2024-02-04 福音の生命力

2024年 2月 4日 礼拝 聖書:マルコ4:26-29

 世の中には「話し上手」と呼ばれる人たちがいます。私はこうやって人前で説教したり、講演とかで呼ばれればお話しますが、決して話し上手というわけではありません。

車に誰かをお乗せしても、黙っているほうが楽だし、たくさんの人が集まる会合でも、自分から積極的に話しかけるのは結構勇気がいるほうですし、知らない人と知り合いになろうとするのもかなりハードルが高く感じます。牧師という肩書きにずいぶん助けられています。話し下手というより、コミュニケーション能力があまり高くないということかもしれません。それでよく牧師なんかやってるなと言われれば「ごもっとも」で、それもまた私の「土の器」であるところです。

ところで、クリスチャンの方々にイエス様を個人的にお伝えすること、証しすることを勧めると、かなりの割合で「私は話し下手だから」という反応が返ってきます。確かに、分かりやすく伝えたり、説得力のある話し方ができたり、相手の疑問にすらすらと答えられたほうがうまく福音を伝えられるような気がするのは分からなくありません。いかにも「論客」という感じの方から、キリスト教について教えてくださいと言われるとこちらも身構えてしまいます。しかし、それは本当なのでしょうか。今日はそこのところを人知れず実を結ばせる種についての喩えから学んでいきましょう。

1.委ねられた福音

マルコ4章にはイエス様が宣べ伝えた「神の国」についてのたとえ話が3つ登場します。4:3からの「種まきの喩え」、今日の箇所である26節からの「人知れず実を結ぶ種の喩え」、30節からの「からし種の喩え」です。ちなみに24節はストーリーではないので、こういうのはことわざに近いものです。

マルコ4章の3つの譬え話には共通して種が登場します。また、種を蒔く人がいて、種の生長について語られ、実を結んだり鳥が巣を作れるほど大きくなるという結果が語られます。そして、これらの譬え話はすべて、イエス様が宣べ伝えている「神の国」についての真理を教えるために語られました。

イエス様は何を語ろうとしておられたのでしょうか。

マルコの福音書を初めから見ていくと、神の御国がイエス様によってもたらされ、どう拡大していったかというところに関心があることが分かります。1:15で「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」とイエス様の宣教開始宣言があります。その後イエス様は弟子たちを集め、御国が近づいたことのしるしとしていくつもの奇跡を行います。信じる人たちも大勢いましたが、イスラエルの民の指導者たちはイエス様を疑い、拒絶します。3:6では早くもイエス様を殺す相談を始めています。

そうした状況の中でイエス様は3:13で12人の使徒を選びます。3:14~15にあるように、彼らを訓練し、イエス様の宣教の働きを彼らに委ねるためです。この訓練の一環として、今日の箇所を含む、御国についての譬え話が語られました。

つまり、これらの譬え話は神の国の到来を告げ知らせる務めを任せた弟子たちに、御国がどのようなものか、それはどのようにして拡大していくかを教えるために語られたのです。

種蒔く人が登場するように、御国の福音は福音を伝える人たちを通して拡がります。種蒔く人がいなければ実がならないように、福音を伝える人がいなければ御国は拡がっていきません。神様が人間を用いずに超自然的に神の国を拡げるなんてことはないのです。

しかし、最初の種まきの喩えでは蒔かれた種がどんな土に落ちるかによって実を結ぶかどうかが決まるように、福音の種も柔らかな受け入れる心をもった人に届かなければ実を結ばないと指摘されました。ということは、福音を伝える時に、柔らかな受け入れる心を持った人を見分けられるなら、より効果的に福音を伝えられるんじゃないか、という考え方も成り立ちます。福音を伝える人の知恵や人を見る目、語る技術が優れていなければうまく福音は伝わらないのか、自分たちにそんなことができのか、という疑問や不安が弟子たちの間に起こっても不思議ではありません。

この事は、福音書が記された初代教会の時代にはすでに問題になっていました。実際、パウロも話し方の巧みさについて他の人と比べられたり、批判されたりもしました。

現代の私たちの経験でも、証しの上手な人、個人伝道をよく出来る人、他の人より多くの人をイエス様に導く人がいるように見えます。そうした人たちと自分を比べてやはり恐れたり自信が持てないことがあるものです。福音の証しが実を結ぶことは、果たして人間の巧みさや努力によってなるものなのでしょうか。

そこでマルコはこの譬え話を紹介するのです。

2.何によって救われるか

では譬え話の中身に目を向けてみましょう。

イエス様は「神の国はこのようなものです」と言って、この譬え話が御国についての譬え話であることを初めに断っています。

種蒔く人が種を蒔くと何が起こるでしょう。「寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。」

この喩え話のポイントは作物ができる畑仕事やメカニズムではありません。いつの間にか芽を出して、時が来れば実りが与えられる素朴な不思議さに注目しています。

実際の畑仕事では種を植えてから発芽するまで土が乾かないように気をつけるとか、収穫までの間にも雑草を取り除いたり、間引きしたり、追肥したり、摘果したりと様々な仕事があります。

