2024-05-05 失敗した者のために

2024年 5月 5日 礼拝 聖書:出エジプト32:7-14

 みなさんは誰かのために「とりなしの祈り」をしたことがあるでしょうか。ご病気の方の回復を祈ったり、困難の中にある方の解決のために祈ったりすることも含まれるかもしれませんが、「とりなしの祈り」でもっとも重要なのは、失敗してしまった人、過ちを犯した家族や兄弟姉妹のための祈りです。

それはどういう祈りであるべきでしょうか。どういうつもりで祈ったらいいのでしょうか。

しばしばそのような状況ではとりなしの祈りをする前に「そんなことをするわけがない」と否定したり、「なんてことをしてくれたんだ」と責めたり、「人に知られたらどうしよう」と隠したり誤魔化す方法を考えたりすることがあります。また「とりなしの祈り」と称して祈りの中でその人を責め、裁いていることがあります。

私たちが誰かのために祈るのは、イエス様が父なる神と人との間にたってとりなしていてくださることに倣うものです。私たちはイエス様の代わりにはなれませんが、イエス様と共に兄弟姉妹のためにとりなす特別な務めが与えられています。

今日はイスラエルの民が主の怒りを買ってまさに滅ぼされそうというところでモーセがとりなしの祈りを捧げた場面を見ていきます。そこにはやがて来られるキリストのひな形が見られるとともに、私たちのためのモデルが示されています。

1.アロンと民の失敗

まず、イスラエルの民はいったい何をしでかしたのでしょうか。

「さあ、下りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道から外れてしまった。」

「早くも」とあります。何が「早くも」なのでしょう。エジプトで奴隷であったイスラエルの民は、神様が遣わされたモーセに率いられてエジプトを脱出しました。その際、不可能と思われた脱出を10の災いや海が二つに割れるといった奇跡によって道が開かれ実現するのを目の当たりにして来ました。それから約3ヶ月、シナイ半島を南下して半島の先の方にあるシナイ山のふもとに民は宿営していました。

モーセは主の命令によってシナイ山に登ります。そこでモーセは主から10の戒め、「十戒」を授けられます。山から降りたモーセは十戒と、十戒の原則を生活の様々な場面に適用した戒めを民に教えます。それから民の代表者たちとともにこの戒めを守ることを約束し、主と契約を結びます。それからモーセは再び山に登ります。今度は40日間です。その間に、主からこれから制作すべき礼拝のための天幕の設計や祭壇、香炉、など各種什器のデザイン、祭司の着る祭服やきよめの儀式についての細かな指示、さらにはこれらの制作のためのリーダーを誰にするかということまで神様から指示を受けます。主の戒めを守ると誓った民が、主を礼拝する民として歩んで行くための大事な準備です。

それらの指示の後で主はモーセに二枚の石の板を与えます。そこには主ご自身の指で記された十戒が記されていました。それらが20~31章までの出来事です。大事なポイントはすでに十戒が与えられていたということです。

しかしこの40日を待っている間、32:1で民がイライラし始め、待ちくたびれてアロンに文句を言い始めます。

民の言い分を見ていくと、モーセに対する横柄でリスペクトのない態度も気になりますが、神様についての理解がずいぶんと幼稚であったということです。「われわれに先立って行く神々」とあるように、主なる神様をそれぞれの民族や国ごとに数々ある神々の一つであるかのように理解していました。そして、他の神々のように目に見える像を作って欲しいと言い出します。明らかにこれらは十戒に反するものでした。

残念ながら、アロンはその声に押されて自ら主導して金を集め、鋳型を作り、金を溶かして流し込み子牛の像を作ってしまいます。人々は「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」と言って喜び、アロンは祭の開催を呼びかけます。「明日は主への祭りである」。全焼のささげ物と交わりのいけにえが備えられ、飲食が始まりました。これは、正式な祭儀として行われたということです。唯一の神である方を数ある神々と同列に置き、作ってはならない拝んではならないと言われていた偶像を作り、拝み、金の子牛に「主」と呼びかけ主の名をみだりに唱えたのです。みごとに十戒前半の全てを破ったのです。

十戒はすでに与えられて、信仰と生活の原則は明らかにされていましたが、イスラエルの民だけでなく、祭司となるべきアロンですら十分理解せず、具体的な適用においてはまだまだ未熟でした。

2.契約と主の怒り

主からアブラハムへの約束をなんとか伝えつつも、長い間、多神教の国であるエジプトで生活してきたイスラエルの民が神についての間違った考え方からなかなか離れられず、与えられた十戒の理解が未熟であったとしても、劇的なエジプト脱出はわずか3,4ヶ月前のことです。奴隷状態から救い出してくださった神様と民を率いたモーセをそこまで軽んじ、ついこの間、主だけを信じ、礼拝すると誓った誓いをあっさり破ってしまったことは主の怒りを引き起こしました。

