2020-11-08 あなたを忘れない

2020年 11月 8日 礼拝 聖書:出エジプト2:11-25

 クリスチャンであるなら、誰でも救いの物語があります。まるでドラマの主人公であるかのような波瀾万丈の中でキリストと出会った人もいれば、クリスチャンホームに生まれ気付いた時には教会の交わりの中にあり、いつ信じたかよく分からないままバプテスマを受けたという人もいます。

物語として面白いかどうかは別として、それが神様があなたを救うために備えてくださった道であり、それぞれが尊いものです。

神の民として歩み始めたイスラエルの民にとってもそれは同じでした。神はどのようにして自分たちを救い出し、神の民として歩み始めさせてくださったのか。その、イスラエルの民にとっての救いの物語が、この出エジプト記です。

書かれた時期ははっきりしませんが、内容は創世記の終わりからおよそ4百年後から始まり、モーセに率いられエジプトを脱出したイスラエルの民が、神を礼拝するための会見の天幕という、後の神殿のモデルとなった礼拝の場を作り、神の栄光が満ちたというところまでを描いています。

自分たちがどのようにして救われ、神を礼拝する者としてくださったかを再確認することは、荒野の旅が待ち受けている人々にとっては非常に大切なことです。今日は前半部分を学びます。

1.苦しみの中で

第一に、神様は苦しみの中にあったアブラハムの子孫をちゃんと覚えておられました。

1:1~7は、創世記の最後のところと話しがつながっているのが分かります。それと同時に、アブラハムの子孫が苦難に陥っていく背景がしっかり描かれています。

7節「イスラエルの子らは多くの子を生んで、群れ広がり、増えて非常に強くなった。こうしてその地は彼らで満ちた。」とあります。これはアブラハムに対する神様の約束の一つ、「わたしはあなたを大いなる国民と」するという約束の実現です。それと同時に、この書き方は創世記1:27で人間の創造の際に神様が祝福されたときの言葉、「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」という書き方とわざわざ同じように書いています。神様が天地を創造されたときの祝福を罪によって受け取り損ねた人間を救い、回復し、再び祝福の中に招き入れる為、アブラハムを選んだ神が、その約束を、少しずつ果たしてくださっていたのです。

しかし、「ヘブル人」という言い方に表れているように、アブラハムの子孫はエジプトにあっては外国人です。4百年以上経てば、ヨセフの大きな貢献なんて忘れられ、それ以上に国内に力を付けた異民族がいることを脅威と感じるようになります。

そこでエジプトの王はイスラエルの民を奴隷として扱うようになり、過酷な労働につかせました。さらには人口が増えないように、助産婦たちに命じて、出産の際に生まれて来る赤ん坊が男の子なら殺すように命じたのです。

しかし、助産婦たちは神様を恐れる故に、そんなことはできないと、うまい言い訳を考えて男の子の赤ん坊も生かして置きました。

そこでエジプトの王は、次に、各家庭において産まれた男の子をナイル川に捨てるよう命じました。

なんて残酷なことをと思いますが、現代でも世界中で多くの戦争による難民や宗教的な対立で迫害されている人たちが数億人もいると言われています。決して文明の遅れた世界での話しではなく、先進国と言われるような国でも、移民への迫害や人種差別、考えの違う人たちへの過激な攻撃が何かしら毎日ニュースで流れます。人間とはそういうことをしてしまうものなのです。

まるで神なんかいないと思わせるような悲惨でむごい状況です。しかし、神様は決してアブラハムとの約束を忘れたわけではなく、アブラハムの子孫を可哀想と思っていないわけでもありません。

その一つの象徴的な出来事がモーセの誕生でした。2章の前半はモーセが誕生し、王室で育てられるようになった経緯を記しています。ある家で、生まれた子の愛らしさゆえになかなかナイル川に捨てられずにいましたが、もう隠しようがなくなって、泣く泣く川に捨てに行きました。ちょうどそこに居合わせたエジプト王女が拾い上げ、王女の子の一人として育てられることになったのです。機転を利かせた姉のおかげで、我が子を捨てるしかなかった母親が、王女の代わりにその子を育てることができるようになりました。

やがてイスラエルを救い出すモーセが奇跡的に水の中から救い出され、エジプト王家の教育を受けながらも、母親を通してアブラハムの神への信仰と、神の約束を教えられて育つのです。しかし、それが実を結ぶのはずっと後のことです。

2.契約とモーセ

第二に、神様はアブラハムとの契約を守るために、そのモーセを選びました。とはいっても、そう簡単な話ではありませんでした。

今日読んで頂いたのは、モーセが40歳になったころの話しです。モーセはエジプトの王女の息子の一人として育てられました。しかし、モーセを幼少期に育て、教えたのは実の母です。

