしもべとして、仕える者として、十字架の死に従いました。

しかし讃美歌はそこで終わりません。後半の9~11節ではへりくだり死にまで従われた方を父なる神が「高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました」と、死からのよみがえりと天に上げられ父なる神の右の座に着かれたことに触れます。「すべての名にまさる名」とは10節にあるように「イエスの名」ということです。私たちはイエス様というお名前に、本来神であるのに、その栄光も特権も捨てて人となって生まれ、仕える者になり、人々からのさげすみも受け止め、呪われた者として死ぬ十字架の死にさえも従った方の姿を重ねます。同時に、イエス様というお名前に天に上げられすべての王の王として世界を治める方、主なる方であることを思います。

今私たちが、すべてのものの主と告白するイエス・キリストによって救われ、新しいいのちをいただいて生きられるのは、ご自分を捨て仕える者となり、呪われた者とされることもいとわずに十字架の死にまで従われたイエス様によります。そのへりくだりとしもべとしての生き方、人々に対する態度、神のご計画に対する従順こそが私たちがしっかりと目を留めるべきキリストの精神、イエス様のうちにある思いです。

3.この思いを抱きなさい

さて5節に戻って、パウロを通して私たちに勧められていることをもう一度確認しましょう。

「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。」

パウロがピリピ教会の、そしてすべてのクリスチャンに勧めていることは、イエス様の思いを同じ交わりの中にあるクリスチャンたちが共有するということです。教会の中でちょっと思い上がっているんじゃないか、という誰かその人だけが「もっとへりくだれ」ということではなく、誰もがお互いに対してへりくだり、仕える者のようになりなさいというのです。

あるいは、他の人は関係なく自分が遜った謙虚な人を目指せばいいということではありません。もちろん私たちが変えられるのは自分だけですから、自分のこととしてイエス様のうちにある思いを自分のものとしなければなりません。しかし、いつも私たちの目には他の兄弟姉妹の姿が映っていなければなりません。実際問題として、教会の交わりはキリストの心を持たないままでいるなら、妬みや争い、うわっつらだけのクリスチャンらしさによって悩まされ、苦しみ、傷つけられるのです。

しかし私たちはへりくだってくださったイエス様によって救われ、主として上げられたイエス様によって、そのご支配の中にある御国の民とされた者です。その絆はこの地上にあっては教会の交わりとして私たちに与えられています。ですからイエス様がそうされたように、相手を自分より優れた者と思い、相手を自分が仕えるべき人と考える。そして自分の権利や利益より、他の人を顧みることを第一にする。そんな考え方と態度をキリストの精神、イエス様のうちにある思いとして私たちは共有しなければならないのです。

しつこいですが、教会は私たちのためにへりくだって十字架の死をもって救いを成し遂げたイエス様が、今は私たちの主として、この教会の主として立っておられるのです。「イエス・キリストは主です」と告白する私たちは、福音に相応しい生活をするよう召されており、その中心にある生き方、その精神は、イエス様のうちにある思い、へりくだり、仕える者になるということなのです。

そのような考え、態度、精神によって生きる時、私たちの人生や教会の交わりに何が起こるでしょうか。へりくだった者が高く上げられるというのは、聖書全体で繰り返されるパターンです。それはイエス様をキリストとして信じたクリスチャンにも当てはまります。続く12節以下にその答えを見る事ができます。死と滅びの中からよみがえって高く上げられたイエス様のように、罪に捕らわれ滅びに向かうはずだった私たちの救いが達成され、この時代の中で「傷のない神の子ども」として認められ、「世の光」として輝けます。イエス様が帰って来られる時には、私たちのすべての労苦が無駄ではなかったことを知り、誇ることができるのです。

私たちがイエス様の心を自分の心として生き、教会の交わりがそのような関係でしっかり結び合わされているなら、どんな困難に悩んだり、弱ったりしても、周りで認めてくれる人がいないような状況だったとしても、「あなたがたこそ私の自慢の子どもたちだ」と神様は誇らしげに喜んでくださり、この世にあってキリストにある希望の光を灯す者となるのです。

適用:セルフチェック

受難週が始まる棕櫚の日曜日に、このようなかたちでイエス様のうちにある思いがどのようなもかを考える時が与えられたのはよい機会でした。へりくだって十字架の死にまで従われたイエス様を私たちは自分たちの主、キリストと告白します。そのお方に相応しい生き方、イエス様のうちにある心を自分たちのものとして共有するよう勧められている私たちはどうしたら良いでしょうか。

まずすべきはセルフチェックではないかと思います。他人がどうこうは誰でも言えます。本当のことを知らなくても好き勝手言えますから、あの人は謙遜だとか、あの人は傲慢だとか言ったり、口にしなくても考えるものです。しかし、自分を自分で評価するというのは、本当に正直にならないとできません。まず、その時点で私たちの謙虚さが試されかもしれません。

子どもの頃、お小遣いの金額を決めるのに一ヶ月の自分の生活を自分で評価しなければならない時期がありました。まあ、なかなか難しかったです。評価が良ければお小遣いが上がるわけですから、少しでも良く言いたい。でも、あまり良く言いすぎるとわざとらしいからそこそこの評価を狙って申告するという、子どもらしからぬ忖度を覚えてしまいました。それは本当の意味での自己評価ではありませんでした。損得が関わったりプライドの問題があるとなかなか正直になれませんね。

セルフチェックの第一のチェックポイントは、プライドや優越感のために行動していることはないかということです。「感謝されるためにやっているのではない」と言いながら、感謝してくれないと腹を立てたり、「神様が見ていてくださるから十分」と言いつつ、周りからの評価や称賛が十分でないことに内心いらいらしているというようなことはないか。自分の口で何を言っているかではなく、心で何を感じているかをチェックする必要があります。

第二のチェックポイントは他の人に対してへりくだり、仕える者であろうとしているかです。これはまず目の前にいる人をどういう人として見ているかが問われます。聖書は「互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい」と命じています。すぐれている、という言葉には能力的な優劣だけでなく、立場の優劣という意味があります。たとえば奴隷と主人の関係のように、相手を尊重し仕えるべき相手だと考えることです。自分が仕える側なんだと考えていれば、誰かに何かをしてもらったら「ありがとう」という言葉が出てくるはずですし、自分が相手にしたことで感謝や評価がなくてもいちいち気にする必要はありません。

また尊敬、敬意をもって人と接しているか、口調や態度に横柄さや上から目線がにじみ出ていないか。

最近流行のコンプラ意識や表面的なハラスメント対策として気をつけるというのではありません。大事なことは私たちの心にイエス様の心が宿っているかどうかです。自分の考え方、他の人に対する態度はイエス様の姿に似ているだろうかと、自分を第三者の視点で眺めてみてください。もちろん、足りないこと、失敗することは多いですから「イエス様に似ている」とはなかなか言えないかもしれません。でも、そうあろうとしているのか、口では言っても実はそれを求めていないかどうかは分かるはずです。

そうしたことを自ら確認しながら、悔い改めながら、まずは自分自身がイエス様の心を抱いて人に接する者となりましょう。そして主にあって結ばれたこの教会の交わりが、本当にイエス様のうちにある思いを一緒に抱いて、謙遜で仕え合う交わりとなることを心から願い求めていきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

主イエス様がろばの子の背にのって柔和の王、平和の王としてエルサレムに入場されたことを覚えるこの主の日に、イエス様のうちにある思いを抱いているかと問いかけてくださりありがとうございます。

どうか私たち一人ひとりをへりくだり仕える者としてください。互いを敬い、仕え合い、高め合う、そのような交わりを教会の中で育んでいけますように、祝福して導いてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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