2024-02-18 踏み出す前に

2024年 2月 18日 礼拝 聖書:マタイ 4:1-11

 伝統的な教会のカレンダーによれば、今週から受難節に入ります。レントという呼び方もされますが、イースター前の一ヶ月ちょっとの期間、イエス様が苦難を受けたことを思い起こして礼拝する期間というふうになっています。

そんなわけで今日選ばれた聖書箇所は「荒野の誘惑」と呼ばれる、イエス様が40日の断食と悪魔の誘惑を受けた箇所です。

私たちは日頃の生活で様々な誘惑に会います。最近の私の誘惑はふらっとラーメン屋さんに飛び込みたくなるというものです。ラーメンは禁止されてはいませんが、塩分を取り過ぎないようスープまで飲まなければ大丈夫と言われています。とはいえ、やはり塩分量が多いのでそう頻繁に行くわけにはいきません。そう思うと逆に食べたくなってしまいます。しょうもない誘惑ですが、私たちが経験する誘惑は何らかの欲求と結びついていることが多いのは確かです。そして、今日考えたいことは、私たちが経験する誘惑とイエス様が経験した誘惑にどんな関連があるか、ということです。

私たちは悪魔との直接対決みたいなことはないかも知れませんが、実に様々なかたちの誘惑に直面し、しばしばその戦いに負けてしまう者です。イエス様が誘惑を退けたやり方は私たちにとって助けになるのでしょうか。

1.人は何によって生きるか

最初の誘惑は、「人は何によって生きるか」という私たちの生き方の根幹に関わるものです。

実は、荒野の誘惑でイエス様が経験した誘惑は、旧約時代にイスラエルの民がエジプトを脱出した後で荒野を旅する中で陥った誘惑をイエス様が追体験しているような流れになっています。

そして悪魔の誘惑に対してイエス様は申命記から引用して対抗しているのですが、それらの言葉は、荒野の経験を振り返ったモーセが、旅の間の失敗を教訓にして語る内容です。それは、今から約束の地に入ってその地を占領するという使命を果たすために改めて肝に銘じるために語られたものでした。

イエス様はこれから人々の前に公に表れ、福音を語り始めることになっています。その先には十字架のうえで人々の罪を贖うという大きな使命が待っています。そこに向かうために、かつてイスラエルの民が失敗した誘惑を追体験し、それらを退けた上でご自分の使命を果たす必要があったのです。

イエス様は過ちに陥りやすい人間の代わりに誘惑と戦って勝利し、ご自分に与えられた使命に取り組む資格があることを証明してくださいました。それとともに、これから先も誘惑に直面する私たちに道筋を示してくださっていると言えます。

40日におよぶ断食の後、当たり前のことですが、イエス様もお腹が空いて来ました。そこに満を持して悪魔が登場します。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」。

空腹なときに食べ物を欲しがるのは罪ではないし、当たり前のことです。そしてイエス様にはその力もありました。

これに対するイエス様の答えを見ると、この誘惑で何が問われていたかが分かります。イエス様は申命記8:3を引用して答えていますので、開いてみましょう。

この箇所はイスラエルの民が荒野でパンを欲しがって神に文句を言う民にマナを与えたことを思い出させて、「あれは人がパンだけで生きるのではなく、神のことばによって生きることを教えるためだった」と教訓を述べています。もちろん聖書を読んだからといって腹が満たされるわけではありません。ここで問われているのは人としての生き方、神の民として生きることについてです。自分の必要や欲求を満たすことを第一にする生き方を選ぶか、神がみことばを通して示す生き方を第一にするのか。

神様が聖書を通して私たちに教える生き方の原則を学ばず、求めないが、神は信じるという人がいたら、その人は荒野で失敗したイスラエルのように自分たちのために神の力を利用することを求めるだけの者です。そして悪魔が私たちをそそのかすのは、神のことばを求めるのではなく、自分の欲望や必要のために神の力だけを求めるような者になることです。イスラエルの民は毎日マナを与えられて食べることに困らず荒野を旅しましたが、神に聞くより自分たちの暮らし向きのことばかり考えていました。そんな最初の世代は旅の途中で滅び、約束の地に入ることはありませんでした。そこから教訓を学ぶべきなのです。

私たちは神のことばを求め、学び自分のものとして吸収しながら生きているでしょうか。それとも自分のために神の力を求めるだけでしょうか。

2.神との信頼関係を試す

第二の誘惑は、場面がエルサレム神殿の屋根の端に変わります。実際にはユダヤの荒野にいたわけですから、幻の中でということかもしれません。幻覚を見たことのある経験から言うと、それが実際に起こったことか、幻の中であったかということは、誘惑のように心に働きかける戦いにとってはどちらでも関係ないという感じがします。悪魔はどうやってイエス様を20m以上はあったと思われる神殿の頂につれて行けたのか、悪魔が超自然的な力でイエス様を神殿の頂きに立たせたのか、それとも幻を見せたのか、というのは重要なポイントではありません。

