継承

みなさん、おはようございます。
先日の日曜の午後、墓園の雪囲い作業が行われました。雪がちらついたり、みぞれが降るような年もあるのですが、今年は素晴らしい青空が広がっていっました。私は少し遅れて現場に到着したのですが、すでに皆さんが散らばって作業がどんどん進んでいました。囲うべき植栽に支柱を立て、紐で縛るという作業が繰り替えされていました。毎年やってくださっている方も居ますし、Sさんの細かな指導がなくてもてきぱきと進めている様子に「技術の継承」は大事だなあと思わされていました。
私たちの信仰も、「何を信じるか」という中身はもちろん大事なのですが、「いかに生きるか」という信仰に立って生きる術を次世代に伝えることが大事ですね。もちろん時代が変われば通用しなくなる事もあるのですが、技術の底にある原則は時代や文化が変わっても変わることがありません。そういう継承が出来るようにと願います。

“それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家に座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。” 申命記 11:19

昨日は****さんの誕生日でした。遅ればせながら祝福を祈ります。

佐々木真輝

2020-11-15 あなたがたはわたしの宝

2020年 11月 15日 礼拝 聖書:出エジプト記9:1-6

 イエス様を信じてクリスチャンになり、その信仰の証しとしてバプテスマを受けると、皆におめでとう!と拍手で迎えられます。ところがその後、けっこういろいろなことをクリスチャンとして求められることに驚いたり、引いてしまう方もおられます。教会に来なさい、献金しなさい、何か奉仕をしなさい、友だちや家族に証しをしなさい、聖書を読みなさい、祈りなさい。もちろん、それらは強制されるものではないのですし、それをしなければクリスチャンの資格を失うとか、救いが取り上げられるということではありません。でもなぜ、そのようなことが求められるかというと、神様が私たちを救うのは私たち自身を救うためだけでなく、もっと多くの人に神様の祝福をもたらすためです。続きを読む →

学んだことを活かす

みなさん、おはようございます。
先日パーティションを試作し、いろいろと学習し、再度試作品を作りました。今度は前回の失敗を踏まえてよく考えて作りました。前回の失敗というのは、材料に選んだ素材の強度が足りなかったことと、制作の工程が若干面倒で何個も作るのが大変そうなことでした。今回のやりかたなら、設置も取り外しも簡単で、何より制作がものすごく簡単になりました。制作するというほどのことではないのでホントに楽です。予算的にもだいたい良い感じに収まりそうです。必要な分だけそろえば、礼拝後や婦人会の後に食事を共にしながらの交わりも少しずつ再開させていけそうです。
学んだことを活かすのは大事なことですね。こういう工作的なことはすぐに学習して次に活かせるのですが(でないと手間と労力が…)、人生の失敗や教訓って、なぜかなかなか身につかず、同じ間違いをくり返したりするんですよね。それでも忍耐強く付き合ってくださる神様や教会の皆さんが実にありがたいと思います。

“また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。” ペテロ第二 3:15

今日は婦人会と祈祷会があります。婦人会では、よろしければ昼食を各自お持ちになってください。

佐々木真輝

刀鍛冶

みなさん、おはようございます。
最近、刀鍛冶が日本刀を造り上げるまでの動画をよく見ます。実際には動画で流れる何倍もの作業量と熱量の中で仕事をしているはずですが、それでも熱しては鍛え上げる作業をくり返し、鉄の塊が見事な刀になっていくのはとても興味深いです。しかも、それで完成ではなく、別の専門家による研ぎの作業があり、これまた別の職人による鍔(つば)、柄(つか)、鞘(さや)などを作る工程が別にあります。ちょっとした好奇心で見始めただけでも素材から完成に至るまでは本当に多くの労力と、様々な人の協働があってのことだなということが分かります。
私たちも言ってみれば原石、素材のようなものです。様々な経験を通して訓練され、鍛えられ、また様々な人を通して形造られて完成を目指していくものです。一度や二度、鍛錬の中に引き戻されたとしても、それは当たり前といえば当たり前のこと。私たちは自分で思う以上に未熟で、未完成な者にちがいないのです。

“すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。”
ヘブル 12:11

佐々木真輝

試作品

みなさん、おはようございます。
教会での食事の交わりを再会させるために、テーブルにパーティションを設置することにしたのですが、あまりお金をかけられないので自作することにしました。昨日の午後、その試作品を作ってみました。一応設計らしいことはしておいたのでいろいろ予想していた事もありましたが、実際作ってみて分かることもあります。補強しなければならない部分、作りやすくするための工夫、実用的にするために必要なことも分かったので試してみて良かったです。
何事も考えているだけでは本当のところが分かりません。神様の言葉、そこに含まれる約束や戒めや教えが真実であるかどうかも考えるだけでなく、信じて従って見ることで本当のところが分かります。それどころか、私たちが想像する以上の恵みの豊かさと希望の確かさに感動させられるに違いありません。

“主よ あなたの恵みは天にあり
あなたの真実は雲にまで及びます。” 詩篇 36:5

今日は午後から関キ災(関西キリスト災害支援ネットワーク)のオンライン懇談会でショートメッセージをします。お祈りください。

佐々木真輝

2020-11-08 あなたを忘れない

2020年 11月 8日 礼拝 聖書:出エジプト2:11-25

 クリスチャンであるなら、誰でも救いの物語があります。まるでドラマの主人公であるかのような波瀾万丈の中でキリストと出会った人もいれば、クリスチャンホームに生まれ気付いた時には教会の交わりの中にあり、いつ信じたかよく分からないままバプテスマを受けたという人もいます。

