2024-03-03 善良であるように

2024年 3月 3日 礼拝 聖書:ペテロの手紙第二 3:13-18

 最近「コスパ」とか「タイパ」ということがよく聞かれます。値段の割にはメリットが大きいことや短時間で大きなメリットが得られることが好まれます。しかも、そのコスパの良さみたいなのは、自分で買ってみてということではなく、試す時間やコストがもったいないから、ネット上で評判が良さそうなら買う、という人が増えているのだそうです。

ショッピングだけでなく映画やドラマ、小説などを見たり読んだりする前に、ネットで評判を調べてインフルエンサーが面白と言ってたら見る、評価が低ければ見ない、という傾向も増えているという話しも聞きました。最初からつまらないと言われているものにわざわざお金や時間を割くのは無駄だというわけです。確かに、自分も星何個ついているかがお店や商品を選ぶ目安にすることがありますから、良し悪しは別として有り得ることかなと思います。

その点、キリスト教信仰によって生きることはコストパフォーマンスもタイムパフォーマンスも、短期的にはめちゃめちゃ悪い、星1つという評価をされるかも知れません。しかし、クリスチャン生活はこの時代には合わない、コスパの悪い、融通の利かない生き方ということではありません。聖書は人生の幸いということについてこの世の考え方とはまったく異なった視点を私たちに教えます。

今日はペテロの手紙から学んでいきましょう。1.御国は私たちのもの

ペテロの手紙は紀元63年か64年頃にローマにいた使徒ペテロによって小アジアと呼ばれていた地域の諸教会宛に書かれました。

第一にペテロは、読者であるクリスチャンたちが苦難の中にあることを承知の上で、それでも私たちは幸いである、天の御国は私たちのものだから、というイエス様の教えに倣って勧めます。

13節にあるように、クリスチャンが善良な生活、良い人間関係を保つなら、基本的にクリスチャンではない人たちから悪意が向けられることはありません。

とある雑誌の記事で、朝の連続テレビドラマの人気と不人気の違いは何かということの分析が書いてありました。好感をもって見られるドラマの特徴の一つとしてこんなことが書かれていました。「豊かな自然と善行に人はホッとする」。なるほどと思わされました。岩手が舞台になった朝ドラも三陸沿岸の美しい景色や岩手山をバックにした一本桜が観る人を魅了しました。人の良い人、優しさ、助け合い、寛容さ、傷付いた人に寄り添う人、励ます人、弱い者の見方になる人…たとえドラマだとしても、そういったものにホッとし、励まされ、何となく希望を持つものかもしれません。

聖書が言う善良さというのは御霊の実に見られるように、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制とどれをとっても良いものであり、他の人を幸せにしたり良い影響を与えるものです。多くの場合、親切な人や寛容な人は喜ばれます。

しかしながら14節に「たとえ義のために苦しむことがあっても」とあるように、例外的に私たちが善良であろうとするために苦難に会うことがあるのです。

迫害という言葉からローマ帝国時代や日本のキリシタン時代の過酷な迫害を思いうかべてしまいやすいのですが、もう少し日常的な信仰の試練も迫害と捉えています。例えば2:12では「彼らがあなたがを悪人呼ばわりしていても」とあり、また15節には「愚かな者たちの無知な発言」、3:9には「侮辱」という言葉もあります。これらは「悪口」や「誹謗中傷」と言うことができます。

また2:19にはクリスチャンの奴隷が未信者の主人から受ける「不当な苦しみ」とあります。意地悪な扱いを受けるようなことです。また3:1では「みことばに従わない夫」とあります。クリスチャンでない夫が妻のクリスチャンとしての生き方に反対したり、嫌がったりすることはよくあることだったでしょう。それは今も変わらないと思います。

こうしてみると、ペテロの時代のクリスチャンたちと現代の私たちが経験することはそれほど大きな違いはないと言えるのではないでしょうか。そんな苦難を味わうクリスチャンたちにペテロは14節でこう続けます。「あなたがたは幸いです」。

少し前の9~12節を見ると、やはり悪や侮辱に仕返しをするのではなく祝福するように教えていますが、その理由は私たちは祝福を受け継ぐために召されたからです。12節にあるようにその祝福とは主が私たちとともにいてくださるという揺るがない土台の上に立っています。この祝福をイエス様はマタイ5:10でこう教えています。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」迫害の中にあっても天の御国はすでに私たちのものであることを思い出すよう励ましているのです。2.状況は主が支配している

第二に、ペテロはたとえ困難な状況であってもその状況も主が支配しておられることを確信するよう教えています。

14節後半から15節前半に注目しましょう。

「人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。」

人の脅迫はもちろん怖いものです。ものすごい形相をした人が大声で怒鳴りながら脅して来たら、それは普通に怖いです。そういう感情的、本能的な反応を否定してはいません。しかし人を恐れることはこの怖い状況を支配しているのが相手だと思っていることです。そこで本当はその人が状況を支配しているのではないと認識を変え、怖さや怯えに支配されないようにということです。