悪魔はイエス様に聖書のことばを引用してそそのかします。イエス様が聖書のことばを引用して誘惑を退けたからでしょうか、ならば我もと、聖句を持ち出します。

6節で悪魔が引用しているのは詩篇91:11です。「いと高き方の隠れ場に住む者 その人は 全能者の陰に宿る」という有名な出だしで始まる詩は、神への信頼を告白する詩人に、「わたしは彼に答える」と応じてくださるように、神への信頼と、信頼する者への神の愛を歌ったものです。その中での神の守りと支えの詩的表現として「主が あなたのために御使いたちに命じて あなたのすべての道で あなたを守られるからだ」と歌っています。

悪魔はこのことばを使って、「さあやってみなさい」と挑戦したのです。

マタイの福音書に戻ってみましょう。それに対してイエス様は7節でもう一度申命記から引用して応えます。イエス様が引用しているのは申命記6:16です。また開いてみましょう。

「あなたがたがマサで行ったように、あなたがたの神である主を試みてはならない。」とあります。ここでも荒野の旅の中での経験を教訓にするようにと教えています。 このマサでの出来事というのはとても象徴的な事件で、聖書の中で度々言及されます。出エジプト記17章に、そのマサでの出来事が記されています。

食べ物のことで神様に文句を言ったイスラエルの民にマナが与えられ旅は続きます。すると今度は「水がない」と言って民はモーセに楯突きます。モーセは「なぜ主を試みるのか」と警告を発しますが民の不平と怒りはエスカレートし、「神は俺たちを砂漠で死なせるためにエジプトから連れ出したのか」と騒ぎだし、今にもモーセを殺さんばかりの勢いでした。

奴隷だったエジプトから救い出し、約束の地へと向かわせてくださっている神様に、何のためにエジプトから救ったのかと、神様の救いと真実を試すようなことを言ったように振る舞ってはいけないと、モーセは約束の地を目の前にした民に「あの時のように主を試みてはならない」と語りかけたのです。約束の地は目の前に拡がっていましたが、その地を手に入れるには大変な労苦と犠牲が伴います。そのような時に神との信頼関係を試すような言葉や態度を吐いたりしないで、主に信頼してその言葉に従うなら幸せになり、約束の地を所有できるとモーセは教えました。

イエス様はこれから先、人々の反対や妬み、怒りを一身に受けながら十字架の苦しみを引き受けることを通して、この地に神の平和と愛をもたらす使命が待っています。その実現のためには神を試すようなことではなく、信頼し続けることが必要でした。

3.目的と神への愛

3つめの誘惑はイエス様の使命を果たすことと直接関係があります。

イエス様は約束された王、救い主としておいでになりました。究極的にはこの世界を治め、人々の平和と祝福で満たすことが目的です。それは神様がアブラハムに約束されたこと、彼の子孫を通して全世界を祝福するという契約の成就であるとともに、もっと遡るならば、アダムとエバが神の戒めを破ってこの世界に罪と死の呪いを招いた時に暗示された、やがて女の子孫がヘビの頭を踏み砕くという約束の成就でもあります。イエス様はヘビとして描かれた悪魔の手に渡った世界を本来の主(あるじ)である神のものとして取り戻し、王となるために来られたのです。

その事を知っている悪魔は、イエス様が取り戻そうとしている世界を簡単に手にする道を提案したのです。なかなか成長しない弟子たちを訓練することも、反抗的なユダヤの民の妬みや誹謗中傷を我慢することも、十字架の苦しみを引き受けることもありません。2000年以上もの時間を費やし、間違いやすい人間たちの集まりである教会を通して世界に福音を届けるという七面倒くさい方法を採らずに、あっという間に目的を果たせるのです。

しかしイエス様は三度申命記のことばを引用して誘惑を退けます。「下がれ、サタン。「あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい。」と書いてある。」

この引用は申命記6:13です。さっきの「主を試みてはならない」と同じ文脈の中にあります。開いてみましょう。

モーセは12節で「気をつけて、エジプトの地、奴隷の家からあなたを導き出された主を忘れないようにしなさい」と警告してから、イエス様の引用した言葉を告げています。それは、荒野の旅の中で、しばしばイスラエルの民がほかの神々、周りの国々の宗教に影響され、心を移してしまったという経験があるからです。その後のイスラエルの歴史の中で何度も繰り返されるのですが、偶像に心を向け、異教の様々な習慣を取り入れたイスラエルは懲らしめを受け、ついには王国が滅びるまでになったのです。そのことを知っておられるイエス様は、たとえ世界を治めるという目的が果たされるとしても、主なる神以外の何ものをも拝むようなことをするなんて考えられないことです。