ここで一つ大事な注意点があります。聖書には主が怒ったり、妬んだり、悲しんだり、後悔したりとネガティブな感情を表す場面が度々登場します。すべてをご存じで、未来を見通す力のある神様が、目の前で起こった出来事に感情を乱され、そのような反応をすることがあるのだろうかと、昔から議論されてきました。

こういう場面で主が怒る、というのは測り知る事のできない神様の心の動きを私たちにある程度分かりやすくするために、人間の感情になぞらえて描いているといるのです。ですから、人間が自分の面目を潰されて腹を立てているような怒りと同じく考えてはいけません。神様が民の頑なさややがてご自分に背を向けると分かっていても、こんなふうに実際にされたら心を痛めますし、それを人間の感情になぞらえて描くなら「怒り」ということになります。

そしてこの怒りは。イスラエルの民の行動、そしてアロンの行動が、すでに結ばれた契約に反するものだから引き起こされたものです。

20:1~7を開いてみましょう。十戒の前半部分です。

特に3節と7節には、偶像を作ったり拝んだりすることが大きな報いを招くことが警告されています。18節を見ると、モーセがこれらの戒めを受け取っている間、神の臨在によって山が雷鳴と稲妻に覆われ、煙を吐いている様子に身震いしながら見守っていました。そして24:3を開きましょう。一連の戒めについてモーセはすべて民に語り聞かせています。そして民は声を一つにして「主の言われたことはすべて行います」と誓っています。この誓いに答えて主が十戒を自ら記した石の板を与えるためにモーセは山に登ったのです。まさにその舌の根が乾かないうちに、彼らはその契約を破り、誓いを破ったのです。

結婚式を挙げた次の週に浮気をするようなもので、怒りは当然の反応です。離婚を突き付けられようが、慰謝料を請求されようが文句は言えません。

32:9で主はモーセに語りました。「わたしはこの民を見た。これは実に、うなじを固くする民だ。今は、わたしに任せよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がり、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とする。」

「わたしたこの民を見た」というのは、本質を見たという意味合いです。「うなじを固くする」というのは、馬が首を固くして乗り手の言うことを聞こうとしない状態に例えて、頑固さ、強情さを表すヘブル語の表現です。イスラエルの民の性根は強情で言うことを聞こうとしないものです。主はこの民を滅ぼし、代わりにモーセを大いなる国民とする、つまりアブラハムへの約束は彼らから取り上げ、モーセからやり直すとまでおっしゃったのです。

3.とりなしと契約

この主の告発、宣告はモーセにとっては突然のことでした。十戒が記された石の板を渡され、教えられた礼拝のための備えをこれからやるぞ、という時に、「さあ、下りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。」と思いもかけない状況を知らされたのです。

しかしモーセは「え?まさか!」とは言わなかったし、「それは本当ですか」と言って確かめようともしません。「やっぱりそんなことになってましたか」と他人ごとのように突き放してもいません。

モーセはすぐさま主に嘆願し始めました。11節です。

モーセのとりなしの祈りは非常に論理的です。ある意味、神様を説得しようとしているというか、弱い立場の者が上の者と交渉する時の知恵深い論理を駆使しているのです。モーセのとりなしの祈りには3つの強調点があります。

まず、この民は確かに未熟で愚かでしかも強情ですが、それでも主ご自身の民です。主はこの強情なイスラエルの民をモーセに7節で「あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民」と言っておられましたが、モーセは11節で「あなたが…エジプトの地から導き出されたご自分の民」と言い返しています。そうです。確かにモーセが率いて脱出したのですが、ことをなしたのは神様ご自身です。モーセの民である以上に主の民なのです。それを怒りで滅ぼすとはどういうことですかと訴えているのです。

二つ目は主が民を滅ぼしたら神様の評判に関わるのではありませかと訴えます。12節「どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。」救いの目的を思い出してくださりと訴えていると言えます。

そして三つ目は13節ですが、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い出してくださいという訴えです。もちろんモーセもアブラハムの子孫です。イスラエルという名を与えられたヤコブの子孫です。しかし、主が約束されたのはアブラハム、イサク、ヤコブの子孫を増し加え、祝福するというものでした。その大半を滅ぼし、モーセの子孫だけを祝福して新しく神の民とするのは契約にもとるのではないですかと訴えました。

モーセの対応はとても冷静で、民に対する思いやりにあふれているように見えます。しかし、モーセも非常に怒りを覚えていました。山を下りてからアロンに事情説明を求め、彼が自分の罪をまるで他人ごとのように説明するのを聞き、イスラエルの民の混乱ぶりを周りの敵国が笑いの種にしている状況に強い怒りを覚えました。その日、おそらくこの騒動を引き起こした主犯格の3000人が命を落とすことになります。