元サッカー日本代表の選手が、ゴールを決めなきゃいけないというプレッシャーに負けて失敗しがちな選手が多いことに触れながら、こんなことを言っていました。「ボールを持っているのは自分で、100%どこを狙ってもいいわけだから、慌てているのは自分じゃなくて、ゴールキーパーとディフェンスだって思うと、気持ちが楽になる」。状況の見方を変えると意識が大きく変わります。

状況を支配しているのが脅したり意地悪してくる相手だと思うと必要以上にプレッシャーになり、恐れになります。

心理学では、恐怖心はコントロールできるものだと教えます。恐怖心は相手から押しつけられ、逃げられないものではなく、自分の心の中から出てくるものです。そして自分の心の中から出てくるものは私の手の中にあるものだから、手放すことも出来るというわけです。とはいえ、圧倒的に力の差があったり、主人と奴隷のような上下関係や夫と妻のような立場の差があるとそう簡単には恐れや怯えを手放すことができません。

そこでペテロは心理学的な処方箋を超えてこのように教えます。「心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。」

この箇所は、イザヤ8:12~13の聖句とよく似ています。 

11節から読んで見ます。「まことに、主は強い御手をもって私を捕らえ、この民の道に歩まないよう、私を戒めてこう言われた。「あなたがたは、この民が謀反と呼ぶことを何一つ謀反と呼ぶな。

この民が恐れるものを恐れてはならない。おびえてはならない。万軍の主、主を聖なる者とせよ。」

イエス様を主とする、聖なる方とするというのは、単にイエス様は主なんだ、聖い方なんだと思いうかべることではありません。この困難な状況を含め、私たちの人生、この世界の主はイエス様だと告白することです。

シュートを決めなきゃいけないストライカーが目の前に立ちはだかる屈強なディフェンスやゴールを守る鬼の形相のキーパーに萎縮してしまうように、私たちがクリスチャンとして誠実に、善良であろうとするときに、邪魔してくる者、それを面白くなくて脅したり悪口を言う人、意地悪する人がいると、萎縮してしまい、思うように行動できなくなるかも知れません。でもその反対者は私の人生の支配者ではないし、この世界の主でもありません。私たちの主、そしてこの世界を治めるのは、私たちのために罪を贖ってくださった主です。反対する人に向かってわざわざ口にする必要はありませんが、イエス様が私の主だと心の中で告白し、確信しましょう。3.むしろ機会として

第三に、ペテロは私たちが善良であろうとすることで苦難があることを、むしろ機会と捉えるようにと励まします。

15節で「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明ができる用意をしていなさい」とあります。

これまで見てきたように、クリスチャンとしての本来の生き方は多くの場合、周りの人たちに安心や好意をもたらします。優しさや寛容さ、正直さは誰でもホッとするものだからです。しかし時に反発したり、キリスト教の教えに反対する人がいて、それが実際に悪口や嫌がらせというようなことに発展してしまうことがあります。

それでも幸福は逃げ出したりはせず、私たちはなおも御国の祝福の中にあることを思い出すように。そして心の中で、この状況も含めて支配しているのは相手ではなくイエス様なのだと心の中で告白するよう教えています。物事の見方を変えなさいというわけです。

反対や悪口に対して反撃したり権利を主張して戦ったりするのではなく―もちろん信仰の自由や権利を守ること、勝ち取ることも大事なことではありますが、むしろ静かに、あくまで穏やかに善良であろうとし続けるなら、クリスチャンの生き方や態度に、興味を持つ人たちが起こされます。

2:11~12でもペテロはクリスチャンはこの世界にあって旅人として歩む意識を持つよう教えています。クリスチャンではない人たちの間で立派に振る舞うなら、悪く言う人たちもある日気付きが与えられ、神を崇めるようになるだろうと励ましています。

そのように、好意的に見ていた人たちだけでなく、反対したり悪口を言っていた人たちからも「どうしてそういう生き方ができるの」と聞かれる時が来るから「弁明」できるように用意をしておきなさいとペテロは勧めます。最も良い例は3:1にあるように無言の振る舞いが相手に気付きを与える場合です。反対があっても良い生き方ができたワケは何かという問いかけに、私たちの持つ希望が生活、心の有りようや人に対する態度をどのように変え、励まされているか証言できるように用意しておきなさいということです。

この「用意」には二つの面があります。まず「あなたがたの希望について」とあるように、語る内容です。福音の基本的な知識と、イエス様が与えてくれた希望を自分のこととして話せる準備をしておきなさいということです。