物語として面白いかどうかは別として、それが神様があなたを救うために備えてくださった道であり、それぞれが尊いものです。

神の民として歩み始めたイスラエルの民にとってもそれは同じでした。神はどのようにして自分たちを救い出し、神の民として歩み始めさせてくださったのか。その、イスラエルの民にとっての救いの物語が、この出エジプト記です。続きを読む →

全集中

みなさん、おはようございます。
鬼退治のアニメーション映画が爆発的なヒットだそうで、そのおかげで南部鉄器の蒸気機関車型の文鎮が売れてるとか、予防接種で泣き叫ぶ子どもに「全集中!」って声をかけるとぴたっと泣き止むことがあるとか、なかなかの影響力です(総理大臣も国会で口にしたとか…うけなかったようですが)。知らない方もおられると思うので説明しておくと、全集中というのはそのお話の中での呼吸法のことです。武道においても、他のスポーツや音楽でも呼吸は凄く大事です。チームワークでも「呼吸を合わせる」とか「息を合わせる」と言いますよね。宗教的にも、瞑想や座禅なんかでは呼吸が非常に重要とされます。
キリスト教の伝統の中にある瞑想の方法や祈りにおいても呼吸は大切な要素です。特別な呼吸法をマスターしなくても、お祈りするときに一呼吸置くとか、心が静まるまでゆっくり呼吸して待つだけでも、ずいぶん集中力や祈りの姿勢が変わります。人間が創造されたとき、神様が息を吹き込むことで生きるものとなった、というのは偶然の一致ではないように思います。身体的にも霊的にも、神様と「呼吸を合わせる」ことが良く生きるために必要なことなのだと思わされます。

“神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。” 創世記 2:7

今日は第二主日なので夕拝があります。

佐々木真輝

スマホの健康チェック

みなさん、おはようございます。
例のセルフウォークリレーに参加し、この一歩がチャリティの募金になると思うと、意識して歩くようになりました。家から教会まで歩いたりすればもっと歩数を稼げるのですが、いろいろと不便さもあり、そこまでは出来ません。それでもスマホの歩数計を用いるので、教会の中や周りを歩き回るのもちゃんとカウントしてくれます。しかし、単に足踏みしたり、貧乏揺すりをしたのはちゃんと見分けてカウントしません。良い点は、歩数だけでなく、歩いた距離や歩幅、左右のバランスまでチェックしてくれるのです。これがあるお陰で、歩き方も少し気にするようになりました。
こういう、あれこれこまかくチェックし、指摘してくれるのを「有り難い」と思うか、「わずらわしい」と感じるかは、何を目指しているか、何を求めているかによって変わります。親の小言をうるさいと感じる時代と、ありがたみを感じる時代があるのにも似ています。聖書の戒めや警告を感謝するか、うるさいと感じるかも、何を願っているかによってずいぶん変わりますね。

“みことばの戸が開くと 光が差し
浅はかな者に悟りを与えます。” 詩篇 119:130

佐々木真輝

ここはアメリカじゃないけど

みなさん、おはようございます。
ここはアメリカかと思う程、大統領選挙のニュースが流れていますが、個人的な別な視点で関心があります。現職大統領の支持基盤の一つと言われる米国福音派の動向です。ニュースでこの言葉が流れるたびにちょっと複雑な気持ちになります。なぜアメリカの福音派は現大統領を支持するのかと言われたりしますが、言う程、福音派が一致して支持しているというわけではありません。両極端にも見える主張をそれぞれ支持する「福音派」の人々ですが、よくよく聞けば、それぞれが「聖書的」であろうとしていることに気付かされます。それでも汚い言葉ややり方で互いに非難しあう姿はとても聖書的とは思えないのですが。
私たちは、聖書に忠実であろうと願いますが、自分の立場が明確で確信があるほど、異なる立場に対して寛容さや忍耐心を失いやすい面があります。正しさを求める余り、愛し合い赦し合ったり、寛容であるという最も聖書的・キリスト教的な態度を失うことは残念すぎます。でもこれは海の向こうの話しでは済まされませんね。

“あなたは正しすぎてはならない。
自分を知恵のありすぎる者としてはならない。
なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。” 伝道者 7:16

今日は****さんの誕生日です。祝福を祈ります。

佐々木真輝

また会いましょう

みなさん、おはようございます。
昨日はまる一日、さくらホールで行われたイベントに参加していました。皆さんの中でも何人かが足を運んでくださいましたね。ありがとうございました。春以来、ずっとオンラインだけでお話しをして来た友人たちとじかに会えたというのは嬉しかったですが、思いがけない再会がいくつかあり、これは嬉しい驚きでした(実は、ちらっと見かけたのですが離れていて、そのうち見失ってしまった中学時代の同級生もいました)。それにしても本当に大勢の方が会場に足を運んでいました。もちろん、マスク着用で、入り口には検温器と消毒があり、座席も一席ずつ空けたりと、今どきの予防対策は取られていました。それでも、こういう人が集まること、時間や空間を共有することに飢え渇いていたかのような熱気でした。
教会もそうですが、やはり人間は人と人のつながりの中で生きていますし、それを肌で感じられる距離感と十分な時間が必要です。ネットが発達したおかげで、今のような状況でもつながりが持てますし、またこれがあったから再びつながれた方がいるのも事実です。それでも、じかに会って気兼ねなく交わりが持てる状況を、ただ待つだけでなく、工夫して作っていかなければならないなあと改めて思わされたのでした。

“私は自分のうちで思い起こし
私のたましいを注ぎ出しています。
私が祭を祝う群衆とともに
喜びと感謝の声をあげて
あの群と一緒に
神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを。” 詩篇 42:4

今日は*****さん、****さんの誕生日です。祝福をお祈りします。

佐々木真輝