しかし28節でイエス様が指摘していることは、人間の力で芽を出させたり成長させ、実らせるのではないということです。植物が成長し実を実らせるのは、種の中にあったもともとの生命力なのです。

以前、市内の小学校でお父さんたちと一緒に子どものためのボランティア活動をしていました。毎週土曜日に子どもと一緒に遊んだりいろいろ体験するのですが、とても人気だった活動の一つが西和賀町の田んぼと畑を借りて米を育て、野菜を育てるというものでした。多くの作業は地元の農家の方がボランティアでやってくれたのですが、種を植え、時々行って草刈をし、収穫し、そして地元の皆さんと一緒に採れたものを食べるというプログラムは子どもたちも大人も楽しく参加しました。

ある年、借りていた畑の隅っこにたくさんのカボチャがなっていました。実際にはジャガイモ、人参、エダマメ、ミニトマトといったものしか植えていなかったのですが、畑の隅に集めた雑草の山の下に前の年に捨てられたカボチャが勝手に芽を出し、ツルを伸ばして実をつけたものでした。もちろん、それらも美味しく頂いたのでした。畑の隅に放置されていたカボチャは確かに人の手によらず、あの薄っぺらな種が持っていた生命力によって芽を出し、成長し、実を結んだのです。

イエス様がこの喩えで弟子たちに悟って欲しいことは、福音の種が実を結ぶのは、人の手、人の力によるのではない、ということです。勝手に実ったカボチャが芽を出したのも、茎を伸ばしたのも、実がなったのも、人間の力や努力によるものではなかったように、誰かが福音を聞いて、受け入れ、信じてクリスチャンになるのは決して福音を伝える人の力や努力によるのではありません。

誰かがイエス様を信じたのは話し方が上手だったからとか、説得の仕方が良かったからというのではないのです。おそらく使徒たちが心配したであろうことは悪い土と良い土を見分けるように、福音を届けるべき相手を見分けられるだろうかとか、うまく話せるだろうかというようなことでしたが、そんなことは心配しなくていいのです。それによって福音の種が実を結ぶわけではないのです。

人はどうやって福音を聞いてイエス様を信じるか、その心理的、霊的なメカニズムを知らなくても、人は信じる時には信じるものです。逆に人の心を操るかのように、心理的なテクニックを使う方法は洗脳のように、かえって人の心を深く傷つけます。

3.福音のいのちの力

この喩え話の中心的な教えは、福音そのものにいのちの力、生命力があるということです。その福音のいのちの力によって、人間の巧みさや努力に関係なく、聞いた人の心の内で芽を出し、時がくればイエス様を信じて御国の子となるものだということです。

確かに3つの喩え話に共通しているとおり、御国がこの世界に拡がっていくためには、種蒔く人の種まき、福音を伝える人々の伝道や証しが必要です。神様の救いのご計画は地上に生まれた教会に属する一人ひとりのクリスチャンを通して、福音が拡げられること、それによって御国が拡がることです。福音の種を蒔く事をやめたら、その教会を通して人が救われることはありません。

しかし人が救われるのは、決して福音を伝える人たちの話の上手さや知識の豊富さ、人の心を動かす巧みさではないのです。弟子たちはその点であまり自信がなかったかも知れません。ガリラヤの田舎町で生まれ育ち、殆どの弟子は大した教育も受けず、ついこの間まで漁師として生計を立てていたのです。急に聖書の教師か預言者のようなことをしろと言われて恐れていたのではないでしょうか。

その点では、今日のクリスチャンの多くが同じように感じるでしょう。多くのクリスチャンが誤解しているように、福音は専門的な教育を受けた人でないと語る資格がないということではありません。福音を語る人の専門性で人がイエス様を信じるかどうかを決めたりはしません。

私たちが何か体の不調を覚えてクリニックを探すとき、「どこかいい病院知らない?」と友だちに聞くことがあります。その時、紹介してくれる友だちに期待するのは、医学に関する専門的な観点よりも、お医者さんの評判や病院の雰囲気、実際に良くなったという経験談などではないでしょうか。もちろん腕の良い医者であることは大事ですが、症例数がどれくらいあるとか、どんな専門資格を取っているかといったことまで友だちに聞いたりはしません。

私たちが福音を伝える時に期待されているのは、専門家としての解説ではなく、同じ患者目線で「あの先生はお勧めだ」と言えるくらいの知識と経験です。患者を助けるのは紹介してくれた友だちではなく、友だちが紹介した医者です。人を救うのは、福音を伝えた人ではなく、福音が指し示しているイエス・キリストです。