当然、実の母から先祖アブラハムのことや、神様の約束のこと、その後のイサク、ヤコブの物語や、ヨセフがエジプトでなした事や約束などを語り継いだことは想像されます。イスラエルの子孫でありながら、エジプトの王室の一員であることが、どんな葛藤を抱かせたのかは興味深く、小説や映画の題材になってきました。

しかし聖書は11節で、苦役に苦しむヘブル人を見て、はっきりと「同胞だ」という感覚を持ったことに注目します。そして自分の力でなんとか助けようとするのですが、それが仇となります。同胞を虐待していたエジプト人を殺してしまったモーセは、翌日も同胞のもとに行きます。今度はヘブル人同士で争っていたので、仲裁に入ろうとしました。ところが、昨日の事件を引き合いに、「お前は何様だ。昨日やったみたいにオレのことも殺そうってのか?」と非難されてしまうのです。

昨日のことがバレたとモーセは悟りますが、同時にその事件のことが王の耳にも入ります。

王にしてみれば、ヘブル人なのに王女のたっての願いとあって王室で育てて来たのに、裏切られた気持ちだったかも知れません。あるいは、やっぱりヘブル人は信用ならない、という事になったのでしょうか。王はモーセを指名手配しました。

モーセはエジプトには自分の居場所がなくなったことを悟り、ミディアン人の地、今のアラビア半島からシナイ半島にかけて広がる荒野に逃げます。そこでレウエル、別名イテロという名前の羊飼いであり祭司である人の娘、チッポラと結婚することになります。

しゅうとのイテロがまことの神様を信じ受け入れるのはずっと後のことで、この時モーセは、異教の祭司の娘と結婚したということになります。このあたりも、神様の救いのご計画では、純粋なイスラエルの血筋の者だけを救おうとしているわけではないことを暗示していると思います。

四十代のときのモーセは、何か同胞のために役に立てるはずだと思いましたが、しかし、まだその時ではありませんでした。この後40年ほど、ミディアン人と共に暮らすことになります。その間、モーセはまるで隠遁生活を送るかのようであり、イスラエルの人々も神に忘れられたかのように苦しみの中に置かれ続けました。

やがて、モーセの命を狙っていた王は死にます。具体的に誰であるかは記されていませんが、歴史的にはセティⅠ世かラメセスⅡ世だろうと言われています。その頃、イスラエルの人々の祈り、うめき、嘆きが神に届きました。

23~25節を見ると、神様がそんな苦しみの中で祈りを聞いてくださったことや、何百年たっても契約を忘れていなかったということが示されます。しかし同時に、そんなになるまで神様は忘れてたのか?って思うところもあります。もちろん、うっかり忘れていたのではなく、約束、契約を果たす時が来た、という意味でしょう。準備が整ったということです。

3.出エジプト

第三に、神はこのモーセによってイスラエルの民をエジプトから脱出させます。この出エジプトの一連の出来事の中で、非常に重要な、そして印象的な事柄が続きます。

「燃える柴の箇所」と呼ばれる、神がモーセをイスラエルの指導者として立てる箇所、エジプトにくだる10の災い、過越のまつりのルーツ、エジプト軍が追いつこうという時に海が分かれ対岸に逃げ切ったことなど、出エジプトをめぐる出来事はとてもドラマティックで、映画でも観ているかのようです。

6:1~9で、神様ご自身がこれらのことの意味合いをモーセと民に告げていますので、読んで見ましょう。

神様は今まで「アブラハム、ヤコブ、イサクの神」「全能の神」としてだけ表れて来ましたが、「主という名」でご自分を現したことを明言しています。これまでは肩書きだったけれど、下の名前まで教えてくれたようなもので、神と民の関係がぐっと縮まったということです。太字で「」と書かれているところは、その名が使われているのでわかりやすいです。意味としては「わたしはある」。もうちょっと私たちにとって意味のある言い方をすれば、神はわたしたちとともに居続けてくださるお方、と言えます。

かつて主はアブラハムに表れ、その子イサクやヤコブとその家族が留まった地を与えるという契約を結ばれました。

およそ400年のエジプトでの生活、とくに後半の奴隷生活の中での苦しみ、嘆きを聞いて来た神様がその契約を思い起こし、今こそ、その約束を果たそうとされました。さっきも言ったように、文字通り忘れてしまっていたということではありません。約束を果たすべき時が来たということです。

アブラハムとの約束を果たすためには、奴隷状態となっているこのエジプトからなんとかして連れ出さなければなりません。

6節には「わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。」とあります。贖うとは、買い戻すということです。エジプトの王に対して神様が「イスラエルの民はわたしのものだ」と主張するということです。そして、エジプトからご自分の民を取り戻すために必要な事は何でもするということです。それで7節にあるように、「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる」のです。