そしてもう一つが態度と動機です。「柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい」。相手を攻撃したり、論破しようとするのではなく、静かに、聖霊が相手の心を動かしてくださることに信頼して話しなさいということです。

そして重要なポイントとしてペテロが指摘しているのは、苦難が証しの機会になるということは、イエス様の生き方と実の結び方に倣う生き方であり、ものの見方であるということです。

17節にあるように「神のみこころであるなら」とあるように、クリスチャンだからといって全ての苦痛を引き受けるべきだと言っているわけではありません。私たちが救われたのはイエス様が十字架で私たちの代わりに苦しみを引き受けてくださったのに似て、私たちが苦しみを引き受けることが、誰かの救い、だれかの希望に成り得ることを私たちは覚えておくべきです。適用:誰かの希望に

今日は受難節第3週目ですが、開いているペテロの手紙から学んだことは、私たちが苦難に会うとしても幸いだという聖書の人生観と言えるのではないでしょうか。

私たちが生きている時代の幸福の尺度は人によって大分違いますが、大方の尺度は自分を中心に測られるものです。コスパの良し悪しだって自分が基準です。自分が望む生活水準にあるとか、望んでいるライフスタイルが実現できているとか、家族に恵まれているとか、人それぞれに基準は違うし、5割程度で満足できる人もいれば9割くらいじゃないと満足できないという人もいるでしょう。しかし、いずれの場合でも、幸福の測り方を自分の望みがどれくらい達成できているかに置きます。苦難は時として教訓を学んだり、大事なことに気付くきっかけにもなると分かっていますが、あくまでも許容範囲の中での話しです。迫害によって命を落とすような、希望をぶち壊すほどの苦難は受け入れがたいものです。

それに対して、聖書は苦難があっても私たちは幸いだと語ります。それは幸福の基準を自分の望みがどれくらい達成できたかではなく、私たちを愛し、私たち共にいてくださるイエス様が共にいてくださることに置くからです。

もちろん、できれば苦難は避けたいです。すべての苦痛を我慢して耐え忍ぶことがクリスチャンの生き方というわけではありません。しかし、クリスチャンとして愛と真実、正直で公正、柔和で寛容、裏表のない善意といったことを私たちが身につけよう、行動で現そうとすると、それを煙たがる人たちがいて、時には厳しい迫害として襲いかかることもあります。そういう中でも、私たちは悪意や敵意を向ける人たちを恐れたり、萎縮したりするのではなく、この困難な状況も含めてイエス様の御手の中にあることに慰めを得ることができます。つまり私たちは今このときも天の御国の中にあることを思い起こして、だから大丈夫だと平安を取り戻し、揺るぎない愛と、受けている労苦への十分な報いがあることに喜びと希望を見出すことができるのです。

そして私たちが苦難の中にあっても幸いであることの最も特徴的な面は、私たちの受ける苦難が、他の誰かの救いや希望になり得るということです。それは愛の最も優れた側面です。

クリスチャンでなくても、例えば親は自分が苦労しても子どもが幸せになってくれたら十分に幸せを感じられます。愛する誰かのためだったら苦労があっても頑張れるのではないでしょうか。そんな愛をイエス様は十字架の犠牲を通して完全に現してくださいました。私たちが受けるはずだった罪の報いをイエス様が十字架の上で引き受けてくださったので、私たちは赦され、新しく生きることができます。そんな愛を私たちはイエス様から受け取り、この愛に支えられ、この愛に倣って生きるよう召されました。

私たちに出来ることはせいぜい、悪口や嫌がらせがあっても誠実に善良であろうとすることくらいです。そして誰かに「どうしてそんな生き方が出来るのか」と聞かれた時に、私たちの希望について証しすることくらいです。私たちに誰かを救う力はありませんし、私の話を聞いてイエス様を信じてくれるかどうかは分かりません。ただ、聖霊様のお力に信頼し、その証しがその人の中で種となり、いつの日か芽を出すこと期待して話すのです。そのためにも、苦難があっても幸いであることを思い起こし、また私たちの希望を証しするためによく備えておきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

私たちがイエス様にならって歩もうとするとき、イエス様のゆえに優しくまた正直に生きようとする時、時として思いがけない反対や苦難に会うことがあります。それでも天の御国はあなたがたのものだと言われたイエス様のお言葉を信じて感謝します。苦難の時も私たちを愛しておられるイエス様がともにいてくださることを思い出させてください。そして、そのような時が証しの機会となり、私たちの受ける困難が誰かの幸いにつながり得ることを覚えて、期待をもって備えさせてください。誰かが私たちの希望について知りたがる時に、喜んでお話することができるように準備しておけますように。

イエス様のお名前によってお祈りいたします。」

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