モーセの個人的な感情はさておき、モーセの祈りはやはり契約に基づいていました。そもそも主が民をエジプトから連れ出したのも、苦しみを訴える民の嘆き聞いて「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた」と2:24に記されています。モーセはこの契約をとりなしの土台としたのです。主が約束に真実で忠実な方であるからこそ、こんなに酷い罪を犯した民であっても、彼自身が怒りを覚えていても、赦しを求めて祈ることができたのです。

適用:赦しと再出発へ

物語の結末と教訓を考えてみましょう。

14節にはこうあります。「すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。」

神様が民に対してどのような行動を取るか、罪に対する報いとして災いをもたらすか、それとも祝福を与えるかは、民の神様に対する態度によって大きく変わることが言われていました。さきほどの十戒にもさばきの警告とともに「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」とあったとおりです。ですから、まだ民が悔い改めるかどうかは分かりませんが、モーセのとりなしの結果、神様はすぐさま下そうとしていた裁きを取りやめ、この後のモーセと民のやりとりの様子を見ることにしたのです。

その後で、モーセはアロンと民に自分たちのした罪に向き合わせます。事情を聞き、その責任を負わせました。それはかなり厳しい処置をともなうものでした。それは彼らが犯した罪の大きさを分かるために必要なことでした。

改めてモーセは主の前に祈りました。自分が永遠に失われることになっても構わないとまで言うモーセのとりなしによって主は赦すことにしました。35節にあるように、一部の反逆を主導した人々が打たれただけで事は収まり、責任者であったアロンの罪として記録されましたが、お赦しになったのです。

私たちにとってこの物語は何を教えてくれるでしょうか。

何より重要なことは、私たちの失敗、罪に対して、主が怒りただちにさばきを下すということはありません。自分の永遠のいのちの約束を捨てることと引き換えに赦しを求めたモーセではなく、十字架でご自分のいのちをお捧げになったイエス様がとりなしていてくださるからです。

今日、とりなしの祈りも、主からの赦しも、その根拠はこのイエス様の十字架によって結ばれた新しい契約に基づいています。そして、神の民とされた私たちクリスチャンにもとりなし手となって、兄弟姉妹のために祈る者となることが求められています。

第一に、誰かが過ちに陥ったことを知った時には、判断したり、裁いたり、責めたりする前にとりなしの祈りをすることです。ガラテヤ6章には柔和な心、自分自身にも気をつけること、自分を誇らず互いに重荷を負い合うことが教えられています。決めつけたり、責めたりする前にまずその人のために祈ることです。

第二に、赦しを願う根拠は主イエス様によって結ばれた約束、契約に基づくということです。そんなことをしてしまった事情とか、そこに至るまでの経緯はもちろんあります。しかし犯した罪の事実は変わりませんし、場合によっては誰かに大きな傷みや傷みを与えたかもしれません。可哀想だから赦してください、ということではないのです。事情はあっても被害にあった人のほうが可哀想です。しかし赦しは誰にでも与えられます。神様はキリストの贖いのゆえにすべての罪を赦すと契約を結んでくださったので、過ちを犯した者を赦してくださいと私たちは祈るのです。

第三に、失敗し、罪を犯した兄弟姉妹には、自分の過ちに向き合うよう促します。ガラテヤ書で「正してあげなさい」というのは、無理やり行動を変えさせるということではなく、正しい道に戻れるよう助けることです。その第一歩は「自分が何をしたか分かりますか」「あなたの行動が何を招いたか見えていますか」と自分の過ちに向き合わせることです。やってみたら分かりますが、それはとても辛く苦しいことなのですが、これもまた重荷を負い合うことの一部なのです。

アロンやイスラエルの民が未熟で主の教えを十分理解していなかったように、私たちもお互いに未成熟な部分があり、みことばを聞いていても自分の生活に落とし込むことで足りないこともあります。そのために過ちに陥り、罪を犯すことがあるのですから、互い責め合うのではなく、とりなし合う者でありましょう。

祈り

「天の父なる神様。

私たちは罪赦され、神様の子として新しい歩みを始めさせていただきましたが、それでも足りない者であり、しばしば過ちを犯します。あなたのみことばを学び、教えられても、自分の生活に当てはめることが不十分だったり、未熟だったりします。そのような私たちにとって、互いに責め合うのではなく、とりなし合う交わりが出来たら、どれほど心励まされるでしょうか。

主イエス様の十字架によって約束された完全な赦しがあるから、私たちは間違っても立ち直れ、罪を犯しても赦しの恵みに生きることができます。どうぞ、モーセやイエス様に倣ってとりなす者としていてください。

主イエス様の御名によって祈ります。」

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