イスラエルが歴史の中で神様以外のものに頼ったのは、何も偶像だけではありませんでした。ある時は経済力に頼り、ある時は軍事力に頼り、ある時はエジプトやバビロンといった大国との同盟関係に頼ったりしました。どれも現実世界の中では重視されるものですが、エジプトから救い出した神様を神として崇める忠実さをそっちのけにするほど夢中になってしまったとき、イスラエルは神の国としての役割を果たせなくなりました。

イエス様は十字架を予告した時にペテロが「それはだめです」と止めようとするので「下がれ、サタン」と諫めました。そして「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。」とおっしゃいました。イエス様が悪魔に頭を下げたら、世界を手に入れたとしてもそれはもう神の国ではなくなってしまうのです。私たちにいのちを与える神様を神とすることが私たちのいのちそのものです。それを失うわけにはいきません。

適用:明日に向かって

今日はイエス様が荒野で受けた誘惑と、それらを退けた様子をご一緒に見て来ました。

空腹という人間の当たり前の欲求につけ込んで、神のことばに聞き、自分のものとして生きるのが私たちの生き方だということを忘れさせようとする誘惑。

神は本当に信頼に値する方かを試すようにそそのかし、神との信頼関係にヒビを入れようとする誘惑。

目的達成のための安易な道を示し、使命を果たすために通らなければならない苦難から逃げることで、本来の目的とは真逆もものへと変質させてしまおうとする誘惑。

これらはイエス様が今から始まろうとしているわずか3年半の働きの中で何度か直面する困難とよく似ています。

イエス様の周りには多くの病人や悪霊につかれた人がいて、イエス様は彼らをあわれんでいやしてあげました。しかし、その力を見せろとせがむ人々、本当に神の子ならやってみろとしつこく迫る人たちがいました。十字架を前にした祈りの中で、できるならばこの杯を取り除いて欲しいと神に祈るほど、十字架の苦しみ、神から捨てられるということは恐ろしいことでした。

十字架の上で苦しむ時、神の子ならそこから降りてみろとはやし立てる人々がいました。

イエス様がこの世にあって使命を果たしていくには、そうした苦しみ、誘惑、困難を乗り越えて行かなければなりません。ちょうど約束の地を手に入れるための戦いに向かおうとしているイスラエルの民に、荒野の経験を教訓にモーセが語ったように、イエス様は今から始まる福音宣教と十字架という使命のために備える必要があったのです。

私たちはイエス様ではないので、石をパンに変えてみたら?というような誘惑はありませんし、悪魔にひれふせば世界を与えようなんて誘惑もありません。

しかし、私たちはこの世にあってイエス様の歩まれた道を歩むようにと招かれています。

一度くらいラーメンの誘惑に負けて、塩分たっぷりの濃厚なスープを飲み干してしまっても、もしかしたら笑い話で済む話しかもしれません。でもそれが当たり前の、以前のような生活に戻ってしまったら、この世でなすべき事があるはずだから神様がもう一度与えてくださった命と体を大事にして生きようという決意を投げ捨てることになりかねません。それは、神様が聖書を通して教えておられる生き方にかなうことなのかよくよく考える必要があります。

悪魔は狡猾です。「俺は悪魔だぞ」という顔をしてやっては来ません。ですが、何とか私たちがイエス様の歩まれた道から外れさせようと、あっちを見させ、こっちを見させようと誘惑します。ですから確信しましょう。私たちの生き方は、神のことばによって支えられ養われるものです。神を試すようなことをせず、私たちに委ねられた使命のために味わう苦難から逃げようとしないで神が差し出す苦い杯を神を信頼して受け取りましょう。

私たちは毎日、新しい一日が始まるごとに、今日もイエス様の道を歩むようにと召されています。その日々の一歩を踏み出すためにこの確信に立ちましょう。

祈り

「天の父なる神様。

私たちの救いのためにおいでくださったイエス様が、その使命を果たす前に荒野で試みを受けられたことを覚える時に、生きる上で様々な誘惑にさらされる私たち自身の歩みについて考えさせられます。

イエス様が誘惑を退けたように、あざやかに退けられない私たちですが、私たちのいのちが神のことばによって支えられ養われるものであることを確信させてください。神様を試すようなことをせず、神様が差し出す苦い杯も、あなたを信頼して受け取ることができますように強めてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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