考えてみれば、私たちがイエス様を信じているのも、話してくれた人の話し方や知識の豊富さに感心したからではなかったではないでしょうか。私たちに福音を伝えてくれた人は人間的に素晴らしい人であったかも知れませんが、いろいろな欠点が目につくこともあります。教会の交わりもいつも愛に溢れているばかりではありません。時には信じていると言っていることとやっていることがバラバラに見えることがあります。クリスチャンホームの子どもなら、教会と家での親の言動がちぐはぐなことに気付くことがあります。それでもなぜかイエス様を信じるときは信じるのです。

聖書の他の箇所で教えられているように、私たちは福音に相応しく生きるべきだというのはその通りです。それが力強い福音の証しになるからです。しかし、私たちの生活の立派さや誠実さによってだれかがイエス様を信じるのではありません。大事なことは福音自体が持っているいのちの力を信じて、福音の種を蒔く事。証しをすることです。

適用:巧さや努力ではなく

今日の譬え話の中心的なメッセージ、福音にはそれ自体にいのちの力があって、伝えた人の力や努力ではなく、福音のいのちが聴いた人の心に働き救いの実を結ばせるということを私たちの信仰の歩みに当てはめるとき、どんな教訓が得られるでしょうか。

私は三つの大事なポイントがあるように思います。

第一は、私たちが信じ、また伝えようとしている福音という種を大まかでもちゃんと知っておくことです。学者のような専門的な知識である必要はありませんが、クリスチャンとは何を信じて生きている者なのかということは知っておく必要があります。それは人に伝えるためでもあり、自分自身の確信のためでもあります。

クリスチャンが信じることは、この世界を造られた神様は、私たち人間とこの世界を愛しておられること。しかし私たち人間は罪と死にとらわれています。そんな私たちを救うために神様は救い主を送ってくださいました。それが神の御子イエス・キリストです。イエス様は私たちと同じように人として歩まれ、その生涯の終わりに私たちの罪を背負って十字架で死なれましたが、神様は三日目にイエス様を死人の中からよみがえらせ、この方が私たちの救い主であることを明らかにしてくださいました。イエス様によって罪の赦しと新しいいのちが与えられ、私たちは新しい人としての人生を歩むことができます。天にあげられたイエス様は、私たちのために始めてくださった救いの御わざを完成させるためにもう一度おいでになります。その時を待ち望みながら私たちはイエス様がそうされたように神様と隣人を愛して生活し、イエス様についての良い知らせを伝える働きに加わるよう召されています。

第二は私たち自身のことです。私たちが聞き、学んでいる福音の力を自分自身のために信じることです。

先ほど大まかですけれど、福音のあらすじをお話しました。この基本的な世界観に立って生きることが、私たちにとって確かに救いとなり、人生の道しるべとなるのだと信じて歩むことが大切です。神の愛、イエス様の十字架と復活による救い、主が再びおいでになるという希望、そして今生かされている私たちの歩みを通して神と人を愛し、福音を証しする使命。そこに結びつくことが私たちの新しい人生を確かにします。

そして三つ目のポイントは、私の知識や話す技術が人の心を変えるのではなく、この福音に人を生かす力があるのだと信じて証しすることです。

私は元来シャイな人間ですから、誰にでも気軽に話しかけ、自然に相手の懐に入れる人を羨ましいと思います。そうだとしても、その人柄、コミュニケーション能力によって人が信じるのではありません。逆にコミュニケーション能力が低いからとか、聖書の知識が十分でないとか、上手にまとめて話せないからといって、それで福音が伝わらないということはありません。

今でも専門家の書いた本を読んだり、話しを聞くことで福音をより深く理解する助けにはなりますが、イエス様が救い主だという肝心なことを知るために福音を伝えてくれたのは、子ども時代の日曜学校の先生たちや親たちです。そのほとんどが今、この場所で一緒に礼拝を捧げている普通の人たちです。

福音を証しする機会は人によってずいぶん違います。その人のキャラクターにもよるし、置かれた環境によっても変わります。ですが、証しする機会があるときには、自分ではなく、福音の生命力に自信をもって、「時が来れば実を結ぶ」と信じ結果は任せてお話ししてみましょう。そのためにも福音の大筋をちゃんと知っておくようにし、また自分自身が福音を信じ、福音のうえに自分の生活と人生を築いていきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

主の譬え話を通して、私たちが信じ、伝えるようにと委ねられた福音のいのちの力を学びました。

この福音が私たちに新しい人生を開いてくれます。あなたが私を愛し、私のためにイエス様が十字架で死なれ、よみがえって、赦しといのちを与えてくださいました。その事実が悩みや痛みの多いこの世界で喜びや平安をもって生きる希望と力を与えてくれます。どうか、この福音のことばが持ついのちの力を信じて、私たち自身が歩み、また証しすることができますように助けてください。誰かにイエス様のこと、教会のこと、聖書のことを聞かれた時に、細かい説明は出来なくても、イエス様信じて良かったよ、聖書のことばが助けになったよと心から言える者であらせてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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