神様が天地を造られ、人間にいのちを与え祝福なさった後で、悪魔にそそのかされて神に背を向け、人は祝福を失ってしまいました。罪と死に捕らえられてしまった人間を救うために神様はご計画を立ててくださいました。その最初の段階がアブラハムに祝福を約束し、「わたしが示す地へ行きなさい」と召してくださったことでした。それからアブラハムへの約束を果たす形で、エジプトの奴隷となっていた民を救い出し、約束の地へ導き、神の民となさることで、救いのご計画は次の段階に入りました。

出エジプトの出来事は、現在の私たちがイエス様を通していただく救いのひな形です。神様は「これはわたしのものだ。わたしが贖う」といってイエス様のいのちの代価で私たちを贖ってくださることを、この出エジプトの出来事を通してあらかじめひな形のように表していてくださっていたのです。

適用 救いの神

出エジプト記は前半、1章から18章までのエジプト脱出の物語と、19章からの契約を中心とした話しに大きく分けられます。

今日見てきたのは、前半部分のもっとも中心的な事柄だけではあります。それでも神様がアブラハムへの約束を果たすため、ひいては創世記で人類に約束され、失ってしまった祝福を再び取り戻させるための救いのご計画がいよいよ動き始めたことが明らかになりました。

ここで神様はご自分を「」であると、いわば名前を明かし、「あなたがたとともにあり続ける者だ」「あなたがを贖うもの」だと示されました。私たちの神は、天地創造の神であり、また救いの神なのです。

そして400年ものエジプトでの生活、奴隷とされた過酷な状況で、うめき苦しむ人々にモーセを遣わしました。

ただ、気になるところもあります。6:9を見るとこう書かれているのです。「モーセはこのようにイスラエルの子らに語ったが、彼らは失意と激しい労働のために、モーセの言うことを聞くことができなかった。」

モーセはイスラエルの民を説得するのに結構時間がかかりました。エジプトへの十の災いは、頑ななファラオに対する裁きではありましたが、同時に、なかなか信じようとしないイスラエルの民へのメッセージでもありました。この力ある、主なる神が、腕を伸ばしてあなたがたを救い出す、というメッセージを力強く確証するという意味があったのです。

その後もイスラエルの民の信仰は、ちょっと心配な感じがします。エジプトを出た後、エジプト軍が追い迫る中、目の前の海が割れて乾いた地を歩いて脱出するというすごい奇跡を見た直後にも関わらず、水がない、食べ物がないと騒ぎだしました。奴隷の苦しみから解放されたばかりだというのに、こんな旅になるなんて思わなかったとモーセや神様に文句を言い、果ては「エジプトにいた方が良かった」とまで言い放つ者も出る始末です。

それでも神様はこの民を見捨てませんでした。神様のかたくななイスラエルの民への忍耐と取扱は、私たちへの励ましと慰め、そして教訓のためです。

神様は出エジプトで果たしたアブラハムとの契約を完全なかたちで私たちに果たしてくださいました。モーセによってエジプトの苦難から救い出し、導き出した神様は、イエス様によって罪と死の奴隷状態から救い出し、天の御国に向かう旅に私たちを連れ出してくださいました。そのためにイエス様は私たちの罪の身代わりとなって死んでよみがえりました。私たちを贖ってくださったのです。

しかし、イスラエルの民が失意と激しい労働のために神のことばを信じることができなかったように、今日の私たちも、失意、日々の暮らしの様々な思い煩いや嘆きのために、せっかく差し出されている恵みに手を伸ばさないでしまうことがあるのです。信じた後も不平不満をこぼしたり、心が頑なになってしまうことがあります。今月のみことばにあるように、試練はやって来ます。しかし、神様は真実な方です。神様は決して私たちを忘れたりはせず、約束を果たしてくださる方です。この救いの恵みを受け取り、どんな困難の時もこの神様の真実、救いを信じていましょう。祈り

「天の父なる神様。

あなたが約束を忘れず、私たちに忍耐深く、あわれみ深い方であることを感謝します。

かつてモーセを通してイスラエルの民を救い出したように、イエス様によって私たちを救ってくださいました。私たちはこの世では奴隷ではありませんでしたが、罪と死に捕らわれていました。けれども、あなわたは私たちを「わたしのものだ」と言ってくださり、イエス様のいのちの代価ゆえに救い出してくださったことを感謝します。

この救いの恵みを、福音を聞く全ての人たちが心を頑なにすることなく受け取ることができますように。

この救いの恵みを必要とし、探し求めている全ての人が、福音を聞くことができますように。

この救いの恵みが必要であることに気付いていない全ての人が、あなたの恵みに気付くことができますように。

そして、私たちもまた、どんな場合でも、どんな状況でも私たちを忘れることのない神様の愛と真実に信頼し続けられますように。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」